偽悪者

 縛ってくれ、と彼は言った。
「なに?」
「縛ってくれ、きつく、縛ってくれ。おれが抵抗も出来ないように」
「なぜ」
 煙草の煙が立ちこめる、真夜中のリビング。
 彼は真っ白な顔をして私の家に上がり込んでくると、開口一番、縛ってくれ、と言った。
 ソファに腰掛けて煙草を吸う私の前で、黒いコートを床に落とす、その下は、全裸。
「きつく縛って、それから、残酷に犯してくれ。おれが泣き喚いても、気にせずに、ゴミのように扱ってくれ」
「おれはゴミを犯す趣味はないよ」
 青ざめた唇、何処かに外傷でも負って出血しているのかと思ったが、彼の身体には新しい傷はなかった。単に精神的なものか。
 勿論、古い縫合の痕は、まるでムカデが這うように、そこいら中に。
 高く脚を組みかえて、血の気のない彼の顔を見る。紫煙の向こうに霞む彼には、特に表情がない。
 たちが悪い。
 彼には大いに自虐的なところがある。それを私に押し付けるだけまだ可愛らしいのかも知れないが、彼の自虐は彼の中で自己完結してしまっていて、たちが悪い。
 それが、その自虐こそが、卑怯な逃避、卑怯な自己防衛、卑怯な言い訳であることを、知らないはずもないだろうに。
 自分で何もかもに結論を出しておきながら、なんとか私を引きずり込もうと足掻く。私は彼のていのよい自虐の道具、別にそれに怒りも哀れみも感じやしないが、全く、彼は、たちが悪い。
「罰されたいのか?」
 綺麗な身体をしているよな、と思う。
 ムカデが這うような縫合の痕、多分、この男の身体は本当は綺麗でも何でもないのだろう。汚い。
 それでも、綺麗な身体をしていると思うのは、私がおかしいのか、私と彼との関係が、そもそもおかしいのか。
 愛情などは感じない。まさか恋をしているとも思わない。彼が何処で何をしようと、誰を抱こうと抱かれようと、いつくたばろうと構いやしない。興味がない。
 ただ、そのたちの悪い自虐に引きずり込むのは、この狭い惑星で、私ひとりくらいがちょうどいい。
 縛って、残酷に犯してくれだって?
 ゴミのように扱ってくれだって?
 反吐が出るような自己愛の塊だ、湧き上がる自己嫌悪を、罪悪感を、犯した過ちを、他人の手による痛みで消そうなんて、虫が良すぎる話だ。
 だから、その贅沢で醜い望みを、託すのは私ひとりくらいがちょうどいい。
 私と彼が身体を合わせるようになったのは、さて、いつから、どうしてだったか。
「そんなことはどうでもいいだろう」無表情だった顔が、僅かに歪んだ。アナタノ言ウ通リデス、と白状するように。「ちょっと趣向を変えようと言っているんだ、あんただってただの変態セックスには飽きたろう? もっと変態にしようぜ、あんた、サディストのツラをしているから似合いだ」
「厭がる奴を縛って犯すなら面白いかも知れないが、縛ってくれ、犯してくれと、頼まれたんじゃあ興ざめだ」
「おれが厭だと本気で言うまで、徹底的に痛め付ければいいじゃないか」
「罰されたいのか、ブラック・ジャック先生?」
 はじめは彼は、肌を晒すことさえ躊躇った。
 もうよくは覚えていない、いつだったのか、どうしてか。ただ、私は彼に欲情し、彼は私に欲情した、だからセックスをした。
 気紛れに何かを壊す行為だったのか、憎しみをぶつける行為だったのか、それとももっと単純な、或いは複雑な。
 回数を重ねるごとに、互いの体温に次第に慣れ、声に、香りに、快楽に慣れ、私は彼の古傷に慣れ、彼は私の欠落に慣れ、そして今や彼は私の前に、恥ずかしげもなく全裸で立っている。
 彼はここまで、裸の上にコート一枚で来たのだろうか。いくら車だからって?
