サファイア

 あ、撃たれる、と思った。
 車線を挟んだ向こう側、少し離れたところに駐車しているセダンの、スモークが入ったリアウィンドウがすっと降りて、そこからライフルの銃口が覗いたとき。
 厭な予感はしていたのだ。
 何処の国に行ったところで、マフィア絡みの仕事で全く危険がないなんてことは有り得ない。
 依頼の内容を聞いて、それでも取り敢えず行くだけは行くと返事をした。後手に回る前にさっさと済ませてしまおうと、すぐに日本を発ち、空港に降り立ったときに、ブラック・ジャックのその予感は確信に変わった。
 早い。もうがっちりだ。
 威嚇する露骨な気配を感じた。隠すつもりなどはさらさらないようだった。相手の姿こそ見えなかったが、帰れ、帰れ、という無言の圧力だけは伝わった。
 はいそうですかと帰ればよかったのかもしれない。
 だが生憎、そうも露骨にやられると、逆に無茶をしたくなる性分でもある。
 やりたいようにやって、それで死んだらまあそれでいい。身体に纏わり付いてくる不快な視線は無視し、片手に診療鞄だけをぶら下げて空港を出た。夕日を斜めに浴びながら数分歩いて、さて車を借りるかタクシーにするか、決めるのも待たずに、これだ。
 片側二車線、歩道の人通りも決して少なくはない。両脇にはビル、こんな場所で、しかもライフルで撃つか。
 今回の仕事は受けられそうにないと依頼主に連絡をしなくては。
 いや、その前に家に電話を。
 待て、警察か。駄目だ、こっちが捕まる。
 そうじゃない、死んだらもう捕まらないじゃないか。
 それから、あの男に。
 ライフルの銃口を見詰めながら、一瞬のうちに、どうでもいい考えばかりが脳裏を駆け抜けた。それを構える顔も見えない誰かと目が合ったような気がして、これは駄目だな、とぼんやり他人事のように思った、そのときだ。
 いきなり腕を掴まれた。
 え、と思う間もなく強い力で引っ張られた。
 転がるように引き込まれたビルとビルの隙間の細い路地、思わず振り返った視線の先に、青みがかった美しい銀髪が翻った。同時にすぐ傍でコンクリートが砕ける鈍い音。
「ッ」
「来なさい、早く!」
 咄嗟のことで何がなんだか理解もできない頭の上から、叱り付けるような低い声が聞こえた。
 理解もできないうちに、思い切り腕を引かれて、路地の奥に向かって殆どつんのめるように走らされた。
 明け方の海みたいな深い青色のコート。黒い革手袋。
 ビルの合間に延びる迷路のような路地を、引きずられるままに多分数分は走ったと思う。しかも全速力に近いスピードで。
 ちょっと待て、歩幅が違うんだ、歩幅が。
 足が縺れてきたころに漸く立ち止まり、胸を喘がせて呼吸を貪るその耳元に、今度は少し冷ややかな声が言った。
「まったく。ブラック・ジャック先生、あなたには、危機感というものがない」
「…、」
 息ひとつ乱していない。
 ドクター・キリコ。
 言い返そうと思ったが、喉がひゅうひゅう鳴るだけで、まともな声が出なかった。
「ご自分の立場を理解していますか?」腕を掴んだ指に少し力を込めて、彼は僅かに身を屈めた。悔しいことにそれで目線の高さが合う。「あなたは目立つんです。あんなに無防備にふらふらメインストリートを歩いていたら、襲撃してくれと言っているようなものですよ。少しは警戒なさい、警戒を。子供じゃないんだから」
「…お、まえ、どうして、ここに」
 無理矢理呼吸を落ち着けて絞り出すと、何とか声が出た。そこで気が付いた。ああ、診療鞄を落とした。
 彼は形の良い眉の片方をすっと上げ、唇の端で微かに笑ってみせた。いつも見る、皮肉たらしい表情だ。「どうして? 仕事ですよ」
 そうか、自分はこの男に命を救われたことになるのか、と意識の隅でブラック・ジャックは思った。なんてことだ。うんざりだ。
 最後に会ったのは数ヶ月前。
 クラシックコンサートの会場だった。忘れようにも忘れられない。
 狭い車の後部座席で抱かれた。
 犯されたとは言わない。大した抵抗もしていない。肌に触れる指を、唇を、捩じ込まれる熱を受け入れ、もたらされる快楽に溺れた。涙を流し、声を上げ。
 なかったことにしてしまうにはあまりにも鮮烈な記憶。勿論彼だって忘れていないだろう。
 いや、或いはとうに忘れたか、あんな些末なこと。
「…仕事だと?」
「また依頼人が被りましたね。ああ、今回は依頼人は違うのか、患者が被ったんでしょ。私は患者本人に呼ばれて来ましたが」
「…本人?」
「やっぱり理解してない」相変わらず淡々としてはいたが、彼は語尾でほんの僅かに嘆息した。「ファミリーのボスですよ、患者。それくらいは判ってますか? 患者自身は死にたくて、しかし立場的に今トップに死なれては困る部下連中があなたを呼んで、一方あなたに患者を助けられたくはない敵対勢力があなたを撃ったと」
「…胡散臭いというのは承知だ」
「承知ならもう少し自分の身を大事になさい」
 細められた目、その青みがかった灰色の瞳。
 あのとき抵抗しなかったのは何故だろう、と思う。
 流されたと言えば流されたのだ。だいたい純粋に力の差が多分ありすぎる。それでも本気で抗えば、彼は手を引いたのかもしれない。きっと引いた。
 抱かれたい、抱き合いたいと明確に意識したことは、なかったはず。
 なかったはず? そうじゃないんだろう。何処かで望んでいやしなかったか?
