堕天使

 ねえ神様。
 天使の、或いは堕天使の話をしませんか。


 悪魔を呼んだのに、と彼はぽつりと言った。
 ダークグリーンのカーテンの隙間から朝日が細く差し込むホテルの寝室、ベッドの上に腹這いになって欠伸混じりに煙草を吸う。彼はぼうっと天井を眺めている。まだ半分眠っているような、少し縺れた声。
 今何時くらいだろう。七時か八時? はじめは糊がききすぎて肌に痛いくらいだったシーツは、昨夜、二人分の汗を吸ったせいで僅かに湿っているような気がした。別に不快ではない。
「おれは悪魔を呼んだのに」殆ど独り言のように彼は繰り返した。「天使が来やがった。とても綺麗な、真っ白い天使だった。こう、桜の花びらが舞い散って、そのなかに降り立った。本当に綺麗だったんだ、まるで、そこだけ空気が変わったみたいに」
「…そうか」
 腕を伸ばしてベッドサイドの灰皿に灰を落とす。もうこのまま時間が止まってしまえばいいと思うような、この気怠い感覚は好きだ。バスローブ越しに誰かの体温があって、それがとても自然で、肌に触れ耳に聞こえ目に入るあらゆる事象がこれっぽっちも不快でない、全く奇跡のようなこの気怠い感覚。
 彼が少し身じろぎ、シーツを軽く引っ張っていった。寒いのか。
「もうずっと前だ、子供のときだ。おれは天使に会ったんだ。母親は死んで、父親はどっかに行っちまって、おれはとことん一人だった。そういうときだ」
「…そうか。で、急にどうしたの」
「夢を見たんだよ」横目で見やった彼は、まだ寝起きの表情で、天井を眺めたまま答えた。「なんでかな。おまえさんと一緒にいると、よくあのときの夢を見る。ぼんやりしてて、細かいところまでは覚えてない。ただ、その天使が真っ白で、とても綺麗で、…それから、」
「それから?」
「それから」
 彼はそこでようやく視線をこちらに寄越すと、少しだけ困ったような、そのうえ少しだけ辛そうな顔をした。無防備な寝起きでないとそうそうこんな表情は浮かべて見せない。
 右手の煙草はそのまま、俯せていた身体を横向きにし、肘を付いた左のてのひらで頭を支えて彼を見た。そうしてようやくきちんと咬み合った視線を、しかし彼はすぐにふいとそらせ、そして、しでかした大層酷い悪戯を告げる子供のようにぼそぼそと言った。
「それから、おれは天使の頼みを聞かなかった。お願いと言われたけど、厭だと言った。天使はとても悲しそうな顔をしたよ、それだけを覚えてる」
「頼みって?」
 煙草を唇に運びながら問う。訊かなくてもいいのに、と少し思う。
 その頼みがどんなものであったかなど、彼から訊かなくても、知っている。
「…、」
 彼は、窓にかかったカーテンのあたりを睨んで、言い淀んだ。迷うように瞬いた瞼を縁取る、その長い睫が綺麗だと思った。
 その頼みがどんなものであったかなど、知っている。
 彼がそのとき会ったのは、天使ではない。
 天使どころか、後に死神になる、堕天使。
 私だ。





 偶然ではない。
 勿論運命でもない。私はあのとき彼を捜したのだ、わざわざ海を渡ってまで。
 ただ、彼に会いたいという、あの殆ど訳のわからない衝動を、運命だと誰かが言うならば、まあ、否定もしない。つまらない好奇心だと言われてもその通りだろうし、向上心だと言われれば笑って二度ばかり頷こう。
 まだ医者ではなかったが、医者になることにはしていた。
 確か整形外科学だかの助教授がその話をした。
 助教授が日本人であるドクター・ホンマとどれほどの親交があったのかは知らない。ただ彼は、三、四年も前のことになるその異国での御伽噺みたいなオペの話を、まるで昨日その目で見たばかりのように喋った。本当にエキサイトしていた。つられたのか、今思えば。
 過密スケジュールをうちやって日本に渡った。
 何に、何故そこまで駆り立てられたのかは解らない。ただ、その少年に会いたいと思った、それだけは確かだ。同情でもないし憐憫でもない、勿論賛辞を送りたかったわけでもない。
 世にも珍しいモルモットが、少なくとも幾らかはその血を受け継ぎ、少なくとも何年か前にはそこにいた国で生まれたから、見てみたい、と、そのくらいの気持ちだったのか。
 解らない。
 ただ、会いたかった。
 生と死の狭間に立った人間に。





