きっともう何処かおかしくなっているのだと自分で思う。
彼の手が私を傷付けにくるその日を待ち望んでいる。
どんなに手酷い仕打ちをされるか、そればかりを考える。
私を痛め付けることだけに彼が夢中になればいい。
硝子玉のような怒りの瞳で私を見る彼は美しい。
いくらでも血を流して見せよう、涙を流して見せよう、その瞳が束の間手に入るなら。
恐れていることが一つ。
一番私を傷付ける方法。
それは、彼が私を見なくなること。
マンチェスターから日本に帰ってきて以来、様子が変だ、と友人は言った。
病院の屋上、夜の灯りをぼんやりと見下ろしながら、それはそうだろうと思う。
あまり仕事をしていない。
一か月待った。正気だったとは言わないが、そのころはまだ良かった、今にして思えば。それが二か月になって、三か月になって、焦燥は殆ど恐怖に近くなった。
彼がもし仕返しに来なかったら。
仕返しに来ないことが彼の仕返しだったとしたら。
「行方を眩ましていた天才外科医ブラック・ジャックが、漸く姿を見せたと思ったら今度は引きこもりだ。別にぼくは口を挟まないけれど、きみのことが心配じゃないって訳でもないよ」
「疲れただけさ。金がなくなる頃にはまた馬車馬のように働く」
「周りが煩いだろうに。何処か場所を探そうか、日本じゃないほうがいいか」
「…いや、いい」
だって待ているのだ。見付けやすい場所でずっと待っているのだ。
夜の風が気紛れに髪を梳く。屋上の柵に二人寄りかかって、ただ人工の星を眺めている。ちらりと見やった男の横顔は、薄暗くてよく見えないけれど本当に穏やかで、どうして自分はあの冷徹で意地の悪い死神でないと駄目なのだろう、例えばこの男ではどうして駄目なのだろうと、考えてもどうしようもないことを少しだけ考える。
マンチェスターのホテルで、彼を解放したときのことをはっきりと覚えている。
彼は、自分の両手首に付いた手錠の痕を見詰めてから、私に優しく口付けて、にっこりと笑って、言った。
必ず後悔するような仕返しをしてあげるよ、先生。
そうだ、仕返しをして欲しいのだ。滅茶苦茶に傷付けて欲しいのだ。
彼が唯一私に何かを残すとしたら、惨たらしい傷跡、気の狂うような痛みだけ。
待っている。待っているのに、どうして来ない。
もし、それこそが、彼が私の前に現れないことこそが、彼の仕返しなのだとしたら。
「きみに頼まれていたことを、ちょっと調べてみた」
柔らかい男の声に、不自然なほどの勢いで視線を夜の街から現実に跳ね上げる。
ねえ、知っているでしょう、キリコ先生。
離れることなんて出来ないんだ、それなら私があんたを追いかけるんだ。
「なにか判ったか」
「だから、ちょっとね」男の表情は特には変わらなかった。許容の笑み、肯定の眼差し、そうだ、例えばこの男でも、この男でさえも彼の代わりにはなってくれない。「じゃなけりゃ、引きこもり中のきみを呼び付けはしないよ。明日、日本、福島だとさ。病院と患者はこれ。それ以上の詳細は知らない」
「…ありがとう。礼はする」
「礼はするなら、代わりにひとつ聞かせてくれよ」
差し出されたメモを受け取る手が少し震える。三か月。三か月もだ。三か月も彼に会わず彼に触れず彼を見ずに過ごし、そしてたった三か月で、こんなにも、彼に焦がれる。
スーツにメモを仕舞おうとした手首を、そのとき不意に男に掴まれて、思わずぎょっと顔を上げた。
「…なんだ?」
「きみ、ドクター・キリコとなにか関係が?」
「…」
何か関係が? か。
瞬間、男の目の色がきつくなったような気がした。らしくない。眉を顰めて無言を返すと、しかし男はすぐに手首を放して、少し困ったように笑って見せた。
