上手い誘いかたなど知らない。
どうすれば彼がその気になるのかなんて、勿論判らない。
けれど、彼の気紛れを待っているだけの余裕もない。
だから私は金を積む。
百万の新札の束を、帯も付いたまま、六つ。
彼の家のリビングで、ソファにふんぞり返ってテーブルに置く。
「売れ」
「何を」
「ドクター・キリコを、三時間」
「オペでも手伝えって?」
外の世界は月明かり。
睨むように彼を見る。夜中に剥き出しの札束だけ掴んでやってきて、オペの助手を頼むわけもない。だいたいそんな頼みなら躊躇しない。
解っているくせに。
庭に続く窓は開け放たれていたが、それでもリビングの空気は煙草の煙で濁っていた。二人揃って続けざまに何本か煙草を灰にしたのだから仕方がない。それだけ二人の間には会話がない。
こういう夜はどうしたらいいのだろう。
ただどうしようもなく彼の熱を感じたいと思ってしまうような、こんな夜は。
「…そんなことじゃない」
「じゃ、どんなこと」
「…」
抱いてくれ、と言えってのか。
多分相当凶悪な表情になったのだろう。彼は、既に吸い殻だらけになっている灰皿に煙草の灰を落としながら、唇の片端だけを上げてにやりといやらしく笑った。
「セックスしたいの?」
「…」
だから、したい、と言えってのか。
「一時間二百万か」彼の右手がゆっくりと煙草を唇に運び、彼の淡い色の瞳が気のない様子で札束を見た。「おれも結構お安い男なんだな。おまえさんは、三時間のオペが六百万だったら満足するか? それも相手は小生意気で気位の高い怪我した野良猫みたいな男だぜ」
「…言い値で買う。そいつは手付けだ」
「冗談だよ、六百万でいい」
視線がこちらに戻り、その目に僅かな揶揄が掠めた。クソ、いたぶりやがって。
金をいらないとは言わない。
ふざけるなと追い返しもしない。
彼が何を考えているのだかさっぱり判らない。それでも彼がいいと思ってしまうような、夜は。
「シャワーを浴びて、ベッドへ行ったら?」少しだけ面白がっているような声が、言った。「それとも別のところでやる? お好きにどうぞ、おれはおまえさんに買われた男だから何処でも何でも付き合うぜ」
「…シャワーで、ベッドだ」
立ち上がり、脱いだジャケットをソファに投げて、彼に背を向ける。どうして自分がこんなふうに、まるで怒ってでもいるかのように振る舞うのかよく解らない。
「一緒に風呂入る?」
「…あとで入れよ」
背中に彼の声が聞こえた。振り返らずに答えてリビングを出た。もし、立ち止まって振り向いて、にっこり笑ってお願いしますと言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
どんな顔もしない。ただにやにや笑うだけなんだ。
あるいは、特別オプションとして別途料金を取られるか。
どうあれ私には彼の考えなど解らない。
それでも、彼がいいか。
そのまま眠り込んでしまいたい身体でシャワーを浴び、服を着てから腕時計を見たら、きっちり三時間経っていた。
嫌味だ。彼は冷めた意識で時間を計りながら抱いたのか。
充たされたような、余計に餓えたような、訳の解らないぐちゃぐちゃとしたものが頭の片隅にある。
どうしてただ欲しいのだと、その肌に触れたいのだと、言えないのだろう。
どうしてただ見つめ合って、互いに手を伸ばして、それ以外のものなど放り出して抱き合えないのだろう。
馬鹿馬鹿しい。
知っている。それは私が男だからだ。
彼は私のことなど何とも思っていないからだ。
彼が何を考えているのかなんて解らない。でもそのくらいは判る。
時々差し出される腕は、毛色の変わった猫をちょっと揶揄いたいだけの気紛れ。
鏡を覗き込んでリボンタイを結び、まだ乾ききっていない髪を適当に指先で整える。
身体中に残る彼の指先、彼の唇の、舌の、肌の感触が熱い。
いつになったら冷めるのだろう。
この不毛な欲。
快楽の余韻で重い足を引きずってリビングへ行くと、彼はソファに足を組んで煙草をふかしていた。
色素の薄い瞳には、何が映っているのか判らない。その裏で何を思っているのかも判らない。でも、私のことではない、そのくらいは判る。