「…本当に、真っ白でな。頭の先から爪先まで」
 言い淀んだすえ、問いには答えずに、彼はそう呟いた。
「男性体だった。天使の事情はよく知らないけど、天使ってみんな男か? 背が高くて、髪が、こう、真っ直ぐで、腰ぐらいまであった気がする」
 そうだったっけ。
 彼は暫く考え込むような表情を見せてから、ああ、おまえの髪の色とよく似ていたよ、と言った。
 似ていたんじゃない、同じなんだ。
「最初、その天使がおれの目の前に現われたときは、とても驚いた。いや、驚いたと言うか、なんで天使なんだよって思った。おれは悪魔を呼んだんだ。悪魔に会いたかったんだ。ずっとそう願っていたのに、ようやく降りてきたのは、天使だった」
「どうしてそいつが天使だって判ったの」
「見りゃ判る。あんな白くて綺麗な人間いない。まるであっち側が透けるくらい、透き通りそうなくらい、白かった。あれは天使だ」
 彼は少し怪訝な表情をして視線をこちらに戻した。この異様なほどの現実主義者が天使だ悪魔だ言うと奇妙に聞こえる。
 見詰めた赤い瞳には特に他意はない。
「信じないか? そりゃそうだ。おれも会ってなけりゃ信じない」
「信じるよ」
「信じてないだろ」
「信じてるよ」
 短くなった煙草をベッドサイドの灰皿に押し消して、幼子を宥めるように言った。彼は少しむっとしたような目付きをしたが、すぐにそれは消えた。
 天使にでもお出ましいただかなけりゃ、やっていられないような時期があったと言うなら、それでいい。





 ドクター・ホンマは守秘義務を守った。
 まあ当然だ。いきなりやってきた飛び切り日本語の上手いガイジン、しかも若造に、もう何年も前にオペをした患者の所在地を述べよと言われて頷く医者は医者ではない。
 助教授の名前を告げ連絡を取らせ、我ながら己の頭を疑うほどしつこく食い下がると、それでも少し軟化した。
 両脇に桜が咲き乱れる遊歩道の先にある、小さな公園を暗に教えられた。
 そうだ、春だった。久々に踏んだ日本の地で桜を見せ付けられるなんて、随分と強引な歓迎をされたものだ。夜の一歩手前、薄闇を刷いたような空に、白い無数の花。正気と狂気の臨界点。
 着ていた白いスーツのそこらじゅうに花びらがくっついて往生したことを覚えている。
 だから、彼の名前も年も背格好も知らなかった。
 ただ、その医者は、あそこは桜が綺麗だから行ってみたらどうかと提案しただけだ。
 彼が探していた少年であることは、それでも、一目で判った。
 ひと気のない公園の薄暗いベンチに彼は一人座っていた。彼の不思議な色をした髪の上にも桜の花びらが何枚か散っていた。肩にも、腕にも、脚にも。そのなかで彼はぽつんと、捨てられて諦めて諦めきれない、凶悪で過敏な子猫みたいにただそこにいた。
 ただ生きていてくれさえすればそれでいいとでも言うかのような、優しく残酷な縫合の跡が左の頬に見えた。
 目が合った瞬間の衝撃を覚えている。
 それは少年の目ではなかった。
 戯言など許さない、絶望しか見えない、ただ煌くものはその憎悪と瞬間的なスパーク、そんな目。
 その目を驚愕が掠めたあの時に。
 そうか、攫っちまえばよかったのか。





