カーディナル 2

 彼に二度と会いたくないと思う。
 彼に死ぬほど会いたいと思う。

 彼の感触など思い出したくもないと思う。
 どんなに手荒く扱われてもいいから、もう一度彼に触れたいと思う。

 目覚める直前に夢を見る。
 噎せ返るような甘い香りの中で、抱き合っている。
 低い、柔らかな声が耳元で囁く。愛しているよ。
 愛しているよ。
 指先まで震えながら酔う。銀色の髪に両腕でしがみついてその言葉に喘ぐ。
 蕩けた声で返す。おれも愛しているよ。
 おれも愛しているよ。
 ああ、だから、もっと言ってくれ。愛していると言ってくれ。

 私があんたを、妄信するまで。
 残酷な嘘を、真実だと妄信するまで。


 あんたの残す傷は、深くて甘い。



 寝覚めが良かったためしがない。
 サンチアゴで、どうにかそのとき受けていた仕事だけは済ませると、手に入れた金でイギリスに来た。いつまでもチリにいるのはごめんだったし、かといって日本に帰る気分でもなかった。
 マンチェスターにホテルを取り、一応友人ひとりにだけ連絡先を教えて、あとは全て切り捨てた。仕事もそれ以外も、放り出した。ちょっとした失踪だ、たまにはいいだろう、いつだって何処にいても何をしていても、何かに追われるような生活ばかり続けてきたのだから。
 昼か夜かも区別が付かないような、怠惰な時間を過ごす。
 夢と現の区別も付かないような、無為な日々に沈み込む。
 今この瞬間に、何処かで誰かが死のうと、もうどうでも良いようにさえ思う。誰かに必要とされていようと、誰かに心配されていようと、誰かに憎まれていようと、もうどうでも良い。
 眠りたい。
 麻痺したい。
 それなのに、寝覚めが良かったためしがない。

 ただ一人、滞在先のホテルを教えておいた友人から、二度目の連絡が入ったのは、マンチェスターに来てから一か月ほど経った頃だった。
 一度目の電話は、多分二週間前くらいだったか。あのとき友人は、元気か、と訊ねた。いいかげんに肯定すると、彼はそれ以上何も言わずに電話を切った。いや、最後に、メシは食え、ぐらいは言っただろうか? よく覚えていない。まあ、わざわざ日本から国際電話をかけてきて、ただ生存確認だけしてあとは放っておいてくれる気遣いには、感謝しなければならないのだろう。勿論、そういう男でないならば、連絡先など教えない。
 仕事の依頼を受けたが、断るか、と二度目の電話で彼は言った。
 傷には決して触れてこない穏やかな声が受話器の向こうに聞こえた。
『一体何処で聞いたんだか、ぼくときみが親しいことを知って、こっちに連絡をよこしたみたいだ。きみは目下行方不明だからね。偶然にも依頼主はマンチェスターの病院にいる。勝手に引き受けも断れもしないから電話したけれど、迷惑だったかい』
「迷惑を被っているのは辰巳の方だろ」
 耐熱ガラスのポットの中で、泳ぐ紅茶の葉をぼんやりと眺める。まるで生きているみたいだと思う。為すすべもなく踊らされ、奪われるだけ奪われて、あとは絞り尽くされて捨てられる。
 まるで、誰かみたいだ。
「仕事をする気分じゃない…」
 半分無意識のうちに、我ながら堕落を極めたセリフが口をついて出た。それでも受話器の向こうで男は、柔らかく答えた。
『無理することはないよ。きみはいつも働きすぎだから、たまにはのんびりすればいい。きみの居場所は口外しないから安心してくれ。ただ、その依頼主が、ちょっと気になることを言ったもんでね』
「気になること?」
『もう世界中のどの医者を当たってもお手上げなんだと。ブラック・ジャック先生に断られたら、次はドクター・キリコを呼ぶってさ。いや、もう呼んだのかな?』
「…」
 薄いグリーンのソファ、黄色の花柄が散ったティーカップ、透き通る紅のガラスポット。目に映る意味のない景色が、一瞬で、スイッチを切り替えたように、白黒になった。
 ふわりと浮き上がって、静かに降りてくる。また上って、また落ちる。硬直した視界の中で、紅茶の葉だけが気紛れに、くるくるとポットの中でまわる。
『ドクター・キリコを知らないか?』沈黙をどう取ったのか、男は何の他意もない口調で続けた。『安楽死を請け負う医者だよ。そんなことをやりたがる医者もそうそういないから、結構良く聞く名前だ。まあ、アングラであることは違いないからね、きみが知らなくても別に不思議はない』
「…どこの病院だ?」
 受話器を掴む指先が冷える。そんなことを訊いてどうする。
 知らない? まさか。反吐が出るほど知っているさ。
 回線の向こうで、男が少しだけ嬉しそうな、ほっとしたような声で答えた。
『引き受けるのか?』
「…さあな。行くだけは行くかもしれない。…行けないかもしれない。返事はしないでおいてくれ」
『判った。無理はするな』
 一か月。長いのか、短いのか。
 そのあとの会話は、殆ど頭に入ってこなかった。ただ、電話機の横のメモに、言われた病院の所在地と患者の名前を機械的に書き取って、受話器を置いた。
 いつの間にか紅茶の葉が、跳ね回るのをやめてポットの底に沈んでいた。
 二度と会いたくないんじゃなかったのか?
 本当は死ぬほど会いたいんじゃないのか?
「ち。」
 壁の時計を見上げ、埋まっていたソファから立ち上がる。午前十時。
 放っておけばいいんじゃないのか?
 行かないなんてことが出来るのか?
 バスルームに向かう、その背中にいつもの幻聴。愛シテイルヨ。あんたのその言葉に、すごく傷ついたんだ。とっても傷ついたんだ。
 ああ、だけど。
 クリーム色の壁紙、淡いブルーのタオル。少しずつ目の前に散らかった光景の色が戻ってくる。ガラスポットの紅茶は、今カップに注いでしまわないと、渋くて飲めなくなるだろう。もういい。誰もがそうであるように、あの紅茶の葉も所詮無駄死にだ。
 ねえ、だけど。
 追いかけて、手を伸ばし、肌に触れる。あのとき、あんたの目には、私が映っていたはずだから。






