熱帯魚

 彼はまるで熱帯魚、水槽の中、隔てられた向こうの世界でゆらゆら。ふたりを切り離す、透明なガラスの壁を思い切り叩いてみても、すました顔で知らんぷり。


 仕事に使えそうな薬剤が、秘密裏に開発されたというので、わざわざそのためだけに飛行機に乗って、買い付けに来た。
 カリウムも超音波もいいけれど、仕事は可能な限りスマートな方がいい。
 そもそも私にはちょっとした収集癖がある、そんなレアものが出来たというなら、手に入れないほうが嘘だ。
 キャッシュで金を払って、アンプルを受け取り、異国のカフェで一服。
 曇り空の午後。
 さてこれからどうするか、蜻蛉返りするかのんびり一泊するかと、灰皿に吸い殻の山を作りながら考えているときに、カフェのドアが開く音がした。
 何気なく視線をやり、一瞬、目を疑った。
 店に入ってきたのは、彼だった。
 彼はウエイトレスに何事かを言いながら、さらりと店内を見回し、目敏く私の姿を見付け出した。驚いたように目を見開き、しかし次の瞬間にはいつもの顔に戻り、ウエイトレスを制して私のテーブルに歩み寄ってきた。
 少し見ないうちに、彼は、また荒んだような気がする。
 それでも、むかしよりはずっと、ずっとそれを隠すのが巧くなった。
「何をしているんだ? ドクター・キリコ。おまえさんの商売は、こんなところへも手を広げたのかい」
「ブラック・ジャック。どうしておまえはそう、おれの行く先々に現れるんだ? 付きまとわないでくれ、鬱陶しい」
 憎まれ口を叩きながら、顎で座れと促す。彼は素直に私の向かいの椅子に腰を下ろすと、自分のほうがうんざりだというような口調で言い返してきた。「付きまとっている訳じゃない」
 デジャビュ。こんなことが過去にもなかったか? 全く同じようなことが。
 あのときは、そうだ、もっと、肌がひりひりするくらいに熱くて、馬鹿みたいに無我夢中だった。
 あのときは、そうだ、もっと。
「おれだって仕事だ、偶然だ。おまえさんの顔など見たくもなかったよ、ああ、今日は最悪な日だ」
「おれだって最悪だ、せっかくいい気分でいたのに」
「殺しをしてか」
 言い合いながら、多分、私たちは互いに、相手に会えたことを歓んでいる、この異国の地で。
 生きている。彼は生きている。
 この世界に、自分はひとりではない。
 しかし。
 彼はまるで熱帯魚、水槽の中、隔てられた向こうの世界でゆらゆら。ふたりを切り離す、透明なガラスの壁を思い切り叩いてみても、すました顔で知らんぷり。
 きっと彼はそうは思っていないのだろう、私たちは深い部分でつながっていると思っているだろう、互いを誰より理解していると思っているだろう、だが、それは勘違い、私たちは思うほどには理解し合っていない。
 その証拠に、私たちの間にある厚い壁をがむしゃらに叩いてみたって、おまえは気付かない。
 私の抱えた闇の重さに、そこで私が藻掻いていることに、気付かない。
 まさか、助けて欲しいなんて、思っちゃいないが。
「物騒なこと言うなよ、殺しじゃなくて安楽死だ」煙草に火を付けながら、言う。コーヒーは少し冷めてしまった。「まあ今日は別件だけど。薬を買ってきたんだ、出来たてだぜ、今の医学じゃあ絶対に自然死にしか見えない毒薬だ、しかも痛みも苦しみもなく、楽に逝ける」
「おまえさんは、まだそんなことをやっているのか」
「おれは仕事熱心なのよ。少しの苦痛もないように、患者を天国へ送ってやるためだったら、何でも手に入れるし、そのためなら何処へでも行く」
「天国ねえ」
「天国だ。彼らの代わりにおれが生き地獄にいるからね、天国だよ」
 ちらり、彼を見やって言うと、彼は眉を顰めて私を見返した。指先でウエイトレスを呼び、視線もくれずにコーヒーを頼む。
 赤い瞳、頬の傷、黒いスーツに、青いリボンタイ。彼はいつも同じ姿をしている。だが、彼はむかしと較べて随分と変わったと思う。
 なんだ、この生温い空気は。
 気に食わない。
「前にも同じようなことがあったな、また、あのときみたいな騒ぎになるんじゃないのか」
「冗談言うなよ」
「せめて盗まれないように、大事にしまっておくことだ」
「ここだぜ、アンプル。誰が盗めるってんだ、大丈夫だよ」
 スーツの胸元を、立てた親指で差し示す。彼は眉を上げて、呆れたように少しだけ笑った。