まるで生温いバスタブの中。心地は良くても私が今欲しているものではない。さあ、頭からワインをぶちまけてくれ。愛している、大好きだと、嘘の言葉を繰り返し囁いてくれ。
「いや、いいんだ、ごめん。でも礼は要らないよ、ぼくはただその情報を拾って届けただけ、なにもしてない」
「…なにもしてないなんてことはない。ありがとう辰巳」
ありがとう、放っておいてくれて。ごめん、放っておいてくれ。
おかしくなっているんだ、どうかしているんだ。
改めてメモを仕舞い、男に背を向ける。優しい友人は引き止めない。薄暗くてまだ良かったと、階段へ続くドアを開けながら身勝手なことを思う。
私はきっと今、酷い顔をしているのだろう。
まるで恋に溺れた狂女のような。
夜の一歩手前、夕暮れの朱い光を跳ね返す美しい銀髪を目にした刹那、身体中の細胞という細胞が何か巨大な圧力によって押し潰されるみたいな、声どころか呼吸も詰まるくらいの、鮮やかな衝撃に襲われた。
ああ、彼だ。
周囲に緑の散る病院の駐車場、診察時間外で他にひと気はない。疎らに停まった車の間を、銀のトランク片手にゆっくりと歩く彼の、横顔が。
どうして。どうして。どうして。
どうして私を独りにする。
自分の車を出て彼を追おうとドアにかけた手が、しかしそこで止まった。知らないセダンの助手席から不意に姿を見せた髪の長い女が、小走りで彼に近づいて、正面から抱き付いた。
なんだあれ。
見えない針を刺されたみたい、胸に知らない厭な痛み。
横顔がちらりとしか見えなかったが、記憶にない女、まだ若い女、二十代半ばくらいか。黒髪、象牙の肌、日本人かどうかは判らないけれど少なくとも東洋人。彼は、しがみ付いてきたその女を片腕で優しく抱き寄せて、身を屈め、互いの頬を触れ合わせた。
なんだあれ。
あんなふうに私を抱きしめたことがかつてあったろうか。
ある。あのとき、サンチアゴのホテルで。
あのとき、彼は何て言ったっけ。
愛シテイルヨ。
「…」
気持ちが悪い。
背の高い彼の銀髪と、つま先立った女の黒髪が、微かな風に混ざり合って、抱き合う二人は美しい絵画のようだった。車のドアに伸ばした手を知らずに握りしめ、てのひらに爪を食い込ませながら、込み上げる吐き気に耐えた。駄目だ。こんなのは見たくない。
そのとき、女を抱き寄せて頬を合わせていた彼が、まるではじめから予定されていたような鋭さで、すっと視線を上げた。
私に。
目が合った。思わず息を飲んだ。暗い車の中、表情までは見られていないだろうとは思ったが、或いは全て見られているのかもしれない。
さっさとこっちへ来い、と言うみたいに、彼は僅かに顎を上げた。
ただそれだけの動作で、殆ど勝手に身体が動いた。
三か月、三か月だ。女、その女は誰だ。ぐちゃぐちゃに乱れた頭の中を、見透かされまいと冷静なふりをしてみても、運転席を出て彼に歩み寄る自分の動きがぎこちないことは判った。
「よお、ブラック・ジャック先生」
彼は女を抱いたまま、思い切り殴り付けてやりたくなるほど普段通りの声で、言った。
空白の三か月。その綺麗な髪、その酷薄な眼差し、その冷淡な微笑み、そしてその低くて甘い声。
どれだけ焦がれていたと。
「仕事か? まさかまた患者がかぶったのか。だとしたら悪イな、もうおれの仕事は済んじまった。今から駆けつけても無駄だと思うがねえ」
「…人殺しはやめろ」
「だから、人聞きの悪い言葉を使うなよ。おれは、なるべきものをなるようにしているだけだ、頼みを聞いているんだ、人助けだ」
「…死にたいという思考は病的なんだ、治るかもしれないんだ、勝手に殺すのはやめろ」
何度繰り返されたか判らない応酬、違う、今はこんなことを言いたい訳じゃない。
その女は誰だ、あんたの何だと言うんだ。
その女から離れろ、今すぐにだ!
