午後四時。
キリコが飴玉を持ってやってきた。
なんだそれはと問うと、さらり、ホワイトデーだからだと言う。
「なかなかやるのよさね、こよし屋のおっちゃん。うちの先生なんて、ピノコにお金渡して、勝手にそこいられ買ってこいーなんて言うのよ」
綺麗なラッピングを剥がすと、丸いガラスのポットに、色とりどりのキャンディー。
赤、青、黄色。緑、白。
ピノコはきゃっきゃと飛び跳ねて喜んだ。女の子はこういうものが、そんなに好きか。
「そいつア酷い。女心を解ってないなあ、お嬢ちゃんのところの先生は」
「ねー！ 失礼しちゃうわのよ」
キリコは、リビングの椅子に座って、キャンディーのポットを嬉しそうに抱いてみたり光に透かしてみたりしているピノコを、眺めている。別に何と言うことはない、いつものちょっと嫌味たらしい薄笑みを浮かべた、代わり映えのしない表情だ。
だが、多少は、目の色が甘いかもしれない。
勿論見間違いかもしれない。
「ホワイトデーの飴って、バレンタインデーとかいうやつのチョコレートのお返しなんだろう？ なんだピノコ、この殺し屋のおっちゃんに、チョコレートなんかやったのか？」
何がどうしてかは知らないが、何となく面白くなくて、つい声に僅かな毒が混じる。
柔らかく差し込む夕日、楽しそうな子供の声、差し迫った仕事もないし、至極平和。
「違うのよさ先生！」ピノコは真っ赤な顔をして、それでもポットを抱きかかえたまま私を振り向いた。「本命は先生、こよし屋のおっちゃんにあげたのは、義理、義理なのよさ！ 先生に作ったチョコのあまりでついでに作ったの、浮気じゃないわのよ！」
本命だとか義理だとか、よく意味は理解できないが、あげたことはあげたらしい。
キリコは、なんだおれはついでか、とか、いっそその女心の解らん先生からおれに乗り換えろ、とか、にやにやしながらくだらないことを幾つか言った。そのたびに慌てたり怒ったり笑ったり可愛い流し目をくれたり、ピノコは全く目まぐるしくはしゃいだ。
火を入れたパイプを咥え、眺める。
ぱんぱんに膨らましたビーチボールが弾むみたいに、子供が感情をオープンにしている姿は、いい。
いいけれど、ずいぶんとまあなついたもんだ、と思う。この男に。殺し屋に。
子供というのは大人が思うよりずっと鋭くて、しかも大胆だ。どんな大人だってそういう子供の時期はあったはずなのに、年が経つと綺麗さっぱり忘れてしまう。
そして子供に嫌われる大人になる。やつもいる。
虚栄とか虚飾とか虚勢とか、子供は、大嫌いだ。
地位名誉など関係ない。諂う大人はくだらない。うわべを取り繕うのは馬鹿だ。実際子供なのに、子供扱いなんて、冗談じゃない。
特に彼女はそうである。まあ、育てた親が親だから。
センサー並みに一瞬で見抜いて、娼婦より見事に切り捨てる。
利益も害も計算しない。嫌いは嫌い、駄目は駄目。
子供の世界にだけ通用する掟。或いは、子供の世界と、もっと別の、血腥い世界にだけ。
「おっちゃんがこのキャンディー、自分で買ったの？」
「そうだよ。女に渡すプレゼント、他人に買わせる馬鹿がどこにいる？」
「お店の人、怖かったれしょうねえ。おっちゃん、見るからにこよし屋だものさ、ちょっと迫力ありすぎだわのよ」
「お嬢ちゃんも結構失礼なこと言うのね」
赤、青、黄色。夢の色。
そういやこの男は、誰が相手でも一緒だものなあと思う。
大統領でも、乞食でも、多分一緒。老人でも子供でも、いつも同じ顔。
少し皮肉な、実にいやらしい、ちょっと色気のある、薄笑み。
言葉尻だけ変えてみせたって、この男が畏まっている姿なんて見たことない。
それはそれで問題だが。
「おっちゃん、ろうしていつも左眼隠してるの？」
そのうえ子供はしばしば、残酷なまでに正直で、遠慮がない。
「…ピノコ」
時々ちょっと羨ましくなる。あんなふうに訊けたらいい。
なあ、おまえ左眼どうしたの。何処かで、誰かに、何かされたの。