 病院の裏口から出たところで彼を見つけた。
 相も変わらぬダークスーツの肩に散った長い銀髪が、殆ど地平線に沈んだ大陽の弱い光に煌めいて、まるで一枚の上品な絵のように見えた。
 笑ってしまうほどに呆気ない再会。実際そうなってしまえば一か月も引きこもっていた自分が馬鹿みたい。
 俯いて階段を上ってくる彼はまだこちらに気付いていない。それでも飛び跳ねた心臓を深呼吸で落ち着けて、膝から崩れそうになる両足に力を込めて、階段を下りていく。距離を縮める。
 いつも通りに。まるで傷ついたことなどないように、いまだに傷が塞がっていないなんて微塵も感じさせないように。
 きっと彼に会うと思って、ここに来たんじゃないか。
 全ての準備を整えて。
 彼との距離が、五段くらいになったところで、斜め上から声をかけた。
「仕事かい、ドクター・キリコ」
 俯いていた彼が、この場所ではまず聞かないはずの日本語に顔を上げた。
 色素の薄い瞳が、一瞬、多分瞬きでもしていたら確実に見逃してしまうくらいのほんの一瞬だけ、驚いた、ように見えた。
 勿論、次の瞬間には、普段通りの薄笑みの裏に隠れてしまったが。
「よオ、ブラック・ジャック先生じゃないか」一か月ぶりに見た彼の、実に彼らしい皮肉な表情に、少しぞくりとする。「なんだ、まさかまた患者が被ったのか? いい加減このパターンにも飽き飽きだな。で、いつもの通りにおれはおまえさんと律儀に罵り合いを始めなけりゃならないのかい」
「おまえさんが人殺しをやめれば、すぐにでもこのパターンから脱出できると思うがね」
「だから人聞きの悪い言葉を使うなよ。おれは患者本人に呼ばれて来ているんだぜ? 人助けだ」
 チリでのことには触れてこない。だが、彼のその目つきが露骨に語っていた。
 あの屈辱的な夜のことを、覚えているか? ブラック・ジャック。
 出来る限りの冷めた目つきで見返してやる。そんな昔のことは忘れた。そもそもあれは楽しいプレイの一環だったんだ、私は充分に楽しんで、そして忘れた。
 通り過ぎる風が、肩にかけたコートの裾を揺らして逃げていく。
「残念だがその患者の依頼は、ついさっき私が受けちまった。無駄足だったな」
 同じタイミングで彼の銀髪が揺れた。せめて彼の髪がこんなに綺麗な色でなかったら、と頭の隅でどうでも良いことを思った。
 こんなふうに見蕩れたりしないかもしれないのに。
 こんなふうに息苦しくならないかもしれないのに。
 それとも、同じなんだろうか、それが彼の一部である限り。
「なるほどね、そいつは残念だ」別に少しも残念だとは思っていない口調で彼は言った。「で、どうするんだ? おまえさんは。おれはもう税関は通っちまったぜ、今度は英国情報部でも呼びつけるか。もしかしたらおれの持っている超音波発生装置は、超音波通信装置なのかもしれないからな、スパイがいると吹き込めば少しは信憑性もあるぜ、過激派よりはな」
「…」
 触れてきた。
 一段階段を下りて彼との距離を詰め、感情の読めない彼の瞳を睨み付けて答えた。
「待て」
「なに?」
「と、おれが言えばおまえさんは大人しく待つんだったかな?」
「信じているのか?」
「どうかな」ふいと視線を外して、彼のすぐ横をすり抜けた。「酒でも飲もうぜ、ドクター・キリコ。患者は明日いっぱい術前検査、オペはあさって。おれは今夜は酒を飲む。付き合えよ。おれだってチリワインに付き合ったじゃないか」
 それならこちらからも触れる。ここで躊躇したり引いたりしたら、おしまい。
 彼は、少し声に出して低く笑ったあと、揶揄うように言った。
「珍しいな。おれと酒が飲みたいのか? このあいだのがそんなに美味かったか」
「付き合うのか、付き合わないのか?」
「ああ、付き合いましょう」
 どうでも良いというように、彼に背を向けて階段を下りる。こういうふうに誘えば彼は気紛れに付いてくる、こともある。
 振り返りたくても振り返れない背中に、後を追ってくる彼の革靴の音が聞こえた。
 自分より少し歩幅が長いぶん、少しゆっくりとした足音。
 来た。
 引っ掛かった。
 思わず鼓動が一つどくんと震える。そっとコートの内側に指を滑らせる。そうだ、会えると思ったから、この仕事を受けたんだ、準備は出来ているんだ。
 例えば諍いもなく別れたら、あんたは私のことなど、すぐに忘れるでしょう?
 彼は隣には並ばなかった。ただ後ろを付いてきた。全く気にしていないふりをして、マンチェスターに来てから何度か行ったことのあるショットバーに向かった。後ろから吹き付ける風が、彼の淡い香りさえ運んでくるような気がして、密やかに息を詰まらせる。
 どうすればあんたが傷つくのかなんて、実はよく知らない。
 ただもしかしたら、信じていないと言えば、怒るかもしれないと思う。自由を奪われると、怒るかもしれないと思う。彼の意思を無視すると、怒るかもしれないと思う。
 馬鹿だ、と思う。
 どうすれば私が傷つくのか、私自身より良く知っている男を相手にして、勝ち目なんてない。
 ああ、それでも。
 それでもいいんだ。
 たとえどんなに深い傷をつけられても。





