潮騒

 冴えた空気に、気味が悪いほど月が白い。
 砂浜と海水の境界を越えて、足を踏み出す。夜の海はコールタールみたいに黒い。刺すように冷たい海を、真っ直ぐ、あの月まで歩いたら、少しはこの痛みも和らぐのだろうか?
 私のこの、血に薄汚れた両手も、綺麗になるのだろうか?
 後ろで彼が、私を見ていることは知っている。止めるのか。放っておくのか。呆れて笑うのか。
 どうでもいい、ただ、背は向けないでくれ。私のこの痛みが判るのは、きっとおまえだけ。
「なにやっているの、ブラック・ジャック先生」遠い背後から、低いくせに良く通る、彼の声が聞こえた。「この季節に海水浴とは物好きだな、寒いだろう。しかも服を着たまま」
「煩い。構うな、キリコ。どこかに行っちまえ」
「死ぬ気なのか?」
「おまえには関係ない」
 構うな、関係ない、か。
 こんなに全身で構ってくれと言っているのに、私は。
 潮の匂い。膝の上まで打ち付ける波。身体が芯まで冷え切って、もう震えも感じない。
 海は母だと誰かが言った。生物は総て海から生まれ出でた。ならばこの身体をどうか溶かしてくれまいか、まるで羊水のように、深く深く沈むまで、何処までも歩いて行くから。
 感傷。
 感傷だ。
 私は弱い。
 幾夜幾夜の誘惑、それでも、本気で死ぬ気などないくせに。
 ああ、けれど今夜は、今夜だけは、この痛みにひとりでは堪え切れそうにないから。
「手間のかかるやつだな」という声が聞こえ、背後に彼が近づいてくる気配がした。海水を踏む水の音。彼は歩幅が憎たらしいほど大きい。胸のあたりまで水面が来ている私の腕を、彼が掴むまでにはそれほど時間はかからなかった。
 この男は、甘い、反吐が出そうなほど。
 ちらつかせた傷に、躊躇いなく手を伸ばす。そうして欲しいと態度で示せば、癒しも抉りもする。
 強いのだろうと思う。この男は、強い、憎たらしいほど。
「放せ」
「別にいいけどね、このまま海の藻屑と消えられたら、少々寝覚めが悪い」
「…大して気にもしていないくせに」
「おれを冷血漢みたいに言うなよ」
「冷血漢じゃないか」
 背を向けたまま、顔も見ずに抗う。何故抗うのか? 決まっている、止めて欲しいから、抗いを封じて欲しいから、私を救って欲しいから。
 それが出来るのは、彼だけだ。死神の化身、殺し屋、人殺し。
 決して揺らがない、立ち位置、真理、信念、それが少し妬ましく、羨ましい。
「…こんなところまで追いかけてきて。ずぶ濡れだろう。キリコ、おまえ、どうやって帰るんだ?」
 大きな手に掴まれた腕が、冷えた身体に仄かに温かかった。そして、その力強さが、痛かった。
「おまえをここから引きずり戻して、どこかに宿でも取ろうかね」
「おれはあの月まで歩くんだ。海の中を歩くんだ。あの場所に行きたいんだ。邪魔しないでくれ」
「歩いてどうなるの」
「生まれ変わるんだよ、何か綺麗なものになるんだよ。おれはもう疲れた」
「ふうん。甘ちゃんだなあ、先生は」
 揶揄を含んだ声が、すぐ傍に聞こえた。と、思ったら、腕を引かれて振り返らせられ、後ろ髪を掴まれた。
 一瞬、口付けをされるのかと思ったが、勿論そんなことはなかった。そのまま乱暴に、髪を掴んだ手に、頭を海水へ沈められた。
 予期していなかった彼の行動に、怒りよりも驚きが勝る。咄嗟に息を止めることも出来ず、私は海水の中で噎せ返った。
 平衡感覚がなくなる。目と鼻と喉が痛い。暗い海の中、無意識に藻掻く身体、上も下も判らず、腕を掴む彼の手がなければ、溺れていただろう。
 酷い耳鳴りがした。
