スレイヴ

 どうすれば彼は、私のものになるのだろう、と。
 毎日のように、ただ、考えた。とりとめもなく。
 あの美しい魂が、私のものになるのなら、私は他に何も要らない、この命さえも。
 どうすれば。
「どうすれば、おまえはおれのものになるんだ?」
「おまえのもの?」
 訊くと、彼は嬉しそうに笑い、それから、哀れな乞食でも見るような目付きで、私を見たものだ。
「私は誰のものにもならないよ、キリコ先生。私は私のものだ。第一、私を自分のものにしようなんて、おまえでは少々力不足だな」
「ブラック・ジャック」
「まあ、おまえが私のものになりたいというのなら、考えてやっても良いが?」
「…愛していても?」
「愛、か」
 く、く、と笑い、おまえのそれは愛ではないよ、と言う。そうかも知れない、と思う。自分のものにしたいなどと思っているうちは。
 ああ、でも、この手の中にしまっておきたいのだ。繊細で優雅な蝶を閉じ込めるように。一生傍にいて、彼が死ぬときにはこの指で優しく眠らせて。
 たとえ、愛情でなくても。
 だから、どうすれば彼は、私のものになるのだろう、と。
 呆けたようにそればかり、ただ、考えている。とりとめもなく。
 欲のようでいて、欲とは少し違う。いや、結局は欲か。何をどうしたいというのではない、単純に、彼の存在を自分の意志の元に置いてしまいたい、自由を奪うつもりはない、彼が何処で何をしていようが構わない、それを、自分の意識の中に入れてしまいたいだけ。
 彼の息吹を感じていたい。
 この腕で感じていたい。
 願えば願うほど、私の手からするりとすり抜けていく、彼を、ただ。



「遊ぼうぜ、キリコ先生」
 かと思うと、こんな春の雨の夜、何があったのかびしょ濡れの姿で、不意に、私の元に現れる彼はたちが悪いと思う。本当に。
 自分が濡れるのも構わずに、慌てて引きずり込んだ玄関で、彼は、欲情でぎらついた目をして私を見ていた。軽く抱き寄せた身体は熱く、何処で何をしてきたのだか訊きたがる唇を噤むのが息苦しい。
「やりてエんだよ…。相手をしろよ。偶には私から誘ったって良いだろう?」
「…」
「何とか言え、犬。それとも私がおまえを選んだのが不服か」
「…好きだよ」
 犬、か。
 触れるだけの短い口付けをして、彼の身体を抱き上げた。当然、私の着ていたバスローブも彼のスーツと同じようにびしょ濡れになり、寝室まで濡れた足跡が点々と続いた。
 ほんの偶に、こういうことがある。欲だったり傷だったり、そんな生身の姿を晒してふらりと彼は私のところにやってくる。狡い。ああ、狡い男だ。私は抗う術も持たず、彼の意のままになるしかない、それこそ、犬のように。
 愛ではない。
 愛ではないのだと言う。
 その通りだと思う、では、恋か。
 私のものには決してならぬのに、私に弱みを見せつける、卑怯者め。
「脱げ。脱げ、キリコ」
 濡れたままの彼をベッドの上へ優しく落とすと、彼は、軽い口付けだけで色付いた唇に、ちらりと舌を這わせながら言った。
 無言のまま、私は従う。脱ぐと言ってもバスローブ一枚だからすぐだ。
「来い」
「…おまえも、脱げ。風邪をひくぜ、ブラック・ジャック先生」
「私が自ら脱ぐのを見るのと、私を脱がせるのとでは、どちらが興奮する?」
「…いいから脱げよ、おれとやりたいんだろう?」
 眉を顰めて言うと、ははっ、と投げやりに笑って、それから彼はさっさとスーツを脱いだ。何ひとつ思わせぶりな仕草がなかったので、かえって色気を感じた。シャツを剥ぎ取り、ベルトを抜く。濡れた髪が貼り付く首筋から鎖骨、肩が露わになる。
 全く躊躇せず、彼は下着ごとスーツから足を抜いた。確かに欲を示している股間を隠そうともしなかった。
 どうしたの、と、言いかけて、やめた。
 質問は許可されていない。
「来いよ」
「…」
 口を閉じたまま近付くと、ベッドに座った彼は、まだ反応していない私の性器に手を伸ばし、無造作に掴んだ。体勢を変えて顔を近づけ、握りしめたその先端を唇に含んだ。
 生温かい粘膜に包まれる感触に、洩れかける吐息を噛み殺す。湿った彼の髪に右手の指を差し入れ、角度を調節すると、彼は意外にも従順に従った。
「ん…う、は…ッ、あ」
 ぴちゃぴちゃという唾液の音と、彼の唇から零れる小さな喘ぎが、嫌でも私のスイッチを切り替える。ぞくりと背筋を愉悦が這う。いまなら。
 今なら、彼を私のものにできる。私だけで彼をいっぱいに出来る。私で彼を満たし、それ以外は考えられないようにしてやれる。
 私のものに、できるのだ。
 彼が時折見せる、隙、が、憎いと思う。例えば今夜のように。期待をさせるだけさせて、ひとときだけ夢を見させて、明日の朝目が覚めたら彼はきっと、私には目もくれずこの部屋を出て行くのだろう。
 ああ、ならば、今だけでも。
 今だけでもいいか、今だけでも彼が手に入るのならば、いいのか。
 このまま永遠に、この手に掴めぬよりは。
「ふ、んん…ッ、は…」
「もういいよ…先生」
 髪を掴んでいた手で股間から彼の頭を引き離し、唾液に濡れた彼の唇を指先で拭いてやる。私の性器は彼の行為で簡単に勃起し、早く彼が欲しいと脈打っていた。これは、彼が望み、彼が仕掛けたことだ、そして今宵のこれからも。
 私を見つめる彼の目が、挑発的にきらきらと光っている。
 綺麗だと思う、その赤い瞳が。泣くとき、笑うとき、怒るとき、そして身体を重ねるとき、どんなときでも彼の瞳はとても綺麗だ。
 瞼を啄むように口付けてから、私に奉仕する姿勢になっていた彼の身体を抱え上げ、ベッドに横たえた。体重をかけぬように覆い被さると、彼はその顔に満足そうな笑みを浮かべ、甘い吐息を洩らした。





