イカレていなけりゃ生きられない。
腐り淀んだこの世界。
伸ばす手の先から逃げていくリアル。
最期をばらまいて踊る、影踏み遊びのヒトゴロシ。
羨ましいか? 妬ましいか。
あの男の赤い瞳は、濁り無く、澄んでいる。
彼の手は血肉に触れ、リアルを掴んでいるのだろう。
鼓動、呼吸、温かい命。
愛おしくて、憎らしい。
憎らしくて、愛おしい。
離人症の死神に、夢を見る、おまえが。
風が通り過ぎると、少し寒い。
月夜。こんな夜は狂気が忍び寄ると誰かが言った。
郊外の墓地を照らすのは月明かりのみ、この時間ではさすがに人ひとりいない。
彼を除いては。
墓地を囲むように、何本もの銀杏の木が、夜空を刺している。
見上げれば、白金に輝く無数の木の葉、足下から精神を乱されるような鮮やかさ。
墓地の一際奥まった場所、闇に隠れる墓石の前に、彼はじっと立っていた。
舞い落ちた銀杏の葉を踏む、僅かな音に顔を上げた彼は、そこに私の姿を見付けて、一瞬目を見開き、それから、いやに複雑な表情をして見せた。
「…ドクター・キリコ。ここで、何している?」
「つれないね、先生」
風が吹き、木の葉が舞う。
美しい。まるで月の欠片が降り注ぐよう。
「おまえの家に電話をかけたら、留守番のお嬢ちゃんが、ここだと言うから。こんな夜中に墓参りかい、ブラック・ジャック先生? 何かあったのかな」
「別に」
「誰かを死なせた?」
「…」
「だとしたら、お仲間だな、おれも今日、ひとつ仕事をした」
「…一緒にするな」
向かい合って立つ彼は、一体いつからここでこうしているのか、唇が白くて、寒そうだ。私を睨む赤い瞳は、何処か頼りなく、ふとしたきっかけで潤んでしまいそう。
いつでも何処でも繰り返される、罵倒の言葉が今夜はない。
傷を負った小鳥、飛び立つ羽根は役に立たず、地べたを這いずり回るしかない。
それが、少しだけ、羨ましい。妬ましい。
私の手は、地獄のように熱い砂を掴んでも、そこにひとつの意味合いさえ見い出せない。
ただ、てのひらだけが焼け焦げる、痛みは私の身体を素通り。
「誰の墓?」
訊ねると、彼は暫く無言で私を見詰めてから、その視線をぎこちなく外し、母、と小さな声で答えた。
そう、と私は素っ気なく返した。
羨ましい。妬ましい。
愛おしくて、憎らしい。
不自然に開いていた二人の距離を詰めて、彼のコートの襟を掴み、無造作に唇を合わせる。突然の私の動きに、彼は最初、反射的に身体を強張らせたが、はっと我に返ったように、それから思い切り私の胸を突いて、私から逃れた。
人を殺した日の夜は、殊更私の現実感は遠くなる。
信念だとか意志だとか、そんなものは、まるで役には立たなくて、私という存在から何かが抜け出ていく感じ、祈りは少しも変わるものではないのに。
人を殺した日の夜は、何故か無性に彼が欲しくなる。
羽根をもがれて藻掻く彼に触れたい、この感覚の無い手で、指で。生々しい感情を、私にべったり塗り付けて欲しい、反発、恐怖、それから快楽を。
嗜虐に火がつく、私の悪い癖。
「なにをする」
「おれがおまえの家に電話をかける目的なんて、ひとつしかないだろう?」
「おれは、」
「今日、今夜、今でないと駄目だ。いつものように、いい子におれの言うなりになれ」
「…キチガイめ」
思い切り顔を歪めて吐き捨て、彼は私の横を擦り抜け、逃げようとした。
その二の腕を掴み、墓石に向けて彼の身体を突き飛ばす。おまえだって、力で敵うとは思っていないだろう?
