エクスタシー

 気を抜くと、あのときのことばかり思い出す。
 ぞくりと記憶に肌を震わせる。かつて知らなかった、鮮烈な悦楽、快も不快も越えた、恍惚、エクスタシー。
 憑かれているようだ、と思う。サンダルウッドとバニラの混じり合う、狂気の官能。
 私はあのとき、狂った。


 身体を弄られる感触に、意識が戻った。
 乾いた大きなてのひら、男だ。
 異国の夜、ひんやりとしたシーツに潜り込んだときの眠気は、今にして思えば、確かに異常だった。
 薬を盛られた訳か。何に。食事、酒? いずれにせよ、金さえ掴まされれば、客に薬を盛るくらいは朝飯前というような場所柄、安宿。
 油断をしていなかったとは言わない。ただ、予想はしていなかった。しかし、驚きもなかった。
 今更。
 私の何が男達の嗜虐に火をつけるのかは知らないが、勝手に身体を使われることには慣れていた。力尽くで犯されることが多かったが、こうやって薬を盛られて、気が付いたら開かれていたこともある。
 知った男もいれば、知らない男もいた。最初の頃は死ぬ気で抵抗もしていたが、最近はもうどうでも良くなってしまった。思考を切り離して、身体を放り出しておけば、嵐は去る。
 目を開けても、視界はただ青いだけだった。目隠しされている。自分のリボンタイだと気付いて、なんだか少し可笑しくなった。縛られている。随分と屈辱的な縛り方をする。右手の手首と右脚の膝、左も同様、仰向けに転がされた上からのしかかられて、脚を閉じることも出来ない。
 背に直接シーツが触れる。裸。内股を丹念に撫で上げる知らない手、鮮明さの戻らない意識に、無意識に呻く。部屋に侵入されても服を剥がされても縛り上げられても目覚めないが、陵辱が始まれば目覚める、どんな眠剤を飲まされたのかは判らないが、薬に詳しいやつではあるのだろう。
「誰、だ…」
 無駄だと知りながら、一応言う。勿論男は答えずに、私の太腿を摩りながら、私の右の肩に軽く歯を立てた。
 慣れた手付きだ。眠っているうちに何をされたのだか、自分の身体が既に反応しかかっているのが判る。
「やめろ…」
 言うだけは言う。まさかそれで男がやめてくれるなどとは思っていないが。
 男の唇が肩から離れ、言った私の唇に短く、音を立てて口付けた。何をされるより、正直私は狼狽えた。
 さっと空気を動かすサンダルウッドの香り、甘くて、芳醇な、フレグランス、何処かで嗅いだことがあるような、ないような。
 男の唇はすぐに離れ、今度は乳首に吸い付いた。ぞくぞくと背筋を震わせる刺激に、反応しかかっている、と言うより、もうきっちり反応させられているのかと思う。
 乳首を吸いながら、男は指を尻に伸ばした。私が意識を取り戻す前に、何かを塗られ、幾らか開かされていたのだろう、私の後孔はするりと男の指を飲み込んだ。
「は…」
 快感。間違いなく快感だった。
 媚薬の類を使われたとは思わない。その不自然さはない。男はただその手で、眠っている私の身体に丹念に火を付けたのだ、陵辱が始まって目覚めたのではない、私が目覚めるまで男が陵辱の時間を引き延ばしていたのだ、私の身体をもう後に引けないところまで追い上げて。
 それこそが陵辱だ。
 男の指は、滑りを確かめるように、幾度か私の後孔を大きく出入りしたあと、指先を腹側に曲げて、小刻みに内壁を擦り上げ始めた。
「やめ…、ア」
 真っ青な世界に私は吐息を洩らした。逃れようにも、手首と膝を結びつけられて、どうして抗えるというのか。乳首と後孔を同時に刺激され、湧き上がる快感を、散らすことも出来ない。
 身体を一方的に使われることには慣れていた。快楽を覚えたことがないとは言わない。だが、こうして露骨に引き出されるのは厭だった。使いたければ使え、私が血を流そうとも涙を流そうとも構わずに、使えばいい、そうすれば私は苦痛に逃げ込むことが出来るのに。
 男の手は、私を、堕とそうとしている。
 レイプだ。
 誰。誰。押さえ込めない快楽に呻きながら、濁る意識で私は曖昧な記憶を探った。私の精神までをも犯そうとするほど、私を憎み、私に執着する男は誰。空港を出てから出会った、あの男、あの男、それともあの男。何のいざこざもなかったわけではない。それから、あの男。
 あの男?