 死を願う他人の罪を被る、表情のない瞳の奥には何があるのか、見てみたいと。
 そして、この傷に触れて欲しいと?
「…どこへ行くんだ?」
 腕から手首へ移動した彼の手に、引っ張られてブラック・ジャックは少し躊躇った。
 そんなこと、知られたらどう思う? たとえば、あの男は。
 歩み出そうとしていた彼は顔だけ振り向けて、相変わらずの薄笑みを浮かべて見せた。
「とにかく安全な場所に移動しましょう。いつまでもこんなところにいたら、いずれ見付かります。理解されてないようだからいちいち言いますが、このあたりのホテルは駄目ですよ、監視付きですから。車を借りるのも駄目、タクシーも駄目。ストリートの外れにバイクを停めてあります。一緒にいらっしゃい」
「だからどこへ」
「海沿いに別荘があります。患者が秘密裏に購入したものです、今は私が鍵を持っています。安全でしょう。この時間からこの近辺で依頼人と接触を図るのはあまりに無謀ですね、日を改めて、もっと遠いところで落ち合いなさい」
「…」
 迷っているうちにさっさと背を向けた彼に、手を引かれる形で歩かされた。狭い路地の薄暗い色に染まる銀髪。最後に会った数ヶ月前よりも、少し長い。
 結局拒みもせずに彼の足跡を踏みながら思う。
 ほら、こうして。
 その手にまた引きずられる。







 馬鹿馬鹿しいくらいに贅沢な家だった。秘密裏に買う別荘がこれか。
 平屋だが、敷地面積は充分すぎるほどに広い。バスルームとトイレ以外には壁がなく、中央にソファと低いテーブルを置いたリビング、左にダブルベッドが二つ、右にはキッチン、大雑把にそんなところ。ドアを開けた真向かいは右から左まで、天井から床まで一面ガラスで、その向こうには芝生も青々とした庭、更にその向こうには夜のプライベートビーチときたものだ。
 ハンガーにコートと、スーツのジャケットをかけた彼が、シャツの袖を捲りながら言った。
「何食べましょうかね。と言っても手のかかるものは作りませんが。材料もあまりありませんし」
「おまえが作るのか?」
「他に誰が作るんです。あなたも一緒に作りますか?」
「…いや」
 キッチンに並んで立てというのか。
 嫌いな食べ物は、と訊かれて、別に、と答えると彼は十秒は考えずに冷蔵庫へ手を伸ばした。三十分程度でキッチンのテーブルにスープとサラダとスパゲティ・ナポリタンが並んだ。ブラック・ジャックはぼんやりと鍋を掻き回す彼の背中を眺めていた。その露わになった肘から手首のあたりと。
 一度は身体を重ねておきながら、そういえばこの男の肌をまともに見たことがない。
「私がこの家にいていいのか?」
「いいんじゃないですか? 今は私が借りてるんですし」サラダをつつきながらの問いかけに、彼はさらりと答えた。「それにあなた、患者本人が望んでいないオペを、本当に引き受けますか? まあ本人に会ってから考えればいいのでしょうが、少なくとも彼は、誰にも知られていない別荘の鍵を渡すくらいには私を欲していますよ」
「…」
 そう言われると困る。
 食事中の会話はそれだけで、あとは二人押し黙って彼の作った料理を食べた。短い時間で仕上げたせいか多少大味だったが、そこそこ旨かった。
 食後に二杯のコーヒーを空にしたところで、シャワーをどうぞと勧められた。
 先に使っていいものかとは思ったが、素直に席を立った。こちらに来てから調達しようと思って、着替えも何も持ってきていなかったけれど、持ってきていたところでライフルを向けられたあのときにどうせ落としてしまっていたか。なにせ商売道具まで落としたのだから。
 脱衣室に洗濯機と乾燥機があったので、遠慮なくシャツと下着を放り込んだ。
 バスルームも、他と同様無駄に広かった。頭から湯を浴びながら、ふと遠くから突き付けられたライフルの銃口を思い出した。
 その時に腕を掴んだ彼の指の感触と。
 あの路地に彼は身を潜めていたのだろうか。追われていた? 身を隠していた? 勿論事情は知らないが。
 出会ってしまう運命。数ヶ月前に彼が言ったふざけた言葉が蘇る。運命? 馬鹿馬鹿しい。しかし、よくあんな場所で、あの瞬間に、この腕を。
 髪を洗い、シャンプーの泡を落とし終えたときに、不意に、脱衣室のドアが開く音がした。
