テンゴクリョコウ

 行く末を消してしまいたいだなんて、子供じみたことは思わない。
 だって元々そんなもの、このてのひらにはないのだもの。


 今この瞬間、この瞬間が、私の全て、世界の全て。
 それでも。
 膝を抱えて丸まって、生温かい泥水のような記憶に浸って遊びたい。


「おい、おまえ」
 呼ばれてぼんやり顔を上げる、ベッドの上。
 昼か夜かも判らない、淀んだ意識に小さな光。
「おい、おまえ。なんか変なもの、やっているだろう」
 聞き慣れた声が、身近なのか、遠いのか。
 硝煙と血の匂いにまみれたあの場所に、彼は、いなかった。
 罪。
 罪だ。
 罪でなくて何だ。
 ああ、しかし、今となっては。
「…合法の国もあったぜ」
 答えた自分の掠れた声が、他人のもののように聞こえる。
 玄関の鍵はかけたつもりだったけれど、庭の窓の鍵はどうだったか思い出せない。
 このツギハギの男が、何処からだって勝手に、私のテリトリーに侵入してくる不躾者であることは知っている。
 磨りガラスを通したような視界に、やけにそこだけくっきり赤い瞳。
 ふと蘇る、彼の素肌の手触り、濡れた感じ。
 熱く冷たい、微かな感情。
「この国では違法だよ、死神先生」
 黒いコートから伸びた手が、私の頬に触れた。氷のように冷たくて、ぼやけた意識には気持ちが良い。
 時々何処かへ行きたくなるんだ。
 天国地獄。ノスタルジック。
 この手が殺した人間の一人一人を、鮮明に覚えている。
 この手が求めた人間の一人一人を、鮮明に覚えている。
 いつだって、いつだって、いつだって。
「仮にも医者が、そう言うものを使うな…。見苦しい」
「おれを医者だなんて思ってないだろう? ブラック・ジャック先生よ」
「医者だと思っているよ」
「人殺しだと思っているだろう?」
「人殺しの、医者だと思っているよ」
「見ろよ…。快晴だぜ、潮騒が、聞こえる」
 天井にだらりと右手を差し上げて、へらへらと笑ってみせる。
 狂うことも出来ないなら、せめて一時、この身を沈めたい。
 頬に触れていた彼の手が、こめかみを掠め、私の前髪を無造作に掻き上げた。凍えるような指先、描く軌跡、一筋のリアル、そうだ、甘さのひとつもない、この男は私の現実の化身。
「外は雪だ…。もう深夜だ。早く寝ちまえ、不良医者」
「なあ先生、何しに来たんだ?」
「おまえがここ数日、仕事を断っていると聞いたから」
「心配したのか?」
「息の根を止めに来たのかもな」
 静かな彼の声が、耳に心地よい。
 ねえ、おまえは時々、何処かへ行きたくはならないか。
 偽物の安らぎ、それでもいい、このこころもこの世界も置き去りにして。
 哀しみも愛も喜劇、優雅なステップで影踏み遊び。
 今にも脆く崩れ落ちそうなのに、おまえは鋼のように強い、ねえ、私の光、私は暗闇で蠢く姿なき死の化身。
 あの風景が私の魂を掴んで今も放さない。
「だったら、好きにしてくれよ」
 私の前髪を掻き上げた、冷たい彼の手を取り、口元へ引き寄せた。
 唇で触れ、中指を口に含む。彼はぴくりと手を震わせたが、払い除けはしなかった。
「キリコ」
 関節を舌先で愛撫し、指の腹を前歯で噛む。人間の味、生きた人間の味、どうかこの男だけは殺させないでください、カミサマ。
 中指を口から出し、人差し指との間、指の付け根を、突き出した舌で舐める。
「キリコ」
「おまえは旨い」
「…」
「おれは、おまえの味が好きだ」
「…おれの味が好きなら、変なものでいかれる前に、呼べばいい。手っ取り早いだろう?」
「おまえは真逆だよ…」
「真逆?」
「おまえじゃあ、おれの行きたい場所には行けないの」
 てのひらに口付け、手首を噛む。彼の手が少しずつ、温かくなる。
 私のこの手で、冷たくなる肌、熱くなる肌、私はどちらも知っている。どちらも愛おしい、そう、泣きたいくらいに。
 罪。
 罪だ。
 罪でなくて何だ。
 ああ、それでも所詮、この身体ひとつにしか抱えられぬもの、私がいつか死ぬときには、私と一緒に消えてしまうでしょう。
 汚れるだけ汚れて、いつか。
「じゃあ、そんな場所に行くな」
 すいと手を引いて、代わりに、彼は身を屈め、私の唇へ、唇を寄せてきた。
 寒い所為か、慣れないことをしている所為か、彼の唇は僅かに震えていた。
 触れるだけで離れようとする彼の顎を掴み、舌を差し出す。微かに開いた唇の間にねじ込んで、彼の体温を知る。
 外は雪か。
 この怠惰、この澱みから、今は抜け出したくはない。
 遠ざかっていたい。全ての鋭利な切っ先、時間の先端から。
「ん…」
「イキモノの味だ。まさかこのおれが、イキモノに哀れまれようとはな」
「あ、」
 腕を掴んで引っ張ると、彼は、私の胸の上に落ちてきた。
 そうだ、落ちてしまおう、今この時だけ、狭いベッドの列車で、二枚の切符を握りしめて。
「ヤク中野郎なんて厭だ…」
「厭ならさっさと帰れよ、先生」
 従いもしないが、抗いもしない彼の、青いリボンタイをするりと引き抜く。快楽に耽る顔が見たい、煌めく赤い瞳を濁らせて、愉悦に腐りゆくおまえの姿が見たい。


 思い出す光景は血煙で霞んでいる。
 声、声、声。
 罪でよいと決めたあの日から、私には、愛がなく、愛しかない。


(了)