「どうして悪魔を呼んだの」
 右手の指先で、枕に流れる彼の髪を弄んだ。
 彼は特に振り払いもせず、ただちらりと、困ったようにこちらを見た。
「どうして悪魔に会いたかったんだ?」
「…力が、」
 言葉尻だけ変えて繰り返すと、彼は、聞き取りにくい低い声で言った。
 ダークグリーンのカーテンをかいくぐる朝日が、シーツの上に複雑なラインを描いた。彼が呼吸をするだけで、その光は容易に歪んで形を変えた。
「力が欲しかったんだ。おれは、力が欲しかったんだ。力が手に入るなら、別にそれが邪悪なものでもなんでも良かったんだ。いや、むしろそのほうが良かった。…悪魔のような力が欲しかったんだ、力をくれと悪魔に頼みたかったんだ」
「悪魔に願いごとをすると、代わりに魂取られるんじゃなかった?」
「…取られても良かったんだ」
 彼の唇が僅かに震えた。厭なことを思い出した?
 驚かせないようになるべくゆっくりとした動きで、両手を彼の頭の両脇に付き、覆い被さる。彼は近まった視線の距離に戸惑うように目をそらせた。諍うときには平気で真っ直ぐ睨み付けてくるくせに、ただこうして見つめ合うのには彼はなかなか慣れない。
 更に顔を近づけて赤い瞳を覗き込む。綺麗な二重の瞼を半ば下ろし、彼は頑なにフォーカスを下の方向へ逃がす。
 目の動きだけでのささやかな抵抗。本当にこうして見詰められるのが厭なら彼はひっぱたく。
「どうして力が欲しかったの」
 唇に軽く口付けると、彼の視線がさっとこちらに向いた。少し責めるように、僅かに迷うように。
 もう一度、しっかり視線を絡ませたまま彼の唇を短く吸った。
「力を手に入れて、何をしたかったんだ?」
「…、を」
 美しい瞳だと思う。いくら見ていても見飽きることがないくらい。
 彼は答えようとして自分の掠れた声に邪魔をされ、一瞬、酷く苦しそうな表情になった。眉を寄せ、目を細め。その目頭に、瞼に、目尻に、唇を落とす。そんな顔をして欲しくないと思いながら、そんな顔も見せて欲しいと思う。
「何をしたかった?」
「…復讐、を」
 それから、血を吐くように言った、唇に。





 手負いのケモノ? 違う、それではちゃちだ。
 今にも夜に落ちそうな薄闇、舞い散る桜の花びらの中で、彼の存在は異質なまでに圧倒的だった。
 少年の姿を借りてそこにある、これっぽっちの濁りもない、純粋な黒。
 そのうえ罅だらけで脆い。
 誰かがふざけた悪趣味で運命だとかいう言葉を持ち出すのなら、多分、あの海を越えさせたくらいの訳のわからない衝動と、そしてそのときに繋がった細い、今にも切れそうな糸のことを言うのだろうとも思う。神経の端を直接結わえられるような激しい感覚だった。もっとも、繋がったと思ったのは自分だけには違いないが。
 彼は、少々大仰なほどに目を見開いて、こちらを見ていた。
 そうも異国の血が珍しいかと思った。まあ、少々大仰なほどに目を見開いていたことについては、こちらも同罪だったろうから何も言えない。
 逃げられるかもしれないという危惧は何故か浮かばなかった。
 桜の花びらが敷き詰められた柔らかな土を踏んで歩み寄った。ベンチに座る彼の前で膝を折り、腰を落として視線の高さを下げた。
 彼は、まだ驚愕が去っていない表情のまま、その手を伸ばしてきた。
 視線は逸らさなかった。彼の指が髪に触れ、そっと掬い上げ、毛先まで撫でた。恐怖は伝わってこなかった。
 それから彼は、えらく澄んだ声で言った。
『…本物だ。天使だ。あんた天使だろう。真っ白だ』
『…そうだよ』違うと言っても良かったが、言った途端に糸が切れそうな気がした。『わたしは天使だよ。きみを救いに来たんだ』
 真っ白、か。
 天使だか、天使のふりをした異国人だかが日本語を喋ったことに、彼は何の疑問も感じていないようだった。ただ、その言葉を聞いた次の瞬間に、酷く辛そうな顔をした。痛々しく、儚く見えた。
 ざっと風が通り抜け、桜の花びらが踊った。
『…救われたくなんかない』
 その風に掻き消されそうな小さな声だったが、彼ははっきりとそう言った。
 救われたくなどないと。
 さあ、この年頃の少年をして、そんな言葉を吐かせる現実が、この世に存在していて良いものか? 彼は、纏った強烈な、鋭利な空気はそのままに、唇を震わせ、泣き出しそうな目でこちらを睨んだ。
 美しい、赤い瞳だった。
 穢れなどなく、勿論躊躇いもなく、自ら血の海に沈んでいくような。
『違うんだ。おれは天使を呼んだわけじゃないんだ。おれは、悪魔を呼んだんだ。ずっと呼んでいるんだ。…あんたじゃないんだ』
『悪魔を呼んでどうする?』
『…頼みがあるんだ』
『魂を取られるよ、悪魔を呼ぶと』
『…取られてもいいんだ』
 沸点を軽く超すほどに熱く、全てを一瞬で凍らせるほどに冷たい色が、彼のその瞳に浮かんで消えた。ただ魅せられた。あまりにも鮮烈であまりにも深淵な闇。
 そのオペは奇跡的だったという。
 果たして奇跡がこの少年に何をもたらしたのか。
 奇跡は起こるべきだったのか。己の意志が通ずるならばそれを彼は望んだろうか。
 そんなことは知らない。
 死んだ方がマシだったなんて彼はきっと言わない。
 ただ、刻まれた傷を、癒す奇跡は永遠に起こらない。
『悪魔に何を頼む?』
『力をくれと』
『力を手に入れてどうする』
『…復讐を』
 彼の視線は揺らがなかった。触れるもの全てを切り裂くくらいにシャープだった。
 ああ、あのときに。
 天使のまま奪っちまえばよかったのか。それとも、悪魔になればよかったか。