 カクテルを三杯空けてから、ウオッカをストレートで頼む。
 目の前に置かれたグラスを、左隣のスツールに座った彼からさりげなく隠すように左腕を立てて、てのひらに顎を乗せる。
「一か月ばかり、おまえさんの噂を聞かなかった」
 彼は、左手に煙草を燻らせながら、そう言った。右手には嫌味のようなタワリッシ。同志だって?
 もちろん会話が弾むわけはない。ただ淡々と、探り合うような言葉が流れる。
「普段なら、おまえさんが仕事をすると、世界中の何処にいても何となく噂を聞く。ところがここ一か月は皆無だ。ブラック・ジャック先生が休暇とは珍しい」
「おれだってたまには休む」
「そうか。おれはまた、おれのせいでおまえさんが立ち直れずに何処かで泣き暮らしているんじゃないかと思って、心配したぜ」
「心配かけて悪かったなア、ところでおれはおまえさんに、泣き暮らさなくちゃならないようなことを、何かされたっけ」
 右手で薬包紙を開く。紙の擦れる微かな音は、ショットバーの薄暗い店内に流れる憂鬱な音楽に紛れて消えた。
 白い粉末状の薬をウオッカに落とす。あっという間に溶ける。
 彼が気付いた様子はない。
 グラスを右手で取り上げて口元に運び、唇を付けて、少し噎せるふり。
「き、っついな」
 彼が首だけこちらに振り向けて、視線を寄越したのが判った。
 その目に潤んだ視線を投げてから、彼の右手のカクテルグラスを奪い、代わりに自分のグラスを押し付ける。今更強い酒に噎せるなんて芝居が通じるのかどうは知らない。
「交換してくれ」
「それもウオッカベースだけど。おまえさん、そんなに酒弱かったか?」
「最近紅茶ばかり飲んでるから、粘膜が弱ってんだ。度数落ちてるだけそっちのがマシ」
 不自然にならないように。
 くだらない戯れのように。
「ふうん」
 彼は特に文句もつけずにグラスを受け取ると、少しの不信感も見せずに、しかも、一気に空けた。
 あまりに上手く行き過ぎて、逆に少々呆気に取られてしまう。その目の前に、空になったグラスを、無造作に返される。
 グラスから彼に視線を戻すと、彼はこちらを見詰めたまま、僅かに舌を出して薄い唇を舐めた。
 それから、全く平然とした口調で、言った。
「で、何を入れた? ブラック・ジャック」
「え…」
「この酒に、何か入れていたろう? 薬包紙につつんだ、何か」
「…」
 ばれていた?
 瞬間的に跳ね上がった混乱を、無理やり押し込める。それでも唇からは、いかにも動揺した声が洩れた。
「…見ていたのか? おまえさん、だったらどうして飲んだ?」
「飲ませたかったんじゃないのか?」
「…断りゃいいじゃねえかよ。何かも判らない薬を入れられた酒、飲むか?」
「でも、飲ませたかったんだろう?」
 何を考えているのだかさっぱり解らない瞳がじっとこちらを見ていた。ああ、さっぱり解らない。
 何故飲んだ。
 手にしたままだったタワリッシをカウンターに置いて、彼と視線を合わせたまま、答えた。精一杯感情は消したつもりだが、口に出した言葉は僅かに掠れていた。
「…ブレンドだ。特製だぜ。主成分はフェノバルビタール、あとはトリアゾラムとか、そのあたり」
「おまえな」彼は少し呆れたような顔をして見せた。「眠る前に下手すりゃ死んじまうぜ、しかも酒に混ぜるか? だいたい、おれを眠らせてどうする。こんなところで眠り込まれたっておまえさんじゃ運べもしないだろうに」
「死なないよ、おれが調製したんだから。眠るだけだ。酒場で酔いつぶれた友人を、運ぶ手段くらいはいくらでもあるさ」
 何故飲んだ?
 しつこく問いたがる唇を無視し、動揺は強引に飲み込んで、にっこりと笑ってやる。相応しくない場面で、いつかの彼がそうしたように。
 彼は、左手に持っていた煙草を悠々と唇に運ぶと、ゆっくりと深く吸い、それから細く煙を吐き出した。視線はぴったりと合ったままだった。その薄い色の瞳には、怒りもない。焦りもない。
「で、おれを眠らせて何をしたいんだ?」
 どうしてこんなに平然としているのだろうと思う。
 スツールを蹴って、怒鳴りつけて、立ち去ればいいのに。
「チリのお返しをしようと思ってね」
「おまえさんも、ものの道理が判らんやつだなあ。あれはおれがおまえに仕返しをしたんだぜ。それでお終いじゃないか?」
「おれは仕返しがしたいんじゃない、お返しがしたいんだよ。とても気持ちよかったからな」
 彼の左手がカウンターの灰皿に伸びる。それにつられそうになる視線の焦点を無理やり彼の瞳に突き刺して、にやにやと下品に笑ってみせる。
 視界の隅で、煙草の灰は綺麗に灰皿に落ちた。彼の顔はこちらを向いたままだった。左側の視野には欠落があるのだろうに、器用なことだとぼんやり思う。
 カウンターの向こうのバーテンダーが、厨房に続くらしいドアの前から歩み寄ってきて、灰皿を交換し、またドアの前へ帰っていった。彼に日本語が解ったら、通報されるかもしれない。
「抱いて欲しかったならそう言えばいいのに」彼が唇の端でいやらしく笑って返した。どちらが卑怯な罠を仕掛けたのだか、つい忘れそうになる表情だ。「それとも、もう一度、言って欲しかった? 望みを言えよ、おれはおまえの好きなようにしてやるぜ。考えてもみろ、おれは基本的に、いつだっておまえには甘いじゃないか」
「…逃げたほうがいいんじゃないのか? 薬が効き始めるまでに二十分くらいはかかる。何処まで逃げられるかは知らないが、おれの目の前で眠り込むよりは、道端でゴミに埋もれている方がまだマシだと思うがね」
 甘いって? どこが。
 これっぽっちの危機感も感じていない様子の彼に、逆にこちらが少し苛立った。自分が彼の立場だったら、絶対に何が何でも逃げる。何故彼は逃げない?
 目の前にいるのは、心にもない愛を優しく囁いてまで、徹底的に傷付けたいと思ったことのある、憎たらしい男だ。たった一か月ばかり前。そのためにサンチアゴをうろつきまわりさえした。そこまで、嫌いな男だ。
 そうだ、あんたは私が大嫌い。
 それなのに、何故逃げない?
 彼の唇が笑みを含んだまま煙草を咥え、煙を吐き出した。まともに顔に吹きかけられて、今度は芝居ではなく噎せた。
「何故おれがおまえから逃げなけりゃならない? おれがおまえから逃げたことなどあったかな? ま、つれなくしたことはあったかもしれないが」
「…何されるか判らねえよ。おまえさんは眠っちまうんだから。殺されでもしたらどうするんだ?」
「おまえさんがおれを殺すかよ」今度は揶揄うように彼は目を細めた。「でも、確かに、おれを怒らせるよりは、むしろ殺しちまったほうがいいんじゃない? おれはやられたことはやり返す。知っているだろ? ブラック・ジャック先生。たわいもないお遊びならおれはきっと笑って付き合うが、笑って許せないことをするつもりなら覚悟を決めてからやれよ」
「…」
 ぞくりと鳥肌が立つ。笑って許せないことをするつもりなら?
 当たり前じゃないか。
 笑って付き合われたら、それで終わり、彼は本当に一秒前のことさえ忘れて去っていくだけだろう。怒らせなければならない。傷つけなければならない。世界中の何処にいたって、あんたが私を追ってくるくらい。
 たとえどれほど酷い仕打ちをされようと。
 私がどんなに血を流して見せても、一度だけでは気が済まないほど。
「さて」
 彼は短くなった煙草を灰皿に押し消すと、くだらない会話を打ち切るように、二人の視線の繋がる中程でひとつ右手の指を鳴らしてから、立ち上がった。先が読めずについぽかんと彼を見上げた目の前に、床に置いていた黒い診療鞄を差し出される。
 そうだ、病院の、消毒薬の匂いの中にいたのは、そうも前のことではないのに、などと少し思う。
 彼の隣にいる。それでけで、時間はえらく濃密になる。
「早く行こうぜ、本当に眠り込んじまう」左手でカウンターに紙幣を数枚置きながら、彼が言った。「この店におれを転がしておくことが目的じゃないなら、さっさと目的地に連れて行け。運ばせるのは面倒だろう、目が覚めている間だけは協力してやるから、早くしろ」
「…どうして?」
 鞄を受け取って、立ち上がる。自分で睡眠薬を盛っておきながら、思わず間の抜けた問いかけが唇をついて出る。
 どうして、知っていながら飲んだ。
 どうして、逃げ出さないんだ。
 どうして、私の仕掛けた罠に、あんたは自分からかかる?
「知っているだろう? おれはおまえには基本的に甘いんだよ」
 彼は珍しく、まるで華が開くような何の毒もない美しい微笑みを浮かべると、とろけるような低い艶のある声で、平然と嘘を付いた。





