自己満足というやつか。
バスルームから寝室に戻ってきた彼が、いきなり、小さな何かを私に向かって投げ付けた。
胸のすぐ前、咄嗟に右手で受け止める。彼は多分、全くの遠慮もなく、思い切り投げた。
そして私は、右手の中のそれが何かを確かめるよりも、彼のその素晴らしい表情に、密かに見惚れた。
怒りのような、泣き出しそうな。
複雑な色を浮かべる赤い瞳、端的に単純に表現するならば、それは、嫉妬。
「…なんだよ、それ」
「ああ。口紅、みたいね」
「また、一体いつ何処の女を連れ込んだんだ？ キリコ先生。どうしておまえはそう、節操というものがないんだ」
「生まれ付きじゃないの」
もう少し見ていたい彼の顔から視線を手元に落とし、彼が見付け出してきた小さな爆弾を眺める。そう言えば洗面台にあった。そのうち捨てようと思っていた。
或いは、彼に見せようと思っていた？ 私は本当に、たちが悪い。
「女がそんなに好きか」
「好きだよ。女は良い」
「じゃあ、どうしておれを呼ぶんだ？ 勝手に女と盛っていればいいじゃないか」
「女は良いけど、おまえも良い」
「…ふざけるのも、いい加減にしろよ」
つかつかと歩み寄ってきて、右手で私の頬を殴ろうとする。
その手首を左手で捕まえて、私は、彼の表情を間近に見る。
ぎらぎらとした瞳が美しいと思う。他の誰にも見たことのない、美しい赤い瞳。
女の痕跡を見付けると、彼はいつでも本気で怒った。
自分が二の次にされていると思うのだろうか。ただ単に気持ちが悪いのか？ 私が、何処かの女に使った身体を、彼にも使うというその事実が。
嫉妬、だと思う。簡単に言ってしまうのならば。
嫉妬、だけでもないと思う。そんなことは誰にでも、簡単に判る。
私がいつ何処の女と番おうが、そんなものは彼の知ったことではない。彼は私の恋人ではないし、友人でさえないし。
その上彼は、女でもない。私と彼が肌を合わせるのが、言ってみれば一番不自然で、気持ちの悪いことだ。
それでも彼は、私が呼べば、必ずやってくる。
そして、決まり切った約束のように、私の傍に女の気配を感じ取って、怒る。真剣に。
厭ならば来なければいいのだ。来ないものを引きずり出しに行くほど、私も暇ではない。拒めばいい。愛想を尽かせばいい。潤む瞳、震える指先、そんなに気分を悪くするのなら。
それでも彼は、私が呼べば、必ずやってくる。
私はそれを知っているから、敢えて放っておく、例えば、この口紅だとか。
女は良い。
それは嘘ではない。
柔らかな白い肌に埋もれて、そのまま子宮に還って行けそうで。
好きな女も幾らかいる。彼女たちは私を愛おしげに抱いてくれる。決して何も押し付けず、ただ細い腕を伸ばし、聖母のような美しい笑みを浮かべ、私を優しく匿ってくれる。
いつからだろう、戦場を去った頃からか、私は本当の意味で女が好きになったのだと思う。それこそ本能のように、或いは母を求めるように、彼女たちと身体を重ねると私は癒された。その羊水の温度に、永遠に浸っていたいと思うほど。
が、足りない。
そう感じるようになったのも、さて、いつからか。
運命だとかいう言葉は、私は知らない。信じない。
ただ、一度だけ私が私にそう思うことを許した、運命の出会いは、確かにあった。
闇を引きずり、影を纏わせ、赤い瞳をぎらつかせて足掻く獣を見付けた。
どうして身体で繋がり合う関係になったのかは判らない。匿い匿われることもなく、癒し癒されることもなく、古い傷も新しい傷も、更に深く深く心臓まで突き抜くように、まさに、獣の如く絡み合う、数え切れない夜を越えて。
私達はまだ、こんなことをやっている。
口紅が一本。
たったそれだけのこと。
「セックスしたけりゃ、女を呼べ。どうせ沢山いるんだろう」
「言わなかった？ 女は良いが、おまえも良い」
「馬鹿にするな！ おれは、おれは、おまえの遊び道具じゃない」
「可哀想に、泣き出しそうだ、嫉妬しているの」
「…ッ」
嫉妬、という言葉に、彼はあからさまにびくりと反応した。
