カーディナル 4

 ただ、目が眩むほどに鮮やかに、肌が痺れるほどに傍に、誰よりも、何よりも、彼を感じていたかっただけなのだろう。
 傷、痛み、私と彼を繋ぐものがそれだけだというのなら、それでいい。
 残酷で狂おしい遊戯、それでいい。
 それでいいと思って、私が始めた、ゲームだったはず。

 私が彼を傷付ける。
 彼が私を追いかける。私に同じだけの、それ以上の傷を与えるために。
 追われる歓び、彼の手に切り裂かれ抉り開かれる悦び、爛れる痛みに潜む甘美な快楽、彼の瞳に射抜かれて私は涙を流す。
 彼が私を傷付ける。他の誰でもない、この私を傷付ける。
 それが唯一で、それが全てだった、深ければ深いほど、惨ければ惨いほど、私と彼は近くにいる。だからもっと深く、惨く、もう私も彼も、それだけしか考えられなくなるまで。

 傷。
 傷を。

 ああ、私は何をしたかったのか。




「見えないって?」
「そう」
「見えないのか?」
「ああ」
 久々に他人を家に上げた。
 娘はとうに眠った深夜、連絡もなく突然現れた友人を、居間ではなく診察室に通した。この律儀で心配性の男が、そろそろ何か言ってくるだろうとは思っていた。
 マンチェスターから日本に帰ってきて、三箇月間、殆ど仕事らしい仕事をしなかった。三箇月目に福島で彼に会い、それからどのくらいか、一箇月、二箇月? 殆ど、どころか全く仕事をしなくなった。
 滅多に家からも出なくなった。
「…ぼくが見えないか?」
「いや、視力がないって訳じゃない。ただ、色が」
「色が見えないのか?」
「赤だけね」
 何故か、精神的には予想していたほどの歪みは出なかった。まあ、いかれた自分に気付いていないだけかも知れないが。
 夜眠れないとか、憂鬱、熱が下がらないとか、目眩、情緒不安、可愛いものだ、自律神経が少々やられてしまったのだろう。それでも、現実と区別の付かない幻覚を見るとか、行動が制御し切れないと言うことは、無い。あのときはもう駄目だと思ったのに、人間というのはなかなか丈夫だ。
 ただ、かわりに、色が見えなくなった。
 精神面で受け切れなかったショックが視覚に来たか。
 意識の中だけに残る、女の、赤い、瞳。
 そして、私の世界から消えた、赤色。
 眼圧にも眼底検査にも異常はない、勿論MRIも正常、色覚が狂うような疾病にもかかっていないし、単純に精神的なものなのだろう。それが何故、赤色が認識出来ない、と言う症状になるのかはよく判らない。よく判りたくないのかも知れない、考えたくない?
 鏡の中に黒い瞳の自分を見たときには、少し驚いた。いや、どうだろう。驚いたのと同時に、心の何処かで、何となく、納得したか。
「…どうして」
「器質的なものじゃない。単に精神的なものだろう」
「いつから」
「最後に辰巳に会った、次の日くらいかな」
 たとえば、彼が過去に幾度か気紛れに私を抱いた、その理由が。
 私の瞳が、あの女と同じ。
 だとしたら?