ソファに放り出してあったジャケットを掴むと、煙草を灰皿に消した彼のその目がこちらを見た。
「帰るのか?」
「帰る」
目を合わせないまま背を向けようとしたら、軽く腕を掴まれた。
「で、なにがあったの」
「…なにがって?」
「いやなことでもあったんじゃないの」つい見やった彼の顔には、取り立てて表情はなかった。「だから、おれのところに来たんじゃないの」
「…おまえには関係ない」
「まあ、そうだ。おれは金で買われた男だから」
興味なんてないくせに。
返答を拒否しても、彼は腕を放さなかった。つい今まで、その彼の大きな手に様々な破廉恥極まりない格好をさせられ、彼を受け入れていた、その快楽をふと思い出してぞくりと肌が震えた。
彼に抱かれたあとは、何日も眠りに就けない夜が続く。
たとえ浅い眠りに落ちても、鮮やかな夢に邪魔される。
彼の感触を、彼の声を思い出しながら自分で慰める。惨めだと思う。
それでも。
自分が哀れになるほど後を引くと判っていても、どうしようもなく彼の熱を感じたいと思う夜がある。
今夜みたいに。
「…放せ」
責めるように軽く睨み付けた。
「…手を、放せ。キリコ」
「まったく、可愛気のない男だなあ」
「…悪かったな」
「冗談だよ。可愛いよ」
「…いいから放せ」
視線に力を込めると、彼は片方の眉を跳ね上げた皮肉な笑みを浮かべて、漸く手を放した。
背を向けてジャケットに腕を通す。上から順番にボタンを留める。
馬鹿。どうして放すんだ。
いや、馬鹿は私だ。
縺れたがる自分の足に一つ舌打ちをくれてから、玄関へ向かった。彼の気配と足音が、すぐ後ろについてきた。別に見送るつもりではなく、ドアに鍵をかけるため。
「ふらふらしてる。泊まってくか?」
「…冗談だろう?」
「ああ、冗談だよ」
どうでもいいやり取りが短く交わされる。彼の身体の下で足を開いて、はしたない声を上げていたなんて記憶は追い払う。どうして自分だけがこんなに囚われる。見るべきではない場所まで見て、触れるべきではない場所に触れて、するべきではない行為をしてみせた彼が、平然としているのに。
少なくともドアをくぐるまでは。
車のシートにこの鬱陶しく火照りを残す身体を沈めるまでは。
彼と肌を合わせたことなど忘れたふり。
すぐ後ろに痛いほどに彼の存在を感じて、顔が勝手に歪む。
広い玄関、銀色のドアノブに手を伸ばしたときに、不意に、その彼の片腕が腰に巻き付いてきた。
「ッ」
「三分間でいい」
思わず硬直した腕を引き戻され、両手を重ねさせられたその中に、札束を無造作に握らされた。
帯も付いたままの新札の束、六つ。
私が三時間前に、テーブルの上へ積んだ六百万。
「売れ、ブラック・ジャック」金を渡した腕は胸のあたりに回して、彼は背後から、ぎゅっと抱きしめてきた。「三分間でいいから、売れ。一分二百万だ、足りないか?」
「…な、…にを」
「ここにいてくれ。おれの腕の中にいてくれ、三分間だけ」
「…」
無意識のうちに、膝の力が抜けて、その場に崩れそうになった。
呆然と投げ出した視線には、意味のあるものは何も映らない。力を失った身体は、ただ背中からきつく絡み付く彼の腕に、人形のように支えられていた。
かたかたと震える両手から、札束が落ちる。
首筋に顔を埋めた彼の髪が、頬に触れる。
ヒキョウモノ。
ヒキョウモノ。
違う、何が卑怯なんだ、ああもう判らない。
「…暖かいなあ」
彼の低い声は耳元に聞こえた。密着した背中で、ゆっくりとした鼓動を感じた。
だってこんなふうに。
私を抱きしめたことなど一度もないじゃないか。
「あと二分」
「…」
自分が何に動揺し、自分が何に混乱しているのかも判らない、めちゃくちゃになった頭の隅で、ぼんやりと彼の声を聞く。
何をしているんだ、あんた。
どうしてこんなことをするんだ、あんた。
足もとに札束を散らかして、男の腕に抱かれている。ベッドで肌を晒すときよりも、意識の芯が熱く眩む。
「…は、」
自覚もないまま色のついた吐息を洩らして、強く抱きしめてくる腕に両手で縋る。
「あと一分」
どうか。
そんなことを言わないで。どうか、永遠に。
(了)