 ぐちゃぐちゃと指で尻を犯される音が聞こえ、肌が熱くなるのが判った。羞恥だか、屈辱だか、もうなんだかよく判らない。指の本数が増え、急に嵩を増した圧迫感に、私は喘いだ。女のようだと思った。
「ああ…ッ、は…あ、」
 男は一言も発さない。ただ、深く、官能的な、芳香が。
 男は尻で指を使いながら、鎖骨、脇腹、臍、汗ばんだ私の肌のあらゆる場所に唇で触れた。時々きゅっと強く吸われ、噛み付かれ、私はその刺激に身悶えた。こんな安宿、大声を出せば部屋の外にも聞こえるのだろうが、聞こえたところで私に薬を盛るような場所で、誰かが助けに来るとも思えない。
 長い時間をかけて私の後孔を解したあと、男はいったん私の上から身体を引いた。かちゃかちゃとベルトを外す音、服をくつろげる気配に、私は震え上がった。犯される恐怖というよりも、勝手にそれを期待し、待ち望んで涎を垂らす、自分の肉体に。
 男は木製のベッドを軋ませて体勢を整えると、縛り、開かされた私の太腿を、片手で更に押さえ込んだ。私が予感に竦み上がる間も許さないくらい、挿入はいきなりだった。
「あああっ、ああっ、あ…!」
 まさにずぶりと音がしそうなくらいの衝撃だった。男の性器は、私が過去に知らないほどに太く、硬かった。外に聞こえるだとか、助けに来るはずもないとか、ちらりとでも考えたことさえ忘れて、私はただ叫んだ。
 裂かれる痛みとぎりぎりの、切迫した快楽、いや、快楽という言葉では弱い、思考を握り潰されるような愉悦、何度か望んで男に抱かれたときにも感じたことのない、正気を奪う、圧倒的な質量。
 食われる。
 一度の動きでは入りきらない男根を、腰を使って、男はやや強引に根元まで打ち込んだ。私は身体中を硬直させて、唇の端からだらしなく唾液を頬へ伝わせながら、犯された。指で散々擦り上げられ、過敏になった内壁が、男の脈打つ性器にぴっちりと貼り付いて、意識とは無関係に、蠢き、快楽を搾り取る。
 尻の肉を鷲掴まれ、ずっぽりと肉棒を突き刺されたまま腰を揺すり上げられたときには、泣き声を上げた。
「や…めろ…ッ、は…ッ、いっちまう…」
 男は何も言わなかった。多分、息を乱しもしなかった。ただ、私の言葉に応えるように、腰を揺すり上げる動きを、更に執拗に、意図を持ったものに変えた。
 いっちまえよ。
 そう言われた気がした。
「アア…ッ、もう…ッ、ヒ…!」
 堪えようと思っても、堪えられるものではなかった。私の身体中に、手を、唇を、這わせておきながら、そこだけは放置されたままだった性器から、私は精液を吐き出した。尻を犯されただけで射精したことなど今までにはなかった。ああ、おれはこの男に完璧にレイプされたと、そう思った。
 その後に延々と続いた行為は、私にとっては狂気の沙汰だった。強すぎる快楽に麻痺し、その麻痺を鮮やかに引き裂く更なる快楽、爛れるような悦楽、私の肉体は煮えたぎる欲に落ち、体液を垂れ流しながら、沈んだ。
 終わりのない地獄のようだった。
 苦痛になら耐えられる、そういう身体をしている、だが、快楽には。
 途中、どんなふうに犯されていたのだかは、もう判らない。私に食い込む男根と、男の大きなてのひら、唇、男の齎す愉悦だけが、私の全てだった。