触れてはいけない傷。触れてはいけないと、大人は勝手に思い込む、他人の傷。
「男には一つ二つ隠蔽されている部分があったほうがいいだろ」少し諫めるように言った私の声に、軽く右目を細めて、彼は答えた。夕闇に光る銀色のネコ科動物みたい。「なあお嬢ちゃん。女は割と、ミステリアスな男ってのに惹かれるもんじゃないか？ だが、気を付けたほうがいいぜ、そういう奴に限ってロクデナシだからな」
「おっちゃんもロクデナシ？」
「ああ、おれは最高級のロクデナシだよ」
結局ピノコの質問には答えていない。
彼女は、自分の問いが流されたことに、気付いたけれど敢えてそれでよしとしたのか、ふうん、と言って、それからにこっと笑った。気付かなかったはずはないだろう。
「うちの今日の夕ご飯、ピノコ特製カレーなのよさ。おっちゃんも食べていく？」
この子のこういうところは、いいよなあ、と思うのは親の欲目か。
訊いてはいけないことを訊いて、ごめんね、とちゃんと態度で示す。
「ありがたいねエ。おれは独り身だから、誰かの手料理にはいつも飢えているんだ。ご馳走になりましょう」
いいえ、どういたしまして、と彼も言外に返す。唇の端を引き上げたいつもの表情で。
何故かちょっと羨ましくなって困る。そんなストレートなやりとりが、この男を、しかもこの男をだ、相手にして、できるなんて。
子供、か。
「そっか。おっちゃん奥さんいないのね、それは寂ちいわのよねえ、ロクデナシでももてそうなのに。誰か好きな人はいないのよさ？」
「いるよ。大好きなひとがいるよ」
「ええーっ！ 誰なのよさ?! ピノコの知ってる人？ どんな人？」
「さあ、お嬢ちゃんもよく知ってるひとなんじゃない？ とてもチャーミングなのに愛想がなくて、色っぽいけど怒りっぽくて、気位が高くて律儀で潔くて、清廉で綺麗で麗しくて美しいひとだよ。それから、おれのことが、大好きなひと」
彼は面白がっているような口調で答え、それから不意に私のほうに視線を流して、わざとらしくにやりと笑った。
「ね、センセ」
「し…知るか」
パイプの煙に少し噎せてから、睨み付ける。
彼は、ちらり、その私の反応に満足そうな色を右の瞳へ浮かべると、すぐに視線をピノコに戻した。子供の相手を、別に疎ましがっているようでもないし、鬱陶しそうでもない。むしろのんびり楽しんでいるようにさえ見える。
いつだって厭なものばかり見ているんだろうからなあ、と思う。
案外こういうやつは子供と仲良くやるのだ。
「ピノコの知ってる人？ ならキューピットになってあげるのよさ！」
「そりゃアありがたいけど、大丈夫、もうおれとそのひとは、充分愛し合っているから」
「らったら結婚すればいいわのよ、おっちゃんもご飯つくってもらえるわのよ？」
「結婚はできないなあ」
「ろうちて？ 愛ち合ってるんでしょ？」
「おれとそのひととの愛は、どうも、禁断の愛みたいなの」
「…キリコ」
とてもじゃないがこれ以上は聞いていられず、地獄から響くような声で低く呻いてやると、彼は、くっくっくっ、と声に出して笑った。実に人の悪そうな、実に楽しそうな。
「きんらん？ きんらんの愛ってなによのさ？」
テーブルの上のキャンディーポットを両手で抱えたまま、ピノコはきょとんとした。頼むから、うちの娘に変なことを教えないでくれ。
「禁断の愛ってのはア、許されない愛ってことよ」
「許されない？ 誰が許してくれないの？」
「世間一般というか、マジョリティというか、法とか、いろいろ。そのおかげで派生する精神的葛藤とか」
「そんな、酷いわのよね！」子供には多少難解だろうと思われる言葉だったが、 彼女は彼女なりに理解したらしかった。「ろうちて？ 愛ち合ってるのに?! もうッいいわのよ、愛は純粋で気高いものよ、別に誰が許さなくてもいいのよさ、ピノコ味方になってあげゆ！ おっちゃんころし屋らけど、悪いやつじゃないわのよ！」
「嬉しいねエ」
