羊羹が食いたい、と彼は言った。
三日くらい前だ。彼からの電話だ。
主目的は勿論別にあって、塩酸クロルプロマジンを急性致死量飲んだときに発現する中毒症状を簡潔に述べよとかなんとかいうものだったが、今目の前に自殺未遂患者を抱えているという口調でもなかったので、彼の言う通り簡潔に述べてやってからたまには世間話でもしてみようと思ったわけだ。
最近どうよ、と誰でも言うような曖昧な誘い文句を投げた。
そうしたら彼は至極真剣な声で答えた。中毒症状を訊ねたときよりもむしろ切羽詰まったように。
『羊羹が食いたい』
はあ? と思った。正直に言うならば。
「…食えやいいじゃねエの。そこいらで買ってきて。ブラック・ジャック先生の稼ぎなら死ぬほど買えるだろ」
『いや、そこいらの羊羹が食いたい訳じゃない。新月堂の羊羹だ。絶品なんだ、日本一だ』
「…あ、そう。じゃあ、そのなんとか堂の羊羹を買ってきて食え」
『京都なんか行ってる暇ない』
「…」
悪いが私には羊羹の違いなどは判らない。
私の呆れた気配を察知したのか、彼は、いやあんたには関係ない、と言ってさっさと切り上げると、礼もそこそこに電話を切った。あれが確か、三日くらい前。
エンジンもボディもいじったばかり、たまたま暇な日にたまたま早く目が覚めたから、まだ大して混み合ってもいないだろう高速で踏んでみるのもいいかと、単純にそう思った。
羊羹を食いに来い、と彼に電話をかけて言った。
『…新月堂?』
「そう、そのなんとか堂」
午後の五時だ。私が答えると、彼は返事もしないでいきなりがちゃんと電話を切った。
彼が私の家のドアを叩いたのは、私の予想よりもずいぶんと早い時間だった。多分受話器を置いてからすぐに海辺の家を出て、彼にしては車をかっ飛ばしてきたのだろう。
そんなにしてまで羊羹が食いたいものか。
「道々考えたんだが」私が手にした老舗の紙袋を、じろじろと眺めながら彼は不審そうな顔で言った。「京都で仕事でもしてきたのか。その割に、あんたが昨日今日仕事をしたという噂を聞いてないんだ。おれの情報収集能力が衰えてきたか」
「別に仕事してないよ」
「…じゃ、なんで京都の和菓子屋なんか」
「愛車の慣らし。一気に距離走らせたほうが調子よくなる」
「…わざわざ羊羹買いに京都まで行ったのか? 甘いものは食わないあんたが?」
「だから、ついでだって、ついで」
立ったままぶつぶつ言っている彼の肩からコートを取り、ソファに座らせてキッチンに向かう。それでもまだ何やら言いたげな彼を、ああそうだと振り向いて訊ねた。
「そういや、うち、日本茶がないんだ。コーヒーとか紅茶で羊羹って食えるものか?」
「水でいい」
即答だ。とにかく羊羹さえ食えればいいのか。
キッチンで、私にはどうしても単に餡を寒天で固めた不気味な物体にしか見えない羊羹を適当な大きさに切り、それらしい皿もないのでこれまたいい加減な皿に載せた。グラスに注いだミネラルウォーターと羊羹を手にリビングへ戻り、小さなガラステーブルの上、ソファに座る彼の目の前に置く。
「はい、どうぞ」
「…」
小難しい顔をしていた彼の赤い瞳が、ぱっと輝いた。
彼の向かいのソファに座りながら、私は笑い出すのを堪えた。
この男は、なんだってまあ、こうも可愛らしい反応をするのだろう。これがクールで知られた無免許天才外科医の反応なのだろうか。
好物を差し出されて、目をきらきら。子供だ。
「いや、ちょっと待て、キリコ…」
生唾を飲み込んでから、彼は引き剥がすように視線を羊羹から私に移した。患者を前にしたってそうそう見せないような葛藤の表情がその顔にありありと浮かんだ。
「なに」
「あんたが…あんたがこんなことしてくれるはずないんだ。なんだ。なにが目的だ」
「別に。毒なぞ入っていませんからご安心を」
「毒…そうか毒か」
「だから違うっての」
本気で疑わないで欲しい。
彼は、今にも頭を掻き毟らんばかりの苦悶の表情になって、自分の膝にスーツの上から爪を立てた。羊羹一つでこんなに思い悩んでくれるとは、実に愉快な男だ。見ていて飽きない。