 戸惑うような微かな抵抗を、身体中に降らせた口付けで封じる。
 バスローブを床に落として絡まり合う。昨夜の快楽をまだ覚えている身体には、簡単に火がついた。
「いやだ…」
 ローションで濡らした指を一本差し入れると、彼は両手でシーツをぎゅっと握りしめ、啜り泣くように言った。起立した性器と、甘く溶けたいつもより高い声は、彼が明らかに快感を覚えている証拠。
「いやか?」
「優しく、するな…ッ」
「何故」
「天使が…天使が見る…」
 一度引きかけた指を、もう一度根本まで押し込んだ。内壁を擦り上げるように指を立てて、手首を回すように刺激する。
「見せとけよ」
「ン、だ、って、おれは、裏、切ったんだ、その手を、払ったんだ」
「いいじゃねえか、そんな、何処の誰かも判らねえ男のことなんか、どうでも」
 内部を掻き回しながら、硬く尖った乳首に唇を押し当てる。強く吸い上げ歯を立てると、彼はシーツに重く身悶えて喘いだ。
 髪を振り乱し、枕の上で頭を左右に振る。快感を散らすように、拒絶するように。
「違う、天使だ…、おれに…悪を望んだおれに、与えられた最後の、救済、だったのに」
 最後のほうは掠れて言葉になっていなかった。
 何を後悔する?
 彼に覆い被さる身体を起こし、膝を立てて開かせた両足の間に跪いて、意地が悪いほどに優しく準備を施した。いやだ、と彼は何度かうわごとのように呟いたが、それでも抵抗はしなかった。
 零れてシーツに滴るくらいにローションをたっぷりと注ぎ込み、焦れったい時間をかけて少しずつ強張りを解す。昨夜散々に開かされた彼の後孔は、容易く指を二本飲み込むまでに綻んだ。熱い肉壁を二本の指で広げるように交互に動かして、ぴちゃぴちゃと洩れるローションの音と彼の蕩けた声を聞く。
「ああ…っ、や…だ、…っと、酷く、しろよ…ッ」
「その救済を拒むことが、おまえなりの、おまえの救済だったのだろ」
「ん、ア…、」
「それしか生きるすべがなかったなら、いい。それが生きる糧になったなら、いい。悪でも」
「ヤ、あ…! 優し、く、する、な…ッ!」
 震える膝に、慈しむ口付けを落とした。彼はぽろぽろと涙を溢して、裂けるような声で言った。
 罰されたい?
 何故。あの日彼の前に現われた偽者の天使は、その後何人もの人間を殺した。
 葛藤がなかったとは言わない。だが、それがなんだというのだ、全ては結果。
 身体中から血を垂れ流し、手足を吹き飛ばされた人間は、もう死に縋るしかなかったのだ。
 戦場では。
 誰よりも穢れて堕ちた天使は死神になった。それでも罰されたい?
 馬鹿だね、おまえは綺麗だよ。
 ほら、私のこの、闇よりも暗い闇を引き摺る真っ黒な手を見てごらん。
「綺麗、だったんだ…」
 喘ぎ、乱れる呼吸の合間に、彼が切れ切れに言葉を紡いだ。
「天使に、従っていたら、おれは…こんなに、汚くはならなかったかも、しれないんだ。綺麗に、なれたかも、しれないんだ。だけどおれは、それじゃ、厭だったんだ。おれのこの憎悪を、捨てたらおれは、一体何のために…生きていなけりゃならねえの」
「ああ。解っているよ」
 あのときおまえが私を受け入れたら、私は或いは、死神にはならなかったのかもしれない。
「悪意だけに、おれは、生かされていたんだ。それ以上の、力なんて、この世には、なかったんだ。…なあ、酷く、してくれよ。壊してくれよ。滅茶苦茶、に、引き裂いてくれよ。跡形も、ないくらい」
「知らないのか? 純粋な悪意というのは、ときにとても綺麗に見えるんだぜ」
 あのときおまえと私が、ただ傷を癒すように皮膚など脱ぎ捨てて血を流し抱き合えたら、或いは私は、そして、おまえも。