 男は完璧だった。パーフェクトだ。ああ、このまま殺してくれと、茫洋とした意識で私は思いさえした。
 最後は、手首と膝を縛り上げられたまま、俯せに転がされ、後ろから犯された。ぎしぎしと悲鳴を上げるベッド、掲げた尻を激しく出入りする男根に、私は雌豚のように、泣き、喚き、もう許せと哀願した。
 聞き入れられるはずもなかった。或いは、もう許せと言いながら、私の肉体は更に強い刺激を欲していたか、私の見たことのない、恍惚を求めていたか。
 少なくとも正気ではなかった。
 長い陵辱の後、これで終わりだというように、深々と二度三度突き上げられ、私の知らない奥の奥へ男の精液を注ぎ込まれながら、私は引きずられるようにもう幾度目かも判らない絶頂に身を震わせ、意識を飛ばした。エクスタシー。私は初めてその意味を知った。ぐちゃぐちゃに乱れ膿んだ汚らしい行為の果てにある、エクスタシー、美しいものではない、醜い、そして絶対的なもの。
 肌に染みつくような、ウッディ・オリエンタル。
 誰。
 誰。





 夜。
 怠い身体にコートを羽織り、左手に診療鞄をぶら下げて、車を降りた。
 昨日は比較的長く眠ったはずなのに、疲れが取れていない。鈍い頭痛と軽い吐き気。
 一昨日の夜が祟っているのか。
 それとも、毎夜の夢。
 帰国してから、何人かの男と寝た。誘えば大抵の男が私を抱いたし、誘われることもあった。男という生き物は即物的でいい。抱けと言えばこの傷だらけの身体でも抱く。
 それでも、何人と寝ても、何度寝ても、あのときの、あのエクスタシーは、私の身体には訪れなかった。
 色狂いと言えばいいのだろうか。私はどうしてしまったのだろうか。一昨日は最悪だった。街で拾った男に、手首と膝を縛って犯してくれと、頼んだ。
 薄っぺらい快楽と、強烈な自己嫌悪だけが肌に残った。
 眠ればあのときの夢ばかり見る。夢には鮮やかな匂いがついている。思考を奪うウッディ・オリエンタル、執拗に身体を撫で回す乾いた大きなてのひら、身悶えるたびにその香りに窒息しそうになる。
 セックスなど遊びだと思っていた。
 相手が女でも男でも、一瞬の鼓動の重なりと、快感、後に残る心地よい倦怠感を泡に流して、蝶のように舞い去るだけ。ましてや相手が男なら、それはただ心底無意味で価値のない行為、互いに昆虫みたいに快楽という樹液を啜って、堕ちて、堕ちて、惨めに笑うだけ。
 綺麗事もない、求めやしないが拒みもしない、拒む選択肢すらない場合もそれで構わない、不自然に肉を擦り合わせて体液にまみれて、そして明くる朝に目が覚めて、忘れる。
 それがどうだ、この、気の触れるような欲は。
 望んだものでもない、一夜で肉体に強引に刻み込まれた恍惚、ああ、私はあのとき私を犯した男にもう一度、抱かれたいなどとさえ思っていやしないか。
 浅ましい。
 神経さえ焼き尽くすようなエクスタシー、あの絶頂を、もう一度、もう一度。
 私は狂っている。
 私は、狂わされた。
「よお、ブラック・ジャック先生」
「…」
 病院の裏口へ踏み込もうとして、聞き知った声に、足を止めた。
 溜息のような吐息を洩らして、斜めに視線を上げて振り返る、この角度。
 ぞくり、と何かが足下に這い寄った。
 デジャビュ?