 どうすれば彼は、私のものになるのだろう、と。
 毎日のように、ただ、考えた。とりとめもなく。
 あの魂が欲しいのだ、美しい魂が欲しいのだ、身体を繋げたいわけではない、それでは足りない、それだけでは足りないのだ。
 足りない、けれど。
 もうそうするしかない夜は、他に何をしろと言うんだ?
 一瞬の幻、一体になる錯覚、判っている、判っているが。
 薄い皮膚一枚、剥いだようにして、ふらりと現れた彼を、突き放せる腕など持ち合わせていない。その一瞬の幻が、あとからじわじわ効いてくる毒のようなものだとしても、私は迷わずこの腕を伸ばすだろう。
 そんな彼は見たくない。
 それに、そんな彼ならば、手に入るのだ、少なくとも、一夜だけならば。
 優雅な蝶を私のものに。


 耳だとか、首筋だとかが、女のように弱い。
 繰り返し舌を這わせてやると、彼は艶めいた声を上げ、私の背に縋り付いた。
「はあ…ッ、あッ、…リ、コ、もう、ああ…」
「こういうふうに、されるの好きだよね、センセ」
「ウ…、しつこい、男は、嫌いだ…ッ」
 慣れているんだよな、と思う。思い、勝手に腹が立つ。
 この男は、愛され慣れた身体をしている。その証拠に、身体中、何処に触れても快楽に変えてみせる。多少強引に押し入っても、すぐに馴染む。
 彼と初めて肌を合わせたのが、いつだったかなどは忘れたが、そのときには既に彼はそう言う身体をしていた。髪の先にまで神経が通っているような。
 私は悔しいと思いながら、同時に夢中になった。無数の熱い口付けで、彼の身体に残る誰かの形跡を、消してやろうとさえ思った。まあ、無駄だったが。
「あ…! キリコ…ッ、は、あ」
「じゃあ、どうして欲しいの。言う通りにするよ、おれ、犬だもの」
 尖った乳首を摘み、臍を擽った右手を下に移動させて、彼の性器を掴む。知っている、この動作も何もかも、今、私がこのベッドにいることさえも、彼の望みだ、ただ彼の欲望だ、私は傅く奴隷、彼の飢えを満たす道具。
 それでも手に入ると、彼が、私のものになると、言えるのだろうか、この一夜。
 彼の高潔な魂を、どうしたら穢してしまえるのか、私の腕で。
「いい…から、」触れずとも昂ぶり、濡れていた性器を軽く擦られ、切れ切れに声を上げながら、彼は言った。「もう、いいから…早く、早く、」
「早く?」
「早く、入れろ、この、駄犬…ッ」
「…随分、切羽詰まっているんだね」
 私は駄目な犬らしい。
 何かないかと見渡し、ベッドサイドからスキンクリームを探し出して、手に取った。彼の身体を俯せにさせ、腰を上げさせて指を這わせたその場所は、しかし、そんなものは必要ないようだった。
 柔らかく解れ、内側からしっとり濡れていた。何処かの誰かの精液で。
 きちんと拭かれてはいたが、こんなものの匂いにさえ気付かないほど、私は焦っていたのかと少し可笑しくなる。一応クリームを塗りつけて差し入れた指を軽く出し入れすると、その誰かの精液がごぽりと溢れ、彼の内腿を伝った。
「ああッ、ン、ふ…、キリコ、キリコ」
「お盛んですこと」
 わざとだ。
 乱暴にされた痕跡は何一つないし、ならばこんなものを中で出させないようにするのは簡単だし、最悪出させたとしても処理してくることは簡単だ。だからわざとだ。
 他の誰かに抱かれた身体で、私の欲を引き出しに来る。一瞬で幻想も吹き飛ぶ、今宵だけは彼は私のものであるという幻想も。彼は、決しておまえのものにはならないよ、と、私にわざわざ言いに来たのか?