 いつからか彼は変わった、私に夢中で吠え付いてくることがなくなった、まるで私を理解し認めているような態度、気に食わない、彼は理解もしていないし、その上認めてもいない、そもそも見えていない、私のこの血生臭い、地に這い蹲った惨めな姿。
 蔑め。嗤え。私は嘲笑に値する。
「いい加減、安楽死稼業は辞めたらどうなんだ」
「余計なお世話だよ」
「医者をやればいいじゃないか、腕のいい医者になるぜ」
「フン、柄でもない。おれは今の仕事に満足しているんだ、神聖なんだ」
 ウエイトレスがコーヒーを運んでくる。相変わらず彼はそれに目もくれず、私に一直線の眼差しを向けている。
 勿論私とて、彼を理解できているわけではない、私が知っている彼は彼のほんの一部分、だが私はその事実を知っている、それ以上を知りたいとも思っている。
 だが彼は、もう私を見切った気でいる、だから透明な壁ができる、叩いても、叩いても、彼は向こうの水の中で、ゆらゆら、ゆらゆら、知らんぷり。
 助けて欲しいなんて、思っちゃいない、思っちゃいないが。
 誤解されるのは耐え難い。
 無言で差し出された彼の手に、煙草のパッケージとライターを渡すと、彼は唇だけで仄かに微笑んだ。一本取り出し、断りはなく火を付け、コーヒーカップを傾けながら、ゆっくりと灰にする。
 穏やかだ。気味が悪いほどに。
 こんな雰囲気は我々に相応しくない。
 もっと殺伐としていなければ駄目だ、無我夢中でなければ駄目だ、必死に足掻いていなければ駄目だ、咬み付き合っていなければ駄目だ、懸命に目をこらしていなければ駄目だ、もっともっともっと。
 完全に把握した、そう勘違いしてしまったら最後、私たちの視界は濁り、永遠に擦れ違ったまま。
 だからおまえは許してはいけない、私の手が血で染まるのを。
「日本にはいつ帰るんだ?」
「さて、どうするか。おまえは」
「おれはこれからここで仕事だ。なんなら手伝うか?」
「冗談じゃない、ごめんだよ」
 胸に毒薬、まるで古い友人のような会話、煙草を灰皿に押し消しながら、私は顰め面をする。
 ほら、あの日みたいに、私に食らい付いてこい、険しい顔をして、胸倉を掴んで、声を荒げて。
「そうか? いつか一緒にオペをしたとき、おれはおまえさんと、また仕事したいと思ったけどね、おまえはセンスがいい」
「嬉しくない」
「単純に褒めているんだ、おまえさんは本当に、腕のいい医者になれるよ」
「今だって、おれの腕はいいんだよ」
「勿体ない」
 彼は煙草を一本、のんびりと灰にすると、コーヒーカップを空にして、椅子を立った。「じゃあ、おれはもう行くぞ」
「ああ、そうしろ、鬱陶しい」
 癖のある髪の隙間に、覗く瞳を無遠慮に見つめる。
 私たちは終わりだろうか、もう二度とあの頃には戻れないのだろうか、爪を立て合うことで自らの姿を漸く知るような、あの頃には戻れないのだろうか。
 この透明なガラスの壁は、私の姿を彼から隠す。
 見てくれ、貶せ、責めろ、私を。
 私は見ているのに、こんなにも夢中になって。
「おい。確か前回はおれが払ったんだ、今日はおまえさんが奢れよ」
「ああ、判ったよ」
「精々、その物騒な薬を盗まれないようにしろよ」
「ああ、大丈夫だよ」
 彼を睨め上げたまま、いい加減に答えた私の胸元を、彼は伸ばした右手で、不意に、無造作に掴んだ。
 一瞬、殴られるのかと身構えた私の唇に、彼はほんの短い、触れるだけの口付けを落とした。
 午後のカフェ、衆人環視の中。
「煙草の礼だ」
 私の耳元に囁くと、彼はさっさと私に背を向け、泳ぐように軽やかな足取りでカフェを出て行った。
 私は暫く、ぽかんと彼の出て行ったドアを眺めたあと、ふと彼の掴み上げた胸に手をやった。
 ない。
 アンプルが、ない。
 視線を自分のスーツに引き戻し、慌てて胸元を探る。やっぱり、ない。
「あの野郎…」
 ひとしきり探してから、私は諦めて煙草を一本咥え、無意識に呟いた。
 抑えようと思うのに、つい、笑みが洩れる。ああ、あの男はまだ、私が仕事することを許していない。
 あの男はまだ、私を引き留めようとしている、私のこの手が、血に濡れることを止めようとしている。
 叩いたガラスの向こう、すました顔の熱帯魚がちらりと少しだけ、こちらを振り向いたような気がした。


(了)