焦点の定まらぬ視線を虚空に投げて、彼はソファでひとり、酒を飲んでいた。
いや、その眼差しが、確かにぶれていることに気付くのは、多分ごく少数の人間だけだ。何気なく見れば、彼はいたって普通に、いつも通りに、そこにいる。
タイをゆるめ、ボタンを弾いた胸元に、覗く鎖骨が色っぽい。
テーブルの上にあるウオッカのボトルは中身がかなり減っていて、グラスはない、そう言う男だ。
私は勝手にリビングに上がり込み、その彼の目の前に、突っ立った。
「おい、このアル中男。夜中にひとを呼び付けておいて、その覇気のなさは何だ、せっかく来てやったのに」
「どうしておれに覇気がないんだ？ 心外だ、非常に元気だ」
「キリコ先生、目が死んでいるぜ」
「おれの目が死んでいるというのなら、そりゃあ、いつものことなんじゃないの」
玄関も廊下もリビングも、彼の城はいつ来ても、いつの季節も寒々しかった。この男の心にある光景は、さぞかし冷え切っているのだろうと私は思った。
だが、今日はまた飛び切りに酷い。一目見ただけで油断をすれば、こちらが凍り付くような歪み、彷徨う隻眼。何があったのかなんて、生温いことは訊きはしない、訊きはしないが面白くもない、私を見ない彼の瞳。
それが判るのは、つまりは彼はいつでも私を、見ているからには違いないが。
手を伸ばし、ウオッカのボトルを取る。そのまま呷って喉を鳴らし、ネックに垂れた酒を舌で舐め取った。強いアルコールが喉を焼く。「さあ、キリコ先生？ やろうぜ、いつものパターン通りに」
言うと、彼はひとつ浅い溜息を吐いて、ソファの上で両手を挙げた。
「なしだ。今日は、なし。なあ、ブラック・ジャック先生、寒い夜だ、ふたりで静かに酒でも飲まない？」
その冗談めいた仕草が、あまりに彼らしくて、また、あまりに彼らしくなくて、私はつい、声に出して笑った。
「はは！ それは寝言か何かか? おれの尻を使う目的以外で、おまえがおれを呼ぶことがあるわけないだろう」
「おれは別に、おまえの尻を使うために呼んでいるわけじゃないぜ、いつだって」
「いつだって使うだろう？」
「ああ、ああ、悪かったよ。責めるなら明日以降にしてくれ、頼むから」
私がテーブルに戻したウオッカのボトルを手に取り、まるで水でも飲むかのように彼は酒を飲んだ。この男は酒に酔えない、多分体質なのだろう。判っているのに彼は酒を飲む。酩酊の快楽もなく、ただ身体を痛め付けるためだけに。
ふと、この男には、愉しみだとか気晴らしだとか、心地よいこと、快いことがあるのだろうか、などと思った。
砂を咬むように生きている。いつか死ぬために生きている。この男に、悦楽のひとつもあるのだろうか。
思って、それから密やかに笑った。あるではないか、それは、私だ。
この男は私に首ったけ、この氷のような世界で、私にだけは熱くなる。
なのに今夜、彼の目は。
「おれはその気で来たんだぜ、キリコ先生」ソファに座る彼の膝に、自分の脚を触れさせて、私はにやにや笑って見せた。「頭の先からつま先まで、尻の中まで洗ってきたんだ、これでおまえがやらないって言うのなら、他を当たるしかないが」
「先生、今日は、なしだよ…」
「じゃあ、なんでおれを呼んだんだ、いつもやるときしか呼ばないじゃないか、だっておまえはそれしか考えていないもんな、おれをやることしか考えていないもんな？ だったらおれだって、おまえとやることしか考えない」
「セックスだけだなんて思ってないよ」
「馬鹿言うな、おれとおまえの間にあるのは、セックスだけだ」
精々、酷薄なセリフを吐く。判っている、勿論判っている、彼が私に対して抱いているものは、決して肉欲だけではないのだろう。
だが、同時に私は知っている、彼が私に見る羨望や、嫉妬、憧憬は、総て夢幻、蜃気楼のように頼りない、ただの偽物だと言うことを。
彼の手には死神の鎌がひとつ、他には何もない。
私の手には無機質なメスがひとつ、他には何もない。
ときに何かを掴みかける感触、それはひとつ残らず錯覚だ、暖かい命にも、冷えゆく命にも私達は触れられない、神にもなれずひとにもなれず、私達は片輪のままで歩いている。
そう、だから。
だからこうして気紛れに接触して、摩擦で熱を上げて、何とか踏みとどまっているのではないか。
地獄の冷たい炎で焼かれる、命の細い糸の上。
「どうしてそんな顔をする？」私は自らジャケットを床に落とし、リボンタイに手をかけながら、彼を見下して、笑った。「おれは女じゃない。下手な口説き文句なんか要らないぜ、反吐が出る。セックスだけでいいじゃないか。気持ちがよければいいじゃないか。おれはおまえの身体が気に入っている。おまえもどうやらおれの身体が気に入っているようだ。それ以上に何がある？ それ以外に何がある？」