互いに知っているのに、核心には触れずに牽制、馬鹿みたい。
朱色の夕日は私の表情を少しは隠すだろうか。
「死にゆくのが自然なんだよ」逆光の彼の姿は煌めく縁取りで夢のよう、さあ、傷付けてくれ、どうか傷付けてくれ、私を見てくれ、私だけを見てくれ。「あの患者を治そうってのか、臓器を全部取り出すつもりか、そこまでして生きていなけりゃならないか、そこに生物としての尊厳があるのか」
「生き延びることが尊厳だ」
「生き延びているんじゃない、生かされているんだ、どうするつもりだったのか知らないが、たとえそれで生きても、おまえさんの言うところの患者の病的な思考は治らないだろうよ」
「おまえさんにそれを判断する権利はないんだ」
私の前に現れない、いつまで経っても現れない、思い焦がれて追いかけてみれば、そうして今女と抱き合っている、それが彼の仕返しなのだとしたら。
酷い。
「不満そうな顔をして」
こちらには背を向けた女の表情は伺えない。こんな物騒なやり取りを聞いても動じないなんてどういうこと。日本人ではないのか、日本語を知らないのか。
彼はにやにやと人の悪い笑みを浮かべて私を眺めていた。まるでいつもと同じだった。マンチェスターのホテルで見せた、或いはサンチアゴの裏道で見せた、瞳の色が透けるくらいの怒りなどはすっかり忘れた目付き、見たいものは、その瞳ではない。
「インターチェンジの傍のホテルに泊まってる」その目付きのまま、女の黒髪に頬を寄せて、彼は唐突に言った。「今夜は最上階のバーで、独り酒を飲みたい気分だ。深夜零時を過ぎたら部屋に戻っちまうぜ、好きにしたら」
「…」
酷い男。
言い返せずに口を噤んだ私に、一瞬冗談みたいにたちの悪い流し目をくれたあと、彼は女の腰を抱いたまま、私に背を向けて、女が助手席のドアを開け放ったままのセダンへ去っていった。
ふっと浮き上がるように意識が戻った。
戻った、と自覚した途端に泥のような倦怠感に襲われた。
目を開けようと思うのに、瞼が重くて思うようにならない。腕を上げようとしたら、手首に鈍い痛みが食い込んで、動きを封じられた。
そうだ、クスリを飲んだ。
飲まされたとは言わない。
結局、彼の泊まっているホテルのバーまで行った。病院の駐車場に取り残されてから、さっさと帰ってしまえば良かったのに、今、ここで彼を逃がしたら、今度こそ何処か遠くへ、今度こそ何の情報も撒かずに消えてしまうのではないかと、その不安ばかりが頭を占めた。
私を追いかけない。私を振り返らない、私を見ない。それは充分な仕返し。
どうして、それならばと彼のことなど綺麗さっぱり忘れてしまえないのか。
何処かおかしくなっているのだと自分で思う。
カウンターではなくテーブルで、バーテンダーには背を向けた彼が、向かい合った私の目の前にウオッカのグラスを置いた。ストレート。
にやにやと例の如く意地の悪い笑みを見せながら、私に見えるようにスーツから折りたたんだ薬包紙を取り出し、私の見ている前で、その中身をグラスに落とした。
いつかの再現、ただし役者が逆。
躊躇した私に、彼は目を細めて低い声で言った。
飲めよ、ただの眠剤だ。おれだって飲んだじゃない、あのとき、マンチェスターで。
拒むこともできたのに。
十数分、数十分、自分が意識を失うまでにどれほどかかったのか思い出せない。足下から沼に落ちるみたいに気が遠くなって、気が付いたら、これか。
手首の痛みは多分手錠、なるほど彼は私のした行為で私に仕返しをしている。床に直接座らされているのだろう、尻の下が冷たくて、足は拘束されていないようだが手首が全く動かないのでは意味がない。背中はひんやりと細い棒、多分テーブルか何かの金属製の脚に寄りかからされていて、腕が動かないのは手錠をそこに繋がれているから?
