嗜虐

 こんな夜、寝苦しい夜には、残酷な気分が知らず沸き上がり、腹の中で虫のように、のろりと蠢く。
 その感触は、大層気持ちが悪い。
 私は気が触れているだろうか、それならそれで良い、理論には全く破綻はないのに、この鬱陶しい矛盾、私が生きている限り。ならば気も触れていたほうが、生きやすいには違いない。
 最初から気が触れていたならば、暑苦しい矛盾など、塵芥みたいなものだろう。
 残酷な気分、それは、美しいものをぐちゃぐちゃに穢したい気分。
 そう、美しいものを。
 例えば彼を。
 真夜中、電話で呼びつける。もう眠っている? 子供もいる? 知るか、遠慮などは勿論しない。
 電話口の向こう、彼は殆ど無言だが、一時間も待てば私の家にやってくる、しかもきちんと準備をしてくる、私に穢される準備を。
 怪我を負った猫のように過敏で攻撃的なのに、あの男は、口汚くとも私には従順なのだ。自覚があるのか無いのか、おそらく私に惚れているのだろう、まるで馬鹿げた話。
 バスローブを引っかけ、リビングでウオッカを呷っていると、鍵は掛けていない玄関のドアが開く、控えめな音がした。
 酔えない酒を空にして、背中で待つ。ゆっくりとした足音が、リビングに近付き、入り口で立ち止まった。
 無言。微かに、彼の香り、血の匂い。
「呼ばれてのこのこ来るなんて、馬鹿じゃないの? ブラック・ジャック先生」
 グラスをテーブルに置き、ソファから立ち上がる、その私の肩に、背に、縋るような絡み付くような、責めるような、眼差しを感じた、痛いほどに。
 振り向くと、一瞬の間も置かず、彼と目が合った。彼ははっと視線を外そうとしたが、思い直したのかすぐに、突き刺さるような目付きで、私を真っ直ぐに睨み付けてきた。
 冷淡だとか言われているらしい。
 冷酷だとか、非情だとか。笑わせる、この男の何処が? こんなに暑苦しくて、判りやすくて、鬱陶しくて、揺れる赤い瞳、実に可愛らしい、全く愉快、この男の何処が。
 彼の本当の姿を知っている人間は、さて、何人いるのだろう? そんなことを考えると、私は愉しくて愉しくてしようがなくなる、もっともっと酷いことをしてやりたくて。
 歩み寄ると彼は、無言でびくりと身体を震わせ、怯えた。構わずにその腕を取り、スーツを着たままの彼を、バスルームに連れ込んだ。
 彼が戸惑っている間に、ドアを閉め、自分の背で塞ぐ。シャワーヘッドを手にし、火傷はしない程度に熱くした湯を、着衣のままの彼に、いきなり浴びせかける。
「ッ、キリコ…!」
 彼は右腕で、咄嗟に目のあたりを庇って、思わずというように声を上げた。やっと喋った、今宵初めて、この鳴かない捨て猫め。
 バスルームに湯気が立ちこめる。髪からスーツから、びしょ濡れになった彼の姿が、えらく滑稽で私は、声を出して笑った。
「は! いい格好だ、馬鹿みたいにおれに従うからだ、全くおまえは馬鹿だ」
「…」
「おれがおまえを呼ぶときが、どんなときかは知っているだろう? 苛ついているんだ、誰かを痛め付けたい気分だ。おまえは自ら犠牲になりに来たのか、虐げられるのが好きか? 生け贄気取りか、何故」
「…おれが、」
 彼は、浴びせられたシャワーの湯に軽く噎せてから、乱暴に頬をてのひらで拭いて言った。濡れた髪が額に、首筋に貼り付いて、妙に色っぽく見えた。
 ぞくり、腹の中に巣くう虫が蠢く。
 私のこの厄介な衝動は、幾夜を越えれば消えてくれるのだろう。
「おれが来なけりゃ、他の誰かを呼ぶんだろう、キリコ。おれは、だから来ただけだ。別に、苛ついているおまえの生け贄だとかになるつもりはないし、虐げられるのも好きじゃない」
「ふうん? おれが、他の誰かを呼ぶのは厭なの?」
「…厭だよ、何となく」
「はは!」
 漸く聞いた、彼の声に、私は再び笑った。
 救うのは自分だって? こんな夜に、傍にいるのは自分だって? 愉快だ、なんて可愛らしい、この男の何処が、冷淡で冷酷で非情だというのか?