 頼んだ車がホテルに向かう途中で、彼は眠りに落ちた。
 手首で脈拍を測り、顔を近づけて呼吸を数える。問題なし、計算通り。数時間は揺さぶっても叩いても起きないだろう。バルビツール系の眠剤をぎりぎりまでアルコールと一緒にかまされて、ぴんぴんしているやつがいたらそれはそれで大したものだ。
 ホテルに着いてから、ドアボーイに頼んで彼を部屋のベッドまで運ばせた。毎日毎日何をしているのかは知らないが、一か月間連泊して、そのうえ惜しげもなく金を落とす客の頼みを、厭な顔ひとつ見せずに彼らは引き受けた。真っ黒ななりをした二人連れ、片方は縫合跡だらけ、片方は眼帯。我ながら見るからに怪しげな客だとは思うが、一か月の引きこもりも無駄ではなかったらしい。
 時間をかけてシャワーを浴び、アルコールを洗い出してから、裸に新しいシャツ一枚を羽織っただけで寝室に戻った。彼はすうすうと寝息を立てて眠っていた。ライトを点けてベッドに歩み寄り、覆い被さるように寝顔を眺める。
 多分、この男は色男なのだろう、とぼんやり思う。顔立ちは非常に鋭利だが、まあそのほうが彼らしい。まっすぐに跳ね上がった眉とか、通った鼻筋とか、薄い唇とか。睫まで美しい銀色であるなんて当たり前のことに改めて気付いて、何故か息苦しくなる。
 額にかかる銀髪をそっと掻き上げた。指先にまとわりつく繊細な髪に、ふと肌がざわめいた。
 なんだこれ。
 まるでこれじゃ私があんたに惚れているみたい。
 穏やかなリズムで、静かに吐息を洩らす唇へ、そっと唇を落とす。ただ触れるだけなのに、呆れるくらいに鼓動が早くなる。
 数え切れないほど何度も口付けを交わした。目合う最中、獣のように、あるいは天使のように。
 それでも、自分から触れたことなど過去にあったろうか? 触れたいと切実に思っても、いつも表情で白状して、ただ待つだけ。
 卑怯者。
 決して振り払われないと判っていなければ、こんなことすらできない。
 触れただけの唇を離し、ベッドに乗った。眠る彼の上に跨り、自分よりも重い男の身体を苦労して左右に転がしながら、ゆっくりと服を脱がせる。
 次第に露になる彼の肌に、服にかけた指先が無様に震えた。構うものか。誰が見ているわけでもなし。
 服を全て剥ぎ取ってしまうと、とりあえずハンガーにかけるものはかけて、たたむものはたたんだ。それから、ベッドの下へ放り込んでおいたトランクを引っ張り出した。
 蓋を開ける。少し考える。できるだけ馬鹿馬鹿しくて、屈辱的で、大仰で、下手な洒落みたいなものがいい。今日、まだ太陽が真上にある健全な時間にいきなりマンションまで押しかけて、マンチェスターに来てから知り合い何度か身体を合わせたことのあるイギリス人から、取り敢えず急いでかっぱらってきた道具を適当に漁って手錠二本と足枷二本を掴み出す。彼を忘れるために誰か違う男に抱かれてみようと思っただけだったが、サディストの知人というのも案外役に立つものだ。
 彼の手首と足首を、ベッドの枠に手錠と足枷で固定する。
 これでは長さが足りないかとも思ったが、彼の手足が長いおかげでちょうどぴったり彼は磔になった。なかなかの出来映えに、背を少し反らせて目の前に横たわる獲物をしげしげと眺める。過去に何度か彼に抱かれたことはあったが、彼の身体をこうもじっくりと眺めるのは全く初めてだった。こうして彼が眠ってでもいなければとてもできやしない。
 綺麗な身体をしているのだろうと思う。繋がれ、伸ばされた腕や脚の筋肉のラインがとても綺麗だ。純粋な日本人では有り得ない、肌の色。当然ではあるが体毛は全て銀色。適度に厚い肩、胸。腰は細めで、勃起もしていないのにまあ御立派なサイズの性器。
 私の前に曝け出して無防備に眠っている。銀色の手錠と足枷で拘束されて。目覚めてこの有り様に気付いたら、さすがにあんたでもあの時逃げ出さなかったことを深く後悔するだろう。ざまあみろ。
 膝でベッドに乗り、彼の身体を跨いで馬乗りになる。ちらりと壁掛けの時計に目をやる。彼が眠りに落ちてから約三時間。薬の効果は個人差が大きいから何とも言えないが、いくら早く覚醒したとしてもあと一時間くらいは眠っているか。
 両手で彼の頭を抱くように銀髪に触れる。自分の指先が細かく震えているのが見えたが、無視をする。
 彼の髪は見た目の印象通りにひんやりと冷たく、見た目の印象を裏切って柔らかく指に流れた。そのまま背を屈めてそっと首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んで彼の香りに沈む。
 思い出そうと意識しなくても、それだけで彼の感触が、鮮やかに肌に蘇った。
 彼のセックスは、いつの場合も圧倒的だった。そう、圧倒的。他に良い言葉を思いつかない。
 大抵意地の悪いセリフを吐く。弄ぶような、辱めるような。そうでなければ命令口調だ、たとえそれがどんなに穏やかなものでも、逆らえない。
 自分はマゾヒストなのだろうかとも思う。いや、淫乱なのか。彼の手がこちらに伸びると、あっという間に堕ちる。まるで条件反射のように。逃げようとするのに逃げられない、それは、彼が強引なのではなく、自分が本当は逃げたがっていないからだ。
 彼に抱かれたいからだ。
「キリコ」
 眠る彼の首筋に呟いて、震える指を彼の髪から離し、胸に這わせる。身体を摺り寄せ、羽織ったシャツ越しに彼の体温を感じながら、肌に頬を押し付ける。その下を走る血流を感触で聞く。
 いつから私はこんなになっちまったんだろう?
 あんたのせいじゃないか。
 あんたのせいじゃないか。
 それなのにあんたは、私に愛していると言ったんだ。
 ゆっくりとした呼吸を直接触れた身体で数える。酸素を取り込んで、二酸化炭素を吐く。生きているんだなと当たり前のことを思う。
 左手をシーツについて自分の体重を支え、頬を胸に押し当てたまま、右手を更に下に伸ばした。何度も、気が狂うくらいに咥え込まされたことのある性器を掴み、指先でそっと撫でる。さて、薬で眠っている男が少しでも反応するものか。まあ、この状況で、彼がきっちり覚醒していたら、そのほうが余程勃たないだろうから、まだマシか。
「、」
 てのひらを押し付けるように刺激し、緩く掴んで上下に擦る。そうすると、規則正しかった彼の吐息が、少しだけ乱れた。
 そろそろ起きるかもしれない。
 それまでは精々色気のある夢でも見ていて欲しい。彼の胸から顔を上げ、性器を擦り上げる指はそのまま、彼に顔を近づけて表情を見る。
 右の瞼の下で、眼球が動いているのが判った。鋭いラインを描く眉が、ほんの僅かに、苦しそうに歪められた。ああ、これはもう起きるな。眠剤には結構強いのか。
 それに合わせるように、右手の中の性器が、ゆっくりと反応して、硬くなってきた。熱く、張り詰めてきた。不意に、ぞくりと背筋を良く知る衝動が這い上がってくる。つられて立ち上がる、自分の性器。
 いいんだ、それくらい、はしたないほうが。
「ウ、」
 間近に見詰める目の前で、銀色の睫が軽く震えたかと思うと、彼の唇から低い、不愉快そうな音が洩れた。それからのろのろと、焦れったいくらいのスピードで、瞼が持ち上げられる。色素の薄い瞳がその向こうに覗き、途端に飛び込んできた天井のライトに、眩しそうに目を細める。
「…」
「おはよう、ドクター・キリコ」
 今自分が何処にいるのか、どうして眠っていたのか、全く判っていない朦朧とした目だ。こんな表情の彼を見たことなど多分一度もない。何故か何となくざわめく胸を、ひそかに貪った深呼吸に紛らわせて、できるだけ飄々と声をかける。
 彼にのしかかったまま、彼の半ば勃起した性器をゆっくりと擦りながら、観察するように彼を見詰めて。
「ブラック・ジャック」
 彼は、まだ寝ぼけている声で、そう言った。目の前に誰がいるのかくらいは認識できたようだ。不自然な姿勢の身体を取り敢えずは反射的に動かそうとしたのだろう、腕の筋肉がくっきりと浮かび、それと同時にガチャガチャと金属音が響いた。
「…」
 彼は一瞬、ただ純粋に、酷く不思議そうな顔をした。何故身体が動かないのか、理由も原因もさっぱり解らないし、そもそも自分の身体が今どういう形になっているかすら把握できていないといったところか。しかもこのイヤな音は何?
 枕に乗った彼の頭が動き、鳴り続ける金属音の正体を見定めようと、視線が右上に移動した。止まった。一度瞬いた。それから、もう一度瞬いた。腕が動かないことと、手首が痛むこと、手錠が鳴っていることを、なんとか一つの線上につなげようとしている様子。
 それから、彼の視線は、ゆっくりとこちらに戻ってきた。ベッドの柵から、ベッドサイド、壁、天井をなぞって、実にゆっくりと。ようやく噛み合わされた視線の先に見えたのは、普段の彼よりはあからさまだったが、もう既に寝起きの無防備さはない目付きだった。
「…おい、ブラック・ジャック」
 口調も大分いつもの彼に戻った。
「おはよう、ドクター・キリコ」
 その彼に、もう一度同じセリフを聞かせて、にっこりと笑って見せた。そうだ、いつまでも眠っていてもらっちゃ困る。
 きちんと意識に刻み込んでもらわないとね。
 あんたが私にしてくれた残酷なお遊びよりは面白くないかもしれないけれど。