「だから仕事をしていないのか?」
 友人は珍しく、険しい視線で私を見ていた。感情が溢れ零れ出しそうなその眼差しに、私は少しだけ、笑った。
 仕草、表情、目付き、心を測る手がかり、惜しまず恐れず隠さず殺さず、相手に示せる人間はいい。実に愛おしい。
 思い出す彼の端正な顔は、仮面、色素の薄い瞳には、怒りさえもない。
 興味のない人形を見る目だ、自分がその手で捨てた塵を見る目だ。今にして思えば、サンチアゴで、マンチェスターで見た、あのガラス玉のような目のほうが、はるかに人間らしかった。
 私を人間扱いしていた。
 聞き分けのない、躾の悪い、意地汚い私を、彼はとうとう見放したか。
 絶望的で最悪なゲーム、それでも、最低のルールはあったんじゃない。
「…言うまでもないが、色覚の異常は医者の欠格事由にはならないよ」
「言うまでもないが、おれはそもそも無免許だぜ」
「…腕のいい精神科医を紹介しよう」
「おれの目を治せる医者は、多分、世界に一人しかいない」
「なに?」
 彼の打った手は、きっと最高だったのだろう。
 チェックメイト。
 私にはもう、武器を揃えて彼を傷付けに向かうだけの力が、残っていない。
 ゲームが続けられない。
 不審そうに眉を顰めた男に、精々にっこりと笑って見せた。車に轢かれた猫みたいな顔をしているだろうと自分で思った。
 彼に傷付けられたかった。滅茶苦茶にして欲しかった。彼が私を傷付けることだけに必死になればいいと思った。
 彼が齎す傷が全てになればいいと思った。そう思ったのは本当だったけれど。
 まさかこんな致死的な痛み、受け止め切れずに足が浮くような。
 私と彼との間にある、細くて透明な糸を、あっさりと切って捨てる、赤い、女の、瞳。
 全てが嘘だったなんて、あんた今更言うつもりなの。
「ドクター・キリコ」
「…きみ、死にたいのか?」
 あのときも、あのときも、あのときも、私に触れた手は実は、私に触れていなかった。
 あのときも、あのときも、あのときも、彼の手が触れていたのは、赤い、赤い瞳の。
 椅子から腰を浮かせた男に、左腕を掴まれて、さっと意識が現実に戻るのが判った。最後に彼と別れてから、一箇月か、二箇月か、同じような状態になることがよくあった。自覚もなく、思考が飛んでいる。正直、福島のホテルから、どうやって自分の家に戻ってきたのか、記憶がなかった。帰巣本能というやつは大したものだ。
 久々に触れた牡の力に、ぞくりとする。
 恐怖のような、欲のような。
「別に、そう言う訳じゃない」
「じゃあ何故、ドクター・キリコなんだ?」普段だったら、軽く睨み上げればすぐに手を引くくせに、そうして見せても友人は掴んだ腕を放さなかった。「ぼくと会った次の日からだって? なあ、ブラック・ジャック。前にも訊いたと思うが、きみ、ドクター・キリコと、何か関係があるのか」
「別に」
「ぼくと会った次の日、きみはドクター・キリコと会ったんだ、そうじゃないのか? きみに頼まれて、このぼくが、ドクター・キリコとやらの情報を流したんだから。そいつに何かされたのか? 何をされたんだ?」
「別に」
「抜け殻みたいな顔をしているよ、ブラック・ジャック。まるで、男に振られた女みたいだ」
「…冗談じゃネエよ」
「冗談じゃないさ」
 男の声が不意に、知らないわけではない、性的な色を帯びた。思わず身をかわすより早く、いきなり、タイは解いていたシャツの前に手をかけられた。
「おい…ッ」
 力任せにボタンを引きちぎられ、咄嗟に、覆い被さる友人の身体を突き飛ばそうとする。その両手首を掴まれ、逆に抵抗を封じられた。
 この男、こんなに力が強かったっけ?
「やめろ…」
「なあ、ブラック・ジャック」
 顔を背けることも出来ない間近に、低い声を吹き込まれた。ああ、見抜かれた、と思った。
 腕を掴まれて感じた、恐怖と、欲。
 まるで女みたいな。
 彼に触れていない、この肌が。
「ぼくがそんなに鈍いと思うのか? きみの反応、まともじゃないね」
「辰巳」
「それでも、きみを治せる医者は、世界に一人しかいないか」
「辰巳」
「贅沢な患者だな」
 ブラフ。
 友人は少し寂しそうに呟くと、すぐに私の両手を離した。寂しそうに、だって? だから、その感情が。だから、そうやって感情を。
 惜しまず、恐れず、隠さず、殺さず。
 言い訳をすることも、責めることも思い付かない私が、返す言葉を探している間に、男は、私の顔は見ないで私に背を向けた。贅沢な患者。私は、贅沢か。
 引き止めもせずに、ただ、部屋を出て行く男の姿を無言で見る。そうだ、私は贅沢だ。
 欲しいものは、この世界に、たったひとつだけ。
