六百円

 時々無性に傷付けたくなる。
 彼の綺麗な赤い瞳が、鋭い痛みで底なしに澄み渡る瞬間を、見たくなる。
 勿論、その傷を与えるのは、私でなくてはならない。他の誰であってもならない。
 理由なんて、知らない。

 私の言葉に、私の態度に、彼は過敏に反応する。
 優しくするのは簡単だ。
 大した表情も浮かべないまま、まるで何の期待もないように、腕を差し伸べてやればいい。
 臆病な彼はそうすれば、すぐに私の隣で安心しきって丸くなる。
 時々髪を撫でてやる。気持ちよさそうに喉を鳴らす。
 優しくするのは、簡単だ。
 それなのに、時々無性に傷付けたくなる。

 傷付けるのも、簡単だ。
 私の言葉で、私の態度で、彼は面白いように簡単に傷付く。
 唇が震える。目が潤む。
 私は喩えようのない快感を覚える。多分身体を繋げる以上の快感を。

 理由なんて知らない。
 私は変人なのだろう。

 愛していると憎んでいるとの差がよく解らない。
 優しくしたいと傷付けたいとの差がよく解らない。

 ただ、その血色の瞳に過ぎる激しい何かが見たい。







 例えば、はした金を枕元に投げる。
 なるべく使い古した小汚い万札を、まあ八枚くらいか。

「…どういうことだ?」
「今夜のお代」裸のまま俯せでシーツに埋まる彼を、横目で眺めながら言う。「悪いがおれは、男の相場なんぞ知らない。それじゃ安いか? ブラック・ジャック先生」
「…どういうことだ」
「だから、今夜の代金だって」
「…終わりにしようと言っているのか?」
 両手をシーツに付いて、上半身を起こし、ベッドに座り込んで彼は枕元に散らばった薄汚い紙幣をただ見ている。声が少し強張っている。緊張しているのか。
 少し離れたドレッサーの前で、ネクタイを締める。真夜中。もう帰ろうと態度で示す。
「なぜ」
「…おまえ今まで、こんな、ふうに、したことない」
「そいつア悪かったなあ。じゃ、今までの分も計算しといてくれ、そのうち請求してくれ、まとめて払うから。おれと何回寝たか、おまえなら覚えてるんじゃないの」
「…終わりにしたいのか?」
 彼はこちらを見ようとしない。
 ジャケットに腕を通しながら、ゆっくりとベッドに歩み寄る。その気配が、まるで実際に肌に触れたかのように、彼はびくりと身体を引きつらせる。
 ぴりぴりとした空気が、彼の素肌から飛び散る静電気みたいに、確かに見えた。
 視覚ではなくて、触覚とか圧覚とか、そういったもので。
「どうして」私はベッドのすぐ横に立ち、彼を見下ろした。「これからも抱くよ。何度でも抱くよ。ただ、ちゃんと金を払うよ。無償で男に抱かれるなんて、いやだろう? ブラック・ジャック先生」
「…おれは、」
 彼は相変わらず俯いたまま、言う。絞り出すような、低い声。
「…おれは、娼婦じゃない」
「それアそうだ。おまえは男だ」
 腰を折ってその彼の顔を横から覗き込む。ああ、変人だ。厭な男だ。
 傷付くおまえの顔を見せてくれ。
 彼は暫く、真っ白になった横顔をこちらに向けたまま押し黙っていたが、両手でぎゅっとシーツを握りしめると、古びた機械のようにぎしぎしとした動きでようやく顔を上げた。
 目が合った。焼け付くようだった。
 ああ、そうだ。その目だ。
 つい今まで快楽を貪っていた身体の、もっと深い場所に火が灯る。
「…おまえは、…最低だ」
 銃で撃たれた無力な子鹿みたいな、翼を折られた獰猛な鷹みたいな。
 切り裂かれた傷ではなく、突き刺された傷でもなく、刃渡りの長い獲物を思い切り腰のあたりから食い込ませ、ゆっくり、ゆっくり、内臓も骨も引きちぎりながら斜めに肩へ抜く、そういう傷。
 更に視線を乾かせて、溢れ出る血の色を眺める。
 傷付け。さあ、傷付け。もっと深く。
 この身体が悦ぶ同じ場所で、傷付け。
 他の痛みなど忘れるくらい。
 私の齎す傷が全てになるくらい。
「そうか。それじゃ安いか。申し訳なかったなア」視線を合わせたまま、下品に笑ってみせる。「じゃあ、おまえは一晩いくらだ? いくらなら、好きでもない男の前で足を開くんだ?」
「…」
 血の気のない唇。炎を揺らめかせて燃え立つ赤い瞳。
 わかっているよ。おまえは私がダイスキだ。
 土足で踏みにじる。何もかもを汚らしい足跡で穢してやる。
 ダイスキじゃあ足りないんだよ。
 そんな儚いものじゃあおまえはいつでも処理済みの箱に放り込んで、そのまま顔を背けてしまえるのだろ。
「…おまえは」
