囚人

 おまえは私に捕らわれた囚人、決して自由の身になることはない。
 私は感情のない死神、捕らえた獲物は息の根を止めるまで放さない。


 梅雨の晴れ間、長い髪をピンで結い上げても、高い湿度が鬱陶しい夕刻、病院の駐車場で彼を見付けた。
 どうやら仕事は先を越されたらしい。まあそれはいい、いつものことだ。彼は白いセダンに凭れて、不味そうに紙巻きをふかしている。足元には吸殻が数本。
 一目見て判った。こんな仕事をしていると、その手のことには鼻が利くようになるのだ。
 クラウン。偽造アンテナに、ルームミラーが二つ、今時三ナンバーとは笑わせる。
 覆面パトカー、捜査車両だ。
 車にトランクを置き去りにして、外に出る。足音は消さずに歩み寄る。彼は何気なく顔を上げ、そこに私を見付けると、何とも言えない複雑な表情を浮かべてみせた。
 その顔は、悪くない。
 彼は私に囚われている。何処に行っても、いつなんどきでも、私の手から逃れることはできない。彼は私に対峙するとき、必ずそういった目の色を垣間見せる。
 無表情の合間に、敵対心の合間に、反発心の合間に。
「久し振り、ブラック・ジャック先生。仕事は済んだのかな? お疲れ様」
 ぞっとするほどに、美しい夕焼け。駐車場のアスファルトを紅く染める。
 距離を詰めて声をかけると、彼は咥えていた煙草を足元に落とし、僅かに眉を顰めてみせた。
 彼は私に逢えて、嬉しいに違いない、と同時に、嫌悪感に苛まれているに違いない、彼は私の囚人だから。
 その眼差しが総てを物語っている。私はそんな彼に、相変わらずの嗜虐心をそそられる。
「覆面だろ、これ」
「…」
「何してるんだ? これの中身はどうした、国家の犬は。退屈そうに、まさか待っているなんて言わないよね」
「…待っているんだ」
「なんで?」
 にっこり笑って訊いてやる。私には、少しの嫉妬も相応しくない、何せ私は感情のない死神、人殺し。
 彼に、親しい刑事がいるらしいことは聞いている。
「帰れよ、ドクター・キリコ」私の問いには答えず、彼は視線をそらして吐き出した。「今日はともかく、おまえは自殺幇助の常習犯なんだから。下手すると一緒にしょっ引かれるぜ、いいから帰れ、今頃必死に私を探し回っている、国家の犬が戻ってくる前に」
「捕まるために待っているの?」
「…そうだ」
「なんで? そうか、犬に手柄を取らせたい? 風の噂では、天下の無免許医には刑事の男がいるとかいないとか」
「…」
「犬は、おまえの男なの?」
「そうじゃない…」
 彼は、悔しそうな、傷付いたような表情で、そう呟いた。
 判っている、彼は私に捕らわれた囚人、私以外の誰かに心奪われることはない、けれども。
 判っている、彼はとても不安定で、とても愛されたがりな男だ。誰かに手を差し伸べられたら、咄嗟にそれを掴む可能性は充分に有り得る。
 そして彼も判っている、自分が私に囚われていることを、私を欲していることを、同時に逃げたがっていることを、真綿みたいな救いを求めていることを。
 鎖に締め上げられるようなこの関係に、彼は酔い、苦しんでいる。
「じゃあ、なんで待っているの?」
「…私が今日仕事をしなかったら、捕まるのは誰だったと思う? 私が今逃げ出して、次に矛先が向くのは誰だと思う?」
「さあ? おれじゃない?」
「…判っているなら、くだらないことを言っていないで、さっさと帰れ」
「下手な言い訳だな、気に入らない。おまえ、自分が誰のものなのか、理解してないの?」