 遠ざかる足音を聞きながら、ボタンの飛んだシャツの胸を掻き合わせて、独りきりで苦く笑った。
 まるで、男に振られた女みたいだ、か。
 ああ、そうだ、その通りだ。





 あとを追いかけて欲しかったんだ。
 本気になって欲しかったんだ。
 私を誘い、私を堕とし、私を突き放す残酷な白い腕、淡い色の瞳、冷徹で、美しい微笑み、それが束の間、私のものになるのなら。
 彼が私に何かを残すなら。
 傷。
 傷でよかった。
 気も狂うような深くて惨い傷を。
 ああ、それでも、酷い、あまりに酷い、あんな方法は酷い、私を誘い、堕とし、突き放し、傷付けた、その全てを無かったことにしようなんて。
 血のように赤い瞳。
 私は、あの女の、身代わりだったのか。あのときも、あのときも、あのときも。
 弄ぶように、揶揄うように、ときには情熱的に、いっそ犯すように、私を抱いた彼は私ではなく、その脳裏で赤い瞳の女を抱いていたのだ、あのときも、あのときも、あのときも。
 ゲームの最低限のルール、どんなに卑怯な手を使ってもいい、対峙すること。
 彼ははじめからそこにいなかった。
 はじめからそこにいなかったと、あの日、私に教えた。
 彼の目は私を素通り。
 その後ろに見ていたのは、女、華奢な肩、乳房、男を受け入れる性器、全く麗しい。
 私は女ではない。
 私は女にはなれない。
 だから彼は私に対峙しないのだ。
 チェス盤の前、独り取り残された私は、どうすればいいの。
 ねえ、あんたの所為じゃない。全部あんたの所為じゃない。あんたの所為で私は、こんなにも惨めな色狂い、被虐の変態、あんたのことしか考えられない、醜い性的倒錯者。
 ああ、違うよ、あんたの所為じゃないんだよ、全て私の。
 私の強欲の所為。
 恋ですらない、浅ましい、執着の所為。



 遂に幻覚が出たか、と一瞬思った。
 現実と区別が付かなくなるような幻覚はなかったはずなのに、その幻はいやにくっきりしていて、リアルそのものだった。
 久し振りに車を出し、街まで食料を買いに出て数時間、家に戻ったら、玄関の前にセダンが一台横付けされていた。
 運転席のドアに凭れて、幻覚が。
「よオ、ブラック・ジャック先生」
「…」
 声まで。
 車を停め、外に出た。夕暮れの風に煌めき揺れる銀髪、まるでいつかの再現、助手席から赤い瞳の女が駆け出して、幻覚に、抱き付くのか?
 一歩、一歩、ぎこちない足取りで近付く。判っている、本当は知っている、彼は幻覚ではない。ならばどうして?
 ゲームのルールを鮮やかに破って、これで終わりだと何もかもをちぎってばらまいて、そうしてはじめて、彼は私を追いかけた?
「残念ながら、ここには、おまえさんが好むような患者はいないぜ、ドクター・キリコ。なにせおれは目下休養中で、仕事を受けていないからな」
 数歩の距離を残して立ち止まり、彼の瞳を見た。何色と表現すればいいのだろう? 夢のように玲瓏で、悪夢のように冷淡。
 彼は私の言葉に、唇の端だけで笑うと、皮肉に片方の眉を上げて私の顔を覗き込んだ。
「残念ながら、患者はいるんだ。依頼を受けた」
「…なに?」
「辰巳という男からね。なんでも、天才無免許外科医が、静脈血と動脈血の見分けも付かなくなっちまったんだそうだ」
「…」
「おれにしか治せないんだそうだ。おまえさん、死にたいか?」
「…馬鹿言うな」
 ああ、あんたに殺されるのならば。
 くく、とたちの悪い笑い声を聞かせたあと、彼はまるで執事が令嬢にそうするように、私をセダンの助手席へと誘った。拒絶することも出来たはずなのに、私は半ば混乱したまま、彼に従って助手席に座った。
 友人が彼に治療の依頼をしたというのか? 何故。彼がそれを受けたというのか? 何故。
 あのとき彼は、ものの見事に私を切り捨てたはず。
 今更何故私の前に姿を現すか。仕事だからか。
 私を、殺してくれるのか。
「少し飛ばすぜ。それでも、何時間かはかかるな」
「…何処へ」
「おまえさんのための、診察室だよ。オペ室かな? 処置室か」
「おれを殺すか?」
「だから、何度も言わせるな。治せる患者は治す。もう死にしか救いがないものは、安らかに死なせる。おまえさんはまだ生きるだろうよ」
「…殺してくれと、おれが言ったらどうなんだ?」
「他を当たれと答えるね」
「おまえは…おまえは、狡いな」
「いいから寝てろよ、鬱陶しい。着いたら起こす」
 鬱陶しい、か。
 言われるままに、故障した目を閉じて、シートに身を任せた。彼は言葉通り、最初から、かなり思い切りよくアクセルを踏み込んだ。
 海辺の家から坂を下り、東へ、タイヤはすぐにアスファルトを踏み、向かう先はインターチェンジ?