「なに」
「…おまえは、…おれが、」
「おまえが?」
「…」
 言いかけた言葉を、彼は結局途中で飲み込んで、ふいと視線を下に逃がした。
 綺麗な二重の瞼が、長い睫が細かく震えている。
 青白い顔が、僅かに泣き出す直前のような弱々しい表情を見せる。
 可哀想に。ああ、可哀想に。
 どうして私たちは出会ってしまったのかしらね。
 どうして同じ時間に生まれてしまったのかしらね。
 不毛だと解っているはずなのに、どうして私は。
「さ、いくら」
「…六千万円」
「六千万? へえ。別にいいけど、大した自信だ」
「…六百円」
「物凄いデフレだな」
 愛情も、執着さえも介在しないと嘯く。
 数枚の古びた紙幣で貶め腐らせる。
 流れた時間も、重ねた吐息も、擦り合わせた肌も、抱き合った腕も、囁きも喘ぎも、交わした熱も快楽も、全て嘘だと突き放す。
 わかっているよ。おまえが私に身体を委ねるということが、どれほどのものか。
 わかっているよ。おまえが私に何を捧げ、何を犠牲にし、何を欲しがっているか。
 足りないんだよ。
 過ぎ去るひとときの夢語りに落ちるくらいなら、深く、もっと深く、息の根が止まるまで傷付けたほうがいい。
 振り返る過去になどならない。
 今、この瞬間に血を噴く傷に。
「じゃあ、残りはチップ」
 冷えた彼の頬に右手を置いて、逸らされた視線を呼び戻す。
 綺麗な赤い瞳がすっとこちらを見た。痛みで底なしに澄み切った、赤い瞳が。
「だからちょっとサービスしてよね」
「キリコ」
「噛むなよ」
 更に身体を屈めて、ベッドの上に座り込む彼の唇に、唇を寄せる。
 触れ合った瞬間に少しだけ身じろいだが、彼は特に抵抗はしなかった。できなかったのか。
 残酷なくらいに甘ったるく唇を吸う。過去に一度もそうしてやったことがないほど優しく啄んで、舌を這わせ、隙間から差し入れる。
 歯列を辿り、口蓋を舐め、彼の舌に触れる。
 まるで恋人たちが交わす口付けのように、熱く、解け合うように。
 反応のない彼の舌を絡め取ったとき、見開かれたままだった彼の目に、不意に涙が盛り上がり、頬に溢れた。
 そこで堰が切れたみたいだった。
 彼は瞬き一つしなかった。ただぽろぽろと、幾筋も涙を零した。
 彼の頬を支える手にその生温い涙が流れ、手首に伝った。
 可哀想に。ああ、可哀想に。
 私と出会わなかったら、おまえはこんなふうに泣かずに済んだかもしれないのにね。
 私が変人じゃなかったら、おまえはいつも微笑んでいられたかもしれないのにね。
「…くら、だ」
 長く貪ってから解放すると、濡れた唇を微かに震わせて、彼が言った。掠れて、細い声だったが、泣き声というのでもなかった。
「なに」
「…おまえは、いくらなんだ」
「いくら?」
「だから、おまえはいくらで、好きでもない男を抱くんだ!」
 それまで殆ど呆然と涙を流していた目に、ぱっと光を燃え上がらせて、彼はいきなり、そう怒鳴った。
 頬に触れていた手を乱暴な仕草で振り払い、枕元に散っていた紙幣を片手で拾い集め、指に力を込めて握りしめる。
 それから、身を屈めていた私の襟元を引っ掴み、スーツの胸にその金を無理矢理突っ込んだ。
「六百円か? だったら残りはチップだ。六千万か? だったらあとでまとめて払ってやる」
「どうしたの」
「おれが買うって言ってんだよ、今から朝までだ、おまえはおれに買われるんだ。反吐が出るほど優しく抱けよ、死にたくなるくらいに何度も、愛してるって、言え!」
 頭上に天敵の姿を認めた小動物の悲鳴みたいな。
「…愛してるよ」
 指を襟元から外させ、ぎらぎらと瞳を煌めかせている彼を強く抱きしめた。シーツからはみ出た彼の素肌、腰に、脚に、先程付けたばかりの指の痕が、口付けの痕が、くっきりと見えた。
 ああ、そうだ。その目だ。
 可哀想に。ああ、可哀想に。
 私はどうしてこんなに貪欲なのかしら。
 私はどうしてこんなに酷い男なのかしら。
「じゃあおれは、六万ね。愛してるなんてひとことも言ったことがないおまえの、百倍の値段でお売りしましょう」
「…安価い愛だ」
「そうだよ」
 妙にリアルな値段を言って、抱き寄せる腕に更に力を込める。

 理由なんて知らない。
 私は変人なんだ。

 愛していると憎んでいるとの差がよく解らない。
 優しくしたいと傷付けたいとの差がよく解らない。

 ただ、時々無性に傷付けたくなる。
 その血色の瞳に過ぎる激しい何かが、見たい。



(了)