 シャワーのノズルを掴んだ手を強張らせて、思わず身構えた。
 同時に、それはそうだ、と妙に何処かで納得している部分があった。
 それはそうだ、腕を引き寄せられたあのときから、或いは路地を走らされたあのときから、向かい合って視線を絡ませたあのときから、バイクで彼の背中にしがみついたあのときから。
 わかっていたはず。
 わかっていて、逃げなかったんだ。
「ご一緒しません?」
 曇りガラスの向こうに彼の声が聞こえた。ぼんやりと見える背の高い輪郭はきちんと服を着たまま。揶揄っているようでもなければ頼み込んでいるようでもない、全く何を考えているのだか読み取れない口調。
 答えないでいると、聞こえていないと思ったのか無視していると思ったのか、少しの躊躇いもなくドアが開いた。
 その向こうに、彼の姿を確かめもせずに、シャワーを思い切り浴びせかけた。
「…早く脱げ、変態」





 多分初めて意識的にその髪に触れた。
 もう少し硬いのかと思っていたが、意外と柔らかく素直に指先へ流れた。ちょっとでも手荒く扱ったらすぐに縺れてしまいそうな、細くて繊細な髪。
 珍しい色をしていると思う。青くライトを跳ね返す銀、他ではそうは見ない。
 初めて服を脱いだ彼を見た。
 白いな、とまず思った。単純に、人種が違うな、と。
 自分の裸を晒していることに嫌気がさすくらい、まっさらな、傷ひとつない肌。
 そこそこ強い動物は傷だらけの身体をしていて、真に強い動物は一筋の傷跡すらないのだと何処かで聞いたことがある。思い切り人並みから外れて生きているくせに、この男は。
 彼は何も言わず、何もせず、観察されるままにただ立っていた。その彼の心臓の上あたりに、てのひらを押し付けた。もしかしたら変温動物みたいに冷たいのではないかなんて馬鹿なことをちらりと思ったが、彼の肌はちゃんと人間の体温だった。
 そうだ、それでも。
 ひとつだけ傷があるとしたら。
 一瞬迷って、しかし何も今更遠慮することもないだろうと、再度右手の指を彼の銀髪に伸ばした。
 顔の左半分を覆い隠している長い髪を、なるべく気のない手付きで掻き上げた。
「…」
 予想というか、何となく想像はしていた。
 その想像と、あまりに違うものがそこにあって、思わずブラック・ジャックは、ぎょっと目を見開いた。
「…なんだこれ」
「サファイアですが」
 彼は手を払いのけも、顔を背けもしなかった。殆ど無意識のうちに口をついて出た言葉に、平然と、むしろそれがどうしたというような口調で答えた。
 ない、ということはないとは思っていた。
 視力はなくても眼球が残っているか、義眼でも入れているか、とにかくそこに何もないということはないとは思っていた。ないにしては彼の顔は整いすぎている。もしもそこが空洞だったら、少しは造作に歪みが出るはず。
 酷い傷跡でもあるのかと何となく考えていた。
 隠すくらいだから軽いものではなくて、瞼が焼け爛れて欠落しているとか、欠落はしていなくても直視できない程度のケロイドになっているとか、そんなところ。
 とんでもない、綺麗なものだった。
 見て判る外傷はない、痕も残っていない。右眼と全く同じ、柔らかそうな瞼と、銀色の睫。
 ただその瞼の下に覗くものが異常だった。
 青い石。義眼なんて可愛いものではない、眼球と同じサイズに丸く磨いた、石だ。
 サファイアだって?
「…なぜ」
「眼球を取ったから、そのあとに入れたんですよ」
 至極尤もなことでも言っているように彼は言った。爪が伸びたから切ったんですよ、と言うのと同じくらい。
 そうじゃない。まじまじと見詰めていたサファイアの左眼を、見えてはいないと知りつつもつい少し睨み付けた。
 取ったから入れた? それはそうなのだろう、それはそうなのだろうが、どうしてサファイアなんか入れているんだ。どうして入れたものを隠すんだ、隠さなくてはならないものを入れるんだ? 精巧な義眼だったらわざわざ隠さなくてもすむのに。そもそもどうして取ったのか、怪我? 病気?
 サファイアだって? どういう神経をしているんだ。
 眼球と同じ大きさなのだろうから相当の代物ではあるはず。金庫の代わり? まさか。質屋のカウンターでちょっと失礼と言って左眼を外すのか?