 瞼を下ろすと余計に濃密に、彼の気配がすぐ傍にあった。煙草の匂い、彼の匂い、ハンドルを切る腕の動きが、見ていなくても伝わってくる。
 神経を逆立てて、その彼の存在に、見えない触手を伸ばす。ああ、そうだ、あれから一箇月、二箇月、彼のことを考えると気が狂いそうだった、それでも彼のことしか考えてはいなかった。彼にもう一度会うことを考えると恐怖で震え上がった、それでも、会いたくて、会いたくて、仕方がなかった。
 こればかりは永遠に治癒しない中毒症状。
 私は低脳な雌豚、彼がたとえ、たとえ私に対峙しようとはしなくとも?
 肌を削られるような緊張感に、まさか本当に眠れやしないと思っていたが、私はいつの間にか眠っていたらしい。軽く肩を叩かれて、はっと目を開けると、助手席のドアを開けた彼が私を見下ろしていた。
 彼が差し出して見せた腕時計は、もう夜を指している。本当に数時間眠ってしまった訳か。
 彼の隣で。
「睡眠不足だろう、おまえ。死んだように眠っていた」
「…睡眠不足だよ」
 彼に促されて車を降りる。地階駐車場の中をぐるりと見渡して、そこで私は漸く気が付いた。
 思わず一歩後ずさり、無意識に喉を鳴らした。
 見覚えがある、ああ、確かに。彼が私を切り捨てた、あのときの。
「ブラック・ジャック?」
「おまえ…厭だ。何故…。おれは帰る」
「なにを処女みたいなこと言ってンの? 大丈夫だよ、来いよ、ここがおまえの診察室なの」
「駄目だ…。壊れる」
「とうに壊れているんだろう? だからお優しいオトモダチが、おれを呼んだんじゃないのかね」
「キリコ…ッ」
 彼の大きな手に二の腕を掴まれて、抗おうにも抗えなかった。駐車場の隅にあるエレベーターに連れ込まれ、そのまま部屋へと引きずられた。チェックインは済んでいたのだろう。
 彼は少しの迷いもない足取りで、真っ直ぐ寝室に向かい、開いたドアから私を押し込んだ。私は多分、細い悲鳴を上げた。広いベッド、向かい合うようにバーカウンター、あのときと同じだ、あのときと同じ部屋だ、私はバーカウンターの脚に拘束され、彼が女を抱く姿を見せ付けられたのだ。
「辰巳とやらから聞いた」混乱する私とは対照的に、いやらしいほど冷静な彼の声が言った。「赤色が認識出来ないって? 錐体神経の異常がある可能性は」
「な、い…ない、と、思う」
「ふうん。じゃあ、純粋に精神的なものなんだな?」
「ああ…キリコ、駄目だ、ここから、ここから、出してくれ」
「治療だぜ」
 肩を掴まれて、振り返らせられた。思わず震え上がった私の目を、吐息の触れる位置で、彼が覗き込んだ。
「よく効いちまったんだなあ、おれの仕返しは。そのうえおまえは本当に、馬鹿だ、馬鹿で馬鹿で、どうしようもないね」
「放せ…っ」
 彼の胸に思い切り両手を突いて、その彼の手から逃れる。彼が見ているのは、私でない、私でない女の、赤い瞳。
 彼は、よろめきも狼狽えもせずに、透明な眼差しで私を見ていた。それから、不意に、あのときのように、またあのときのように、そしてあのときのように、にっこりと穏やかな微笑みを浮かべて見せた。
「さあ、治療だぜ、先生。楽しくやろうじゃないか」





 二度くらいは殴った。
 殴られたのは四度くらい。
 体格の差があるのだからしようがない、重い拳に、仰向けにベッドに崩れ込んだ、その私のコートに彼は手を突っ込んだ。
「なんだ、休業中でも仕込んであるのね」
「ッ」
 咄嗟に奪い返したメスを、彼の頸に突き付ける。焦っていたものだから力加減が判らずに、鋭い切っ先が、ぷつりと彼の白い肌に食い込んだ。
 黒い、血液の玉が浮かぶ。