 さあ、ゲームを始めましょう、キリコ先生。





 唇を開かせて錠剤を放り込み、指先で喉の奥まで押し込んだ。
 当然口に突っ込んだ指を噛み千切られるくらいの覚悟はしていたが、彼は意外にもあっさりと飲み込んだ。起き上がれない彼の唇に、口移しで水をやる。これも素直に飲む。
 ベッドの上、全裸で磔にされ、死ぬほど嫌いな男にのしかかられている。眠っている間に半端に勃たされた性器を掴まれている。
 一体何処からその余裕が出てくるのだか、はっきり言うと理解できない。
「で、今度は何」
「ブレンドだ。塩酸ヨヒンビン、硝酸ストリキニーネ、あと、クエン酸シルデナフィルが、入っていたか、入っていないか。大体そんなところかな」
「あのなあ、ブラック・ジャック」彼はわざとらしく、思い切り眉をしかめた。そんな顔をするくらいなら、はじめから飲まなければいいのに。「わざわざそんなもん飲ませるか? なんだか知らねエけど、おれいつのまにか勃ってない? 薬なんか使わなくたって、おまえさん、自力でせっせとおれを勃たせりゃいいだろ。それともなにか? おれの普段の勃起率ではおまえは満足できないと、そういうわけか」
「眠ってたからなんとなく勃ったんだろ。目が覚めたら萎えるだろ、おれに乗っかられてたら。おまえさん相手に突っ込む気分にもならないし、取り敢えず薬使ってでも勃ってもらわなけりゃア、なんにもできない」
「おれは勃つぜ? おまえが相手なら。いつもそうじゃないか」
 両手と両足を拘束された彼が、しかめツラは引っ込めて、にやにやと笑う。まともに身動き一つ出来ないくせに、まるで本当に楽しそう。
 彼が動けないのをいいことに、乱暴にその唇を奪って、それでも怖くなってすぐに離した。
 あんたは私が大嫌い。
 そうだ、そんなことは、よく知っている。
「こういう趣味があるのかい? ブラック・ジャック先生」
 全く平然とした口調で、揶揄うように彼が言った。薄い唇がたった今の接触で濡れている。そんなことなどには少しも揺らがない瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
 彼の視線は苦手だと思う。逃場を奪われ、追い詰められて、張り巡らせた鉄線を軽く透かして奥底まで覗かれる。
「薬はともかく、一体こういうもんをどっから調達してくるのかねえ。この手錠、本物だ。なあ先生、こういうことがしたいなら、言えばいいじゃない? それとも、酒と薬で一方的に眠らせるところからが、おまえさんにとっては重要なプロセスなのか?」
「別に趣味じゃない」彼の肩のあたりに頬を寄せ、右手で彼の性器を刺激しながら答えた。「おれは、どちらかと言えば虐げられるほうが好きだ。酷いことをされると楽しい。だからおまえさんに抱かれるのは好きだよ、キリコ。だが、ちょっとチリで戯れただけで、おまえさんはどうやら勝手にお遊びには満足しちまったみたいだから、趣向を変えてるんだ。少しは燃えないか?」
「そんなにおれが欲しい?」
「ああ、欲しいね。他はさておき、あんたの身体は気持ちいい」
 首筋に唇をあて、肌にきつく吸い付く。所々に濡れた赤い跡を残しながら、胸に、腹に舌を這わせる。
「傷ついたくせに」
 笑いを含んだ彼の低い声が頭上に聞こえた。構わずに、彼の身体に口付けを降らせる。
 ああ、その通りだよ。
 過去の記憶には時々飛んでいるところもあるが、多分こんなふうに彼に触れたのは初めてだった。滑らかな皮膚の下に、しなやかな筋肉。この身体がいつも圧倒的な快楽を連れてくる。この身体と繋がり合うときのキチガイじみた衝撃を知っている。
 どうしても震える唇を、誤魔化すように、脇腹に歯を立てた。
 誰かを抱くときのように愛撫すればいい。それなのに、誰を抱くときにも感じない、この泣きたくなるような息苦しさは何。
 食いちぎる寸前まで噛み付く顎に力を込める。彼は何も言わず、呼吸さえ乱さなかったが、それを裏切るように四肢を拘束する枷が僅かに鳴った。少し位置をずらして再び彼の肉に食いつきながら、ちらりと彼の腕に目をやる。軽く握られた大きな手、綺麗に浮かび上がる腕の筋肉。手錠が手首の肌に食い込み、痛そうだ、などと他人事のように思う。
 しばらくそうして彼の身体に幾つもの歯型をつけてから、更に身体を下にずらして彼の股間に跪いた。
 右手で刺激し続けていた彼の性器は、大嫌いな男に身体を好き放題触られ、舐められ、歯を立てられて、おそらく死ぬほど厭だろうに、逞しく勃起していた。触れる手を跳ね返すような張りと熱さに思わず一瞬躊躇したが、振り払って顔を寄せる。
 生々しい、男の匂い。媚薬をかがされたように神経が眩む。
 左手で睾丸を包み、手の中で緩く転がしながら、右手で性器の太い幹を握り、先端に口付ける。彼の身体が少し身じろいだ。同時に聞こえる複数の金属音に、今、少なくとも今は、自由を封じられた彼が、まるで生贄のように自分の目の前に投げ出されているのだということを、怖いくらいに思い知らされる。
 それは、甘くて苦い、血を啜るような狂気の味。
 悔しいだろう?
 厭で厭でたまらないだろう?
 伝わるか? 私があんたの言葉にどれほど傷ついたか。
「クスリってのは恐ろしいなあ」張り詰めた先端に軽く舌を這わせる合間に、言った。「眠っているあいだに裸に剥かれて手錠と足枷で繋がれて、憎たらしい男に乗られて、それでもあんた、勃っちまうもんな。なあ、キリコ、おれの手で勃つなんて大した屈辱じゃないか?」
「言ってるだろ、おまえが相手ならおれは勃つぜ。薬なんぞなくても勃つ。おまえさんが楽しいなら、別に、それでいいさ。存分に楽しめよ」
「なあ、キリコ、おれに触られて、おれにしゃぶられて、気持ちいいか?」
「気持ちいいよ」
 どう引っくり返しても、ベッドに拘束されて、不本意に性器に食い付かれている男とは思えない、淡々とした声で彼が答えた。言葉の端々に、揶揄さえ滲んでいるような気がして、過去に散々慣れさせられた、その傷口を引っ掻かれるような感覚に思わず肌が粟立つ。
 どうして。
 あんたを支配しているのは私の筈なのに、私はいつでもあんたの奴隷。
 首を傾け、右手で握った幹の裏の部分に浮き出た血管を、唇で辿る。べったりと舌を広く付けて唾液をなすりつけ、何度も上下させる。時々軽く吸い上げる。
 彼の性器は手の中で、ますます硬く、猛々しくなっていった。自分の性器もそれと張り合うように、纏ったシャツの裾の下で、きつく勃起しているのが判った。
 唇を大きく開き、彼の性器を先端から咥え込みながら、シーツに肘をついて体重を支える左手の指で、シャツのボタンを外していく。張り出した部分を収めるのが精一杯の唇を窄め、強く吸い上げて、窪みを舌先で刺激する。
 あさましい、と思う。
 男の性器を口に含んで、鼻を鳴らし、興奮している。とんだ一人相撲だ。薬を飲まされ、両手両足を拘束された男は、卑劣な罪人に身勝手に勃起させられていながら、これっぽっちも乱れていない。
 シャツのボタンを全て外してしまうと、腕は抜かないまま、彼の股間から顔を上げた。ベッドサイドへ手を伸ばし、紅茶を頼んだときに一緒にくっついてきたジャムの小さなビンを掴む。
 フォションのリンゴジャム? 紅茶に入れられるなら満足だろうが、セックスだかレイプだか判らない汚らしい行為に使われるなんて哀れなことだ。
「結構適当だな、おまえ」
 金色の蓋を開けると、不似合いな甘ったるい香りが漂った。右手の中指を突っ込んで掻き回す。もう少し粘度が高い方が使いやすいような気もするが、この際、どうでもいい。
 彼はその行為を目を細めて眺めながら、にやにやと笑って言った。だから、その余裕は、何処から湧いて出るんだ。
「手錠を用意しておいて、なんでローションの一本も準備してないわけ」
「風呂場でシャンプーぶっかけて突っ込んでくる男に言われたくない」
「ありゃアおれなりの僅かばかりの気使いだぜ」
「どこがだ。この変態サディスト」
 目下の状況では洒落にしかならない悪態をついて、ジャムを掬い上げた指を、膝立ちになった自分の後孔に伸ばす。男の性器を咥え込むことに慣らされた、いやらしい部分に塗りこんで、ゆっくりと筋肉を解す。
 彼の視線が痛いほどに肌に突き刺さった。
 瞳を犯し、首筋を撫でて、焦らすようにじっくりと胸に這う。肌蹴たシャツから覗く、触ってもいないのに硬く立ち上がった乳首を、細めた目で見られる。
 彼が、薄く笑みを残した唇を、ちらりと舐めた。
 まるでその舌に、本当に舐められたような愉悦が肌を走り、思わず吐息が洩れた。
「は…」
「おれをしゃぶって、おれに見られるだけで、感じるの?」
 相変わらずの意地の悪いセリフを囁かれる。身動きひとつできずにいいようにされている男が、お構いなしに優位に立とうとする。
 憎たらしい。
「指、入れた?」
「…ッ、」
「入れなよ。最初は一本でいい。少しずつな、おれがいつもやってやるように」
 死んじまえ、鬼畜野郎。
 厭だ、と思うのに、指は彼の言葉通りに動いた。ジャムでべたべたになった場所にぬめり入り、抵抗を掻き分けて奥を探る。
 膝から下だけで支えた体が、びくびくと震えた。
「ア」
「きついだろ。おまえはいつもはじめはとてもきついんだ。指を動かしてごらん、小刻みに。少しずつ柔らかくなるから」
「ん…ウ」
 操られるように言うなりになる。自分の後孔に突き立てた指が、まるで彼のものであるかのような錯覚に陥る。
 なんだこれ。
 結局あんたには歯が立たないって?
「気持ちいいだろう、ブラック・ジャック? 出したり入れたりしてみなよ」
「はア…」
 思わずぎゅっと目を閉じて、彼の声にただ犯される。
 中で指を曲げてごらんよ。
 自分のいいところくらい判るだろう? いつもおれが触ってやってるじゃないか。
「キリコ…ッ、あ、」
 ぐらぐらと揺れる上体を支えきれずに、彼の上に突っ伏した。頬を胸に押し当て、腰を突き出した格好で、男の性器を飲み込むために自分の指で準備を施す。彼の香りと、甘いリンゴの香り、腹部に触れる彼の熱い性器の感触。肉を押し開く獣じみた行為に、血の上った頭が少しずつ壊れ始める。