キリコは珍しくにっこり笑って、くだらない話題にひとり本気になってぷんすか怒っているピノコの髪を、優しく数回撫でた。あ、と思った。ちょっと、ちょっと、おまえ私のことだってそんなふうには滅多に撫でないぞ。
ピノコはつられたように、それはそれは可愛らしい笑顔を見せた。椅子の上に立ち上がり、キリコの肩に片手を付いて、お返しをするみたいにその見事な銀髪を丁寧に撫でる。
ちょっと、ちょっと。
「へえー、おっちゃんの髪、意外と柔らかいわのよ。きらきらしてきれえな色。これ、何色ってゆうのよさ？」
「さあねエ。何色だろうね」彼は困った様子もなく怒った様子もなく、子供の小さな手にその美しい銀髪を撫でさせながら、普段通りの飄々とした声で答えた。だから、ちょっと、ちょっと。「灰色とか、白とか、言う人はいるけど。お嬢ちゃんは何色だと思う？ 勝手に決めていいぜ」
「うンーと。じゃあ、水銀の色？」
「水銀？ 見たことあるの？」
「うん。一回体温計割っちゃったのよさ。きらきらしてきれいらったけど、ころころ逃げてお掃除できないし、先生すっごく怒った」
「水銀は危ないから。あ、そう、結構アナログなもの使ってんのね、お嬢ちゃんのところの先生」
「…悪かったな、アナログ人間で」
煙を吐いて低く言う。至極平和。なのに何だか面白くない。
キリコは、自分の肩に縋って珍しそうに指先に滑る銀髪を観察しているピノコを、力を入れたら握り潰してしまえそうな小動物でも扱う手付きで、そっと椅子に戻した。
それから、さらりと私に目を向け、「おまえさんはアナログでいいんだよ」なんて言う。
どういう意味だ。
「それじゃ、水銀のこよし屋のおっちゃん、ピノコ特製カレーつくるの、お手伝いしてくれゆ？ 特別に大盛りにしてあげますわのよ」
「ますますあやしげじゃない？ その呼称」椅子から降りたピノコが、キャンディーのポットを戸棚にしまおうとするのを助けながら、キリコが少し面白そうに言った。「勿論、喜んでお手伝いしましょう。好きに使ってくださいな、シェフ」
「…」
ピノコがキッチンに、家族以外の人間を入れたことなんて、過去にあったか。
早く来てね、と言って彼女はぱたぱたキッチンに向かっていった。その背中を見送りながら、彼は着ていたジャケットを脱ぎ、椅子の背にかけた。
おまえは教育上良くない。
おまえはいい加減なことばかり言う。
それからおまえは。
おまえは。
言ってやろうと思う言葉はいくつもあるのに、上手く声にならなくて、結局は仏頂面のまま何も言えずにパイプを噛んだ。
その私と漸く正面から向き合うと、彼はテーブル越し、ひょいと片手を伸ばして唇からパイプを奪った。
もう片方の手が髪に回され、引き寄せられる。テーブルに身を乗り出すようにした彼の顔が近付き、口付けをされるんだと思って、慌てて目を閉じた。
「どっちに嫉妬したの？ ブラック・ジャック先生」
耳元に、揶揄うような低い声が聞こえた。そのまま、一瞬だけ耳朶を甘噛み。
「ッ」
思わずぱっと見開いた目に、色気のある眼差しが映った。
「心配するなよ、おれは一途だぜ？」
「…馬鹿か！」
髪に触れる彼の手を振り払い、顔を背けて吐き捨てた。多分私は今、情けないくらいに赤面している。
嫉妬。
嫉妬だって？
嫉妬なのか？
なんてこった。
早く来てよとキッチンから呼ぶ声に、キリコははいはいと返事をして、テーブルに投げ出していたてのひらへパイプを返すと、さっさと私に背を向けた。
リビングから出ていくそのときに、ちらり、振り向いて唇で笑った。
「愛は純粋で気高いものなんだってさ」
「…」
どう答えろと。
すぐにキッチンから楽しそうな子供の笑い声と、それに答える男の低い声が響いてきた。それを聞きながら椅子の背にだらりと凭れて、天井をぼんやり眺める。
柔らかく差し込む夕日、差し迫った仕事もないし、至極平和。
戸棚に飾られたキャンディーのポットが、赤、青、黄色、優しく煌めいた。
（了）