「もっとざっくりやればいい」彼は乱暴に、新たに私のコートから盗んだメスで、私の服をびりびりに切り裂きながら、楽しそうに言った。「どうだ、おれの血は何色だ、先生? 何色に見える? 言ってごらんなさいよ、もっと切れ、刺せ」
「黒い…」
「ああ、そうだろう、おれは死神だ、元々おれの血は黒いのさ」
「本当に、刺しちまうぞ…。放せ…ッ」
「本当に厭なら刺せよ」
「…畜生」
 いい加減服をメスで破片にしてしまうと、彼は私をベッドから容赦なく蹴り落とした。腰を打った痛みに呻く私の髪を、乱暴に掴み、ベッドの端に腰掛けた股間に引き寄せる。
「は…ッ」
「なあ、覚えているだろう? ブラック・ジャック」
 服をくつろげて取り出した、半ば屹立した性器を私の唇に押し付けながら、彼は実に優しい声で言った。寒気がした。
「あのときはここに女がいて、おまえはあそこでおれを見ていた。さあ、あのときの女と同じようにしてみろよ。おれを嬉しそうにしゃぶって、おれに嬉しそうに撫で回されて、おれに嬉しそうに突っ込まれて、おれの腕の中で嬉しそうにいってみろよ。そこまでしたらさすがに判るんじゃないの、幾ら馬鹿なおまえでも」
「キリコ…、頼む、から、…やめてくれ、おれは、狂っちまう」
「狂っちまえば? 行くところまで行ったら治りも早いんじゃネエの」
「んん…ッ」
 拒絶の言葉を吐こうとした唇に、性器の先端を押し込まれた。髪を掴んだ手で強引に私の頭を揺さぶり、身勝手な快感をもぎ取っていく。
 知っている男の匂い、舌の上で徐々に硬く、熱くなる肉棒の感触、銀色の陰毛が、いやらしいくせに芸術品みたいだ。
 ああ、あんたに、あんたなどに。
 私がどれほどあんたを欲していたか、欲しているか、判るものか。
 無理矢理の行為でさえ、私の身体にはふしだらな火がついた。服を切り裂かれ、隠しようもない興奮は彼にも見えているのだろう。彼が私に触れる。その全てが私の望みだった。丁寧に、残酷に、優しく、手酷く、その全てが。
 私の望みだったことには違いない。
 彼が触れているのは私ではないと知った、今でさえ?
 いつの間にか、私の髪から彼の手が離れていた。自覚もせずに、私は自分から頭を動かし、舌を絡め、彼の性器を吸っていた。自己嫌悪と肉欲は、どちらも殺せない同じ大きさで私を呵んだ。そうだ、このまま狂ってしまえ、手放してしまえ、鮮やかな幻覚と制御不能な世界に、迷い込んでしまえ。これ以上、血の止まらない傷に苦しみ藻掻くのならば。
 逃げるのか。
 背中に、手錠で拘束され、身動きの出来ない私の、赤い、視線を、感じた。
 嫉妬、絶望。底無しの、痛み。
「おいで」
 私の唇から完全に勃起した性器を引き抜き、彼は私の腕を掴んで、ベッドに私を引き上げた。あのときあの女をそう扱ったように、優しく仰向けに寝かせて、そっと覆い被さった。
 偽り、身代わり。屈辱と、哀しみ。
 唇に唇を寄せられて、どうしても振り切れない淡い抵抗をする。
「ブラック・ジャック。厭なのか?」
「…厭だ」
「おれを見ろ。目を開けろよ。それも厭か」
「…厭だ」きつく閉じた瞼の上を、冷たい指がすっと撫でた。こめかみを辿られて、その濡れた感触に、自分が泣いていることに漸く気が付いた。「…身代わりは、厭だ」
「…馬鹿な男だな、おまえは。おまえほど馬鹿な男を、おれはおまえ以外に見たことがないね」
「んッ」
 口付けは、気味が悪いほどに優しかった。サンチアゴで、頭から赤ワインを浴びて抱き合った、あのとき以上に。
 幾度か啄んでから、舌が入ってくる。拒もうと思っても、顎を押さえられていてどうにもならない。
 ぬるぬると私の口腔内を探ったあと、誘うように引いた舌を追って、自然に舌が絡んだ。唇を合わせながら私の身体を丁寧に弄る彼の指先、快感と悪寒が同時に肌を震わせる。まるであのときと同じ、あのとき女を抱いたように、彼は私を抱いている、身代わりの私を。