 違うよ。繋がれているのは、私のほうだ。

 そう、あんまり強く押すなよ、出ちまうぜ。
 ああ、いい声出すなあ。
 広がってきた? じゃあ、一回指抜いて、もっとたっぷりジャム付けて、今度は二本な。
 ゆっくりでいい。指先を重ねて入れて、ゆっくり、根元まで押し込め。
 タマラネエだろう?
 おれのを咥え込む想像をしながら、掻き回せばいいんだ。もうぐちゃぐちゃだろ。
 なあ、先生。
 スゲエやらしい音。
「ふ…、」
 立てた太腿に痙攣が走る。許しは請わずに、自分の秘所に潜り込ませていた二本の指を引き抜き、荒く呼吸を乱しながら身体を起こした。殆ど無意識のうちに唇から洩れる、途切れ途切れのもの欲しげな喘ぎを殺すことは諦めて、彼の勃起した性器の上に小さなジャムのビンをかざし、指を突っ込んで中身を全て掻き出す。
 空になったビンをベッドの下に放り出した。先端にたらされ、幹を伝い落ちるジャムを、両手で彼の性器全体に塗りたくった。
「がっついてるなあ。逃げやしねえよ、逃げられねえし」僅かに嘲りを含んだ低い声が言った。「もっとじっくり楽しんだらいいんじゃないか? せっかくこうして拘束されてやってんだから。なんかあるんじゃないの? ぶん殴るとか、蹴っ飛ばすとか、鞭でひっぱたくとか、日ごろの恨みつらみを少しは晴らせるような、楽しい遊びかたが」
「煩い…黙って、喰われてろ…ッ」
 ジャムに残る果肉の粒が、彼の肉棒を擦るてのひらを刺激した。残念ながらこっちにはそんな余裕がない。先端から根元までジャムまみれにしてしまうと、がたがたと震えてなかなか言うことを聞かない脚で、彼の腰を跨いだ。
 右手で彼の性器を掴み、その先端を、自分の後孔にあてがう。少し前屈みになってジャムに汚れた左手を彼の胸に付き、ゆっくりと腰を下ろしていく。
「アア、は…あ」
「ゆっくり、ゆっくり。焦るな。その姿勢は無駄な力が入るから、ツライんだよ」
「ウ、んん…!」
「ゆっくりだって。先が入っちまえば、あとは入るから、きつくても我慢して飲み込め。ほら、がんばれ、先生」
「ク、ソ…ッ! 黙、れ…ア」
 何であんたが指示を出すんだ。
 散々に塗りこんだジャムのおかげで、引き攣れる痛みはなかった。だが、いつものように半ば強引に挿入されるのと、自ら動いて受け入れるのとでは当然事情が違った。
 彼の言うとおり、確かに下肢に無駄な力が入るのだろう、食い込んでくる違和感は過去の比ではなかった。こんなものが入るのか?
 逃げ出したくなるような恐怖と、その太い肉棒が生み出すはずの快楽への期待が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って意識を犯す。何かに押さえつけられてでもいるかのように、掠れた声を洩らしながら、彼の性器の上にじりじりと腰を落としていく。
 気が遠くなるような時間をかけて、なんとか張り出した先端を飲み込んだときには、ジャムでべたべたになった秘所は、もう限界だと思うまで押し広げられていた。身体中に汗が滲んで気持ちが悪い。彼の性器を掴んでいた右手を離し、両手を彼の胸に付く。あまりに圧倒的な感覚に、その腕がぶるぶると震えた。
「上手にできたね」
 肌を切り開いて神経を見てやりたいくらいに冷静な彼の声が、揶揄うように言った。
 畜生、嘘でもいいから少しは乱れろ。
「あとはもう全部入るよ。ああ、そんなにびくびく締め付けるなって。力抜いて、ちゃんと、根元まで飲み込んでくれ」
「は…ッ、あ」
 ベッドの柵に繋がれた彼の腕を見る。
 その腕に、息苦しいほど強く抱きしめてもらいたいと思う。
 馬鹿じゃない? 繋いだのは私。
 彼の言葉に促されるように、更に腰を下ろす。鳥肌が立つくらいに巨大な存在感が、ずるずると内部を引っ掻きながら侵入してくる。
「ああ…!」
 限界まで咥え込んでしまってから、耐え切れずに身体を折り、彼の胸に額を押し付けて喘いだ。肌に擦れる、まだ一度も触れていない自分の性器が、今にも達してしまいそうに震えているのが判った。
 頬に落ちる髪が汗に濡れた肌に鬱陶しく纏わり付く。
 なんだこれ。
 まるでこれじゃ私、あんたが好きで好きでたまらないみたい。
「動けよ、先生」額を押し付ける胸から、彼の声は直接響いた。「楽しみたいんだろ? だったらせっせと動いて楽しめよ、おれの上でいやらしく腰を振って、もっと気持ちよくなれ。生憎おれはこの通り磔にされていてどうにもしてやれない。ほら、楽しめって。おまえ、そうしたかったんだろう?」
「…ッ」
 そうだよ。
 違う、そうじゃないんだよ。
 ゆっくりと身体を起こして、彼の胸に両手を付いたまま、その顔を睨みつける。快楽に溶けて、圧迫感に涙を浮かべて、多分これっぽっちの威力もないだろうが。
 彼の腰を跨ぎ、シーツについた両足に力を込める。それだけで眩暈がするような熱に襲われながら、のろのろと腰を浮かせていく。
 そうだよ。
 少しでも楽しくやらなくちゃね、あんたがチリで私にしてくれたようには、あんたを楽しませてはやれないけどね。