 まともではない。
 バスルームの照明に暗く煌めく青い宝石。
 異様だ。ぞくぞくと腕に鳥肌が立つくらい、その眺めは異様だった。綺麗に筋肉の乗った肉体に傷ひとつない白い肌、珍しい銀色の髪に、鋭く端正な顔、その左の眼窩には、美しい大粒のサファイア。
「…なぜ」
 気の利いたセリフも思い付かずに同じ問いを繰り返した。何故左眼を。何故左眼に。
 その言葉には答えず、彼はそこで、不意に、無表情だった顔へにっこりと艶やかな微笑みを浮かべて見せた。
「…、」
 あ、堕ちた、と思った。
 抗う暇もなかった。抗う、という選択肢もあると、気付くことさえ許されなかった。気付いたときには遅かった。
 相手の視線を一点に集中させるなんてどんな催眠術者でも使う手法だが、そう強要されたわけでも指示されたわけでもないのに、自分からかかってどうする。
 紐にぶら下げた五円玉を揺らされるよりも、薄暗い部屋で壁に白い光の点を描かれるよりも、ましてや水晶玉を翳されるよりも。
 瞼の向こうにある青。
 それから、完璧に計算された、優雅ですらある微笑。
 遙かに強力に。
 彼は一歩で距離を詰めると、そうすることが当然であるかのように、両腕を伸ばしてきた。優しく、しかし強く抱き寄せられる。初めて剥き出しの肌と肌が触れ合った瞬間に、ブラック・ジャックは無意識のまま喉の奥で小さく呻いた。
 頭の隅に、よく知る男の顔が掠めて、消えた。
 あとはもうされるがままだった。熱いシャワーの下で、或いは湯を溜めたバスタブの中で、念入りに、執拗に施されて、まさしくのぼせた。唇から洩れる喘ぎが広いバスルームに無駄に響き、そのあまりの淫らさにはじめは必死で声を殺していたが、次第に羞恥は薄れ、下肢に彼の指が触れる頃には忘れていた。
 立ったまま背中から抱かれた体勢で、片手の指を後孔に入れられ、片手で性器を擦り上げられて、一度達した。
 力の抜けた身体を丁寧にタオルで拭かれ、軽々と抱き上げられて、二つあるうちの窓際のベッドへ運ばれた。男の腕に抱えられることへの抵抗感を、覚えるだけの理性は残っていなかった。
「さすがに用意がいい」傍らのチェストの引き出しを引いて、彼が言った。「まあ、この家を好きに使えと言われたのだから、使ってもいいでしょう。今日はあなた、鞄を落とされたようだし、抗生物質もない」
「ふ…」
「ローション、ジェル、クリーム、どれが好きですか。全部水性かな。ああ、オイルもあります」
「ど…れで、も、い…」
 カーテンも引いていないガラスに映る自分の姿から目をそらせて、乱れた呼吸に切れ切れに答えた。夜のビーチも所有地のようだから人目はないのだろうが、さすがにこれは少し参る。
 彼はそんなことなどは全く気にもしない様子で、引き出しから適当にチューブを取り出した。キャップを外しながらちらりと表面に視線を滑らせる。
「先生、足を開いてください」
「…」
「塗ってあげますから、足を開きなさい。いきなり突っ込まれる方がいいんですか?」
「…、」
 前々から思ってはいたが、サドの気があるのか、こいつ。
 バスルームの熱い湿った空気に忘れていた羞恥が、ぱっと肌に蘇るのが判った。それでも、若くてきれいな女がやるなら可愛いのかもしれないが、自分がここで羞じらって見せたところで気味が悪いだけだと思い、言われた通りに膝を立てて、両脚を開いた。
 勝手に唇が歪む。泣き出しそうな顔をしているかもしれない。
 彼はその表情を見て、唇の端に面白がるような笑みを浮かべた。濡れた長い髪が顔にかかり、サファイアの左眼は見えなかった。
「大丈夫、酷いことはしませんよ。今日はベッドですし、バスルームもあるし時間もあるし、じっくり掻き回してあげましょうね。この間のも、あれはあれで楽しかったですが、せっかくあなたと初めて繋がれたのに少し慌ただしかったですから」
「そ…ゆう、いいかた…、する、な…ッ」
「どういう?」
「…から、…きまわ、す、とか、…なが、る、とか…、」
「してほしいでしょう?」チューブを絞りながら、彼は更に笑みを深めた。「あなたが言うと、処女が猥語を口にするよりいやらしい気がしますね、そこら中で散々色気を振りまいているくせに」
「ふ…ざ、け、…るな、変態…っ」
「今日もジェルにしました。思い出しますか? あのときあなたは私に入れられて、とても気持ちよさそうに泣いていましたよ」
「…うな、…アッ」
 彼が左手をシーツに付き、覆い被さってきた。と同時に、後孔に指が触れ、ぬるぬるとゲルを塗り広げた。