「…ふ、」
意識がどんよりと淀んでいる。軽く頭を振って、靄を払おうとする。
人の気配、少し不自然な息遣いと、ぴちゃぴちゃ何かを舐めるような音。
「おはよう、ブラック・ジャック」
低い声。
そのセリフはかつて私が言ったセリフ。
重い瞼を無理矢理上げると、途端に眩しいくらいの室内照明に目を突き刺される。痛みのような光に徐々に慣れる視界に、彼が見えた。
ここは寝室か。だとすれば自分が後ろ手に繋がれているのはバーカウンターか何かの脚。広いダブルベッドの縁に、バスローブの前をはだけて、彼は座っていた。
「…」
その股間に顔を埋めているのは、床に跪いた黒髪の女、あの駐車場で彼と抱き合っていた、あの女だ。全裸だった。
正気じゃない。
「…キリコ」
深紅のハンカチで、女は目隠しをされているようだった。多分シルクの光沢。見えるわけではなかったが、女が何をしているかなどは当然判った。
彼の性器を舐めている、咥えて、擦り上げている。
私も女と同じようなことを彼にしたことがある。
「彼女は耳が聞こえない」奉仕する女の黒髪を優しく撫でながら、彼は言った。何を考えているのか伺え知れない、あの表情だ、私の嫌いな、仮面の顔。「そのうえ今は目も見えない。だから見苦しい真似をしてもいいよ、先生。もっとも、どう頑張っても自力じゃアそこから動けないだろうけど」
「…あんた、おかしい。女を抱くなら抱け、おれをこの部屋から出せ」
「気になるだろう? 女を抱くおれが気になるだろう? 見せてやろうと言うんだ、ちゃんと見ていろよ、自分が抱かれるときとどう違うのか、見ていろよ。あのとき駐車場で、おまえは彼女を嫉妬で殺しそうな顔をしていた。おまえは判りやすい男だなあ、そんなにおれのことが好きで好きでたまらないか」
「…あんた、おかしい。他人の見ている前でセックスするのが好きか。おれは見たくない。早く放せ」
「仕返しだぜ? おまえの一番見たくないものを、見せてやるって言ってんだよ」
「…変態野郎」
毒づいた私に、彼は少し愉快そうに笑って、股間に顔を埋めていた女の身体をそっと抱き起こした。シーツの上へ仰向けに寝かせ、私に見せ付ける角度で、深い口付け。
羽織ったバスローブに隠された彼の肉体、その代わりに女の身体は端から端まで私の目の前にさらけ出されている。彼の指先が緩やかになぞる、華奢な肩、細い腕、形の良い乳房、両手で掴めそうなくらいにウエストは細くて、対照的に尻と太腿から脹ら脛のラインは肉感的、両脚の間に割り込んだ彼の膝に押し付けられる股間、真っ黒で艶めいた体毛は、きっとこんな状況でなければ男の情欲をとてもそそるもの。
女は従順だった。
顎を上げ、舌を差し出し合う口付けに、甘ったるい喘ぎを鼻から洩らした。耳が聞こえないと言っていた。その所為か、声は幼くて色っぽい動物みたい、言葉はない。
こうなったら平然と眺めて最後に感想の一つも言ってやろうと思うけれど、そんな考えとは関係なく身体中の骨が軋むような息苦しさに襲われた。痛い。ああ、何処が痛いのか判らない。とにかく痛い、頼むから、この痛みを止めて、こんな方法で私を痛め付けるのはやめて。
女の肌を撫で上げながらの彼の口付けは本当に穏やかでかつ時折情熱的で、私の知らないもの、或いは私を傷付けるためだけにかつて一夜だけ与えられた偽物、差し出した舌を絡め、唾液を分け合う二人は愛し合う恋人同士。
ここで拘束されている私は何。
「目を閉じるなよ。見ていろよ」
唇を女の細い頸から肩に移した彼が、私には目もくれずに、私に言った。私は暗示にかかったかのように、彼のその一言で、瞬きすらまともにできなくなった。
ああ、壊れる、と、頭の隅のほうにある柔らかい部分が、虚ろな悲鳴を上げた。
彼はことさら丁寧に女の乳房を愛撫した。まるでそれが私にないことを見せ付けるみたいに。
両手で優しく揉んで、乳首に唇を付ける。快楽を伝える透き通った女の声、聞きたくない、耳を塞ぎたい。
ああ、頼む、お願いだ、あんた、女を抱かないでくれ、女に触らないでくれ。
私をどんなに傷付けてもいい、切っても裂いても殺してもいい、だから。
私以外の人間に触れないでくれ、私に触れてくれ、私は私の全てをあんたに捧げるから。
私以外の誰かを抱くなら、私を殺してからにしてくれ。
酷い。
私は、女ではない、女にはなれない。
私は。
「ああ…」
男の手で股間を弄られて、女が高い声を上げた。
