真新しい墓石の前に、彼がひとり、ぽつんと立っていた。
 狭い墓地、平日の昼間、他にはひともいない、私を除いては。
 彼は左手に、白い百合の花束を持っていた。初夏の風に靡く髪が、銀色に煌めいて、とても絵になる姿だった。何となく、腹が立つが。
 彼とは距離を置いて立ち止まった私は、つい、自分の左手を見下ろした。白百合の花束。
 何故同じなんだ。いや、当然か。彼女への餞ならば、この花が、多分、最も相応しい。
 ――哀しいか? 死神。
 ――満足か? 死神。
 駄目だ、訊けない、今度ばかりは。彼の空洞のこころを覗き込むのが、私は、怖い。
 彼は、風に消えそうな、小さな声で、唄を歌っていた。
 聴いたこともない、異国の言葉の唄だった。優しく、物悲しい旋律が、いやに胸に響いた。じわじわと、精神を浸食するように。
 この男が、唄を歌う姿など、初めて見た。
 特に感情もなく、抑揚もなく、左手に花束をぶら下げたまま、彼は淡々と唄を口ずさんでいた。眩しいような陽光、私は歩み寄ることも、ましてや立ち去ることもできず、その場に突っ立ったまま、彼の声を聴いていた。
 何分くらいそうしていたろう、ふと、彼の唄が途切れた。
 幾らかの沈黙を置いて、彼は振り返らないまま、くく、と笑った。
 いつものように。
 ――いつもの、ように?
「立ち聞きとはひとが悪いな、ブラック・ジャック先生? そんなところでぼうっとしてないで、声くらいかけたら」
「…立ち聞きしていた訳じゃない。先客がいたから、遠慮していただけだ」
 頭に目でも付いているのだろうか。彼は私の気配に敏感だと思う。突き放すように答えたが、私は、それが言い訳じみていることに自分で気付いていた。
 そうだ、痛かった。
 神経の端々が。
 彼はいつだって、愛するからこそ殺めてきた、その信念のもとに、己に少しの疑いも持たずに。
 だが、今回は?
 ――その手に躊躇はなかったか?
 言葉を交わしてしまった以上、尚更踵を返すこともできずに、私は彼に向かって真っ直ぐに歩いた。可能な限り平然と、面白くもなさそうな顔をして。成功していたのかどうかは知らないが。
 すぐ隣に立ったところで、彼は漸く、ゆっくりと私を振り向いた。
 まるで普段通りの、皮肉な笑み、それでもその淡い瞳が、透明に見えるくらいに澄んでいて、怖かった。そこにいるのは、私の知らない彼だった。
 おまえはここに、いるのか、死神?
 目の前の真新しい墓石に視線を移す。墓地になければ墓石だとは気付かないような、不思議な形をしていた。まるで、完成されたオブジェのような。
 優雅な曲線が、彼女らしい、と思う。
「何をしている? こんなところでさ」彼は、スーツから取り出した煙草に火を付けながら、相も変わらず飄々とした調子で言った。「おまえには関係のない場所だろう? 彼女の墓を参るのは、この世でおれだけで良い。おれたちはふたりきりだったんだよ、文字通り、ふたりきり」
「…元主治医が、元患者の、墓参りをして何が悪い?」
「はは! おまえは、死なせた患者ひとりひとりの、墓を巡って歩くのか? くだらない。おまえのやっていることは、仕事、それ以上でも以下でもない、以外でもない。感傷なんざ捨てちまえ。そもそも、今回彼女に手を下したのは、おまえじゃない、おれだ」
「じゃあ、おまえのそれは感傷じゃないのか、あっさり捨ててしまえるものか?」
 言ってから、しまった、と思ったが、もう遅い。