「おまえは…おれの最後の望みだよ」
「反吐が出るって言っただろう？」
「おれ、今夜はまともじゃない。こんな状態でおまえとやるのは厭なの」
「呼び付けておきながら？」
唇に、下品な笑みを浮かべて言ってやると、彼は今度は深い溜息を吐いて、ソファに脱力した。「…ただ、会いたかった、じゃあ駄目なの？」
会いたかった。
会いたかった、か。
可愛いことも言うじゃない。
テーブルの横に放り出しておいた診察鞄に手を伸ばし、かちりとロックを外す。跳ね退けるように開き、錠剤の束を掴み取る。
トランキライザーの山、こんなもの、何の役にも立ちはしないが。
テーブルの上に無造作にぶちまけて、彼に向き直った。
「処方してやろうか？ 外科医の見立てでいいのなら」
「おれにはおまえがいればいいよ」
「感傷的に過ぎるようだな、つまらねえ。じゃあおれは、他の男でも食らい込みに行くぜ、サヨナラ」
「待てって」
ひらひらと振ってみせた左手を掴まれる。その力は強く、てのひらは熱くて、私はぞくりと欲情に、小さな灯がともるのを感じた。
おれにはおまえがいればいい。
どの口がそんなことを言うのだろう、この男、何にそれほど傷付いたのだろう。
可哀想に。可哀想に。だが私は同情はしない。私と彼は反転した世界を同じ点から見ている愚者、慰め合ってしまえばお仕舞いだ、突き放して、侮辱して、あるのは肉欲だけだと嘯いて。
痛い、と横柄に言ってやると、彼はすぐに手を放した。
私は、引き抜いたリボンタイを彼の座るソファに落とし、彼の膝に跨るようにして、シャツのボタンをひとつひとつ外していった。
「おい、先生」
「大丈夫だよ、おまえもすぐにその気になるさ」
「今日は駄目。酷いことを…するかもしれないよ」
「すればいい。知らないのか？ おまえ、大抵いつも、酷いことをおれにするんだぜ？」
「おまえを殺すのは厭だ」
刺さるような視線が、私を貫いた。ああ、漸く、と私は思った。
空虚を彷徨っていた眼差しが私を捕らえた、私だけを。彼はそうしていなければならない、私だけを見つめ、私だけを追いかけ、私だけを傷付け、私だけを掻き抱かなければならない。
「殺せよ…」彼の耳元に、吐息混じりに囁いて、そのまま薄い唇に咬み付いた。口付けはきついウオッカの味がした、酔いそうだ。
彼に動く気配がなかったものだから、自分から仕掛けた。差し出した舌を唇の隙間にねじ込むと、ますますウオッカの味が濃くなった。
上顎をなぞり、頬の内側を舐める、彼の舌を誘い出して、唾液を飲ませる。いつも彼が私にそうするのと、全く同じ口付けをする。
生温い口腔の温度、生き物だと実感する瞬間、こんな瞬間も悪くない、罪悪感はいや増すばかりだが。
私から仕掛けた長い口付けは、途中から彼のものになった。舌を咬まれ、唾液を啜られ、私は甘ったるい喘ぎを洩らす。さあ、どうだい、私の可愛らしい死神よ、おまえの憂いも少しは晴れるか？
飽きるほど互いの唇を吸い合ったあと、漸く解いた口付けの余韻を、熱い吐息に込めながら、私は片手を彼の股間に伸ばした。
「勃ったな、キリコ先生」
「…普通、勃つぜ」
「でも、今日は、なし、なんだよな」
「おい」
のしかかっていた身体を起こす私を、捕まえようと伸ばされた彼の手に、思わずくすくす笑ってしまう。するりと躱して、リボンタイを拾い上げ、憮然としている彼の前でシャツのボタンを留めていく。
酔えない酒を飲むならば、私の唾液を飲めばいい。見るものがない目を開くなら、そこに私を映せばいい。
会いたかっただとか。
おれにはおまえがいればいいだとか。
くだらない口をきく唇は、塞いでしまおう。
「酒が抜けたら、飲めよ」
トランキライザーがぶちまけられたテーブルの上から、レボトミンとベゲタミンのシートを適当に掴み、彼の座るソファに放り投げて言った。ジャケットを拾い上げ、肩に引っかけて、診察鞄を手に彼に背を向けた。
馴れ合ったら終わりだ。身体以外を繋いでは駄目だ。私は良く知っている。
彼は私にべた惚れで、きっと私も彼に惚れてはいるのだろうが、認めたら終わりなんだ、だから私達はこうして不毛のままでいなくてはならない。
「何処へ行く？」
「言っているだろう？ 他を当たるよ」
「…」
背中に派手な溜息を聞きながら、私は玄関に向かった。馬鹿な男。彼も、私も。
こんな夜、こんな夜にこそ、一緒にいたいのに、本当は。
焦点を失った彼の瞳は、澄み渡って美しく恐ろしい。その銀色の髪を抱き、残酷な朝が訪れるまで傍にいてやりたいけれど、私は天使ではない、私は悪魔なのだ、どうしてこの優しい死神を救えるというのか。
（了）