雨の夜。
患者の屋敷に用意された寝室で、私は彼と対峙していた。蒼みがかった銀髪に、暗い青色のコート、鋭利な美貌に、眼帯、もう見慣れた気がする、見慣れた気がするのに、こうも胸が騒めくのは、一体何故なのだろう。
彼は、魔法でも使えるのか、二階の窓から音もなく、ふらりと現れた。
そろそろ寝ようかと思っていた深夜。雨で、彼の髪が、コートが、少し濡れているのが見て取れる。
「ドクター・キリコ、おまえ、」
思わず声を荒げそうになる私に、両手をすっと胸の前で開く気障なポーズ、絵になるところが厭味たらしいというか、憎たらしいと言うか。
「騒がないで。気付かれたら私、あることないこと喋りますよ、あなたと私が繋がっていることを知られたら、立場上まずいのはあなたでしょう、ブラック・ジャック先生」
「繋がってなどいない。出て行け、出ていかなければ撃つぞ、ここは日本じゃない」
低くて、甘い声。何かがぞくりと背筋を這う。
丁寧な口調が逆に不躾に聞こえるような、支配者の眼差し、私は彼の前にいるといつでも、きゃんきゃん煩く吠えるだけの小犬にでもなったかのような気分に陥る。
枕の下を探って、銃を取り出す。ダブルアクションのリボルバー。
銃口を彼に向けて構えると、彼は、その薄い唇に、余裕の笑みを浮かべて私を見やった。少なくとも銃を向けられている人間の態度ではない。
「何をしにきた? ドクター・キリコ。ここの患者は私が助ける、おまえはもう必要ない、患者本人も家族もそう思っている。用なしだ、出て行け、早く」
「判っていますよ、患者を横取りされるのはいつものことだ。私が不要であることも判っています、だから不法侵入しているのでしょう?」
「判っているのなら、何をしにきた、この人殺しめ」
「おやおや、つれない先生だ。あなたに会いにきたんですよ、ブラック・ジャック先生」
艶やかに微笑んで、彼は言った。惜しげもなく晒される表情、美しいとは思う、多少シャープに過ぎるけれど。
リボルバーを両手で構え直し、彼の胸に照準を合わせた。深夜に二階の窓から侵入してくるような不審者、撃ったところでどうということもない、顔の利く刑事もいる。
彼と向き合ったときに、いつでも心乱れ、胸を沸き立たせる自分が、嫌いだ。
「私に会いにきた? ふざけたことを言うな、本当に撃つぞ」
「あなたに私が撃てますか? 気付いているくせに、憎まれ口を叩きながら、あなた本当は、私に惹かれているんですよ」
「惹かれてなどいるものか、心底憎んでいる、嫌いで嫌いで反吐が出る」
「嘘吐き。そんな顔をして」
そんな顔。
私はどんな顔をしていると言うのか。
銃を向けられているというのに、まるで全く気にしていない様子で、彼はゆっくりと私に歩み寄ってきた。撃て、撃ってしまえ、と私の頭の中の私が喚き立てる。
こんな人殺し、撃ってしまえ。ひとり達観したような顔をして、ひとり諦念に沈んだような顔をして、それでも華やかに微笑んで見せる、こんな男、私の前から消えてしまえ。
憎んでいる、それは本当だ。彼は、私が持ち得ぬものを、いとも簡単に手にしている。
憎い、憎たらしいんだ。
「撃たないんですか?」
数歩の距離まで近付きながら、彼が面白そうに言った。ああ、撃つさ!
グリップを握る両手のてのひらに、汗が滲む。指が細かく震えて、言うことを聞かない。リボルバーにはセイフティなどない、トリガーを引くだけのダブルアクション、何故撃てない、違う、ただ私は。
と、すぐ目の前に迫った彼の手が、不意に伸びた。
銃身を掴み、銃口を自らの胸に、ぐいと押し当てた。「心臓はここ。やるなら一撃でお願いします」
「…ッ」
思わず、ごくりと喉が鳴った。
彼の予期せぬ行動に、身体が強張り、リボルバーを取り落としそうになる。この男、何をしている? 死にたいのか?
「ほら、しっかり持って」彼は、私の手を握って銃を掴み直させると、まるで恋人に愛を囁くような口調で言った。「私を撃つんでしょう? 構いませんよ、あなたに私が撃てるのならば、撃ってごらんなさい。本望というものです」
「…何を考えている?」
「ただ、あなたのことを」
「キリコ…ッ」
動揺に引き攣っている私の頬に、彼は左手をそっと添えた。何をされようとしているか、考える間も与えられず、あまりにも自然に、彼の唇が私の唇に重なった。
その一連の所作が、実に紳士的で流れるように優雅だったものだから、私は反射的な抵抗を、つい忘れた。正直、自分が何をされているのか、暫くの間は把握もできなかった。
何だこれは。
口付けをされている。口付けをされているのか? この私が、この男に?
この男に!