 こんな身体を見せつけて、私の名前を呼ぶな。
 ああ、でも、私はやはり突き放すことは出来ないのだ、それが彼の望みなら。
「は…ッ、駄目だ、そこは…ッ、強く、するな…!」
「気持ちいいならいいじゃない。ここをこうすると、おまえのがぴくぴく動くんだ、触ってもいないのに。とても可愛い」
「出ちまうだろ…! いいから、早く、入れろ…!」
「仕方ない」
 彼の中で、誰かの精液とクリームが混ざり合い、ぐちゃぐちゃと卑猥な音を立てる。溢れる白濁がつんとした匂いを放ち、部屋の中に充満する。不快だ。
 だが、何処の誰と寝てきたのだと、私は訊かないだろう。何故その足で、私のところに来たのだと、私に見せつけに来たのだと、訊かないだろう。
 訊けない。訊く権利がない。
 奴隷は黙って言われたことをすればいい。
 或いは肩を揺さぶって、問い詰めたほうが彼は満足するのだろうか? 判らない、いずれにせよ私は訊かない、だから私は駄犬なのか、器用な駆け引きなんて知らない。
 どうすれば私のものに、なるのだろう、なんて。
 知らない。
 慣らすまでもなく解けきっている彼のそこから指を引き抜き、姿勢を整えた。屈辱的なはずなのに、萎えることもなく勃起している自分の性器を片手で掴み、片手で掴み広げた彼の尻に押し当てた。
「入れるよ」
「はや、く…ッ」
「力抜いて、息吐いて。多分、おれのほうが太いんだから」
「あ、あああ…ッ! あッ、キ、リコ…!」
 焦らしもせずに、彼の中に押し入った。幾ら解れているとは言え、それでも狭い彼の肉を掻き分けるように、遠慮せず一気に根本まで突き込んだ。
 全身に鳥肌が立つような快楽。絡みつき、擦れるこの粘膜は、手に入ることのない彼が一夜私に与えたもの。
 彼は、悲鳴のような声を上げて、私を総て受け入れた。慣れた身体だ、とまた思い、また少し腹が立った。彼は私に慣れているのではない、そうではなく、彼は奉仕されることに慣れている。女王蜂のような男だ。この孔で何人食らい込めば気が済むんだ?
「は…、深い…ッ、このケダモノ…壊す気か…ッ!」
「そのケダモノのものが好きだろう? きゅうきゅう吸い付いてくる。さあ、どうして欲しいんだ、先生? 言えよ、好きにしてやるぜ」
「動、けよ…、腰を振るしか脳のない犬め…! いかせろ、きついんだ…ッ」
「はいはい、脳がなくてすみませんね」
 両手で彼の腰を掴み、私はゆっくりと彼の尻を穿ち始めた。彼は殆ど泣き声に近い喘ぎを放ちながら、私に引きずられるように腰を揺らめかせた。
 私の動きに合わせて、誰かの精液がぐちゅぐちゅと泡立つのを、私は見るともなしに見下ろしていた。私の体液で薄めてやれ、なかったものにしてやれ、侵してやれ。この美しく残酷な男を、そうだ、今夜、今夜だけでも、私の肉体の前に跪かせてやれ、私の腕の中で息を落とさせてやれ、私のものに、私のものに、私のものに。
 ああ、それでも。
 判っている。彼は一瞬たりとも私のものにはならないのだろう。判っているからこんなにも焦がれるのだ、私は犬、私は虫、眩い彼の前ではただ無力に傅くことしかできない。


 彼は、行為のあと、少しだけ私の腕の中で眠り、それからさっさとシャワーを浴びて去っていった。
 私は別段引き留めもせずに見送り、それから一人酔えない酒を飲んで、情事の匂いが残るシーツに身を投げて寝た。
 どうすれば彼は、私のものになるのだろう、と、また。
 夢現、考えても仕方のないことを、考えた。とりとめもなく。


(了)