 鋭く、躊躇いはなかった。もうそれ以外は見えないというみたいに。
 一番深いところまで達した惨い傷さえも。
『虚しいとは思わないか』
 桜の舞い散る公園は、いつのまにか完全な夜に閉ざされていた。
 世界からたった二人取り残されたような鮮明な疎外感。闇に踊る白。何処か知らない場所で誰かが触れ合い満たされる三十七度の幸福なんて、砂浜に描く落書きほどにくだらない。知らない、見たこともない、見たくもない。
 無駄と知っていながら、その傷に触れた。
『魂を取られてまで復讐がしたい? 他に方法はないの。自分から地獄に落ちたって楽しいことは一つもないよ』
『他はない』
 きっぱりと言った声の裏に悲哀が透けた。
『おれにはそれしかないんだ。そのために生きてるんだ。他はないし、他はなにもいらないんだ。おれからそれを奪われたら、おれはどうやって生きていけばいい?』
『誰だって無意味に生きているんだよ』
『正しいなんて思ってない。でもおれは、抑えられない。抑えもしない。ただそれだけがおれを生かしてるんだ、それなしじゃおれは、生きられない、死んでしまう。死んでもいいと思っちまう』
『…ねえ、きみ、わたしの頼みを聞いてくれないか』
 隔離された闇は冷たく、一つの誤魔化しもなく、濃密で、脆い。
 膝の上で握られた彼の手にてのひらを乗せた。彼は二、三度瞬いたが、怯えも逃げもしなかった。真っ白い天使。本当に彼の目にはそう見えているのだとしたら、彼が求めていたものは、悪魔なんかじゃない、違うか?
 自分でも見えない闇の底で、足掻く彼が求めているものは。
 そうか。でも、見えないんだね。
 見たくはないんだね。
 与えようとか奪おうとか、そういった明確な意図は全くなかった。身体を起こし、両手を伸ばした。ただ触れたいと、それだけを思った。
 くっついた桜の花びらを落として、髪を撫でる。少し癖がある、柔らかい髪。それでも拒絶しない彼に覆い被さるように腰を屈めて、肌に走る傷跡に唇で触れた。前髪をかき上げた額から、頬へ。
 ぎゅっと閉じられた瞼。抵抗も恐怖も伝わってこないことを確認してから、唇を重ねた。
 天使のふりをして。
『ン、』
 彼はびくんと身体を震わせたが、振り払いはしなかった。軽く啄ばんで、あとはただ、触れ合わせた殆ど剥き出しの神経で体温を交換した。甘くもなく、深くもなく。その行為は、少なくとも自分にとっては全く自然なものに感じられた。或いは、冗談みたいだが、神聖なものに。
 しばらくそうしてから唇を離すと、彼は胸を喘がせてこちらを見た。
 赤い綺麗な瞳に、非難の色はなかった。もし、見も知らない単なる白い服を着た男に変態じみた悪戯をされただけだと彼に言ってやったら、彼はどうするか。
『わたしがきみを守ってあげよう』
 唾液で濡れた唇を、指先で拭ってやりながら言う。
『傷も、痛みも、癒してあげよう。昼も、夜も、傍にいよう。だから、復讐は、もう、忘れてください』
『…、』
 一瞬風がやみ、桜の舞う夜は時間を失った。
 見開かれた彼の目の、その血のような色が何より鮮やかにそこにあった。
 解っていた。
 たとえ何を言っても、願っても祈っても、彼はどんな光さえ飲み込む闇を纏って歩き出す。
 追い詰められるように、自ら逃場を踏み潰して、深く、深く。
 そう、解っている。
 それでも、知っていて欲しい。
 きみが生きている、その奇跡に、身勝手にも跪く偽りの天使がここにいる。