 ならば精々この気高き子猫ちゃんに、私に影なす苛立ちを薄めてもらおう。
 苛立ち。高潔なものをこの手で握り潰したいという、薄汚い欲望。
 酷いことをしたい、苦しむ顔が、傷付く姿が見たい。
 虫。
 この虫が。
「…獲物が欲しいって、言うんだよ」
「…」
 シャワーを出しっ放しのバスルームは、酷い湿気、蒸し暑くて仕方がない。腹の中で蠢く嗜虐が、益々存在を色濃くする。
 私の呟きに、彼は眉を顰め、意味が判らないというように私をじろりと見た。私はにっこりと笑って、彼のその眼差しを無視し、無造作に彼に手を伸ばした。
「おい、キリコ…、」
 不意に迫った私の手に、彼は反射的にか軽く抗った。間髪入れず、その頬を拳で殴った、今更遠慮などはない。
 彼はよろめき、バスルームの壁に倒れかかった。支えもせずにリボンタイに指をかけると、顔を歪めながらも、今度ははっきりと意志で、彼は私の手を押し返した。
 腹が立つ。
 いや、それでいい。
 もう一度にっこりと笑って見せて、その表情のまま、彼の胃のあたりに思い切り右膝を入れた。私がそこまですると思わなかったのかどうなのか、彼は吃驚したように目を見開いて私を凝視すると、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
 動物のように蹲り、タイルに胃液を吐いている。
 見苦しい、みっともない、惨めだ、素晴らしい。
 出しっ放しだったシャワーヘッドをフックから手に取り、背を丸めている彼の上から、熱い湯を再度浴びせかけた。彼は胃液を垂らしながら、呻き、咳き込み、シャワーの隙間、懸命に空気を貪った。
 湯気が立ち上り、自分の肌にも水滴が付く。鬱陶しい、暑苦しい、まるでこの男そのものだ。
 そして私はと言えば、腹の中の虫は熱いのに、頭はいやに冷めていて、気持ちが悪い。
 誰かが今の私を観たら、どんな男に見えるだろう?
「いいザマだ」
 服も髪もずぶ濡れ、俯いて、胸を喘がせている彼のその背中を、スリッパのまま右足で踏み付けた。
「は…ッ」
「判っていたんじゃないの? おれは今夜、苛々して苛々してしようがないんだよ。生け贄が必要なんだ、おまえが生け贄になってくれるんだろう? 他のやつを呼ぶよりはいいんだよな?」
「キリコ…ッ」
「酷いことをしたいんだ、暴力で屈服させて、無理矢理犯したいんだ、相手してくれるよね? だっておまえ、おれが他のやつを呼ぶの、厭なんだもんな?」
「だから、おれは、」
「おれの望みなんて、それだけだよ、それ以外じゃないよ、先生」
 濡れたスーツの背中を踏み付けた足に、力を込める。背骨を砕くように、強く、じっくりと。
 彼は潰れた蛙みたいに、べたりとタイルに這いつくばると、自分が吐いた胃液で頬を汚し、これ以上はなく屈辱的な声で、低く呻いた。
 ああ、素晴らしい、大したものだ。
 この供物、私の腹に巣くう虫には相応しいか?