おそらく意図的にバスローブの裾で隠された彼の指の動きまでは見えないが、びくびくと身体を跳ねさせる女の反応を見せ付けられるだけで充分だ。
ぐちゃぐちゃと粘膜を擦り拡げる音、女の喘ぎ、しがみついた彼の肩に爪を立てる女の細い指。
ノーマルなセックス。ただし、ここに私がいなければ。
長い銀髪が横顔にかかり、彼の表情が、彼が、見えない。
私の神経が痛みに麻痺するくらいの長い時間をかけて、彼は女の身体を優しく愛し、準備を施した。呆然と見開いた目、色が消えていく視界に、薄らと桜色に染まった身体をくねらせて快感を示す女は大層綺麗に見えた。黒髪をしっとりと汗で濡らし、つま先を突っ張らせ、甘い声を上げる。ああ、女はいいな、いいよな、そうだろうよ、女はいい。
あんたが私を抱かなくてはならない理由なんて一つもない。
あんたが私を抱く必要なんて何処にもない。
あんたにはそうして女を抱く権利がある。権利? 馬鹿馬鹿しい、そんなもの。
私がどうこう言うことじゃない。
女はいい。
私の肉体など。
私など。
「泣いているのか? ブラック・ジャック」
「…」
泣いているのか? 知らない。ただ、痛い、痛い、痛い、痛い。
こころが。
ねえ、キリコ先生。あんたはこのゲームが楽しいかい。
彼は女に覆い被さっていた身体を起こすと、女を抱き、最初と同じように私と向き合ってベッドの縁に座った。膝の上に脚を開いた女を、これも私と向き合うように座らせた。
体液で濡れた女の陰毛、所々に口付けの痕が散る綺麗な乳房、尖った乳首、私では持ち得ない肉体。見せ付けられて息苦しさに喘ぐ。目が、頬が、熱い、ああ、私は本当に泣いているのだ。
女の両目を隠す深紅のシルク、それにも抵抗しないのは、女が彼に全てを委ねているから。
「女はいいな」女の腰を掴み、位置を合わせながら、彼はくだらない冗談でも言うような口調で言った。「柔らかくて、細くて、いじらしい。勝手に濡れる。おまえを抱くときみたいに尻を拡げなくてもいい。肌が吸い付く」
「…」
「おまえも女を抱きたくなるか? 彼女はいい女だろう。抱きたくなるか? それともおまえのことだからなあ」
「…」
「やっぱり、おれに抱かれたいか?」
「…鬼畜野郎」
この痛みでいっそ完全に狂ってしまえれば。
彼は、くく、といやらしく笑ったあと、掴んだ女の腰を自分の屹立した性器の上へ、じりじりと落としていった。決して強引ではなかった。女の高い声と同時に、鋭い耳鳴りが聞こえた。私は自分が何に傷付いているのかさえよく判らなくなった。
彼が女を抱くのが厭なのか。
それとも、私がその女になれないことが厭なのか。
女を背中から抱いたその体勢で暫く馴染むのを待ったあと、彼は女の両脚を後ろから左右の腕で抱え上げて、揺すり出した。彼と女が繋がり合っている場所がはっきりと見えた。女の肉を穿ち出入りする彼の逞しい性器が見えた。
安物のアダルトビデオみたい。
そんなもので絶望する私は、馬鹿みたい。
数分緩やかに揺さぶられただけで、女はすぐに達してしまった。身体を細かく痙攣させ、背を仰け反らせてエクスタシーに溺れる女の姿は、確かに美しかった。
見せ付けられる越えられない壁、薄汚い願望。
もしも私が女だったら、あんたはそんなふうに私を抱くのか。
もしも私が。
彼は強く女を抱きしめてその絶頂の波が過ぎるのを待ち、それから力を失った女の身体を抱き上げて、優しくベッドへ寝かせた。
長い黒髪に、汗ばんだ額に口付けた。駐車場でもそうしていたように、頬を触れ合わせて体温を交わした。慈愛の仕草、あんたらしくない。あんたらしくないじゃないか。
まだ荒い呼吸のままぐったりと横たわる女の身体を、隠すようにシーツを掛けた。そして、彼は屈めていた身を起こし、そこでようやく、取り残されていた私を振り返った。
もうこのまま死んでしまえばいいと思った。
ぱっと覚醒したら全てが一瞬の夢だったとか。
後ずさるにも動けない、せめて怯えたように脚を縮めてみても意味がない。
私が誘って彼が続けたゲームは、それはそれは愉快。
彼は、前をはだけたバスローブを引っかけたままでゆっくりと私の前に歩み寄った。私は目を閉じることもできなかった。私は彼の人形、彼の玩具だった。
傷付けてくれと願った、その日をずっとずっと待ち望んでいた、気の狂うほど待ちわびた、けれど。
ああ、それでも、この痛みこそが真実、彼の残す痕、それならばこれが私の望み、私が欲しかったもの?