 バスルームで既に綻ばされていたその部分は、あっさりと彼の指を飲み込んだ。ぐるりと、内部を広げるようにゲルを塗り込まれ、そのあからさまな動きに、これは彼の言う通り彼と繋がるための準備なのだと思い知らされる。
 奥を弄ったあと、指はいったん抜けて、今度は二本に増えて入ってきた。痛みなどは今更なかったが、咥え込まされた圧迫感は、むしろ犯されるという感覚に近かった。
「は…ア、」
「ほんとうに、愛され慣れた身体をしているんですね。ずいぶんとおいしそうに受け入れるものだ」
「…め、ろ…、ン…」
「さっきいったばかりなのに、これだけで勃ちますものねえ。じっくり可愛がりなどしたら、壊れるんじゃないですか? あなた」
「ウ、…あっ」
 明らかにわざと、少しだけポイントを外した場所に指先を立てられ、のけぞった首筋に彼の唇が吸い付いた。濡れた跡を残しながら肌を辿り、尖った乳首を軽く噛まれる。
 二か所を同時に刺激されて引きずり出される快感に、シーツを握りしめて耐えた。目を開けていようと思うのに、いつの間にかぎゅっと瞼を閉じて与えられる感触だけを追っている。
「は…、」
 その違和感に気付いたのは、深く押し込まれた二本の指で、ごく優しく揺すられたときだった。
 不自然な熱さ。知らないもどかしさ。
 確信に変わったのは、弱点を最後まで避けたままそっと指を抜かれたときだ。
「…れ、なに…か、入っ…てる…だ、ろ」
「みたいですね」薄らと開けた目に、平然と微笑む彼の顔が見えた。「成分を見る限り、そんなに強くはないと思いますよ。すみませんねえ、ただのジェルが置いてなくて。これでもここにある中では一番控えめなものなんですが」
「…馬、鹿…ヤ、ロ…ッ」
「大丈夫ですよ。害はないです」
「あ…る、んだ…っ、ア」
 認識した途端に、かっと熱が身体中に回った。堪えきれずに再びきつく目を瞑り、反ったつま先をシーツに突き立ててその熱を散らそうとする。
「大丈夫」僅かに笑みを含んだ彼の声が、耳元に言った。「もういやだと言うくらい、私が充分に愉しませて差し上げますよ」





 口付けをしてもいいかと一度訊かれた。
 半分白く濁った意識で、枕の上の首を左右に振った。拒絶に深い意味などなかった。
 彼は焦らすように肌という肌を優しく撫で上げた。無数に残る縫合の痕に舌を這わせ、時々吸い上げて歯を立てた。
 ゲルを塗り込められた後孔には、触れもしなかった。
「キ…リコ…ッ」
 放置されたその場所に疼く、快感というには強引すぎる刺激に、ブラック・ジャックは重く身悶えた。太腿の付け根に爪を走らされ、張りつめた性器の先端をやんわりとてのひらで慰められ、はしたない懇願の言葉を幾度か飲み込みはしたが、もう限界だということは自分で判った。
 入口から奥まで、ずきずきと脈打って、熱い。ただ、早くそこを、惨たらしいくらいに強く擦り上げて欲しいと、それだけしか考えられなくなる。
 促すように、その熱に炙られる部分の周囲をじりじりと指先で辿られ、震える唇から、今度は飲み込めなかった掠れた声が洩れた。
「あ…、も、…リ、コ…、」
「どうしました?」
「痒…い、…掻い…てく、れ、中…、ハヤ…クッ」
「そう。辛そうですねえ、可哀想に。そんなに欲しいですか?」
 揶揄うような低い笑い声が聞こえた。湧き上がるはずの恥も怒りも、身体を焦がす欲の前には何の力も持たなかった。
 涙を滲ませて何度か頷くと、不意に腕を掴まれて、身体を引き起こされた。
 されるがままになりながら目を開けると、視力はないサファイアの左眼が間近にこちらを覗き込んでいた。
「…ア、」
「舐めてください」
 どう表現すればいいのか判らない動揺に一瞬強張った腕を取られ、彼の性器に手を導かれた。一度だけ飲み込まされたことのあるそれは硬く勃起していて、熱さに、太さに思わずごくりと喉が鳴る。
「…、」
「舐めてください。好きなんです、そうされるのが」
「…ふ」
 銀色の睫に縁取られた青い石。
 その鈍い煌めきに操られるように、ベッドヘッドに凭れた彼の前にのろのろと跪いた。身動きをするたびに後孔が強い刺激を欲しがって、内部の壁を蠢かせるのが判った。
 男の性器を口に含む行為に抵抗がないわけではない。しかし、強引にでしろそうでないにしろ、その行為をしたことがないわけでもない。
 ましてや。
 顔を寄せ、張り出した部分と太い幹との境目に舌を押し当てると、頭上から、甘いくせに感情のない声が言った。