他人の好意に慣れない野良猫。
「条件を言え…」
「なんの」
「おれがこれを食っていい条件だ。無償なんてあり得ない。特にあんたの場合はあり得ない」
「酷いなア、おれはこれで優しい男だぜ、特におまえには」
「駄目だ。いくらだ。いくらで売る」
「あーあ、それじゃ三百万ぐらい」
「よし、買った」
彼は自分の膝から右手を引き剥がして、漸く羊羹に指を伸ばした。どんなに難しいオペが成功したってなかなか見られないような歓喜の表情が、多分押し隠していたかったのだろうが、抑え切れずにその顔をさっと掠めた。
「あ、楊枝…はない。フォークでいい?」
「いらん」
彼は私の問いかけを一言で切って捨てると、手掴みで羊羹を取った。
今食わなけりゃ、しかも大急ぎで食わなけりゃ誰かに横取りされてしまうと言うかのような勢いで、口に運び、噛み付いた。
「…」
私は、まさに飢えた野良猫にエサをやっている気分でその彼を眺めた。実にいい。実に結構だ。
旨そうに、しかも必死に真剣に、目の前のものを食らう人間というのは、妙にいじらしくて、いい。
彼は全く素晴らしいペースで羊羹を食った。本当に食いたくて食いたくてたまらなかったのだと、口に出さなくてもその姿を見ていればよく判った。
向かいのソファに私がいることもきっと忘れていた。口が一つしかないことがもどかしいみたいに、親の敵のように食った。
まあここまで一生懸命食ってくれるならば、買ってきた甲斐もあるというものだ。
私には少々信じ難いことだが、彼はほんの数分で丸一本の羊羹を綺麗に平らげてしまった。最後にグラスの水を少し飲み、ふうと満足そうな吐息を洩らしてから、彼は漸く顔を上げて私を見た。
その瞬間にちらりと、あ、しまった、見られてた、と言うような目付きになった。
「…う、まかった」
「そりゃアよかった」
「…三百万、明日でもいいか。今日は手ぶらなんだ」
「ああ、じゃあ変更。即金じゃないなら三百万はいいや」
私が言うと、彼は途端に凄まじいしかめ面になった。大した反応だ。私の前でならころころと目まぐるしく表情を変える彼は、とてもいい。
「…なに」
「三百万いらないから、お礼にキス一つ」
「…なんだと」
「もう食っちまったからなア。諦めたら」
私の言葉に彼は最初真っ白になり、それから真っ赤になった。何か言おうと口を開いて、何も言えずに口を閉じ、また何か言いかけて、それもできずに押し黙る。
構わずにソファから立ち上がり、身体を折ってテーブルに左手を付いた。右手を伸ばして彼の顎を掴み、顔を近付ける。
「ま、待て…」
身体を硬直させた彼が、焦ったように言った。
「なに」
「お、おれは、おれの口は羊羹の味しかしないぞ今。それならいっそ、あんたも羊羹を食え」
「食えったって、おまえが全部食っちまったじゃない」
「う…いや、あんた甘いの嫌いなんじゃないのか。おれの口は今とてつもなく甘いぞ」
「甘いキスねエ、ま、たまにはいいか」
「…っ」
顎を掴んだ指で軽く顔を上げさせると、彼は真っ赤な顔をしたまま慌ててぎゅっと目を閉じた。その表情を眺めながら、唇を合わせた。優しく、優しく。
僅かに舌を入れて、彼がびくんと身体を震わせるのを確認してから、唇を放した。ごく短い口付け。
「…」
指も離して身体を起こすと、彼は瞼を上げ、ふるふると震えながら少し潤んだ目で私を睨んだ。そんなに可愛らしく睨まれても。
かと思ったら彼はいきなり、がばっと音がしそうな勢いで立ち上がった。頬を赤く染めたままソファから離れ、ハンガーに掛けてあったコートを引っ掴んで玄関に向かう。
「なんだよ、もう帰るのか?」
「帰る!」
「事故るなよ」
「余計なお世話だ!」
大声が聞こえたあとに、ばたんとドアが閉まる音がした。少ししてから、車のエンジンの音。
私はソファに腰を下ろして、一人きりで多分少し笑った。誰かが見ていたらさぞかし不気味な光景だったことだろう。
空になった皿を眺める。そこにあった和菓子の味を私も知っている。
唇に、舌の先に残るその味は、とてつもなく、甘い。
(了)