母の墓石の前に倒れ込み、彼は低く、屈辱の呻きを洩らした。
絶えず舞い落ちてくる黄金色の木の葉、益々正気を鈍らせるような。
「絶望的に綺麗な夜だ。おれとおまえは同じく血に汚れている。こういう趣向があってもいいんじゃない? オカアサンの前でおれに犯られてみろよ」
「ふざけるな…」
「別に、ふざけちゃいないけどね」
墓石の前に膝をつき、爛々とした赤い瞳で睨み付けてくる彼の前に立つ。私は、彼が私に惹かれていることを、よく知っている。いや、惹かれているというのではないか、無意識に、欲している、私という存在、そして、私の背負う闇と永遠の安寧。
がむしゃらに生きる彼に、私が愛おしさと憎しみを覚えるのと同じように、ひとつの闇、闇より尚暗い闇の中、僅かな迷いもなく死を振りまいて歩く私に、彼は焦がれ、そして、憎んでいる。
愛おしくてたまらない。
憎らしくてたまらない。
ああ、私と彼とが、溶けて混ざり合ってしまえばいいのに。
そうすれば。
「厭だ。やめろ、キリコ」
「駄目だ」
「ここは…ここは厭だ。マトモじゃない。おまえ、自分が何をしているか判っているのか?」
「判っているよ。だからここでやる」
「厭だ。放せ…」
立ち上がろうとする彼の襟を、再度掴み、墓石に彼の身体を押し付けた。冷たいのか、痛いのか、彼の眉がくっきりと歪んだ。
構わずに、唇を重ねる。今度は逃がさないように、後ろ髪を片手で鷲掴み、薄く開かれた唇の隙間に、舌をねじ込む。
「ウ…、」
噛み切ることも出来ずに、彼は私の腕の中、力無く藻掻いた。抵抗と言えるほどのものではない。彼はいつでも、必ず最初は私に反発するが、手が触れれば簡単に崩れ落ちる砂の城のように、簡単に私のものになる。
そう、たとえ、こんな馬鹿げた状況でも。
「は、ア」
やや乱暴に彼の口腔を舐め回し、たっぷり唾液を流し込むと、私のコートを掻きむしっていた手をいつの間にか私に縋らせ、彼は従順に喉を鳴らして、二人分の唾液を飲み込んだ。
強引な口付けひとつで、私の手に堕ちる。
彼は私に惚れているのだと思う。私が彼にそうであるように、魂を賭けて。
「畜生…、放せ、」
長い口付けのあと、漸く唇を解放してやると、月明かりの下、薄らと色付いた頬を打ち消すように、彼は口汚く言った。
その手が私に縋っているのに。
ここが何処だか、もう忘れたの?
白金の銀杏の葉が、静かに騒めいて、風の行方を教えている。
「オカアサンが見ているぜ」
思い出させるように、わざとらしい笑みを含ませて、彼の耳元に囁いた。彼は、びくりと身体を震わせると、今更のように私の胸だの肩だのに拳をぶつけて、形ばかりの抵抗をした。
イカレていなけりゃ生きられない。
私の祈りは私を殺す。
大丈夫、おまえはまだマトモだ、おまえだけはマトモだ、だからこれほどまでに、そう、愛おしくて、憎たらしくて。
服越し、彼に触れている薄い皮膚一枚、僅かに目覚める、この身体は私のものであると。
彼でなくては駄目だ。どうか繋ぎ止めてくれ、この、今にも拡散しそうな私という存在を。
「キリコ…、厭だ、放せ、キチガイ、変態、鬼畜」
「何言ってんだかね」弱々しい抗いを無視して、コートの上から、彼の股間に触れる。「先生、おまえ、勃ってるぜ? キスだけでこんなになっちまうの? 何を期待しているの、淫乱先生、こんな場所でさ」
「畜生」
「墓場だぜ、墓場。しかもおまえのオカアサンの墓だぜ、ここ。神聖な場所じゃないのかい? 全く、はしたない、恥ずかしいね」
「おまえが…おまえが悪い」
コートもスーツも、シャツもはだけさせ、素肌を晒させる。緩く吹き抜ける風、寒がるかとも思ったが、彼はもうそんなことなどは気にも出来ないようだった。
縫合の痕をなぞり、肌を強く撫で上げる。尖った乳首を摘み上げ、軽く爪を立てる。首筋に噛み付く。
「あ、あ、」
短い声を上げ、彼は、必死に私のコートにしがみついた。毒々しいまでに美しい月、その色を移す銀杏の木、ずらりと墓石の並ぶ墓地一面に、降り注ぐ木の葉。
螺子を外して、歯車をずらして、そうしていなけりゃ生きられない。
苦しい。
闇の中をふわふわと浮遊する、何か柔らかくて傷付き易くて、煌めかしいもの、私のリアル、突き放して真っ直ぐ歩いているけれど、時々、どうしても、片鱗だけでも取り戻したくなる。