「咥えなくていいですから。無理でしょ。舐めるだけいいです、子犬のように一生懸命舐めなさい」
「ウ、」
 命令口調に今更腹も立たない。
 ちりちりと焼け付く身体に息を乱し、這い蹲って男の股間に顔を埋める。屈辱的なのだろうとは思うが、麻痺した理性にはよく解らなかった。目を閉じ、舌を大きく出して、硬さを確かめるように何度も上下に舐め上げる。唾液で濡らした幹の部分を手で擦りながら、先端に吸い付く。
 多分それほど気持ちよくもないだろうと思った。したことがないわけでもないとはいえ、慣れてもいない。
「もういいです」舌が男の味に馴染んできたころに、再度腕を掴まれ、身体を起こされた。見やった彼は唇に、相変わらず何を考えているのだか判らない薄笑みを浮かべていた。「男のペニスを舐めることはできても、口付けは許さないんですか? つれない先生だ」
「…」
「いらっしゃい。中を掻いて欲しいんでしょう? そうしてあげますよ」
 向き合う形で彼の股間を跨がされる。腕を彼の肩に回させられ、少し躊躇したが、今まで唇を這わせていた性器の先端を、下から火照る後孔にぐっと押し当てられて、結局は縋り付いた。
 突き破られる恐怖と、一秒でも早く掻き乱して欲しい疼きが、既に半ば眩んでいる意識を更に混乱させる。
「ゆっくり腰を下ろして。そう…上手だ。まだそんなに締め付けないで」
「ああ…っ、裂け、る…!」
「大丈夫。この間だって大丈夫だったでしょう? もう少し我慢なさい、あとは楽ですから」
「ア…!」
 彼は片手で自分の性器を握り、角度を調整しながら、片手で太腿を掴んでじりじりと腰を落とさせた。狭い体内を無理矢理押し広げるように異物を食い込まされる強烈な圧迫感と、何より張り出した部分に、或いは太い竿の部分に齎されるたまらない掻痒感に、声を上げた。
 強い接触を欲して餓えていた場所を、ぴっちりと隙間なく埋められていく。
「はあ…、あ…、」
「ほら、逃げない。最後まで咥え込みなさい」
「ンン、」
「もう少し…これで全部」
「あっ!」
 先端を押し込んでしまうと、彼の両手は腰に移動した。つい先程指と唇で測った大きすぎるサイズについ恐れをなす身体を、ゆっくりと、それでもじわじわと確実に引き下げられる。
 最後に少し乱暴な動作で下から腰を打ち込まれ、その衝撃に、必死にしがみついていた肩へ思い切り爪を立てた。
 信じられないほどの奥まで届く。この圧倒的な威力を確かに知っている。
 他では決して有り得ない、追い詰められるような、追い込まれるような、行為。
「…確かにこれは少々辛い」耳元で、微かに笑みを含んだ声が言った。「ゴム付けるべきでしたねえ。効きます。あなたと私と、どちらに強く効くのかな」
「は…、」
「先生、動いて。痒いんでしょう? 沢山掻いていいですよ」
「ウ、あ…!」
 掴まれた腰を上下に動かされ、硬い性器でずるずると内部を擦り上げられて思わずぎゅっと締め上げた。そこへ更に捻り込まれて身体中に震えが走った。
 刺激されれば刺激されるだけ、もっと乱暴に、血の滲むほど強く掻き乱して欲しくなる、たちの悪い快楽と乾きに頭を支配される。
 最初は彼の手で強引に、しかし次第に自分から淫らがましく腰を振っていた。結合する部分から洩れるいやらしい音は、もうその頃になっては熱を孕んだ意識を煽るだけだった。
 少し腰の位置をずらすと、彼の性器の先端が内部の最も弱い部分にあたる。熟れて爛れた肉を擦られる快感と、抉られる快感。途切れ途切れに喘ぎを洩らしながら、その位置で腰を揺らす。
 彼はベッドヘッドに凭れたまま、動きを合わせるように下から丹念に突き上げてきた。
「ねえ先生、見てご覧なさい。とても綺麗ですよ」
「…ん、」
「窓ガラスに映るんです。私に跨って腰を振っているあなたは、とても健気で、綺麗です」
「い…や、だ…」
 言われるままに目をやってしまい、慌てて顔を背けたが、一瞬でその光景は脳裏に焼き付いた。美しい、真っ白い男の腰に乗り、肩に縋って悦楽を貪る男の姿。
 あさましい。
「そんな顔をしなくても」優しく髪を引き、顔を覗き込んできながら彼が言った。咄嗟に目を閉じたから表情は見えなかったが、どうせ例の如く感情のない笑みだろう。「恥ずかしいんですか? ガラスの中のあなたと私は、まるで恋人同士のようですよ。ベッドの上で愛し合っている」
「…め、ろ」
「実際にはどうなんでしょうね、愛し合っているのだと思いますか?」
「…、」