 彼は私をじっと見つめると、それから不意に、うっとりするような美しい笑みを浮かべて見せた。嘘寒くて、気味が悪かった。この男の片足は、もうそちらの岸にあるのではないかとすら思った。
 はじめ、彼女を私の診療所に連れてきたのは、彼だった。
 そして結局、最後に彼女を彼の手に託したのは、私だった。
 もう、どうしようもないと、判ったから。足掻いたところで、先は見えていたから。
 普段の私ならば、それでも足掻いたろう。だが、今回ばかりは事情が違う。
 最期の時間を、ふたりきりにさせてやらなければ。彼女が眠るのならば、彼の腕で。
 それが、どれだけ残酷なことなのか、私は少しは把握している。
 彼はその、うっとりするような微笑みのまま、私の顔を眺め、私の左手を眺めた。そこに真っ白な百合の花束を認めて、今度は愉しそうな目付きになった。
 表面上は。実際には、これほど、恐ろしいほど、透き通った眼差しもないが。
 ――何も、ない。
「何故?」
「…彼女の、名前が」
「ユリだから?」
「…」
「単純だね」彼は、短くなった煙草を投げ捨てると、自分がぶら下げていた白百合の花束を、ゆっくりと持ち上げて、日の光に翳した。繊細な花弁に頬を寄せ、瞼を閉じて感触を確かめる。絵になると思う、厭味なほどに。「まあ、いい。彼女は、名前の所為なのか違うのか、生前、百合の花が大好きだったよ。とくに、白い百合。よくおれの家にも、大きな白百合の花束を抱えてやってきた。とても似合った。天使のようだった」
「…おまえも、似合うさ」
「へえ、おまえ、おれが天使に見えるのか? 黒い羽根を広げて、鎌を持った天使か?」
「…」
 ――天使に見えるよ、と。
 言ったらこの男は、どんな顔をするのだろう。
 もう堕ちるしかない奈落の淵で、藻掻く人間を救う天使、確かに白い羽根は付いていないが、その白い手は冷たく優しくて、永遠の無を約束してくれる。一瞬の躊躇もなく、底の底まで連れて行ってくれる。
 銀色の髪を飾る光の粒は、亡者を許す癒しの証。
 所詮無駄だと知る希望より、闇より尚黒い絶望のほうが温かいことを、私は知っている。そしてそれは、私だけが知ることではない、おそらく、誰もが知っていること。
 彼は、優しく抱いていた白百合の花束を、そっと頬から離し、それから、ばさりと音を立て、惜しげもなく墓石の前に放り投げた。
 何枚かの花弁が散り、ふわりと風に舞って、墓石を飾った。私は急に、自分が途轍もない邪魔者であるような気がして、いたたまれなくなった。
「感謝しているよ」それを見透かしたように、彼が前を向いたまま、淡々と言った。彼女が消える前、彼女が消えてから、その口調には少しも変わりがないようにも聞こえたが、実は、全く違う色を帯びていた。「彼女はおまえに、感謝しているよ。おまえが手を尽くしたことも、最後にはおれに預けたことも、感謝しているよ。だから、何を気にすることもない。何処にでもいる、ただのひとりの患者だろう? とっとと忘れて、次の荒稼ぎに出掛けな、ブラック・ジャック先生」
「…もっとおれに、できたことはなかっただろうかと、おれはいまでも後悔している」
「馬鹿だなあ、先生は。過ぎたことを後悔しても仕方ないでしょ」
「…おれは、残酷なことをしたとも思っている」
「残酷かもね。でも、感謝しているよ」
 ――残酷かもね。
 それは、彼に対して? 彼女に対して?
 ――でも、感謝しているよ。
 それは、彼が? 彼女が?