 さあ、キリコ先生。ゲームは始まったばかりだ。





 肌蹴たシャツ一枚を身につけたまま、男の隆々とした肉棒の上に跨り、自分の性器を握り締めて、腰を振る。
 髪を振り乱し、汗を飛び散らせて、喚く。悦楽に溺れた酷い声。
 なんてはしたないんでしょう。
 なんてあさましいんでしょう。
 あんたのせいでこんなになっちまったの。
 いつだってこれで最後かもしれないからせめて楽しくやらなくちゃね。

 身勝手に何度か達した。
 馬乗りになった男の胸に精液を撒き散らした。余韻に震える身体を屈めて、それを綺麗に舐め取った。彼の肌になすり付けてやろうかとも思ったが、さすがにそこまではできない。
 彼は一度も達していなかった。
 多分コントロールできるのだろう、嫌味なことだ。本当は彼の熱い体液を注ぎ込んで欲しかったような気もするが、大して意識もしないふりで精々自分だけ愉しんだ。
 彼の視線に晒されながら、片手で自分の乳首を摘み、片手で性器を擦り上げて、女のように嬌声を上げる。
 さあ、私は満足しているように見えるかい。
「これ、外せよ」
 何度目かに射精したあと、ぐったりと彼の胸に凭れていた耳に、低い声が聞こえた。
 顔を上げると、彼はこちらを見詰めたまま手首に嵌った手錠をじゃらじゃらと鳴らしてみせる。
「おまえが、どちらかと言えば虐げられるほうが好きなように、おれは、どちらかと言えばベッドでは主導権を握りたいタイプでね。おれの上で半泣きになりながら一生懸命腰を振ってるおまえを見ているのも充分楽しいが」
「…駄目だ。外したらあんた、逃げちまう」
 しっかり主導権握っているじゃないか。
 彼は、何を考えているのか相変わらずよく判らない目を少しだけ細めると、唇の端を引き上げて微かに笑った。
「おまえも本当に理解の悪いやつだな。おれは逃げない。逃げなかったろう? 何をされても。ただおまえに触りたいだけだよ。いいかげん、おれもいきたいし」
「…いきゃアいいじゃねえか。ちったア努力しろよ。おれの穴はそんなに締まりがないかね」
「どうも我慢しちまうんだよなあ。なんつうかこう、犯してるって感覚がないと駄目みたい。本気でおれに逃げられると思ってんなら、足はこのままでいいから、せめて手のほうだけ外して」
「…サド野郎」
 一つ舌打ちをしてから、身体を離し、ベッドの下に放置してあったトランクに手を伸ばす。まあ、二、三発殴られても仕方がないか。いや、むしろ、殴ってくれたほうがいい。
 ずっとそう思っていたんだ。
 拾い上げた鍵で左から順番に、手だけ拘束を外す。彼の手首には痛々しい手錠の跡がついていた。ざまあみろ、これでしばらくは、他のやつと裸で抱き合うなんてことはできないだろう。そのうえ自分の手首を見るたびに思い出すだろう、こうやって、憎んでも憎んでも飽き足りないくらいの男に手錠で繋がれたことを。
 彼は、ようやく開放された手首の擦過傷を左右交互に撫でると、肘をシーツについて、上体を起こした。
 殴られる覚悟で目を閉じた。ここでたとえ殴り殺されたって、足を繋がれたままの彼にはそれを解く鍵を取ることは出来ない。面白い。
 だが、いつまで待っても彼の拳は飛んでこなかった。恐る恐る瞼を開けると、彼はその表情を観察する目付きでじっとこちらを見ていた。
「…殴るとか、しろって。つまらねえ男だ」
「そういうのが好きか? まあ、そのうちな」彼は小さく声に出して笑うと、手首にくっきり赤い跡のついた腕をこちらに伸ばしてきた。「乗れよ、さっきと同じでいい。今までやってたんだからできるだろ? いかせてくれよ、おまえのカラダで」
「…」
 大きな右手に二の腕を強く掴まれる。有無を言わさぬ力で引き寄せられる。それだけで、もう何度も絶頂に達した疲れた身体が、冗談みたいに一瞬で疼き出した。そうだ、そうやって、強引なくらいに扱われるのは悪くない。
 彼の腕に促されるまま、再度彼の腰に跨り、今度は彼の逞しい肩にしがみついてその凶器じみた肉棒を受け入れようとする。体温で溶けたジャムでぐちゃぐちゃになった後孔へ、先端をあてがい、慎重に身体を沈め始める。
 と、そこで不意に、彼の両手に左右から、がっしりと腰を掴まれた。
 咄嗟に逃げようとシーツについた両脚に力を込めたが、勿論少しも意のままにはならず、あ、と思う暇もなくそのまま思い切り腰を下に引き摺り下ろされた。
「アア!」
 射精をした後の敏感な肉壁に、勢い良く彼の性器が突き刺さった。激しい衝撃に思わず背を仰け反らせ、縋っていた彼の肩の肌を掻き毟って逃れようとするが、腰を掴んだ彼の手はびくともしなかった。
「キリ、コ…ッ、待、」
「おれは随分と長いこと待ってやったけどなあ」耳元に直接声を吹き込まれて、ぞくぞくと背筋が震える。「そろそろいいよな。おまえも楽しんだろう? もうこんなに柔らかくなってんだし、痛くないだろ。おれは勝手にいくぜ、おまえも好きにしろ」
「や…、ヒ、あッ!」
 容赦のないリズムで、腰を上下に揺さぶられる。彼の肩に縋り、先程までとは明らかに違う、神経を直接掻き回されるような悦楽に悲鳴を上げた。この男、本当に勝手にいくつもりだ。
 蹂躙、という言葉が熱に融けた頭の隅に思い浮かぶ。腰に彼の指が食い込み、それさえも快感に変わって身体中を駆け巡る。
 自分はマゾヒストなのかもしれないとも思う。いや、淫乱なのか。
 こうして彼に好き勝手されるのは、嫌いではなかった。嫌いではない、どころか、たった何回かですっかり彼に慣らされてしまった肉体は、気がふれるほどに悦んだ。
 彼の快楽の証が欲しいとねがう。それがこの激しさであるのなら、どんなに酷くされてもいいと思う。
 イカレてるね。
 多分、彼はそれほど長い時間をかけなかった。
 時間の感覚など放り出した頭には、実際どのくらいの長さだったかなどは判らないが。
「出すぜ。そのままきゅうきゅう締めといてくれ」
「は…っ、」
 腰を掴んでいた彼の両手が、下に移動し、臀部の肉をぎゅっと強く握った。そのまま、ぐっと更に引き寄せられて、内部を穿つ彼の肉棒が一際深々と埋め込まれた。
「ああ!」
 その位置で、咥え込んだ性器がどくどくと脈打ち、大量の精液を注ぎ込まれるのがはっきりと判った。殆ど引き摺られるように自分も射精した。もう吐き出すほどの欲も残っていなかった筈なのに。
 肌蹴たシャツから剥き出しになった肌を擦り合わせて、気が遠くなるような絶頂を味わう。びくびくと痙攣する身体を彼に絡み付かせ、体液を吐き出す男の肉をぎりぎりと締め上げて、最後の一滴まで飲み込もうとするみたいに。
 ああ、そう、こんな快感。
 あんたじゃなくちゃ感じないんだ。
「…ふ、」
 クラッシュした脳ミソがいつまでも煙を上げる。絶頂に溺れ、遠のきたがる意識を必死に繋ぎとめて、彼の肩に食い込んだ指を引き剥がし、のろのろと下に這わせた。