 微かな怒気を含め、唇の端を引き上げて言ってやると、彼はびくりと身体を震わせて、私から顔を背けた。
 彼は私に過敏だ、異常なほどに。逃げ出したいと思っていながら、捨てられたらどうしようといつでも不安に駆られている。
 捨てられたらどうしよう? 馬鹿な男だ、捨てるわけがない、私は死神、彼の息の根が止まるまで、放しはしない。
「…私は、誰のものでもない。私は、私のものだ」
「嘘吐き。おれのことが好きなくせに」
 両手を自分の髪に伸ばし、結い上げていたピンを抜く。真っ直ぐに伸ばして、彼の凭れている助手席のドアの、鍵穴に突っ込む。捜査車両と言ったって、こんなところ、一般車とさして変わりがあるわけではない。
 ロックが外れるのには、数分もかからなかった。遠慮なくドアを開ける私を、彼は怯えたように見た。
 首筋にかかる長い髪が、この季節に少し鬱陶しい。
「ほら、来いよ。早くしないと、おまえの男が帰ってきちまうぜ」
「何を…」
「おまえが誰のものなのか、ちゃんと教えてやるよ、何度教えてもすぐに忘れる、馬鹿な先生にね」
「やめろ、放せ…!」
 片手で二の腕を掴み、開けたドアから車内へ、彼の身体を引きずり込む。彼は私の手を振り払おうと軽くもがいたが、本人がどう思っていたのであれ、その抵抗は本気ではなかった。
 彼は私の手を拒めない。
 そんなことなどは、とうの昔に私は知っている。
 彼は私に捕らわれた囚人、決して自由の身になることはないのだから。
「キリコ…ッ」
「暴れるなよ、無駄だぜ?」
 助手席のシートに座った、その膝の上に彼を跨らせた。私のスーツを引っ掻いて、せめてもの抗議をする彼の腰を掴み、耳元に囁いてやる。甘く、甘く、わざとらしいくらいに。
 私の膝の上、ぴくりと反応した彼の、抵抗がやんでいる隙に耳朶に歯を立てた。思わず、と言ったように尖った吐息を洩らす唇へ、やや乱暴に咬み付いた。
「んッ」
 僅かな血の味。
 後ろ髪を掴んで彼の頭を固定し、唇の隙間へ舌を差し込んだ。上顎、頬の裏側、好き放題に口腔を犯し、怯えている彼の舌を誘い出す。
 彼は、私のスーツに爪を立てていた手を逆に私に縋らせて、鼻に抜ける声を零した。ほら見ろ、いつ刑事が戻ってくるかもしれない覆面パトカーの中で、あっという間に彼は私に堕ちる。私に夢中になる。実に簡単だ。
 彼は私に慣れている、私の与える快楽に。
「は…、」
 唾液を啜り合う長い口付けを解くと、彼は仄かに染まった頬を隠すように、くたりと私の肩に凭れた。そのしなやかな身体を受け止めながら、私は口元だけで笑った。そうだ、私は感情のない死神。
 捕らえた獲物は息の根を止めるまで放さない。判っているだろう? 囚われの身のおまえならば、ねえ、ブラック・ジャック先生。






 多分、私が捕らえた訳ですらない。
 彼は自ら私に囚われたのだ。そう思う。
 まあどちらにしろいずれ同じこと、私のこの手に彼があることには違いない、ならば放す馬鹿が何処にいよう、その命をいつか奪うまで。
 溢れ出しそうな鼓動を聞いて、私は何かを取り戻す。きっとそのためだけに、私は幾度も繰り返す。
 少しも意味をなさない不毛な行為。
 その場限りの悦楽と、生きている感触。
 彼の髪越しに見たフロントガラスの向こうは、鮮やかな夕焼け、薄気味悪いくらいに紅く染まっていた。
「キリコ…ッ」
「騒ぐなよ、いくらひと気がないとはいえ」
 膝に跨らせた彼の尻を、両手で鷲掴む。引き寄せてぐいと股間を擦り合わせる。
