おまえは私の病だ、と彼は言った。
私はただ彼に、薄く笑ってみせることしかできなかった。
おまえは私の罪悪だ。
おまえは私の屈辱だ。
おまえは私の絶望だ。
おまえは私の汚泥だ、私の最大の間違いだ。
私達の関係は、予想以上に最悪だった。
何に惹かれたのか。
そもそも何かに惹かれたのか？
今となっては判らない。ただあのときはそれなりに差し迫った感情が確かにあり、また、あのときには私達の関係が、こうも腐敗しきるとは思っていなかった。
病巣を切り除くことも、肌を裂いて膿を出すことも出来ない。
リンパの流れに乗って、全身にばらまかれた、不治の病。
「放せ…自分でやる」
「大人しくしていろよ」
バスルームのタイルに彼の背を押しつけて、片膝を左腕で抱える。片足で立つバランスの悪い体勢に、彼は私の胸を軽く叩いて厭がったが、構わずに彼の尻に右手を伸ばした。
蛇口は全開のまま、湯の溢れ出るバスタブ、シャワーも出しっぱなし。バスルームの中は、鬱陶しいほどに湿度が高く、暑苦しい。
まるでスチームサウナだ、意識は鮮やかさを忘れ、どんよりと曇る。
肺胞の隅々まで、貼り付く湯気に浸され、酸素が取り込まれていないみたい。
「やめろ、痛い」
「さっきまで、おれのものを食らい込んでいて、今更痛いはないだろ」
「姿勢がきついってんだよ、おまえ、女に嫌われるだろう」
「おれに抱きついていたら」
「や、め」
右手の中指を、彼のアヌスにぐいと遠慮無く差し入れる。彼はびくんと細い身体を震わせて、咄嗟に私の肩に、両腕でしがみついた。
つい先程そこに注ぎ込んだ自分の精液が、どろりと手の甲に伝い落ちてくる。
腐っている、そう思うなら、やめてしまえばいいだけの話だ。
私達が出会ったのは、必然なのかも知れない。出会うべくして出会った、それでいい。だが、身体を重ねる理由などは、運命の何処を探しても見あたらない。言い訳は出来ない、私達は、己の間違いを知りながら、罪を犯している。
これこそが病か。
腕を伸ばせば両手に触れる、美しい女を抱けばいい。男に抱かれたいというならば、彼は、私だけは相手に選んではならない。
この世の誰と番ってもいい、私も、彼だけは抱いてはならない。
それは何故か。この結果を見れば明らかだ。
私達の関係は、予想以上に最悪だ。
「アッ…、厭だ、」
「力を抜けよ」
「指を、指を、抜け…っ」
「それじゃ綺麗にならないだろ？」
冷めている。
深く押し込んだ指で、生温い精液を掻き出しながら、肩にしがみついている彼の濡れた黒髪を見下ろす。私は冷めている。彼に対しては愛情も恋情もない。劣情さえはっきりとは感じない、それが悪いのか。
ならば何故彼と肌を合わせるか。
判れば私達はこうしていやしないだろう。
ドラッグが切れれば禁断症状の出る中毒患者のように、彼の体温の実感が切れると訳もなく気が触れそうになる、おそらく彼も私には、何の感情も持っていない、そしておそらく私と同じように、私が途切れれば私を意味もなく欲する、ただそれだけのことで、それ以上の屈辱もないこと。
いっそ幻想でも愛し合えれば、私達の関係は変わったか。
反吐が出る。
毒に身体を慣らすように、私達は慣れてしまった、慣れてしまったら、今度はなくてはならなくなってしまった、本当に、愚かだ、愚かだ。私達の関係は、予想以上に最悪だ。
戯れ言を吐くのは趣味ではない。
それが、悪いのか。
「締め付けるなよ、物欲しそうにしやがって」
精液で濡れた指を、彼の尻でわざとらしくぬるぬると蠢かせる。彼は、しがみついた私の肌に爪を立て、思い切り引っ掻いた。
「おまえが…そういう、ことを、するから…ッ」
「知っているか？ おまえのここは、女より具合が良くて、女より貪欲なんだぜ。女を抱いたことがあるなら、判るだろ？」
「死ね…」
