シャワーの音を聞きながら外線をかける。
 深夜。彼はかえって昼の電話よりも夜の電話の受話器を取る。
 多分急用である確率を計ってのことなのだろうが、嫌味と言えば嫌味だ。
 一回、二回、三回、呼び出し音を数える。
 途切れたのは七回目。
『はい』
 低くて甘い、感情のない死神の声。


 何をしたいかなんて解らない。
 何をして欲しいか、どうして欲しいかなんて知らない。
 まさか愛し合いたいなんて思わない。愛してはいないし、愛されたくもない。
 ただ、時々確かめたくなる。
 彼がどれだけ私に執着しているか。
「ホテルのスイートにいるんだ。吐き気がするほど夜景が綺麗だぜ」
 窓には背を向けて、いい加減なことを言う。ベッドとシャワーだけあればいいのに、無駄に広くて無駄に豪奢な部屋に腹が立つ。
 回線の向こう、彼は無反応。
 でも、判っている。彼は私の言葉に聞き耳を立てている。僅かな吐息も逃すまいとするように。
「女といるんだ」悪趣味な金のライターで、不味い紙巻きに火をつけた。「髪が長くて、細い身体をした、綺麗な女だ。気が強くて、気位の高そうな、アビシニアンみたいな女だ。いい女だ。ああいう女を抱いたら、もうあんたに抱かれる気にはならなくなるかもな、スカした顔しておれの尻で腰を振る、あんたには」
『…そのアビシニアンみたいないい女を抱くのか? ブラック・ジャック』
「抱くよ。悔しいだろ」
 ガラスの灰皿の縁を指先でなぞりながら、煙草の煙を細く吐く。目の前に彼の顔があれば、思い切り吹きかけてやるのに。
『悔しい』
 相変わらず抑揚のない声で彼は答えた。多分無表情、あの憎たらしいくらいに変化のない。
 でも、判っている。彼は今、本当に、悔しいのだ。灰色の冬の夜に捨てられた高価な人形みたいに淡白、でもそれは上辺だけ、完璧に隠された彼の内側は熱くて、醜くて、汚くて、欲深い。
「そうだろうな、悔しいだろうな、キリコ先生」
 ドアの向こうに聞こえていたシャワーの音が途切れた。女は嫌いではないが、だから敢えて拒みはしないが、別に抱きたい、抱き合いたいと強く思ったことはない。
 それは男でも同じこと。多分私には何処か欠落がある。セックスを厭いはしないし、実際行為に及べば快楽を得るし、むしろ好きと言ってもいいくらいなのに、誰かとそれをしたい、という切実な欲がない。
 誰を欲しいとも思わない。肉体を重ねてそれで何になる。
 一夜の快楽に何の意味がある。
 一人で生きて、一人で死ぬ。そんな当然のことを、当然だと思う私を何故人は哀れみの目で見る。私は騙されない。人間なんて所詮一人だ。
 哀れみたいのならば哀れめ。刹那の交わりはただの慰め、体温を寄せ合う幻想。誰かが私の身体を使いたいというのならば使え。私は引き替えにくだらない快楽に酔う。
 くだらない。実にくだらない。
 それでも私は時々確かめたくなる。
 彼がどれだけ私に執着しているか。
『何処のホテルだ。迎えに行く』
 受話器に聞こえる彼の声が心地よい。薄汚い独占欲を秘めた冷淡な声。
 馬鹿馬鹿しいとは思う。私が見も知らない女の誘いを断らなかったのは、今夜はきっと肉体的な快楽のためですらない、投げやりな自己放棄ですらない、ただ、彼のその声を、たまには聞いてみたくなったから。
 私は一人で生きて、一人で死ぬ。だが、その私に執着する人間がいる。
 浅ましく、鬱陶しく、ぎらぎらと滾る野性を無表情に押し込めて、私だけを必死に追いかける。
 繋ぎ止めることは無理だと知っていながら、繋ぎ止めようとする。私の身体を、心を、独り占めにしたいと無言で喚く。
 例えば私が死んだら、彼は私の肉を食う。凝固した黒い血液を飲み、骨を噛む。
「間に合わないぜ、遠いんだ。もう女はシャワーもすんだみたいだし、あとはベッドで絡まるだけだ。いくらあんたがチューンドをぶっとばしても間に合わない。ヘリを飛ばしたって間に合わない。おれは女を抱くよ」
『抱くな。迎えに行くから、いい子で待ってろ』
「なあ、何も不自然なことはないんだぜ。おれが女を抱くのは自然なことだと思わないか? 少なくともあんたに抱かれるよりは自然だ、そうじゃないか? 不自然な場所をこじ開けて、あんたはいつも無理矢理おれの中に入ってくるけど、女には最初からそのための穴があるんだから」
『場所を言え』
「おれは女を抱くよ。気持ちいいだろうな。最近はあんたとばっかり寝ていたから、ちょっと身体がおかしくなってるんだ。これから女を抱いて正常に戻すとしよう、そうしたらあんたの顔なんてもう二度と見たくなくなるかもな」
『場所を、言え!』
「…情けないね、ドクター」
 語尾を強めた彼の言葉に、勝手に笑みが浮かぶ。
 ああ、誰かと肌を合わせる快楽より、僅かに晒される感情、その彼の声に、悦びを感じるなんて。
 ホテルの名前とルームナンバーを言って受話器を置く。背中に他人の指が触れ、振り返ると裸にバスローブを羽織った女が薄く微笑みながら立っていた。
「誰に電話していたの?」
 細い肩、細い手首、桜色のマニキュアが塗られた長い爪。
 綺麗な女なのだと思う。あの男の身体とは全然違う。
 確かめるように片手で乳房に触れると、女はくすくすと声に出して笑って、もう一度訊ねた。
「誰に電話していたの?」
 手のひらに触れる重み、これが女の身体だと思う。男の身体と重なるべくして作られた、綺麗な、肉感的な、女の、身体。
 煙草を灰皿に捨て、そっと抱き寄せながら耳元に答えた。
「…私が、飼っている、犬」
「犬が電話に出るの?」
「…私の犬は特別なんだ。喋るし、噛むし、私よりも大きいし、私が他の誰かと楽しそうにしてると、泣く」
「嫉妬深い犬を飼っているものね」
 女の腕が私の首に回され、優しく頭を抱いた。噎せ返るような女の甘い匂い。
 ああ、どうしようもなく、私は孤独。
 柔らかい唇に唇を合わせ、抱きしめる腕に力を込める。ねえ、どうして、私はこの女に夢中になれないのか。