 乱暴な口付けと、悪戯めいた仕草、たったそれだけで彼はあっさり勃起した。
「ああ、勃っちまったね、久し振りだものね、待っていたんだろう、先生、おれとこうしたかったろう?」
「畜生…」
「国家の犬とおれと、どっちが巧い?」
 セダンの狭い助手席にふたりで埋もれて、吐息を混ぜ合わせる。スーツの襟に手を差し込み、シャツ越しの胸をてのひらで摩ると、腕の中の身体が僅かに震えた。たわいもない。
 服の上からの、もどかしい愛撫。
 押し殺そうとしても押し殺せない、低い喘ぎを喉の奥で洩らして、彼はきつく目を閉じた。その濡れた唇を、時々思い出したように軽く吸いながら、強く、淡く、彼に触れる。熱い肉体を手で味わうように。
 抗う素振りはして見せても、それは総てつまらない言い訳のようなもの、彼は決して私に逆らえない。
 こうして覆面パトカーに引きずり込まれ、好い様に扱われたとしても、悪態を吐きはすれ、文句は言わない。
「気持ちいい?」
「ウ…」
「訊いてるんだよ、答えなよ。気持ちいい? 気持ちいいだろう、なあ先生?」
「黙れ…ッ」
 上半身を撫で回していたてのひらを、彼の股間に伸ばす。既に屹立している性器を服の上から掴み、緩く扱く。
 彼は、私の肩に爪を食い込ませ、私の膝の上で、切なげに身悶えた。紅く色付いた唇を噛み締め、溢れそうな声を堪えている。
 窓の外、夕日に少しずつ、薄闇が雑じる。遠くに見える病院の非常口に、私は視線を据える。そうだ、少しの嫉妬も相応しくない、何せ私は感情のない死神。
「脱げよ…」
 耳朶に唇を付け、掠れた声で囁いてやると、彼は薄らと目を開けて、私を睨んだ。
「馬鹿な、ことを、」
「こんなにしちまって、このままでいいの? いいから脱げよ、先生、どうせおまえはおれに最後までは、逆らえやしないんだから」
「嫌いだ…おまえなど」
 苦々しいセリフも、濡れた口調で言われては僅かな効き目もない。
 彼は吐き捨てると、私の膝に跨った体勢のまま、自らのベルトに手をかけた。下着ごと服を引きずり降ろし、窮屈なシートの上で、脚を抜く。
 反応した股間を今更隠しもしない。さて、私達はもう何度こうして、素肌を晒して絡み合っているのか。不毛だ。不毛極まりない。
 下半身だけ露わにした姿で、私の太腿に膝立ちになり、彼は挑むように私を見た。ふたりきりの車内に、彼の荒い呼吸音だけが聞こえる、今、この車の持ち主が、彼を探し疲れて帰ってきたら、本当にどうするつもりなのだろうと他人事のように考える。
 私は構わない、見せ付けてやればいい、この男は天才で変態だ、男に抱かれて嫌がるどころか歓んでいる。そして今彼と縺れ合っているのは、この私。
 自分のスーツの胸元に手を入れ、自分の車から持ってきた抗炎症剤を取り出す。彼は、怯えたような期待するような、悔しそうな顔をして、その私の指先を見た。
「こんなところで…、」
「燃えるだろ? さっさとしないと、それこそおまえの男が戻ってくるぜ。無駄に抵抗するな、本当に無駄なんだから」
「私は…おまえの玩具じゃない」
「玩具なんかじゃねエよ? おまえはおれの囚人だよ」
「…クソッタレ」
 指にクリームを絞り出して、彼の尻を弄ると、彼は自ら両手で自分の尻を掴み開いて、私の指を誘った。
 膝立ちの姿勢が辛いのか、なかなか解れない。それでも、クリームを何度か足して、丁寧に抜き差しを繰り返すと、次第に彼の肛門は緩み、指を三本は受け入れられるようになった。