 膝を肩に抱え、ゆっくりと押し入ると、彼は両手でシーツを掻き毟って高い悲鳴を上げた。
 同じ速度のまま根元まで挿入し、そこで彼が慣れるまで少し待つ。ローションでとろとろに溶かした彼の内部は、柔らかく、きつく、熱く締め付けてきた。肌が馴染めば馴染むほどに高まりあう悦楽。
「ああ…ッ!」
「いいよ。吸い付く。痛くない?」
「ヤ…だ、ア、も、っと、酷く、しろ…っ」
「いやだね」
 深い位置で腰を揺すり、じっくりと捏ね回す。塗り込み、注ぎ込んだローションがぐちゅぐちゅと音を立て、溢れ出す。
 もしもこの髪が黒かったら。
 着ていたスーツが黒かったら。肌が白くなかったら。
 巨大で邪悪な力をくださいと、彼は私に頼んだか。
 それでも、天使が来たと思ったか。
「ア、 アッ、…や、も…痛、く、して…、して…ッ」
「いやだ」
「汚せ…っ、もう…見えない、くらいに…」
「どれほど汚れようとおまえは綺麗だよ」
 彼の弱い部分に狙いをさだめ、先端で小刻みに刺激する。角度をつけて、優しく、執拗に、たっぷりと時間をかけて。
 彼はびくびくと細身の身体を波打たせ、快感に蕩けきった喘ぎを放った。肩に抱えた脚の内側、汗ばんだ肌に口付ける。
 誰にもおまえを罰することなどできやしない。
 特にこの、罪深きヒトゴロシには。
「ン、ああッ、は…ア…!」
「いいよ。おまえもいいだろう?」
「ウ…、ア、ん…ッ」
 埋め込んだ性器を先端が見えるほどまで引き抜き、一気に突き刺す。またぎりぎりまで抜いて、根元まで打ち込む。繰り返し、繰り返し、何度も。
 深く穿つたびに、彼はその動きに合わせるように、翻弄されるように声を上げた。慣れた身体は苦痛に逃げることも許されず、熟れた肉壁を激しく擦り上げられ、快楽に炙られて涙を流す。
「あ、ア…、あ、あッ!」
「…たまらねえな」
 きつく瞼を閉じ、眉を寄せ、淫らな表情を浮かべる彼の顔を見詰めながら、腰の動きを少しずつ早めていく。指先が白くなるくらいにぎゅっとシーツを握り締め、肩が浮くほど身体を仰け反らせて、彼は悲鳴を上げた。
「アア! た…す、け、て…ッ!」
「そう…それでいい」
 助けてくれ、救ってくれと。
 決して言わなかったあの日の彼と、こうして今は、繋がっている。
「もっと気持ちよくしてやるよ。何も考えられなくしてやるよ」
 結合する部分に指先を這わせ、一杯に広げられた彼の今にも裂けそうな皮膚を撫で上げる。
「だから、おれを見てくれ。おれを感じてくれ。天使なんてもう何処にもいねえんだよ」
「あああ!」
 そう、もう何処にもいない。
 違う、はじめから、何処にもいなかった。
 おまえの闇が作り上げた虚像。
 熱い身体をぶつけ合って快楽に溺れる。体液を混じり合わせてほんの束の間融合する。
 ああ、こうして手に入れた彼の存在が。
 何故不安になるのだろう。いつかあっさりと消えてしまいそうで。