「ねえ先生、口付けをしてもいいですか?」
 彼を根本まで咥え込んだところで動きが止まってしまっていた身体に、びくんと震えが走った。薄く瞼を開くと、淡い色をした右の瞳と視線が合った。
 サファイアの左眼は髪に隠れている。
 そうか、使い分けているのかとぼんやり思う。
 意図的に堕とすときには、見せる。そうでないときは。
「…駄目、だ」
 だったら頷いてはいけない。
 蕩けた声での拒絶に、彼は少し目を細めた。本当は、拒絶することが何故必要なのかよく判らなかった。
 それでもきっと、許した途端にこの男はふいと顔を背けてしまうのではないかと、自分に向いているその僅かばかりの興味さえなくしてしまうのではないかと、そんなことを思いもする。
 強引に奪えばいいのにとも思う。そうして訊ねられたら永遠に、頷くことなどできやしない。
「…ほんとうに強情だ。仕方ないですねえ」
 わざとらしい溜息を吐いてから、彼は両腕を身体に絡ませてきた。繋がっていた腰をぐいと押し上げられ、太い性器が抜け出る感触に思わず鋭い吐息が洩れる。
 そのまま、ガラスと向き合うように横向きにシーツに押し付けられた。抗おうとするよりも早く、背中に沿うように彼が後ろから覆い被さった。
 逞しい腕に、片脚を持ち上げられ、大きく開かされる。反射的に逃げようとはしたが、快楽を溜め込んだ身体は少しも思い通りにはならず、その体勢で、中途半端に昂っていたひくつく後孔へ、一気に性器を沈められた。
「ああ!」
「よく見てください」
 腰を使いながら、彼が首筋に低く囁いた。先程までの自分の動きとは明らかに違うペースで、深く、激しく突き上げられて、唇から悲鳴のような声が散った。
 求めていた通りに熱を帯びた内壁を掻き回されて、身体の奥深くから燃えるような波が押し寄せる。
「ン、ア、アア」
「私に抱かれて、あなたはとても嬉しそうだ。ほら、今にも弾けそう。私のことが好きでなければ、こんなふうになりませんよね?」
「…キ、リコ…ッ、ア」
「認めておしまいなさい。あなたは私が好きでたまらないんですよ。あなたと私は今、愛し合っているんですよ」
「イヤ…、あ!」
 夜のガラスを鏡にしてくっきりと映る、違う色の肌、さらけ出された秘所と食い込む肉、それから、サファイアの目。
 叩き込まれる刺激を、シーツを握りしめて必死に受け止める。好きでたまらない? 愛し合って? ぬかせ、おまえは、私のことなんて。
 ガラスで見詰めてくる彼を潤んだ目で睨み付ける。おまえは、私のことなんて、愛していないじゃないか。





 違う体位で、二度注ぎ込まれた。
 初めて身体を重ねたときは中に出さなかったので、そういう男なのかと思っていたが、全く違かったらしい。あれは単に車の中だったからか。
 出していいですか、ではなくて、出しますよ、と言った。
 少し抗って見せたが、それがきちんと伝わっていたのかはあやしいところだ。多分快楽に身悶えたとしか、或いはよくても動揺したくらいにしか思われなかったろう。
 男に体内で射精されると、完全に支配された気分になるから、困る。
 自分が何度達したのかはもう覚えていないが、少なくとも彼がいくときには同時に果てた。余韻に沈む暇もなく身体をひっくり返され、びくびくと痙攣して彼の放った精液を溢れ出させている後孔に、すぐに猛ったものを突き込まれた。
 鮮烈だけれど淡白、片手で昂らせたらさっさと片付けてあっさりさようなら、狭い車の後部座席で抱かれたときに勝手に感じたイメージをそれこそあっさり裏切って、彼は充分に執拗な、いやらしい、じっくりと獲物を捏ね回すようなセックスをした。きっと相手が違えば際限なくやっているのだろうが、こちらが白旗を揚げたので、じゃあ二回で許してあげましょうというくらいののりだった。
 腹が立つ。
 快楽を貪った直後の、くたくたに疲れ果てて抵抗もできない身体を抱き上げられて、バスルームに運ばれた。
 バスタブの縁に座らされたその前に、彼が片膝を付いた。
「…よせ」
「ジェル、放っておいたらいつまでも痒いんじゃないですか? そもそも出したものは自分で片付けるのが礼儀だと思いますが」
「…中で出さなければいいんじゃないか」
「出して欲しそうな顔をしていたんですよ、あなた」
「…一度死ね」
「まあそのうちね、一度は死にます」
 サファイアの嵌った左眼は、髪に隠れている。
 彼の長い指が遠慮なく後孔に触れ、中に滑り込んだ。
「ッ、」