 いいだけ海水を飲み込んだところで、いったん顔を上げさせられる。空気を貪りながらも、げほげほと咳き込む私に構わず、彼は再度、髪を掴んだ手で、頭を海に沈めてくる。
「何も、あそこまで歩かなくたって、ここで好きなだけ溺れればいいじゃないか。手伝ってやるよ。さあ、満足かい、ブラック・ジャック先生?」
 繰り返される行為に朦朧となる、淡々と言われる彼の声は、遠くに聞こえた。
 掴まれた髪が痛い。指の食い込む腕が痛い。痛い痛い痛い。見開いた目から流れる生理的な涙が、冷たい海水に溶けた。
 そうだ、手酷く扱われたいんだ、意識が霞むほど。彼は私のして欲しいことを良く知っている、そう、滲んだ思考の片隅で思う。
 痛みを忘れる痛みが欲しい、痛みを塗り替える痛みが欲しい、それが彼の手によるものならばいい、どうか、どうか、私のことなど、塵芥のように乱暴に。
「は、あ」
「こいよ、溺死遊びも気がすんだろう?」
 散々海水を飲ませた後、彼は、ぐったりと冷えた私の身体を片腕で支え、波打ち際に引き返した。このまま近場の宿にでも放り込まれるのだろうと思っていたら、腰が海水につかるくらいの海の中で、彼は不意に、ぴたりと立ち止まった。
「そうだ、ここでやろう。何だか滾っちまったよ」
「…ッ?」
「死ぬ気だったんだろう? いいよな、何されたって」
「おい、キリコ…」
 彼の両手が私の服に伸び、海水の中でベルトを外すのが判った。私は焦って抵抗したが、所詮力で敵う相手ではない。
 滾った? 滾っただって? 私に乱暴をして?
「寒いだろう? いい子にしていれば、すぐに終わる。ぐだぐだしていると溺死じゃなくて、体温低下で死ぬんじゃない」
「この…ッ、変態、サディスト…!」
「そうだよ。変態だよ。傷心の先生様を見かけると、何故かやりたくなるんだよ」
「畜生…、」
 濡れた髪から滴る海水で、目が痛い。薄く瞼を開けた視界に、白い月を背景にして、銀色の死神が笑っていた。
 今夜、この海の中、その姿を初めて見た。いつもの如くのダークスーツは、胸あたりまで濡れて色が濃い。煌めく長髪、薄い唇に、淡い色の瞳に、皮肉な笑み。
 ああ、おれはこの男に、何処まで惚れているのだろう、そう思う。
 この男が悪い、この男は、甘いんだ、反吐が出そうなほど。






 何をしたって無駄だ、それは判っている。
 この痛みが消えることはないし、この血で汚れた両手が清められることもない。
 ただ、あの月があまりにも、玲瓏で美しいから。
 ただ、この海があまりにも、澱んで暗く黒いから。
 歩けるんじゃないかと思った、こんな夜ならば、或いは。卑怯だね。この男が、必ず私のあとを追いかけると知っていて。
「キリコ…ッ」
「煩いな。抵抗すると、また海水飲むはめになるよ」
 海の中で服を下着ごと下ろされる。剥き出しの肌はもう冷たさも感じない。無駄だと知っていながらも、悪態を吐こうとした唇に、彼が乱暴に咬み付いた。
「う…」
 彼の口付けは獣のようで、僅かに血の味がした。舌を絡め取られ、咬まれ、唾液を啜られる。
 その間にも、彼の手は私の濡れた身体中を、器用に這い回った。濡れた服越し、彼の大きなてのひらの、生々しい動きが私を震わせた。
 やりたい放題、海水を飲まされた唇に、血液混じりの彼の唾液が甘い。
「はっ、」
 彼の手が性器を掴み、ゆるゆるとしごかれた。その感触で、私は冷たい海水の中、自分が反応していることに気が付いた。畜生め。
 彼は唇を離すと、うっすらと笑い、強い力で私の身体を反転させた。
「こんな場所でも勃つんだね、先生。ひとのことを変態だ何だと笑えないんじゃないの」