 その瞬間、本当に彼が泣き出すのではないかと思った。
 矛盾したふたつの渇望。
 悪魔の降臨を待ち望むその目で天使を見る。
『…、だ』
 息をのんだように止まっていた風が、すぐに、桜の花びらを撒き散らしながら夜を駆け抜けた。
 彼は少し掠れた声で言った。吹き付けた風にちぎれたその言葉は、しかしはっきりと届いた。
 厭だ。
 彼はそう言った。
 このままこの腕に抱きしめて、彼にとっての異国へ連れて帰ってしまいたいと思ったのは本当だった。昼も夜もなく抱き寄せて、口付けを与えて、その傷が見えなくなるくらい。
 だが、それが不可能であることも知っていた。
 生と死の狭間で彼は何を見たのか。想像はしない。見たものにしか解らない。
 ただ彼は、憎悪を滾らせることでしかそこから這い上がれなかったのだ、それだけは解る。それほどまでに深い、否応なく闇に犯され蝕まれる絶望の果て。
 堕ちるか、死ぬか。
 彼が安寧を得るためならばこの身を引き裂いて褥にすればいい。
『悪魔は呼ぶものじゃない』
 彼の唇に触れていた指を離し、一歩後ろに引いた。二人の間を斜めに桜の花びらが舞い落ちた。
『悪魔は呼ぶものじゃない。何処か遠いところにいるわけじゃない。自ら悪魔に、なるんだ。力は誰かから貰うものじゃない。湧き上がり、奪い、身に纏うものだ。それがきみの選択だと言うのなら、きみにはそれしか選べないと言うのなら、いい。魂を枯らせて、悪魔になれ』
『…怒るか、天使』
『怒らないよ』
 最後に少し笑って見せて、背を向けた。
 ねえ、この狂おしいまでの、名付け難い感情はなに。
 たとえば一時も離れず傍にいる。たとえば優しく強引に奪う。たとえば祈る。たとえば、誰よりも強く深く終わりなく愛する。
 無駄だ。
 彼は美しい闇色の翼を羽ばたかせて一人きり何処かへ飛んでいくのだろう。絶望しか見ない赤い瞳には、憎悪と瞬間的なスパーク、そして、永遠に満たされない寂寥。
 漆黒の空を見上げた目には、毒々しいまでに狂い咲く、真っ白な桜が見えた。
『待ってくれ』
 不意に、引かれた。風に乱れる髪を、後ろから。
 立ち去ろうとした足を止めて、振り返る。そこには、ベンチから立ち上がり、後を追い、それでも腕を引くことも背中にしがみつくこともできない少年が、指先に髪を絡ませて立っていた。
『もう…もうおれの前には降りてきてくれないのか。もうお終いか。二度と会えないか』
 瞬きの間に消えてしまいそうな、縋るような表情が彼の顔に、一瞬浮かんだ。
 彼の手を掴み、髪から離させながら、答えた。
 馬鹿だね。
 そんな顔をすると、本気で掻っ攫っちまうぜ。
『天使はもう降りてこないよ。もうお終いだ。チャンスってのは一回しか訪れないの』
『…』
『だが、また会えるよ。必ず会えるよ。そのときわたしは、もう天使じゃない、だから安心して向かっておいで』
『…人間になるのか?』
『ああ。きみを救えなかったから資格剥奪だ。でも、また会ったら、そのときは今度こそきみを救ってあげるよ、人間ってのは意外と強引な生き物なんだ』
 もう一度最後の微笑を浮かべて見せて、振り切るように背中を向ける。
 必ず会えるよ。
 だって糸が繋がっちまったじゃない。
 夜の公園に少年を一人残して、両脇に桜の咲き誇る遊歩道へ足を向けた。限りなどないほどに、頭上から花びらが飽きずに舞い落ちてきた。
 無意味で、儚く、だからこそ美しい。
 誰かの命を繋ぐということは、だからこそ。