 出しっ放しのシャワーのせいで、呼吸がし辛いほどに暑苦しい。
 狭い密室にふたりきり、私たちは飽きもせず、また不毛な行為に溺れている。
 不毛な暴力、不毛なセックス、不毛、不毛、不毛。私を彩る残酷な衝動も、いずれ不毛、意味もなければ何もない。
 ねえ、この矛盾を、綺麗に消し去る金属製の人間になれたのなら、私も彼もこんな思いをしなくて済むのかしら。
 でも駄目だ。私は金属ではない、残念ながら血と肉で出来ている。
 理屈と感情は一致しない。矛盾はこびりついて離れない。腹の中でのろりと蠢く、虫を生み出す気持ちの悪い、ずれ、が。
 彼を穢せと私を唆す。
 蹲った彼の濡れた髪を掴み、顔を上げさせた。苦痛と汚辱に歪む彼の表情を目にして、勝手に口の端が引き攣れてしまう、どうしてこの男はこうも、私の望む通りの顔をしてくれるのだろう。
 プライドの高い黒猫、力で押さえつけられて、悔しそうに。
 たっぷり眺めて堪能してから、胃液に塗れた唇を指でこじ開けた。
「は…、」
「しゃぶってよ、おまえ、好きでしょ」
「…こんなやり方は、好きじゃない」
「いいから、従え。歯を立てたら酷いぜ」
「ウ、」
 こじ開けた唇に、服から掴み出した性器を押し込んだ。反応している自分が可笑しくて少し笑ってしまう。暴力に感じるのか、私は。
 彼は、目を瞑り、眉を顰め、私のバスローブを掻き毟りながら、私の性器を何とか咥えていた。
 太くて先を飲み込むだけが精一杯、濡れた髪から滴る雫に、唇から垂れる唾液が混ざる。
 なんて背徳的な眺め。こんなことをされても、そしてあんな顔をして見せても、おまえは私から逃げ出さないのか。
 いつまで経っても慣れない舌が、おずおずと絡み付くのを感じながら、見下ろす彼は確かに生け贄じみている。殴られた頬を赤く腫らし、無意識にか蹴られた腹を庇い、それでも私の性器を懸命にしゃぶる。何が彼にここまでさせるのか?
 そうだ、私は知っている、何故なのか、それは自覚があるのか無いのか、彼がおそらく私に惚れているからなのだろう、まるで馬鹿げた話。
 彼の目には私はどう映るのか。
 最期の救いに見えるだろうか。
 私が配って歩くのは、死、死、死、のみだ、救いなどではありはしない。彼は見極められているのか。
 見極められているはずがないか、判っていないからこそ彼は今ここで、こうして私に陵辱されている。私が神聖なる死神だと勘違いして。
 ああ、また、ずれ、が。矛盾、が。
「…クソ」
 気が済むまで彼の口腔を犯したあと、その唇から性器を抜き取り、髪を掴んでいた手でそのまま彼を引きずった。フックに掛けたシャワーの真下で、顔をタイル張りの壁に押し付け、頸を捩って何とか呼吸を確保する彼のスーツから、ベルトを抜く。
「キリコ…、熱い、苦しい」
「ああ、おれも熱いよ。いいんじゃねえ? 正気も飛んで」
 両腕でタイルに縋り、腰を突き出した格好の彼から、下着ごと服を引き下ろした。剥き出しにした尻に、バスタブの傍に転がっていたバスオイルを塗りたくる。途端に、フランキンセンスのきつい香りが上り立ち、酔いそうになる、益々正気が遠のくような。
 馬鹿げている。馬鹿げている。助けて欲しいなどとは思わないが。
 気が触れていたほうが余程いい、確かにその通りだろう、しかし、それならばこの男はどうなるのか、この、可哀想なかたわの猫は。
 片方の腕を私だと思っていやしないか?
 私はただの災い、私はただの害、私はただの罪悪、片方の腕になるどころか、泥沼から手を伸ばして、足を引くくらいしかできやしない。
 それなのに。
 左手で彼の顔をタイルに押し付けたまま、オイル塗れの右手の指で適当に肛門を拡げ、勃起している性器を殆どいきなり突っ込んだ。
「力抜け、切れるぜ」
「そ、な、アア!」
 強引に繋がる部分から、めりめりと肉が裂けるような、厭な感触が伝わる。それでも、私に慣れた彼の尻は、抵抗も出来ずに、健気に私の性器を飲み込んでいった。
 ゆっくりと根本まで押し入れて、完全に埋めた位置で揺すり上げる。いいようにされているはずなのに、そこだけ見える頬は屈辱に震えているのに、彼の性器もまた、私と同じように勃起していた。笑わせる。
 私にこうされて、嬉しいか、これが歓びか?