彼は、私の目の前で足を止め、今の今まで女の体内に入っていた、猛々しく勃起した太い性器を、私の口元に突き付けた。
「舐めて」
「…ッ」
生々しい女の匂いに、咄嗟に顔を背ける。その顔を、乱暴に髪を掴んだ彼の手に引き戻される。
「なんだよ。自分に突っ込まれてたペニスなら旨そうにしゃぶるくせに。欲しいだろう? おれのこれが大好物だろう、なあ、ブラック・ジャック?」
「…」
「おまえ、勃ってるぜ」
「…」
もう厭だ。もう厭だ。もう厭だ、けれど、彼がここにいる。
髪を掴んだまま、彼は私の顔面に性器を擦り付けた。女の体液が顔に粘ついて、吐きそうになった。
「女を見ていて興奮したか? それとも、おれを見ていて興奮したのか。抱いてやるよ、抱かれたいだろう? いい子だから口を開けて、おれのペニスを咥えて見せて」
「…女を、抱いたあんたに、抱かれたくなんか、ない」
「へえ? 嫉妬深いんだな、子供みたいだ、そんなにおれが好きか」
「厭だ…キリコ、もう、厭だ」
「仕返しだって言ってるだろ。大丈夫、抱いてやろう、女を抱いていたこの手で抱いてやろう、おまえは気が狂うほど悦ぶだろうよ」
「キリコ…ッ」
自分の涙と女の体液で顔がべたべたになる。気持ちが悪い。嘔吐感を散らそうと思わず開いた唇に、いきなり、彼の熱い性器を突っ込まれて、込み上げた胃液が食道を焼いた。
「ウ…、ん、ん」
声を上げようにも口を塞がれていてどうにもならない。彼は強引に喉の奥までたっぷり時間をかけて使ったあと、呼吸もままならない私が意識を飛ばす前に、漸く唇から性器を引き抜いた。
身を縮め、噎せ返る私の背に回り、手首のあたりで金属音を鳴らした。
磔ではなくなったが、手錠はそのままだった。手錠を繋いでいたロープか鎖かを外したのだろう。
それから、私の吐き気がおさまるのを待たずに、背中から思い切り私の右肩を蹴り上げた。
「あっ」
「女みたいに丁重に抱いたら先生に失礼だろう」前のめりに床に突っ伏した私の頭上で、彼が淡々と言った。その瞳は今何色なのか、見えない。どうして見せてくれない。「おまえは男だからな、優しくしないほうがいいだろう? 犯されるくらいのほうが好きなんだよな、どうだい先生? 彼女みたいに優しく抱いてあげようか」
「…痛、い」
「おれに傷付けられたいくせに。ブラック・ジャック、おまえは本当に、馬鹿だよ」
「…」
そうだ、本当に、馬鹿だ。
両手首が拘束されているので、肩と頬で身体を支えるしかない。強引に腰を上げさせられ、服を剥がされても、私は抵抗しなかった。
ゲームを仕掛けたのは私。全てが私の望み。
彼の瞳に映りたかったから、彼の意識に刻まれたかったから、そして、彼の齎す傷、その痛みを私に刻んで欲しかったから。
傷、痛み、それ以外に、私と彼を繋ぐものなんて。
「生憎だが、ワインでベッドルームを汚すのはおれの常識が許さないんでねえ、今日はシュガー・シロップね。わざわざホテルまでおれに会いに来たってことは、綺麗にしてあるんだろう?」
「…ン、」
彼は、剥き出しの尻だけを高く掲げた私の視界で小さな瓶を振ってみせると、片手で尻の肉を開き、後孔に硬い瓶の口を無理矢理突き立てた。
「ああ…っ」
どろりと冷たいシロップを注がれる感触に、鳥肌が立った。瓶を軽く出し入れされ、擦られる苦痛と、誤魔化しようもない快感に、私ははしたなく身悶えた。
そうだ、私の身体なんて。
「面倒だよなあ、女みたいに濡れればいいのに」
瓶を抜きながら、彼が面白そうな声で言った。酷い男。何を言い返す前に、尻を鷲掴まれ、シロップを注いだだけ、まともに準備もしていない場所へ強引に彼の性器が食い込んできた。
「ア…!」
「どうよ、ブラック・ジャック。優しくされるのは厭だろう? サンチアゴで散々おれに優しくされて、傷付いたろう? このくらいのほうがいいんだよな、ああ、おれは本当にお優しい。犯されている気分になるかい、先生」
「は…あッ、」