抵抗の抜けた彼の腕を引き寄せて、右手の口紅の蓋を弾いた。
「塗ってやるよ、羨ましいんだろう？ 自分が女だったらいいと思うか？」
「…思わない」
「ああ、このルージュ、おまえの瞳と同じ色だ」
微かに震えている、血の気のない彼の唇に、赤い色を乗せていく。彼は、自分が何をされているのかよく判っていないような、判り過ぎていて抵抗さえ出来なくなってしまったような、視点の定まらない、複雑な目で、私を見ていた。
私は残酷だろうか。何をしたいのか自分でもよく理解できない。
いや、理解できないふりをしている。
嫉妬する彼を見たいか。そうして確かめるのか。
彼がまだ私の繋げた鎖の先で、ひとり藻掻き苦しんでいることを。
彼がまだ私の手の内にいることを、あの出会いが運命だったことを。
彼を抱いて癒されることは、無い。
何も得るものはない、安らぎもない。
むしろ、彼の、そして自分自身の、醜い部分を暴き出すような不毛な行為だと思う。
しかし、私は見付けてしまった。
誇り高き孤高の獣、もうとうに去った筈の戦場を思い出すような。
そして、気味が悪いほどに呼応する魂を。
手放したくないと思えば、こうしてしまうしかないじゃないか。
私は残酷だろうか。愚かであることは確かだと思う。
「ほら、綺麗に塗れたぜ」口紅をベットサイドに放り、赤い唇の彼を見てにやにや笑ってやった。これはまた随分と背徳的な眺め。「おまえは顔付きが美しいから、面白いほどよく似合うな、まるで、女みたい」
「…！」
今度は、女みたい、の言葉に反応して、彼はぱっと目の焦点を鋭くした。
腕を引き寄せていた私の手を乱暴に払い、と思ったら、逆にしがみつくようにして、私の首筋に顔を埋めてきた。
白いシャツの、襟に、肩に、胸元に、唇を押し付ける。
点々と、赤い、彼の唇の跡が残る。
「ブラック・ジャック先生」
このシャツはもう二度と着られない。
わざとらしく、宥める手付きで、彼の背中を優しく撫でた。
彼は顔を上げると、心底憎らしげな目付きで、私を睨み上げた。その長い睫に、繊細な涙の粒が。
ああ、良かった、と私は密かに溜息をつく。
彼は私の思う通りの彼で、私の思う通りになる。
自己満足というやつか。そうだろう、もう、それだけで構わない。
私は多分この先もずっと、女の肌に埋もれ微睡みながら、何かが足りないと彼に餓え、そして彼を組み敷きこじ開けながら、荒む精神を飼い慣らせずに、女に餓え続ける。
口紅の一本、気付かぬふりをして、彼の嫉妬に酔いしれる。
女に代わりはいるかも知れない、だが、彼の代わりはいないから。
こうしていないと満足できない。こうしていないと安心できない。
生ぬるい関係などは、はじめから、築けやしない。
「だったら、女にされていると思えよ…」
低い、掠れた声で言い、彼は縺れる指先で、私の服をくつろげた。
素肌に口紅を擦り付け、私の身体はまるで犯されているみたい。
乳首を吸い、腹の筋肉に噛み付き、彼は本当に獣のようだった。ベルトを外し、強引に掴み出した私の性器を、求められもせずに咥え込む。
私は黙って、その彼の行為を見下ろしていた。
涙の粒が光る長い睫、口紅で赤い唇を精一杯開いて私の性器を飲み込む、この男が本当に、噂に聞く冷徹な無免許医だろうか。
哀れな男じゃないか。
私を憎みながら、私から離れられない。
巧く嫉妬も表現できない。と言って隠すこともできない。
口紅を塗りたくられて、跪き、性器を食らうくらいしかできない。
「可愛いな」
私の股間に顔を埋める彼の、まだ湿った髪を優しく撫でる。
自己満足というやつか。
自己満足というやつだ。
愛おしい、愛おしい、私の大切な、愛おしいひとよ、まだ私という枷から逃れられないか、まだ私という鍵を引きちぎれないか、この目で確かめておかないと、私は不安でしようがないのだ、穏やかに抱き合うだけで満足できるような関係ならば、私もおまえも多分、はじめから、惹かれ合ってなど。
（了）