 決して愛撫の手付きではなかったのに、条件反射のように肌が震えた。後ろに引っくり返りそうになる腕を掴まれ、彼の肩に導かれた。
「いい子だから。ここに手を付いて、我慢してなさい」
「…、」
 腹が立つ。ああ、腹が立つ。
 彼は、二本の指で丁寧に、塗り込んだゲルと注いだ精液を掻き出した。綺麗に筋肉の付いた彼の肩に爪を立てて、ブラック・ジャックはその指の動きを許した。わざとなのかそうでないのか、時々弱い部分を指先が掠める。
 傷ひとつない彼の肌に、自分の付けた爪の跡が永遠に残ればいいのにと、頭の片隅で思う。
「私が言った通りでしょう?」散々射精したはずなのに、後ろの処理をされるだけで勃起してしまった性器を見ながら、彼がほんの僅かに楽しそうな声で言った。「次に会うときは他の男のことなど忘れるってね。少なくとも私に抱かれている間は、あなたは他の男のことは思い出さなかったようですから」
「…」
「この次に抱き合うときには、永遠に忘れますね。誰かと並べられてそこに収まるような男ではないんですよ、私」
「…次なんて、あるか」
 他の男、か。
 よく判らない。ただ他の誰に抱かれても、こんなふうに、切迫はしない。
 なんて、考えているなんて知ったらどう思う。例えば、あの男は。
 結局彼のてのひらにもう一度達して、今度こそまともに足も立たない身体を、まさに頭の先からつま先まで丹念に清められた。ボディシャンプーを泡立てた他人の手で肌を擦られるのは単純に気持ちはよかったが、この男にこうも丁重に扱われると、何だか薄気味悪かった。
 温めの湯を溜め直したバスタブに胸まで沈められ、ぼんやりと、シャワーの下で身体を流す彼を眺めた。
 髪の長い人間が、髪を洗う、その姿は妙に色っぽいなとどうでもいいことを考えた。
 両方のてのひらを擦り合わせて、毛先までシャンプーを泡立てる。少し顔を仰のかせて泡を流す。軽く絞るように水分を切る。濡れた銀色の髪が、ライトを青く跳ね返して、とても綺麗。
「なにを見とれているんです?」
「…だれがおまえに見とれるか」
 顔を右半分だけ振り向けて、彼がにやりと笑った。溜息をついて視線をそらせた。
 あ、サファイアの目を、隠してる、と思った。
 身体を重ねる前と同じように優しくタオルで肌を拭かれ、さすがにもう抱き上げられるのは拒否した腰に、腕を絡められた。これも拒みたいところだが、ふらついて歩けないのだから仕方がない。
 シーツを変えた窓際のベッドに促された。寝酒に差し出されたウイスキーのグラスを一息に空け、身体を横たえると、隣に彼が滑り込んだ。
 左側に。普通男は相手の右側に寝たがる。
 隠しているのだ。
「…あっちにもベッドがあるだろう」
「つれない先生だ。一緒に眠りましょう、大丈夫ですよ、私寝相はいいんです」
「…私が悪いかもしれないじゃないか」
「ああ、別にいいですよ。蹴るなり殴るなり好きになさい」
 彼の右手がシーツの中を伸びてきて、左手を見付け出すと指を組み合わせるようにして握りしめてきた。だから、薄気味悪いんだ、そうやって扱われると。
 疲れ切った身体はすぐに眠りに落ちた。意識が途切れる直前に、彼の低い声が何かを言い、理解もしないまま首を横に振ると、瞼の上にひとつ穏やかな口付けが落ちた。







 ガラス越しに太陽の光を浴びせられ、ブラック・ジャックが目を覚ましたときには、ドクター・キリコの姿はもうなかった。
 何かしらの眠剤を使われたことは、不自然な寝起きの悪さですぐに判った。あのウイスキーか。
 低く呻きながら見やったチェストの上に、一枚のメモ。
 仕事をしてきます、と、それだけ書かれていた。
「…」
 ずきずきと痛む頭では、咄嗟に理解できなかった。
 なんだ? 計算だったのか? 何処からが計算だった? 何処からが足止めのための芝居だった?
 まさか、ライフルを向けられた、あのライフルまで彼の計算。
 壁のない家、素通しのキッチンテーブルの上に、何か食事が用意してある。コーヒーメーカーには六分目くらいまでコーヒーが。
 気怠い身体を再度、背中からぱたりとシーツに落として、ブラック・ジャックは眩しい窓に視線を投げた。彼の作った朝食を食べたら、コーヒーを二杯飲んで、クローゼットから誰かの服を盗んで、一面のガラスの向こうに広がる、海にでも行こうかな、と思った。
 綺麗な青、まるで、サファイアみたい。
 きらきら、きらきら。
 波を蹴散らしてまっすぐ歩いて、何処までも何処までも歩いて、そのまま、沈んでしまえ。



(了)