 わざと弱点を避けて、内部の肉を抉る。小さな声を上げながら、彼がもどかしそうに腰を振る。
「触って…触ってくれよ…」
「ああ、触ってやるよ、おまえの大好きな、おれの太くて硬い肉棒で」
「あ…ッ」
 一気に指を引き抜き、身体を強張らせた彼の腰を掴んで股間に引き寄せた。自分の服をくつろげ、彼を膝に跨らせたまま、掴み出した性器の先端を彼の肛門に押し付ける。
 彼は私の肩に縋り、次の衝撃を予期して熱い吐息を洩らした。それを心地よく聞きながら、彼の尻の肉を掴み、肛門を開かせて、ゆっくりと侵入した。
「アアッ、ア、」
「腰を下ろして、最後まで食らってくれ。大丈夫、慣れたもんだろ? ほら、怖がらない」
「キリコ、裂ける、裂けちまう」
「大丈夫だよ、お前の尻はおれに慣れてる。もう何度も繋がっただろう、まるで偽物の恋人同士みたいにね」
「あっ、待て…!」
 彼の腰を押さえ込み、ぐっと下に引き下ろした。クリームに塗れた肛門は少しの抵抗を見せただけで、ずるりと私の性器を根元まで飲み込んだ。
 狭い車内に、彼の掠れた声が散った。
「ヒ…、」
 この有様を、見られちまえばいいのにと、ふと思う。
 彼が捕まるために待っていた、国家の犬に。
 この男は私のものだ、私に捕らえられた囚人だ、たとえ法が彼を捕らえたとしても、彼は永遠に私の囚人だ。
 息の根を止めるまで、放さない、そう決めた。それはおそらく私ではなく、彼が望んでいることだから。
「駄目だ…、動かす、な…ッ」
「触ってくれと言ったのはお前じゃない? 逢えなかった分だけ、いっぱい擦ってやるよ、溜まってるだろ? それともおれ以外の誰かとセックスしてた?」
「…てない、してない、」
「優等生の回答だな」
「ア、ア、キリコ…!」
 彼の腰を掴み、激しく上下に揺さぶった。下から腰を突き上げて、彼の弱い部分に性器の先端を突き刺した。
 私の膝の上、彼は淫らなダンスでも踊るように、そのしなやかな身体を波打たせた。悲鳴じみた声に滲む、確かな恍惚の色、彼は私に飛び切り弱い、身体は勿論、その心が。
 大して長い時間もかけないで、私の腕の中、彼は達した。
 片手で精液を受け、きりきり締め上げる彼の中に、私も深く注ぎ込んだ。ぞくりと肌が粟立つような、鮮やかな愉悦、私はこの瞬間が嫌いではない。
「は…ッ、」
 尻から性器を引き抜くと、放ったばかりの精液が溢れて、彼の太腿を鈍く伝い落ちた。車内に充満する牡の匂い、ここが何処だか彼は判っているのだろうか?
 ドアを開けると、湿った空気がざっと車内に流れ込んできた。私は、膝の上でぐったりとしている彼の身体を抱き上げ、今まで自分が座っていた助手席のシートに放り出した。
「おまえが捕まったら、目玉が飛び出るような保釈金を積んでやるよ、そうすれば一応おまえの男の面子も潰れないで済むだろ?」
「…」
「服は着ておけよ、浮気がばれたらまずいんじゃない」
「…あいつのために捕まるわけじゃない」
 焦点の合わない目、絞り出すように呟かれた彼の言葉に、唇だけで笑ってみせる。自分が仕事をして、自分が捕まらないと、手錠を食らうのは私だから? 笑わせる。
 私は助手席のドアを閉め、彼を車内にひとり残して、その場を後にした。馬鹿みたいな感傷、総てに麻痺して、私は明日も人を殺して歩く。
 だって私は感情のない死神、おまえが望むその姿、破るわけにはいかない、哀れで欲深き囚人を、死ぬまでこの手のうちに飼っておくために。


(了)