「おまえが…おまえが悪い…」
「おれが悪い? おれに触られると勃っちまうのかい? おまえは相変わらず、おれが好きで好きでしようがないんだなあ」
「死ね…ッ、この、色キチガイ」
「だから、勃ってる野郎が何毒づいたって無駄だっての」
 好きで好きでしようがない。
 その通りなんだろうと思う。
 私は、彼が好きで好きでしようがないのだろう、憎たらしいまでに好きなのだろう、弱さを見せつけて伸ばされる腕を待つくらいに、腕が伸ばされると、心の底から信じ切るくらいに。
 彼に背を向けた身体を、折り曲げさせられる。海水に浸る尻を探られて、鳥肌が立つ。
「力抜いて、おまえ、いつもきついんだから。優しくなんてしてやらないぜ、死にたがりな男になんか」
「あ!」
 彼は指を無造作にその場所に入れ、じりじりと入り口を拡げはじめた。潤滑剤などない、しかも海の中、私は彼に尻を突き出し、目をきつく閉じてただ耐えた。
 凍えそうに冷えていた身体に、灯がともる。
 さあ、痛みは消えるのか。
 この月夜、海の中、男ふたりで接触して、茶番、グロテスクな喜劇、私の痛みは果たして消えるのか、消えたのか?
 指で尻を拡げてしまうと、彼は背後でベルトを外し、いきり立った性器を私の肛門に押し付けた。
「入るぜ」
「やめ…」
 彼は一切の遠慮もなく、じりじりと性器を私の中に沈めてきた。海水がちくりと沁みて、その場所が切れたのが判った。
「…ッ、痛い、」
「そのくらいがいいんじゃないの?」
 先程、厭というほど飲み込んだ海水が、胃液と混じって食道をこみ上げた。それをだらだらと唇から溢しながら、切れ切れに言った私の頭上で彼は、いつもの如く揶揄混じりの声で答えた。
 憎たらしい。
「だっておまえ、死にたくなるほど痛いんだろう? だったら、もっと痛くなくちゃ駄目なんだろう? 痛くて、痛くて、気持ち悪いのと気持ち良いのの境目みたいなのがいいんだろう? だったらそうしてやるよ、先生、おれはおまえに甘いんだ」
「…クソ」
 ああ、憎たらしいよ。
 暫く深い位置で、私が慣れるのを待ったあと、彼は海水の中で、腰を使い始めた。ずるずると往復する太い男根に、私は無意識に呻いた。その慣れた感触と、海水の違和感は、私に紛れもない快楽をもたらした。
 暗い海、空には白い月、満ち引きする海の音も何処か遠い。
「あッ、キリコ、駄目だ、早い…」
「早くていいよ、いけよ」
 膝が崩れかける度に、彼が腰を掴んで私を支えた。絶頂までの時間はそれほどかからなかった。潮の匂い、ちりちりとした痛みに呷られながら、私は海の中に精液を吐き出した。彼はそのすぐ後に、私の奥深くへ注ぎ込んだ。
「く…、ウ、」
 身体中の肌という肌が粟立つ。他の感覚が消えていく。
 確かに、今この瞬間、私の世界は私と彼のふたりだけ。
 痛みもない。哀しみもない。苦しみもない。何もない。
 うまく息も出来ない私を振り向かせ、彼は私の服を直した。とはいえふたりともずぶ濡れで、みっともないことに変わりはしないが。
 それから彼は私を抱き上げて、今度こそ砂浜に向かった。
 潮騒、月明かり、ああ、私はこの海に沈んでいけるはずだったのに。
 はずだったのに? 後ろに彼がいるのを知りながら?
「まだ、あの場所に行きたいかい、先生?」
 抱き上げた私の顔も見ずに、彼は言った。
「何か綺麗なものに生まれ変わりたいかい?」
「…」
 私は答えずに、僅かに彼に縋る腕に力を込めた。生きる手触り、温度、音、誰かの鼓動。私のいるべき場所は、きっと。



(了)