苦しいから。
判るだろうか。
おまえに解るだろうか。
全身に血を被り、耳に煩いほどの鼓動の中で生きている、おまえに。
おそらく、彼が思うほどには、彼は私を理解していない。
そしておそらく、彼が思うほどには、私は彼を理解していない。
それは、私が思うほどには、私は彼を理解しておらず、私が思うほどには、彼は私を理解していないのと同じこと。
完全な理解など有り得ない。
ましてや痛みや苦しみなど。
私の目に映る真実は強固で、揺るぐ隙などありはしない。
引き受けた総ての罪は、いずれ命で贖おう。真実がそこにある限り、私の足は止まらない。
イカレていなけりゃ生きられない。
腐り濁ったこの世界。
捨て去って、切り離して、今日も罪を犯しに私は歩く。
私の役割が終わるまで、私はそう簡単に死ぬことは出来ない。
俯瞰した視界の中で、私の姿はよく見える。
魅惑的か? それほどまでに、足掻くおまえにその姿は。
私が、足掻くおまえの姿に夢を見るように、おまえは私に夢を見る。
愛おしくて、憎らしい。
一生をかけても、私とおまえが結びつくことなど無いのに。
欲望だけだ、夢という名の。
絶望だけだ、夢という名の。
ベルトを外し、下着ごと服を引き下ろす。
既に反応している彼の性器に、右手で触れる。
人殺しが二匹。
月の夜に、プラチナの破片が降るみたい、この肌を切り裂いてしまえばいいのに、気紛れに舞い落ちる木の葉は柔らかく、優しい。
「アア、やめ…」
「やめていいの。こんなになっているのに?」
「は…、キリコ、駄目だ、もう、」
墓石に背を押し付け、私に縋って彼が身悶える。性器を軽く擦ってやると、泣き出しそうな声を上げて応える。
意図的に手のスピードを速めて、彼の耳元に言った。ついでのように耳朶を噛む。
「一回いっちゃって、先生。大丈夫、またあとでいかせてあげるから。おまえなら何度だっていけるだろ、ねえ、淫乱先生」
「あッ、駄目だ、いく、いっちまう」
「いっちまえって」
「ア、アア…ッ」
身体をびくびくと震わせ、添えた左手の中に、彼は射精した。ぞくりと私の背筋を、愉悦のようなものが走った。
この熱、彼は確かにここにいる。
今、私の傍に、私の目の前に、私の腕の中に、彼がいる。
「後ろ向いて」
「ふ、」
彼の呼吸が整うのを待たずに、彼の身体を少々強引にひっくり返した。墓石に両手をつかせ、差し出された尻を、コートを捲り上げて露わにする。
「無理だ…無理だ、キリコ」
「大丈夫だよ、おまえなら。ほら、ちゃんとオカアサンにしがみついて、今おれは男に犯られていますって、報告しなよ。天国でさぞかし歓ぶだろうぜ」
「畜生、キチガイ…!」
「ああ、そうだよ、おれはキチガイだよ、そのキチガイに、嬉々として墓場で掘られようとしているおまえも、なかなかのキチガイだが」
「ああ!」
「ほら、食いちぎられそうだ」
左手で受けた彼の精液を、彼の肛門に塗りたくり、遠慮はせずに指を入れた。もう何度、彼とこんなことをしているのか、こんな不毛なことを。
一瞬だけ訪れる、幻のようなリアルの手触り。
男の尻に指を突っ込み、私は欲情する、救いようがない。
二本、三本と本数を増やし、充分に拡げてから、指を引き抜いた。弱点を探られ、一度達したばかりだというのに、彼の性器はあっという間にまた屹立した。
必死に墓石に縋り、私に向けて尻を掲げる。自分が何をしているか判っているのか? 人を死なせた夜、多分懺悔と叶わぬ懇願のために、一人きり足を運んだ母親の墓で、男に犯されている。抵抗のひとつも出来ない、救いようがない。
自分の服をくつろげ、窮屈だった性器を掴み出した。精液に濡れた彼の肛門に、張りつめた先端を押し付け、ゆっくりと力を加える。
「駄…目だ、ア、太い、無理だ」
「その無理なもんを、おまえ、今までに何回食らったよ」
「きつい…、姿勢…、やめ、あ、」
「呼んでみたらどう。オカアサンってさ。少しは気が紛れるんじゃない」
「ヒ…! 裂、ける…ッ!」
ぐいと亀頭の部分を、彼の中に埋め込んだ。彼の肛門は締まりが良くて、いつまでも慣れない淑女のように狭く、それでいて、娼婦のように貪欲に絡み付いてくる。