 バーカウンターの下で、魂の抜けたような顔をして、ベッドを呆然と見詰めている私が、きっと、今夜もそこにいる。
「は…」
「おまえの乳首は、可愛いな、つんと尖って、健気だ」
「言う、な…。較べ、る、な…ッ」
「較べちゃいねえよ」
 彼のシャツに擦れて硬くなった乳首に、彼はそっと舌を押し当てた。柔らかくて、溶けてしまいそう。吐息を散らせ、胸を突き出すと、今度はきゅっときつく噛まれる。
「あっ」
「痛くないだろ」
「キリコ…、厭だ…、」
「気持ちいいだろう?」
「厭だ…」
 だって私には、あの女のように、綺麗な乳房がない。
 暫くは乳首を好きなように嬲ったあと、いつの間に用意していたのだか、彼はベッドサイドから、シュガー・シロップの小瓶を手に取った。あのとき私に使ったものと同じだった。私は混乱した。今の私は、あのときの赤い瞳の女、それとも、乱暴に犯された、赤い瞳の男。
 慌てて起き上がり、抗おうとすると、子供をあやすような声で制止された。
「ああ、ああ、無駄だぜ、先生。今更どうやって逃げるって言うんだ? 大人しく抱かれていろよ、気持ちいいんだろう? おれに抱かれて、おまえはいつでもとても気持ちよさそうだったぜ。いい子にしてろ」
「あんたは…あんたは、酷い」
「ああ、そうさ、おれは酷いんだよ、ヒトゴロシだからな」
「あッ、待て…ッ」
 起こしかけていた上体を、両脚をぐっと高く広げられて、シーツに沈められた。藻掻こうとする前に、尻にとろりと冷たいシロップを落とされて、私の身体は竦み上がった。
 手錠をかけられたまま、床の上で後ろから犯された記憶が蘇る。確かに快感はあった。惨めで虚しい快感が。私を絶望させる、容赦のない快感が。
「優しくしてやるよ…」
「ああっ」
 あのときは瓶ごと突っ込まれたものだが、彼は今度は指先で丁寧に、私の後孔を解しはじめた。羞恥でぱっと肌が色付いたのが自分で判った。そんなふうに。私は決して優しくして欲しくなんか。
「力を抜けって。今更判らないもないだろう?」
「は…ッ、駄目、だ…、キリコ…、ん、」
 だって私は、あの女のようには、濡れない。
 面倒だと、あんたが言ったんじゃないか。
 彼はたっぷりと時間をかけて、私の後孔を拡げた。戦意も抵抗も、私が忘れるほど慎重に。私はそこにいて、そこにはいなかった。彼の手が触れる、痺れるような快楽と、甘い欲、それは確かにベッドの上にあったが、私の意識は、バーカウンターの下で、無慈悲に拘束されていた。シーツの上で縺れ合う、偽物の媾いを、じっと見詰めていた。
 さてこの症状を何と言うのだか? 感覚と思考が乖離している。離人症? 残念ながら専門外だ、所詮私には切ることしか出来なくて、今や切ることも出来ない、人の身体を流れるのは、真っ黒な悪意。
 穏やかな愛撫に蕩けた身体を、優しく抱き上げられたのは判った。
 ベッドの端に座った彼の腰の上へ、脚を開いて、膝立ちにさせられた。
「はあ…」
「ゆっくりだ、ゆっくり、身体を落とせ。急ぐなよ、痛いぜ。おまえのここ、柔らかくはなったが、おれのものは馬鹿みたいにでかいから」
「も…、わからな、い」
「わからなくていい。おまえは馬鹿なんだから、時間がかかるんだろうよ」
「苦しい…、苦しい、苦しい、苦しい…ッ」
「大丈夫だって。おれは名医よ」
「アアッ」
 ぐっと下から、硬い性器の先端を押し当てられ、思わず掠れた悲鳴が洩れた。反射的に逃げようとした腰を、彼の両手にがっちり掴まれて、じわじわと、だが確実に、彼の肉棒が私の中に入ってくる。
「あ…ああ…、ん…ウ、は…ッ」
「ずるずる入っていくぜ、判るか? おまえの尻は、とても嬉しそうに、おれのものを飲んでいるよ」