「はあ…、キリ、コ…ッ」
「気持ちいいんだろう? ああ、ああ、判っているよ、いっぱい擦ってやるから、いい声で鳴け、子猫ちゃん」
「やめ、ろ、ああッ、あ」
 右手で彼の尻を鷲掴み、特に焦らしも遊びもせず、自分の欲望を満たすことだけを考えて、直線的に腰を使った。突き、引き抜き、突く。抉り上げる。
 快楽はあった、確かに、快楽は。
 だが、それだけだ。
 首を擡げた嗜虐、腹の中に蠢く虫は、殴っても、蹴っても、犯しても、ちっとも満足しやしない。
 したいようにした、したいようにしている、これ以外の方法を知らない、なのに、どうにもならない、私は、どうしたら。
「も、無理、だ、もう」
 暫く同じ動きを繰り返していると、縋ったタイルを引っ掻きながら、上擦ったような声で彼が言った。初めてさらりと触れた彼の性器は、限界のようだった。
 たとえ偽物の屈服でも、その一時は心地よい。勝手に笑みを浮かべる唇で、精々優しくいやらしく囁く。
「ああ、いくぜ、おまえの中にたっぷり出してやる、嬉しいだろう、おまえもいけよ、先生?」
「アアアッ、いく、いっちまう…ッ」
「熱いな…おまえは」
 最奥まで突き込んで、包み込む彼の肉に射精した。彼は切れ切れの声を洩らしながら、私が彼の中で欲を放つのと同時に達した。
 一瞬だけの開放感。
 私も彼も何もかも、ひとつも変わっていないのに。
「は、あ」
 バスルームに、彼の荒い呼吸が反響する。フランキンセンスの香りと、雄の匂いが混じって、蒸し暑い密室は更に不快な空間になる。
 何が悪いのだろう、何もかも私が悪いのだろう、矛盾を飼い慣らせない私が、あるいは、矛盾など無くしてしまえない私が。
 残酷な気分が沸き上がり、腹の中で虫のように、のろりと蠢く、こんな夜。
 私は気が触れているだろうか、気も触れていたほうが、生きやすいには違いないか、最初から気が触れていたならば、暑苦しい矛盾など、塵芥みたいなものか?
 馬鹿を言え、私は知っている、私は正気だ、誰よりも何よりも正気だ、だからこんなにも、苦しくて、苦しくて、息苦しくて、そう、矛盾、ずれ、虫、虫が。
 いっそ逃げ出してしまえたら。
 馬鹿を言え、私は知っている、私には出来ない、それだけは。
 いっそ愛してしまえたら。
 馬鹿を言え、私は知っている、私には出来ない、それだけは。
 タイルにへばりつき、まだ荒い呼吸を貪っている彼の身体から、びしょ濡れのスーツをやや乱暴な手付きで引きはがした。何か言いたげな彼を無言で振り切り、ひとり残してバスルームを出る。着替えを用意してやらないと。
 私は自室に向かいながら、濡れた彼の服を知らず強く、握り締めている自分に気付いた。反吐が出る。縋っている? 馬鹿な、気味が悪い。私は決して、決して縋ってなど。
 寝苦しい夜に、蠢く嗜虐を宥めただけ、求めていない、探していない、決して、決して救いなど。
 遠い幻聴、合わせ鏡の幻覚、私はまだ耐えられる、そして死ぬまで耐えられる。湿った髪を指で梳き、小さな苦笑をひとつ、取り戻せ、取り戻せ、私は情のない死神、呟きながら手をかけた部屋のドアを、勢いよく開けた。



(了)