「さっさといっちまえ、ほら、世話かけるなよ、見苦しくて淫らがましいブラック・ジャック先生。おまえならおれのを突っ込まれただけでいけるだろ」
「キ、リコ…あ!」
前から回された彼の手に、勃起している性器を掴まれ、肌が震え上がった。その手から逃げようと腰を動かしても、かえって彼の性器を深く咥え込むだけで、望んでもいない快楽がじりじりと身体の中心を湧き上がった。
顔に塗りたくられた女の体液。
私の目の前で女の秘部に突き刺されていた性器が、今度は私を犯している。
私は女じゃない。
私は女じゃない。
あんたの隣にいられない、所詮は地中の蚯蚓みたいな慰み者。
気紛れに掘り出されては、尖った石の角で胴体をぶつ切りにされて、乾涸らびるだけ。
あんたの隣に、いられないなんて。
あんたの隣に、いられないなんて。
「や…、アアッ、ア」
いい加減な、乱暴な手付きで性器を擦り上げられ、一方的に突き上げられる。
あんたの隣に、いられない、いられないから。
せめて傷を、痛みを、あんたの痕を。
絶頂はあっという間に訪れた。どんなに酷い仕打ちをされても彼に反応する自分の身体が恨めしかった。
冷たい床に頬を押し付けて、びくびくと身体を震わせながら、彼のてのひらに射精する。根元まで食わされた太い性器を締め上げる、その感触に気が遠くなる。
こんな等閑な快楽に一体何の意味がある。
意味がないことが意味、私を傷付けるには最適な行為、私はあの女のようには彼と抱き合うことができないから。
髪を撫で、頬を触れ合わせて、甘い口付け。
馬鹿馬鹿しい。私は、だって私は。
「気持ちよかったろう?」
まだ達していない硬い性器を私の尻から引き抜いて、彼は私の背中に飄々と言った。彼のてのひらに吐き出した自分の精液を尻に、太腿に塗り拡げられる。その生々しい匂いが、女の匂いと混じって吐き気が増す。
彼は、私の手首から手錠を外すと、尻を掲げたまま固まっていた私の腰のあたりを蹴り、私をひっくり返らせた。見上げた視界は滲み、そのぼんやりとした中に彼の顔が見えた。
仮面のような表情だった。普段のいやらしい笑みもなかった。かといって感情を押し殺しているようでもない、本当に、何も感じていない顔をしていた。
色素の薄い瞳は、熱もない、怒りもない、いっそガラス玉のように透けていればいいのに、それもない、まるで、下手な画家が描いた肖像画みたいにただそこにあるだけ。
身体中の血が引いた。それが絶望感というものだとは、そのときは判らなかった。
酷い。
酷い男。
それでも、これは私が望んだこと。
彼はそのまま、私にも女にも手を触れずに、ベッドルームを出て行った。私は四つん這いでのろのろと、はじめに繋がれていたバーカウンターの下に這いずり、はじめにそうされていたように冷たい金属製の脚を背に座り込んだ。
目を閉じる。ああ畜生、この匂いを何とかしてくれ、反吐が出る。
女の匂い、自分の匂い、せめて彼の匂いで打ち消せれば。
どのくらいそうして床に座ったまま瞼を伏せていたか、不意にベッドが軋む音がして、私は目を開けた。
女が立っていた。口付けの跡の残る乳房も、乾いた体液で体毛の乱れた股間も、全く隠す様子もなく、いやに美しい姿勢でベッドの前に立っていた。
「…」
私は何故か気圧されて、逃げ出すことも忘れた。女は、目隠しをされ、耳も聞こえないらしいのに、ゆっくりとした足取りで、まっすぐに私の前へ歩み寄った。
私の前でぴたり、立ち止まると、暫くその場で突っ立っていた。
私は喉を鳴らした。女がまるで彼ででもあるかのように、目を逸らすことも目を瞑ることもできず、硬直して女を見上げていた。
と、女が腰を屈め、私の目の前に顔を突き付けた。桜色の唇ににっこりと美しい微笑みを浮かべ、両手を自分の頭の後ろへ回し、目を隠していた深紅のシルクを解いた。
「…ッ!」
その下に現れたのは、まるで鏡を見るような、どす黒い血液みたいな、赤い瞳。
おれは。
それじゃあ、このおれは。
私は思わず子供のように両腕で頭を抱え、無自覚に掠れた悲鳴を上げた。止まらなかった。
(了)