「あ…、言うな…、」
「ほら、これで全部」
「あああっ」
 最後に、思い切り突き上げられて、ぎっちり根元まで彼の性器を埋め込まれた。大きすぎる衝撃に、一瞬、彷徨っていた意識が掻き消えたような気がした。この引き裂かれる悦び、彼に食らわれる歓び、それは嘘ではなかった、少なくとも私にとっては、嘘ではなかった。
「覚えているだろう」私の両脚を、膝を掬うようにして持ち上げた彼が、ゆっくりと私を揺さぶりながら、首筋に言った。「あのとき、おまえはあそこで、おれを見ていた。おれはここで、女を抱いていた。おまえとよく似た、赤い瞳の女だった。知っているか? 知っているんだろうな、だからおまえは、赤が見えなくなっちまったんだろう」
「はあ…ッ、ああ、キリコ…ッ」
「おまえは馬鹿だなあ。実に愚かだ。大馬鹿だ。何も判っちゃいねえんだ。仕方がないね、馬鹿なんだから」
「キリコ…、キリコ…ッ、も、や…」
「もういっちまうのか? 女より早いぜ、おまえ」
「…リコ、…は、」
「わかったよ」
「あ…!」
 穏やかだった動きを、彼はいきなり、明らかに私を達せさせようとする速度に変えた。ぐちゅぐちゅと激しく粘膜の擦れ合う音、大きく張り出した肉棒の先端に、弱い部分を立て続けに抉り上げられて、私は叫んだ。
 ここで彼に揺さぶられている私、それを見ている私。
 どちらが私。どちらが本当の私。どちらが、身代わり。
「キリコ…ッ、いく…、いく…ッ」
「いけよ」
「もう…、ああ…ッ!」
 彼と繋がる部分から駆け上げる愉悦に、引き裂かれた意識が弾け飛んだ。感情が一度ぎゅっと濃縮して、それから真っ白に発光したみたい。
 セックスで失神したことなんて、過去にあったっけ。



 重い瞼を上げると、バスローブ姿の彼が、バーカウンターに立っていた。
 素肌にさらさらとシーツの肌触り。尻に残る違和感、まだ僅かに火照る身体。
 カウンターにワイングラスがひとつ。
 カシスと赤ワインのボトル。
 彼は実に美しい仕草で、まずはカシスのボトルを取った。グラスに僅かに注ぎ、それから赤ワインで充たして、軽くステア。
 彼が、見られていることを意識していない雰囲気だったので、私も身動きはせずにただそっと眺めていた。彼は一口酒の味を確かめると、グラスを手にしたまま、私の埋まったベッドに歩み寄ってきた。
 私は咄嗟に目を閉じた。彼がベッドの端に座ったときに、はじめて目を覚ましたようなふりをして、目を開けた。
「ブラック・ジャック先生、お目覚め如何」
「…よくはない」
「大したことはしていないはずだけどね。どうぞ」
「…」
 差し出されたグラスを手に取り、不審な目付きを投げながら唇を付ける。先程、彼が同じようにしている姿を見ていなかったら、飲まなかったかも知れない。
「何色に見える」
「…黒」
「これが何か判るか?」
「…カーディナル」
「そうだ、綺麗な、深紅の、カクテルだ」
 彼は、私の手からグラスを取り戻すと、一口飲んだ。珍しく、穏やかな、何の嫌味もない表情をしていた。
 グラスを揺らして、ライトを照り返す輝きを眺めた。それから私に向き直り、不意に、何の前触れもなく、彼は私の顔に、酒をばしゃりとぶちまけた。
「…ッ」
「おれがあの女を抱いたのはな」
 思わず噎せ返った私の耳に、彼の平坦な声が聞こえた。サンチアゴでこうして、ワインをぶちまけられたことを、ふと思い出す。
「あの女の瞳が、おまえと同じ、綺麗な深紅だったからだよ」
「…」
「カーディナルだ。見えるか? おまえにこの色が」
「…」
 酒が染みる目を無理矢理開けて、彼を見る。彼の手が握ったワイングラスに、僅かに残る酒を見る。
 その色は。


(了)