「おれが死んだら、おまえのここが不満だろうさ」
「ああッ…」
一度抜き出した中指と、薬指を合わせて彼の中に押し入れた。先程まで、私の性器で散々に擦り上げられていた彼の内壁は、熱く、腫れぼったく、私の指に絡み付いた。
自分の精液の生々しい匂いが、蒸し暑いバスルームにこもって、気分が悪い。
いつまで続けるのだろうか、この、私達の最悪の、関係を。
「キリコ…、も、やめろ…」
「おれは後始末をしてやっているだけだぜ、礼を言えよ」
「なにが…！ だったら、そんな…ふうに、動かす、なッ」
「おまえが気持ちよかったから、いっぱい出しちまったみたい、奥のほうまでどろどろなんだよ、我慢してろよ」
「深、すぎる…ッ」
あのとき、初めて彼に手を伸ばしたときの、感情を思い出せない。
何かに追い詰められていた、そうしなくては保てなかった、ただ、その感情を今は、実感できない、解らない。
互いに禁断に触れた。
気付いたときには、遅かった。
私達は身体も精神も蝕まれ、意志の力だけでは何も変えることが出来なくなってしまった。元に戻ることが出来なくなってしまった。無かったことには出来なくなってしまった。
今ならば確かに判る。
誤解を承知で言うのならば、私達は、こうして身体を重ね合う以前のほうが、互いを許し、理解し、或いは、愛し合ってさえいたかも知れない。
抱き合った途端に、腐った。
私達は、決して私達の間に持ち込んではならないものを、持ち込んでしまった。
彼にも、私にも、治せない。
これは、不治の病。
「は…、キリコ…、」
「おまえの中、ぴくぴくしている、感じちまっているの、こんなんで？」
「そ…こは、やめろ…ッ」
「あんなにいっぱいしたのに、足りなかったのか？ おまえは本当に、はしたない、汚い、欲張りで、情けない」
「黙れ…誰の、所為で…、」
「おれとやるのが好きだろう？」
「好きじゃ、ないッ」
「奇遇だな、おれも、おまえとやるのは好きじゃないんだ」
彼が私の背を掻きむしりながら、私の肩に額を押し付けた。彼の吐息が肌にかかり、その部分がかっと熱くなった。
何をしているのだろう、私達は、何を望んでいるのだろう？
何も望んでなどいやしない、私達はただ、逃れられない罠に自らはまって、足掻いているだけ。
私達の関係は、予想以上に最悪だ。
一度足を滑らせたら、二度と這い上がれない底無し沼、私達は失敗したのだ、取り返しの付かない失敗をしたのだ、もう、遅い。
どうしてこんな羽目になったのか、まさか、愛し合えると思っていたわけではない、ただ、溺れるとは思ってはいなかった、ここまで見苦しいものになるとは思っていなかった。
悔やむか？ ああ、悔やむさ。
せめてあのときの感情を、互いに思い出せたなら、全身を内側から食い荒らされる、この鈍い痛みも少しは甘いか。
「全く、おまえには呆れるぜ」
ゆるゆると彼の尻を穿っていた二本の指を、一気に引き抜き、彼の耳朶に溜息を吐いた。彼は、高い声を上げて身体を強張らせたあと、私に縋らせていた腕の力を抜き、ずるずるとタイルを背に床へ崩れた。
新鮮な空気を吸いたい、冷たい、乾いた風が欲しい。
湿気が肌にじっとりとまとわりつく、熱く濡れた、この感覚は、嫌いだ。
嫌いなのに。
「…おまえも、勃ってるじゃねえか、キリコ」
床に座り込んだ彼が、僅かに掠れた声で言った。
「おまえのことがあまりにも憎たらしくて、勃っちまったよ」
禍々しい縫合痕の走る彼の頬で、精液に濡れた右手の指を拭きながら、いい加減に答えた。
おまえは、私の病だ。
ならば私は、そっくりそのまま、おまえの言葉をおまえに返そう。
おまえは私の罪悪だ。
おまえは私の屈辱だ。
おまえは私の絶望だ。
おまえは私の汚泥だ、私の最大の間違いだ。
私達の関係は、予想以上に最悪だ。
（了）