泡と砂

 グリッターの入ったバブルバスをやや多めにバスタブへ落として、バルブは殆ど全開、勢いよく湯を溜める。
 二人で絡まるようにしてシャワーを浴び、泡だらけのバスタブに沈む。
 投げ出した脚の上に彼を座らせる。細身の身体を背中から緩く抱きしめる。普通だったら死んでも厭がるだろうが、セックスのあとは警戒心が薄れるのか、彼は大人しく私の腕の中、私に体重を預けた。
 抱かれながら片手で無心に泡をのろのろ掻き回して遊んでいる。湿度の高い空気はラベンダーの香り、彼の片手が泡を除けた下に菫色の湯が覗いて、すぐにまた押し寄せた泡に隠れる。
 表現のしようがない。
 このぬるま湯、微かな倦怠感と、浮力で軽いけれど確かにある重さ、密着した肌。
 今。ああ、できれば今この瞬間に。
 永久のものではないのならば。
「この泡、結構強い。触っても壊れない。そのうち消えるのかな。なあキリコ、消えるのか?」
 ベッドの上で洩らす喘ぎや悲鳴のように差し迫ったものでなく、普段几帳面にリボンタイを結んでいるときよりは甘く、滅多には聞けないほど無防備な声で彼が言う。なにひとつ不安はなく、なにひとつ不満もなく、恐怖も怯えもない、意味も込めない、ただそこにあるがまま。
 表現のしようがない。
 自分のものではない鼓動、自分のものではない血流、自分のものではない呼吸、それがこれほどまでに近い。
 今。ああ、できれば今この瞬間に。
 いつかは消えてしまうものならば。
「時間が経てばね。泡は消えるでしょ。ただの紫色の水になるよ」
「ふうん…。ずっとこうやってふわふわしてそうなのに」
「ずっとふわふわしていられるものなんかないよ」
「じゃあ、今だけか」
「そう、今だけだ」
 抱き寄せた彼の肩に顎を乗せて、泡を掻き回す彼の指先を眺める。
 この一時、この一時のためならば何を犠牲にしても良いとすら思うことが偶にある。その自分を少しおかしいと思うし、情けないとも思うし、けれどまあ、それでも良いかとも思う。
 眠りを誘う柔らかな匂い、このまま溶けて、溶けて、ただの菫色の水になりたい。
「なあキリコ」
 暖かく湿った空気にぼんやりと滲む言葉。
「なんか指にくっつく。きらきらしてる。なんだこれ、泡も、指も、きらきら」
「ああ。グリッター入ってるからでしょ」
「なんだそれ」
「きらきらのこと」
「ふうん…。これも消えるのかな。消えるのか?」
 抱きしめた身体、その肌を湯の中でそっと、ゆっくりと撫でる。同じ温度に浸された滑らかな皮膚の手触り、彼は私に抱かれたまま僅かに身じろいだが、逃げる気配はない。
 ねえ、どうしてなんだろう。
 私今、泣きたいほどにシアワセなの。
「シャワー浴びれば落ちるから大丈夫だよ、先生」
「ふうん…。落ちるのか」
「残ったほうがいい?」
「ん…どう…かな」
 煌めくグリッターの混じった泡をてのひらで掬って、湿った空気に投げる。繰り返し、飽きずに、何度も。子供みたいだなとその彼の仕草を見ながら思う。
 ああ、いっそ、彼が子供だったらいいのに。
 自分一人では何もできない、子供だったらいいのに。
 そうしたら私は彼を誰よりも大事に育てよう。他の誰にも渡さない。
 他の誰も彼と肌を重ねられないくらいに彼が幼くて小さくて、生まれたての雛みたいに私のあとばかりをついてまわればいいのに。私だけをその目に映せばいいのに。
 ねえ、どうしてなんだろう。
 私今、哀しいくらいにシアワセなの。
「全部消えちまうんだなあ」
 泡を気紛れにちぎりながら彼が独り言の口調で呟いた。
 その首筋に、唇をあて、強く吸い上げた。
「ア…ッ?」
 彼の身体が腕の中でびくんと跳ね、藻掻くように少し抗った。許さずに抱き竦めた。逃げないで。そんなふうに私から逃げないで。ここにいて。傍にいて。
「キ、リコ…ッ」
 多分先程まで散々にシーツの上で縺れ合い探り合っていた快楽の残滓のせいで、首筋を吸われ、彼は大袈裟なほどに肌を震わせた。筋肉の緊張が彼を抱いた腕に直接伝わってきて、ああ、この男は生き物なんだなあ、いつかは死んで跡形もなく消えてゆく生き物なんだなあと、当たり前のことを今更思う。
 くっきりと二箇所に口付けの痕を残してから、唇を離した。
 微かに乱れた呼吸の下で、僅かに動揺の色を含めて彼が言った。
「な、に…、する」
「消えちまうのが厭なんだろ。残ったほうがいいんだろ。おれに抱かれた痕跡が」
「馬…鹿、言えッ」
「ああ。おれは馬鹿だよ。おれは馬鹿なんだよ」
 本当にね。