ひくひくと震え戦く肉壁を、直に感じて、なんだか少しおかしくなりそう。
「裂けてねえよ、健気に飲み込んでいる。さあ、最後まで上手に食らえ」
「あ…! 駄目だ、深い、深すぎ、る…ッ」
「駄目じゃない、キモチイイ、だろ、先生」
「待て…、動く、な、壊れる…!」
「壊れればいいんじゃねエ? 少なくとも、正気でいるよりはマシだろ」
「ああ…っ!」
両手で彼の腰を掴み、最初から、大きな振り幅で彼を抉った。彼の尻から抜き出され、また完全に沈む自分の性器を眺めながら。
最初の頃は、それでも少しは抵抗があったかも知れない、精神的にも、肉体的にも。だが、回数を重ねるにつれ、彼は私に抱かれることに馴染んだ、精神的にも、肉体的にも。
こうして繋がる以外に、術を知らない。
身に溢れる、愛おしさ、憎らしさ、これを消化する方法を。
互いが思うほどには、私達は理解し合わない、その事実を私は知っている。この愛おしさも、憎らしさも、的を射ていない、それも私は知っている。
彼は私の背後に闇を見る。
私は彼の中に灯火を見る。
夢だ、夢。判っているのに、どうしようもない、だって掴める気がするんだ。
いつだって私の指の隙間から逃げていく、現実感、圧倒的な何か、彼にこうして触れているときだけ、私の手の内にあるような。
錯覚。
「キリコ…、キリコ…ッ、」
私に突かれ、揺さぶられながら、彼が必死に私の名前を呼んでいる。
ああ、愛おしくてたまらない、この健気な命、愛おしくて愛おしくて、憎らしくて。
「さあ、どうだい先生? いいだろう? オカアサンに教えてやれよ。おれは今、男にケツを犯されて、最高にいい気持ちですってな」
「は…、いい、気持ちいい、…っと、もっと」
「もっと欲しいか、淫乱先生? 本当におまえは、可愛い、愚かで、愛おしい」
「ああっ、キリコ、キリコ、」
ぐちゃぐちゃと音を立て、粘膜と粘膜を擦り合わせる。薄っぺらい快楽とは別に、頭の芯が痺れるような恍惚がある。
きゅうきゅうと尻で私の性器を締め上げ、小鳥のように鳴いてみせる、この男は私の何だろう、私にとって、この男は何の意味があるのだろう。
意識の眩むようなエクスタシー、彼にだけ感じる、空虚な心の中に潜めた炎、焼けた砂を掴んでも判らない私が、唯一熱いと思う、消えかけの火。
二人で見る夢なら構わないか、カミサマ? 決して慈しみ合えないけれど、欲しているんだ、惚れ合っているんだ、多分、きっと。
「キリコ…、もう、いかせて…いかせて、くれ」
「お強請りとははしたないなあ、おまえ、自分が何されているか、判ってんの、ここが何処だか」
「いきたい…、キリコ、頼む、か、ら…ッ」
「判ったよ、じゃあ、たっぷり出せよ、オカアサンにぶちまけろ」
「アアア!」
擦れて敏感になった粘膜を、掻き回すように、激しく突いた。彼の一番好きな角度で、彼の一番好きな速度で。
右手で彼の性器を擦ってやると、彼は数分ともたずに絶頂に飲まれた。千切り取られるのではないかというほどに性器を絞り込まれ、私も彼の奥深くに精液を流し込んだ。
ぴったり張り付いた粘膜が、どくどくと脈打つ、どちらの戦慄きだか判らない。
一体感と言えばいいのか、よく判らない、ただ、彼の中に私がいて、私の中に彼がいる感じ、夢だとは知っていても、この悦楽は、拒めない。
「は…、あ、」
腰を使い、最後まで出し切ってから、性器を引き抜いた。彼は、軸を抜かれた人形のように、その場に膝から崩れ落ちた。
墓石に、精液が飛び散って、のろのろと垂れ落ちている。
私は彼の髪を掴み、その目の前に、彼の顔を突き付けさせる。
「ああ、汚しちまったなあ。大事なオカアサンだ、綺麗にしなよ」
「…リ、コ」
「舐めろよ。自分の出したものなんだから、平気だろう? ほら、早く」
「…クソ」
彼は、まだ乱れている呼吸のまま、胸を喘がせながら、墓石を舐めた。はだけた服の向こうにちらりと見えた彼の性器は、この異常な行為に興奮したのか、飽きもせずに、また勃起していた。
私は何をしているのだろう、私達は。
イカレているんだ、ああそうだ。
そうでなくては生きられないから。
白金の銀杏の葉が舞い踊る。私は夜空を仰いだ。月が、不気味なほどに美しかった。
(了)