 ドアを叩く音に目を開けた。
 眠っていたつもりはなかったが、もしかしたら眠っていたのかもしれない。仕事続きでこのところまともに睡眠時間が取れていなかったから。
 女を帰らせたあと、シャワーも浴びずに湿ったシーツに倒れ込んで、さてどのくらい時間が経ったのだろう。
 ドアを叩く音は、乱暴ではなかったが、放っておけば諦めるという様子でもなかった。
 バスローブ一枚の気怠い身体を起こし、スリッパに素足を突っ込んでドアに向かった。鍵を開けるとすぐにがちゃりと内開きのドアが開き、私は咄嗟に半歩ほど身を引かなければならなかった。
「女は」
 その私の身体を更に押しのけるようにして彼は部屋に入ってくると、後ろ手にドアの鍵を閉めながら言った。いつも見るスーツ姿ではなくて、幾分かラフななりをしている。長い銀髪は後ろで一つに縛っている。まさに慌てて家を飛び出してきましたというような。
 それでも彼の声はいつもの通りの無感情で、私は少し笑ってしまった。
 隠しても無駄。殺しても無駄。不器用なら不器用なりに、もうちょっと可愛気があればいいのに、本当に、馬鹿な男。
「帰ったよ」
「抱いたのか?」
「抱いたよ。やっぱり女はいいな」
「気持ちよかったか?」
 冷ややかな目付きに微かに宿る、私でなければ判らないような怒気、燃えさかる嫉妬。そうだ、それが見たかった。
 彼はこれほどまでに私に執着している。
 私が今ここでただ一人きり生き、或いは一人きり死ぬときまで、彼は私を追いかけ回す。
 愛し合う夢も見られず、皮膚に爪を立て傷付け血を流し合いながら、痛みしかない接触に快楽を織り交ぜて、歪んだ形で重なり合い、孤独を分け合う。
 何をしたいかなんて解らない。
 何をして欲しいか、どうして欲しいかなんて知らない。
 ただ、時々。
「気持ちよかったよ」乱れた髪を指先で解しながら、にやにやと笑ってみせた。「柔らかくて、淫らで、濡れてて、気持ちよかった。おれを包み込んで、吸い付いて、放さない。女はいい。男は女とセックスするようにできてるんだ。とても気持ちよかったよ」
「もうおれに抱かれる気は失せたか」
「あんたにヴァギナがついてるんなら、抱いてやってもいいぜ」
「おれに抱かれる気は失せたかと訊いているんだ」
「さアねえ」
 鼻で笑って背中を向ける。
 ほら、食いつけ。誰を欲しいとも思えない、肉体の快楽はただの慰みにしか思えない、哀れな私がただ一人だけ、その執着を見たいと思う男。
 どうしてかなどは、もうどうでもいい。
 さあ、食いつけ。無様な姿を見せろ。
 おまえの貪欲な熱で、この孤独な魂を、穢して。
「ッ、」
 背を向けたその腕を、大きな手に掴まれ強い力で引っ張られた。反射的な強張りには構わず身体を抱き上げられ、そのまま大股でベッドルームに攫われる。
 抗うのはやめた。つい先程まで男女の媾いを受け止めていた、不快に湿ったシーツに仰向けに組み敷かれ、思わず笑いが洩れた。
「さっきまでここでおれは女を抱いていたんだぜ。押し倒すにしろ、もっと別の場所があるんじゃないか?」
「いいんだ」
「しかもおれは女とセックスしてからシャワーも浴びてない。女の匂いがぷんぷんするだろう。よくやる気になるよな、あんた」
「だからやるんだ!」
 冷静な声に、不意に僅かな力がこもる。
 ああ、おかしい。みっともないね。愛し合うには程遠い、不可能だ。
 それなのに。
 乱暴な手付きでバスローブを剥がされながら目を閉じる。決して交じり合えない肌、何をも残さない行為、一人きりで生きる私とおまえ、獣のように歯を剥いて。
 さあ、好きなだけ食らえ。
 私はおまえの執着が見たい。
 その執着が私を溶かし流し去る。



(了)