 皮肉だね。
 その私が、数年後には、死神の化身。





 ねえ神様。
 天使の、或いは堕天使の。


「堕ちるところまで堕ちたな」
 まだ熱を孕んでいるシーツの中で、裸のまま寄り添う。
 彼の肩へ横向きに頭を預け、殆ど癖の仕草で彼の身体に残る縫合の跡を撫でていると、その頭上に彼の淡々とした声が聞こえた。
「なにが」
「朝っぱらから男と抱き合って精液まみれだ。たとえ天使がもう一度おれの前に現われたとしたって、呆れて顔を背けるだろうよ」
「いいじゃねえか、放っとけ」
「おれが死ぬときにも、きっと天使は迎えに来ない」
「おれが丁重に送ってやるよ、なにせ死神だからな」
 彼は片手で煙草をふかしながら、片手で肩に凭れる男の長い髪を弄んでいた。もうこのまま時間が止まってしまえばいいと思うような、この気怠い感覚は好きだ。指に馴染んだ誰かの体温がすぐ傍にあって、それがとても自然で、肌に触れ耳に聞こえ目に入るあらゆる事象がこれっぽっちも不快でない、全く奇跡のようなこの気怠い感覚。
 彼の肩から頭を起こし、ベッドサイドに手を伸ばして煙草を取る。
「おれは随分と汚れた」先程とは違う角度で光がカーテンの隙間から差しこみ、呟く彼の腕のあたりを焼いた。「悪魔になれと天使は言った。おれはそのとおり悪魔になった。鬼のようだともよく言われる。無慈悲で、冷酷で、冷淡で。そうやっておれは生きてきた。そうやってしかおれは生きてこれなかった」
「甘い。おれのほうが見事に穢れているぜ。あと三百人ばかり殺してからそういう生意気な口をきけ」
「おまえはいいんだよ…」
 ライターを探そうとした目の前に、彼の煙草を差し出される。その穂先から火を吸い付けて、天井に向かって煙を吐く。
 少しでも長くこのぬるま湯に浸っていたいと思う。半分思考を麻痺させて、湿ったシーツに重く沈んで。
 一歩踏み出せばそこは殺伐とした憂鬱な太陽の下。後ろも見ずにただ歩く。走る。選んだのは自分だから。
「起きなけりゃなア。おまえ今日仕事は?」
「夜にドイツだ。殺し屋は?」
「イタリアでご指名」
「じゃあ、もう起きなけりゃな」
「な」
 煙草を燻らせながら、横たわったままたわいもない会話を交わす。今日ここで彼と別れたら、次に会えるのがいつになるかは判らない。何か月も会えないかもしれない、そんなことはザラだ。
 辛いとは思わない。まさか淋しくもない。ただ、少しだけ。
 自分の腕を枕にして、ぼんやりと天井を眺める。その隣で、彼は煙草を灰皿に消し、ゆっくりと起き上がった。
 何の未練もないように、ベッドから立ち上がり、拾い上げたバスローブを身に纏う。
 また会えるよ。必ず会えるよ。
 また会ったら、そのときは今度こそきみを救ってあげるよ。
 どうやって? おまえが出会った天使は私だったのだと、告げることもできやしない。
「なあ、おまえ」
 バスルームに向かう途中で、彼はふと、思い直したように首だけ振り向けてこちらを見た。
 ローブの合わせ目から覗く、鎖骨の上あたり、それから胸骨の上、胸にも、赤い口付けの跡。どうせすぐに消えるのに、何故か残したくなる肌を合わせた証。
「なに」
「もう一度、髪を腰のあたりまで伸ばして、真っ白いスーツを着たらどうだ? 綺麗だぜ」
「…」
 なんだって?
 思わずぽかんと彼を見詰めてしまったその前で、彼は珍しく、無邪気な悪戯を仕掛けた子供のような、実に可愛らしい笑みを浮かべた。呆気にとられて一瞬空白になった頭が何か言葉を思いつくより早く、その彼の姿は、さっさとバスルームの扉の向こうに消えた。
 なんだって?
 つまりどういうこと。

「…あのヤロウ」

 ねえ神様。
 あの男は決して冷酷な悪魔などではないけれど、それなりの小悪魔にはなりました。



(了)