 こんな痕跡はすぐに消える。こんな痕跡だけじゃない、たとえその皮膚を切り裂き一生消えない跡を残しても、たとえその肉を抉り死ぬまで埋まらない傷を穿っても、彼の存在の上には何をも残せない、彼の淡く暗く激しく儚く燻る命には、誰も何をも残せない、こうして抱き寄せていても、この一時はただの夢幻、すぐに消えるもの。
 濡れた肌に唇を這わせて、肩に歯を立てる。
 短い声を上げ、今度ははっきりと抵抗を示した彼の身体を、更に力を込めて抱きしめる。
 だからせめて傍にいて。体温に近い泡に溶け出しそうな今、この時に。
 ねえ、どうしてなんだろう。
 私今、苦しいくらいにシアワセなの。
 私今、切ないくらいにシアワセなの。
「痛、」
 歯に力を込めて食い込ませると、身体を抱き竦める私の腕に爪を立て、彼は泡を波打たせて鈍く身悶えた。加減はしない強さでじりじりと噛み、あからさまな歯形を付けてから、唇を放した。こうして彼の肉を生きたまま食らってしまえば彼は私のものになるのだろうか。今、この瞬間が永遠になるのだろうか。
 陳腐な言葉じゃ追いつかない。
 この感覚を表現することはできない。
 それでも私は、陳腐な言葉を吐く。ラベンダーに染まった空気へ、バスタブの中で男の身体を抱き寄せて、今、ああ、できれば今この瞬間に。
 カミサマ。私はあなたに、何を捧げればいいのですか。
「…痛い。キリコ。乱暴者。獣」
「残したいんだもの。おまえは薄情だから、おれのことなんてすぐに記憶から消すじゃない」
「…おれはそんなに馬鹿じゃないぞ」
「でも薄情だろう。少なくともおれには」
「…何が言いたいんだ? 何がしたい。何が不満だ?」
 私の腕を解き、彼は私の脚を跨いで私と向かい合った。
 肌を擽る泡、きらきら、きらきら。濡れた髪から伝う滴、赤い瞳と目が合って、ああ、どうしてこの男はこんなに美しい瞳をしているのだろうかと頭の隅でぼんやり思う。
「おまえがおれのものでないのが不満だ」
 にっこりと笑ってみせる。陳腐な言葉。せめて道化師のようにおどけて。
「大好きだよ、先生」
「…ッ、」
 唐突な、無様なセリフに驚いたのか、彼はかっと頬を血の色に染めた。
 愛しているなんて言えたらもっと面白いのかもね。
 でもきっと私は彼を愛してはいないから。
 愛していたら、今、シアワセな今この瞬間に。
 二人死んでしまいたいなんて思わないのでしょう。
「…に、を、いきなり…ッ」
 彼は片手で顔を隠し、片手で握った拳を軽く私の胸に打ち付けた。溺れてしまう。可愛いね。普段は何をどう間違えたってそんな仕草はしないだろうに、身体を繋げた余韻で彼はあたかも私と存在を密着させているかのような錯覚に陥ってくれている。
 いつまでもいつまでも、続けばいいのに。
 このぬるま湯、うっとりと酔いそうな香り、濡れた肌を寄せ合って。
 潤んだ赤い瞳が私を見る。大好き。大好き。何度でも言おう、そうしたら真っ赤になって、照れ隠しに私の胸を叩いてね。
 いつまでもいつまでも、続くものならば。
「大好きだよ、先生」
「嘘、つき…ッ」
「嘘じゃねえよ。大好きだ。大好きだよ。ずっと放したくない。ずっと傍にいて」
 反吐が出るような言葉を並び立てても惨めなだけ。
 彼は何度か私の胸を殴ってから、それでも口を閉じない私に諦めたのか、赤面した顔を私の肩に押し付けるようにして隠した。両腕を回してその彼を抱きしめると、彼は少し驚いたように身体を震わせたが、別に抵抗もせずに素直に私の腕の中に収まった。
 頬に触れるひんやりとした髪。暖かい肌。煌めく泡にまみれて、私とアナタ、シアワセにはなりきれない。
「…先生?」
 しばらくは大人しく私に抱かれていた彼が、不意に身じろぎ、僅かに身体を離した。顔を覗き込もうとする前に、いきなり肩に彼の歯が食い込んだ。
「…」
 多分私が彼を噛んだ強さよりも強い、肉がちぎれそうな痛み。
 身を任せながら、私は焦点の合わない視界に夢を見る。
 ねえ、アナタも私に痕跡を残したいと思ってくれるのならば。私にアナタを刻みつけたいと思ってくれるのならば。
 私とアナタ、シアワセにはなりきれない。
 それでも私とアナタ、狂おしいほどシアワセよ。
「…血が出た」
 短くはない時間ギリギリと私の肩を噛み締めてから、漸く顔を上げた彼が、ぽつりと言った。
 私は少し笑った。溺れてしまう。可愛いね。
 彼が私に大好きだと言うことは一生無いのだろうけれど。放したくない、傍にいて、なんて、口が裂けても言わないのだろうけれど。
 せめてこの泡が消えてしまうまで。きらきら光る砂が正気を隠している間だけ。
 カミサマ。私が彼を腕に抱く罪を、儚いシアワセを、どうか許してください。



(了)