 初夏の日差しが眩しくて、私は少し目を細めた。思えば、こんな真っ昼間に彼と会うことなど、いままで殆どなかった。
 いつも、いつも、影に隠れるように、夜の片隅に身を潜めて、絡み付くように抱き合う。彼はいつでも余裕綽々で、私はいつでも切羽詰まって。
 陽光に照らし出されれば、あまりにも私達の姿は明け透けだ。
 彼の投げた花束の上に、自分の持っていた百合の花を重ねた。洒落たオブジェのような、真新しい墓石には、彼女の名前がひとつだけ、小さく刻み込まれていた。
「家族と同じ墓に入れなかったのか?」
 つい訊ねると、彼は私を向き直り、薄い唇を引き上げて、笑みの形を作った。
「そうしてくれと、彼女が言ったからね」
「…ひとりでは、淋しくないのか?」
 口に出してから、またくだらないことを言った、と思った。死んでしまえば、ひとりも何もない。あるのは、永劫の闇だけ。
 彼は、私を哀れむように、或いは愛おしむように、僅かに目を細めると、聞いたこともないような優しい声で答えた。
 瞼を縁取る、銀色の睫が、淡く光を跳ね返す。
 この男が、と思う。
 ――これ以上、苦しまずにいられる世界は、ないのか。
「大丈夫。どうせおれが、すぐに行くよ」
「…」
 ――もう、これ以上。
 私は彼から目をそらし、彼女の眠る墓石を見つめた。私では救えない。きっと誰にも救えない。この男は誰をも救うのに、誰からも救われない、どうして、彼はこんなにも孤独なのだろう。
 誰でも愛してみせる。
 しかし、誰の愛も要らない。
 何も欲しくはない、邪魔だと切り捨てる、それでいて、ふと日の光の下に現れては、真新しい墓石の前で、唄を歌い、花を捧ぐのだ。
 耳の奥に、つい先程聴いた、物悲しい旋律が残っている。
 彼女に送る唄だったのだろう、彼女の好きだった唄? 聴くべきではないかと少し逡巡したが、結局、私は訊ねた。彼との間にある沈黙が、辛いと思ったのは、初めてだ。
「…なんの唄だ?」
「何が」
「さっき、歌っていたろう? ここで。異国の…少し、切ない唄だ」
「ああ…。あれは、子守唄だよ」
 彼は、真っ直ぐ前を向いたまま、まるで気のない声で、何でもないことのように答えた。私はつい、彼の横顔を振り向いた。子守唄。子守唄か。
 死んだ彼女に、子守唄。
「安らかに眠れ、と」彼は、美しく咲き誇る白百合を眺めながら、抑揚のない声で言った。いつものように、厭味たらしい、皮肉めいた、ひとを舐め切った声で、揶揄して欲しい、と、こうも切実に思ったことはなかった。「おれが祈っちゃ可笑しいか? 人間、死ぬときくらい、何にも悩まされず、何にも苦しめられず、何の葛藤もなく、嫉妬も憎悪も執着もなく、透明な赤ん坊のように、眠って消えていったって、良いじゃない」
「…」
「さあ、おれは帰るぜ、先生」
 返す言葉もなく、口籠もった私に、彼は視線もくれずにひらりと右手を上げて、あっさりと踵を返した。
 安らかに眠れ、と。
 ――おれが祈っちゃ可笑しいか?
 馬鹿め。馬鹿野郎。おまえはどうして、どうしてそういう。
 ああ、神様、神様、この男の虚無を、ほんの僅かでも良い、おれで埋めることはできないのか。
「キリコ!」
 振り向き、遠ざかる彼の背中を、咄嗟に呼び止めた。
 訝しげに視線を寄越した彼に、自分でもよく判らない言葉を吐いた。
「唄を――もう一度、唄を、歌ってくれ」
「…」
 彼は、意味が判らなかったのか、二度、三度、瞬きを繰り返した。それから、くすくすと低く笑って、良く通る声で答えた。
 一面に死人の埋まる墓地。日の光を照り返す、青々とした芝が似つかわしくない。
 こうして、覆って隠していなければ、ひとは死を受け入れられないのか。いや、そうではないのか。
「ああ、判ったよ。おまえが死んだときにな。歌ってやるよ、もう一度」
「おまえのほうが、先に、死んだら? おれは何をしてやれば良いんだ?」
「そうだなあ」風に揺れる銀髪の所為で、彼の表情がよく見えない。それでも、と思う。何だか、違う。ついいままでの彼と、少しだけ、雰囲気が。「おれのために、おまえが少しだけ、泣いてくれりゃあ、それで良いさ」
「…キリコ、待て!」
 再度呼んでも、彼は今度は、立ち止まらなかった。
 少しの心残りもないように、狭い墓地を抜けていく。スーツを着た広い背中は、すぐに視界から消えた。
 私はひとり取り残されて、ぽかんと口を開け、その場に馬鹿のように突っ立っていた。
 ――おれのために、おまえが少しだけ、泣いてくれりゃあ、それで良いさ。
 畜生。
 畜生。畜生。
 誰が、おまえのためになど。
 おまえがいない、この世など。
 初夏の陽光が、少しずつ、薄く、淡くなっていく。私はただ、頬を涙で濡らしながら、いまはもうそこにはない、彼の背中を思い描いて、墓石の群れの中に立ち尽くしていた。



(了)

2010.07.14