 逞しい腕を辿り、自分の尻を抱いているその手首のあたりを掴んで身体から離させる。そのまま、震える指に強引に力を込めて、引っ張る。
「なに?」
 彼は淡々とした声で訊ねた。抵抗はなかった。
 時々、びくん、びくん、と身体が跳ねた。まだ快楽の頂点に上り詰めたまま、下りることができない。それでも構わずに、彼の手を彼の背中に回させ、凭れかかった肩から霞む視界に見詰めながら、先程外した手錠を一つ取り、彼の両方の手首にかけた。
 かちゃんと金属の音が響いた。
 彼は、今度は後ろ手に両手を拘束されて、少し呆れたような声を出した。
「おい、ブラック・ジャック。おまえさんも飽きないねえ」
「…」
 答えずに、ゆっくりと身体を彼から剥がした。今達したはずなのに、彼の性器はまだ硬く、熱かった。薬のせいか。
 抜き出す感覚に喉の奥から喘ぎが洩れる。もう、情けないとか、恥ずかしいとか、そんな感情さえこの男の前では浮かんでこない。
 そのまま這いつくばるように身体の向きを変え、ベッドの下のトランクから、今度は長い鎖のついた足枷を取り上げる。何本かあるうちの、ちょうどいい長さのものを選ぶ。この広くはない寝室から出た廊下の左右にある、バスルームとトイレには届くくらい。でも、それ以上は届かないくらい。
 彼の左の足首から拘束を解き、代わりにそれよりも若干幅の太い、鎖つきの足枷を嵌めた。繋がる鎖の端はベッドの柵へ。柵ではなくて脚に嵌める方が美的な気もするが、腹を立てた彼ならばこのキングサイズのベッドを持ち上げて鎖を引き抜くくらいのことはやりかねない。
 そこまで仕上げてしまってから、彼の右足首を拘束する枷を外した。その肌にも手首と同じように、僅かに血の滲んだ跡がはっきりと残っていた。
 ごめんなさい。
 身体に傷をつけたいわけじゃないの。心に傷をつけたいの。
「で、今度はどういう趣向なわけよ」
 後ろ手に腕を繋がれた彼がのんびりと言った。趣向? 違う、もうお遊びはオシマイ。
 ベッドに磔にされて大嫌いな男に乗られて、少しでも傷ついてくれればここまではしないつもりだったけれど。
「おい、ブラック・ジャック先生? おれはいつまでこうしていりゃアいいのかな」
「決まってるだろ」
 まだ鼓動も跳ねているし、呼吸も整っていない。それでも彼の目の前で、にっこりと笑って見せた。
 無邪気な子供のように。
 悪意など知らない子猫のように。
「あさっての昼、おれのオペが終わるまでだよ、死神さん」
「…」
 その瞬間の、彼の表情の変化は、それは見事なものだった。
 まるで映画のフィルムを滅茶苦茶に繋ぎ合わせたような、小説のページを途中で引っこ抜いたような。
 それまでは、元々表情に乏しいのだからよく見なければ全く判らないところだが、彼は確かに、まあ楽しんではいたのだろう。少なくとも、楽しんでいる、とこちらに思わせようとしている目付きをしていた。
 だが、その言葉を聞いた瞬間に、彼の目はさっと色を失った。
 あからさまな怒りは浮かばなかった。
 ただ、どんな色を取り繕うこともしない、ガラス玉のようになった。
「ッ、」
 思わず、ぞくりと恐怖が肌に這い上がった。ああ、この目を知っている。
 サンチアゴの裏道で彼に出会った。あの時、彼はこんな目をしていなかったか。
「…風呂とトイレのときは、手だけ外してやるよ」
 震えたがる声を必死で制して、可能な限りの冷めた声で言った。性交の余韻でまともに力の入らない足で、なんとかベッドを降りる。
「だけど、足はそのまま。その鎖、風呂とトイレくらいなら届くと思うが、それ以上は届かない。勿論電話にも、部屋のドアにも、届かない。鍵は遠くに隠しておこう。おまえさんはどんなに頑張っても、おれの患者を殺すことは出来ない」
「…こうしておかなけりゃ、おれがおまえの患者を殺すと思っているのか?」
「思ってるよ」
 嘘だ。
 そんなふうには思っていない。
「だっておまえ、殺し屋じゃないか」
 振り返ってもう一度にっこり笑う。
 ねえ、だけど。
 私がこう言わないとあんたは怒らない。
 彼は、人形ですらもう少しは人間らしいと思えるような、全くの無表情でこちらを見た。怒った、と思った。ざまあみろ、怒った。ようやく本気で、怒った。
 世界中の誰よりも、本気で私を、思った。
「あ、そう…」
 彼は鎖を鳴らしながらベッドに腰掛けて、気のない声でそう呟いた。シャツを羽織った下の肌がざわざわと騒めいた。
 怖かった。
 本当は、怖かった。
 それから彼は、退屈した肉食動物のように一つ小さな欠伸を洩らすと、首を僅かに傾けて、更に気のない声で言った。
「おい、先生。ちょっとどうにかしてくれよ」
「…なにを」
「これ」視線で自分の股間を示す。そこには、まだぎちぎちに勃起したままの性器があった。「おまえがおかしな薬を飲ませてくれたせいで、ちっともおさまらねえの。いや、こんなに愉快な真似をされて、おかしくっておさまってもいい筈なんだけど、駄目だな、これは」
「…」
「責任とって可愛がってくれよ。おれ今、両手使えねえし」
「…そりゃアそうだな」
 無意識にごくりと唾液を飲み込んでから、一度は離れた彼のもとに歩み寄る。平静を装って彼の上に跨ろうとすると、相変わらず感情などは少しも含んではいないが、氷のように厳しい声で拒否された。
「違う。もう乗っかるなって。口でやれ、口で」
「…」
「ただの処理だよ。どうして肌を合わせる必要がある?」
「…そりゃアそうだ」
 平然と返したつもりの言葉は、みっともなく掠れていた。
 ベッドの縁に腰掛けた彼の前へ跪き、つい先程まで自分の中に入っていた、逞しく起立した性器に顔を寄せる。彼の肉棒は、吐き出した精液と、塗りつけたジャムで生々しく濡れていた。
「言っとくけどね」頭上に彼の淡々とした声が聞こえた。「こんなことじゃおれの気は済まないぜ? まあ、解っているんだろうけどね。そうだろ、ブラック・ジャック先生」
「…そうだな」
 彼の性器を両手で掴み、口付ける。
 ああ、解っているさ。
 解っているから、やってるんだ。

 男を口いっぱいに頬張って、目を閉じる。後孔からとろとろと、中に放たれた男の体液が滲み出てくる。

 さあ、キリコ先生。
 絶望のあまりに舌を噛みたくなるような、楽しい報復の手段を思いついてくれ。
 私のことしか考えられないくらいに、必死になって。


 知っているかい。
 どんなに深い傷をつけられてもいいんだ。
 私はあんたになら、どんなに深い傷をつけられてもいいんだ。

 それがあんたの残す、私への唯一の跡だから。


 さあ、キリコ先生。
 血も凍るほどの楽しい愛のゲームを始めましょう。



(了)