「ン、ウ…」
ふたり、目を開いたまま。
蒼みがかった銀色の瞳に、魅入られたように目が離せない。
抵抗しようと思っても、身体が言うことをきかなかった。私はただ茫然と、リボルバーを彼の胸に押し当てたまま、彼の仕掛ける口付けを受け入れていた。
彼は雨の匂いがした。
ひんやりとした唇が、優しく私の唇を辿った。小さな音を立てて、端から端まで。
まるで淑女にするような、丁重な行為、私ならば女相手にだってこんなふうに慎重な口付けはしない。
濡れた、ざらりとした舌が、私の唇を撫でる。ぞくりと背筋を走ったのは、悪寒なのか、快感なのか。
頬に添えた左手で、私の口を開かせ、彼は舌をゆっくりと私の口腔に差し入れてきた。
「あ…ッ」
歯の裏側を辿られ、上顎を撫でられ、力が抜けた膝からカーペットに崩れ落ちそうになる。その私に気付いて、彼は頬から離した左手で私の腕を掴み、私の身体を支えた。
この男は厭味だ。
驚きと緊張のあまり、身動きひとつできない、その頭の片隅で思う、この男は厭味だ。
完璧なのだと思う、完璧すぎて厭味なのだ、完璧な男が男に口付けをするものなのかどうかまでは知ったことではないが、私への対処法としては完璧だ、私はご覧のとおり、麻酔銃を撃たれた野生の動物、もう彼にされるがまま。
彼が何をしたいのかは判らない。
彼が何をしに、この雨の夜、私の寝室を訪れたのかは判らない。
ただ、判っていることがひとつ。
私はおそらく、彼のことを、ただひたすらに。
「美しい」
いったん唇を離し、彼は艶めいた声で囁いた。いつの間にかきつく閉じていた瞼を薄らと開くと、彼の銀色の瞳と目が合った。
「あなたは美しい、ブラック・ジャック先生。私がどれほどあなたに焦がれているか、あなたはご存知ですか?」
「私は、」
「惹かれているのです、灯りに群がる蛾のように。あなたは闇の中にいてさえ眩い光だ、穢れなき光だ、私はただあなたを目指してふらふらと飛んで回っている。こうして雨の夜に、二階の窓からあなたの部屋へ、のこのこ現れるようにね」
「…」
返す言葉もなく、口籠った私の唇に、再度彼は唇を合わせた。今度は、先程までとは違って、荒々しく、咬み付くように。
唇に歯を立てられ、私はぎょっと目を見開いた。男の力と欲を見せ付けられるようで、ざっと恐怖が私の頭を占めた。
突き刺された舌に、強引に舌を絡められた。
ぬるりとした生々しい感触に、鳥肌が立つ。厭だ。厭だ。こんなこと、私は望んでなど。
焦がれているだって? 惹かれているだって? 厭だ。厭だ。そんなこと、私は望んでなど。
私は。
かっと頭に血が昇るのが、自分で判った。自分が何をしているのか、理解もできぬまま、咄嗟に、彼の胸に銃口を押し付けていたリボルバーのトリガーを引いた。
トリガーを引いた、その瞬間の自分の感情が、抱えきれない、ただ真っ白に。
撃った。
私は彼を撃った。
私は彼を殺す気なのか? 私は彼を失う気なのか?
カチッと弾切れの音がして、私は思わず、彼の唇から唇をもぎ放し、自分の手元を見た。弾切れ? 有り得ない。
その私の顎を左手の指で引っ掛け、上を向かせると、彼は私の目の前で、右手をゆっくりと開いた。
ぱらぱらと、そのてのひらからカーペットに堕ちる、弾薬。
「え…」
「私を殺すには、この程度の弾薬では足りませんよ。なにせ死神の化身ですから」
何が起こったのか最初は判らなかったが、すぐに理解した、どうやら口付けの間に彼は、手品師よろしく弾倉から弾薬を盗み取っていたらしい。
口付けに酔い、気付かなかった自分に反吐が出る。血の味がするほど唇を噛み締める私の目の前で、彼は、毒を持つ華が大輪を開くように微笑んだ。
憎い。憎たらしい。
「…この化け物め。だったらおまえは、どうすれば死ぬと言うんだ」
「もしあなたが死ねば、私も死にますよ」今まで銃口を押し当てられていた胸に、自らのてのひらを置き、彼は言った。様になる仕草が腹立たしい。「ねえ、ブラック・ジャック先生、言ったでしょう? 私とあなたは繋がっている。あなたが生きている限り、私は死にませんよ、だって私が死んだら、あなた、哀しむでしょう?」
「…哀しみなど」
「だから私は死にません、あなたのために。愛していますから」
「…私は、おまえが嫌いだ、大嫌いだ」
口汚く吐き捨てる。
睨み付ける私に、彼は再度うっとりするような笑みを零し、最後に私の唇の端に軽くキスを落とすと、あっさり私に背を向けた。
「患者に、頑張れとお伝えください。精一杯生きろと」
「…」
侵入してきたときと同様、窓から去っていく彼の背中を、私はただ見送っていた。何を言うこともできなかった。精一杯生きろ。それが死神の言うことか。
どれほどそうしていたか、ようやく窓の外の雨音に意識が向くようになってから、私は弾切れのリボルバーを、無造作にベッドの上に放り投げた。
その隣にどさりと倒れ込んだ。唇を乱暴に手の甲で擦って、白い天井を見詰めた。
だから私は死にません、あなたのために。
低く甘い彼の声が蘇る。
だから私は死にません、あなたのために。愛していますから。
ああ、何が判る、おまえに、おまえなどに、私の何が判ると言うのだ。
(了)