「…なにをしている、ドクター・キリコ」
「おれがここで、なにをしているかなんて、決まっていると思わないか?」
 違う、そうじゃない。
 夜間救急車両用の門、太い柱に背を預けて、彼は立っていた。足下には銀色のトランク、確かに、訊くまでもない、彼がここに何をしに来たのかなどは。
 鈍い頭痛が、こめかみで脈打った。
 月明かりもない暗闇、病院の裏口から零れる頼りない光を跳ね返す、彼の長い銀髪が、それはそれは美しく見えた。
 記憶。
 診療鞄を左手にぶら下げたまま、ゆっくりと歩み寄った。既視感じゃない、これは、記憶、近い、記憶。
 何故思い出さなかったのか。
 違う、そうじゃない。
 何故、思い出すことを躊躇ったのか。
「飽き飽きするな」近付く私を冷めた目付きで眺めながら、彼は闇夜に低く言った。「まるで運命のようだ、何処に行ってもおれとおまえは出会うんだ。飽き飽きだよ、ブラック・ジャック先生、そうじゃないか?」
「…そうだな」
 数歩の距離を置いて立ち止まり、じっと睨み上げた。待て、思い出していいのか。思い出してはいけないのか。
 色素の淡い瞳、その瞳が、あの日、あの日だ、あの日。
「おまえに依頼したのは誰なんだ」
「患者の息子」
「おれは、患者自身に呼ばれた」
 そう、まるでよく似たやり取りが交わされたのは、あの日。
 無意識に喉を鳴らし、握りしめた右手のてのひらに爪を食い込ませる。覚えていたはずじゃないか。鮮明に、覚えていたはずじゃないか。
 あのときだって。
 それから、あの日以来毎夜私を奪い去る、夢の中でだって。
 覚えていたはずじゃないか。
 ああ、現実の、私以外は。
 恐怖とも悪寒とも、或いは狂おしいまでの欲望ともつかないものが、ぞくり、ぞくり、足下から背筋へ、ゆっくりと這い上がる。
 思い出してはいけない。
 思い出したくない。それとも、思い出したい?
「私は、人を救うんだ」
「生かすことが救うことにはならないぜ」
「殺しちまったら、おわりじゃないか」
「それこそが救いであるときは?」
 感情のない瞳、読めない瞳、その瞳が、あの日、あの日にだけ。
 そうだ、見逃してしまうほどの一瞬、でも、見逃すなんてことは出来ないほどの強さで、ぎらぎらと煌めいた。
 私を映して。この交わらないやり取りの果て。
 同じ台本を読んでいるみたい。
 誰。
 誰。
 私はそれを、意識の底で、知っていやしなかったか。
「死は、救いにはならない」
 気付いていやしなかったか、或いは、身体の奥で。
 揺れたがる視線を真っ直ぐ突き刺して、言い返す。語尾が震えずにすんだのは奇跡に近い。彼は眉を微かに歪めて、唇だけで笑った。あの日のように。
 そう、誰も彼もが盗人の目をした、異国の病院で、あの日、私と彼は出会った。
 そしてその日の夜に、私は犯された。
 薬を盛られ、目隠しをされ、手首と膝を結わえつけられ、前から、後ろから、声を嗄らして、意識を飛ばすまで。恍惚に、気が狂うまで。
 誰。
 誰。
 愚か者。いつまで判らないふりをしているつもりなの。
「言ってはいけない言葉というのがある」
 唇に笑みを敷いたまま、彼はゆっくりとした口調で言った。その瞳にあの煌めきが過ぎるまで、あと少し、私は知っている、あと少し。
「いつまで判らないふりをしているつもりなの」
「…、」
 さっと彼に背を向けて、私はその場を立ち去ろうとした。全身が彼を拒絶し、全身が彼を欲していた。怖い。怖い。私は知らないままでいい。
 私はそれが誰かなど、知らないほうがいい。
「無駄だぜ」
 一歩を踏み出す前に、その私を引き止めるように、彼が短く言った。
「おまえの患者は、もうおれが、救っちまったよ」
「…おまえは、」
 思わず振り向いて、握りしめていた右手を伸ばし、彼の胸倉を掴んだ。殆ど条件反射みたいなものだ。
 掴んでから、私は自分の犯した失敗に、漸く気が付いた。
 バニラ。
 サンダルウッド。
 アンブレットシード。
 官能的な芳香、何処かで嗅いだことがあるような、ないような。
 或いは、私は既に、あのときに。
 だからこそ、私は、私の肉体は、あのとき、あれほどまでに。
「…ッ」
 咄嗟に放した右手の手首を、今度は逆に彼に掴まれた。
 竦み上がった私の耳元に、彼が、甘ったるく囁いた。
「おれをまた、怒らせたいの?」
「…」
「なあ先生、おれをまた、怒らせたいの?」
「…リ、コ」
 誘惑にも似たウッディ・オリエンタル。
 がくがくと震える膝から、私はその場に、崩れ落ちた。



(了)