 もっと変態にしようと言うなら、まあそこそこの変態だ、自分の部屋で壁に頭をぶつけるくらいでは物足りなかったか。
「罰されたいのか? え? 先生」
「…」
「何をしでかしたんだ。仕事をしくじったか」
「…」
「誰かを傷付けたか? 偽悪者でいることに嫌気がさしたか」
「…」
 内緒デス、訊カナイデ、か。
 短くなった煙草を灰皿に消し、間を置かずに新しい煙草に火をつける。血色の瞳がじっと私のその仕草を見詰めている。そう、例えばだ、助けてくれ、癒してくれと、彼が私に泣き付いてきたらどうだろう? 人を傷付けてしまったんだ、罪をしでかしてしまったんだ、許すと言ってくれ、許すと言ってくれ、そして、優しくおれを抱いてくれ。
 ああ、想像も付かないね。
 想像も付かないが、多分そのときが、私が彼を捨てるとき、彼が私の前から消えるとき。
 自虐的で、自己愛たっぷり、虫がいいおねだり、それも不器用、ヘタクソ、そのうえ、ムカデの這う肌を見せても、私が彼を決して醜いとは感じないだろうという、腹が立つような、自信。
 ああ、実にたちが悪い。
 そして私も、たちが悪い。
 咥え煙草のままソファから立ち上がり、彼の裸体をしばらくはじろじろと視線で舐めた。彼がきゅっと眉を顰めたところで、気のない口調で呼んだ。
「こっちへこいよ」
「…」
「おれに背中を向けて、両手は、頸の後ろで組む」
「…」
 彼はいかにも不審そうな目付きをしたが、私の言葉に従った。
 優しくすればするだけ、おそらく全力で逃げる、お互いに。私達はそれをよく理解している。私達は、踏み込んではならない相手のテリトリーを、知っている。
 結局は傷を舐め合っているだけなのかも知れない。けれど決してそれを認めない、気付かない。無償の愛情など存在しない。ただあるのは、欲と、快楽と、自己満足、それから、見苦しい、自虐。被虐、嗜虐。
 たちの悪い黒い影が、暗闇で絡み合っているだけ。
「物理的拘束なんて」すっと裸の背筋に指を滑らせ、ぴくりと震える反応を確かめながら、言う。「いかにも下等じゃないか、なあ? おれは言葉で縛ってやろう、いいか、その手はそのままだ、おれに何をされても、どんなに痛くても苦しくても怖くても、気持ちよくても、そのままだ、おれがもういいと言うまでは」
「は…」
「もしその手を放して、おれに逆らったり抗ったりしたら、素っ裸のまま追い出すぜ。ああ、それもなかなかいいかもな、我が儘なマゾヒストには似合いだ」
「早…く、痛め付けろよ」
 背骨に沿って指先で素肌を上下に何度か撫でると、それだけで彼の呼吸が僅かに乱れた。淫らな生き物だ。私達はあまりにも、互いに慣れすぎてしまった、無くすことを恐れやしないが、あることが自然になってしまった。
 まるで愛し合ってでもいるかのように。
 滑稽だ。
 彼の背を撫で上げていた手を離し、その指で唇から煙草を取り上げた。縫合の痕を避ける位置を視線で探してから、肩胛骨の下あたりに、煙草の火を押し付けた。
「アッ!」
 彼は、熱いとか痛いとかいうよりも、ただ単純に、驚いた声を上げた。じりじりと肉の焦げる異臭が昇る。気にせずに彼の肌で煙草を押し消す。
「キリコ…!」
「手を放すなよ、そのままだ、言ったろう? 逆らったら放り出す。おれに虐めて欲しいんだろう? いい子にしてなよ」
「…痛、い」
「痛いほうがいいんだろう?」
 火の消えた吸い殻を灰皿に放り、煙草のパッケージとライターを手に取る。新しい一本を咥えて火をつけると、そのライターの音に、彼はびくりと身体を揺らした。
 滑稽だ、とてつもなく。抱え切れない罪と罰を分け合って、消化したようなふりをする、それを幻想と言うのではないか?
 何も得るものがない、誰にも許されはしない、自分達にさえも。真夜中の戯れ、目を開ければ夢、せめて冷徹に太陽の下、凍え付いて歩く。
 だから、私ひとりくらいがちょうどいい。
 何も語らずにいるのは最後の歯止め、身勝手な要求だけを押し付けて、自虐に溺れる、見せ物にするなら、私ひとりくらいがちょうどいい。
 そうだろう? 惨めな偽悪者よ。
「はあ…ッ」
「今更火傷の痕が増えたところで、関係ないよね、この身体じゃ」
「ん、ウ」
「ああ、ああ、動くなよ、おれはおれの芸術的センスを表現しているんだ、場所がずれるだろ」
「あっ」
 肋骨の間、それから腎臓のあたり、腰の上、徐々に位置を落として、適当に煙草の火を押し付ける。火の消えた煙草を灰皿に投げては、また新たな煙草に火をつけて、消す。点々と、彼の肌の上に、黒く焼け爛れた痕が散る。
 決して優しく慰めない、それが私達の間にある無言の約束、慈しむ手ほど怖いものはない、それは彼が失い、私が捨てたもの。
 私達はこうして生きているのだ。
 こういうふうにしか生きられないのだ。
 出会ってしまったのが、過ちか。
「や、」
「大人しく」
 空になった煙草のパッケージとライターをソファに放り、片手で彼の尻の肉をぎゅっと掴んだ。微かに身悶えた彼を言葉で制して、最後の一本を、肛門の真横、数センチ離れた場所に押し当てた。
「アアッ!」
 じゅ、と肉の焼ける音。
 彼は、甲高い悲鳴を上げて、がたがた震えていた膝から、遂にその場に崩れ落ちた。息を付く間も与えずに、足でぐいとその肩を蹴り上げて、縮こまろうとする彼の身体を仰向けにひっくり返す。
「は…」
「勃っていやがる」
 火の消えた煙草を指先で弄びながら、く、く、と精々いやらしく嗤ってみせた。さあ、どうだい、卑しい偽悪者よ。
 おまえは罰を受けたろうか。
 おまえの罪は消えたろうか。
 おまえは愉しい夢を見られるだろうか。
「キリコ…ッ」
「手を放すなって。おれの言うことをきけ」
 背の火傷が擦れて痛いのだろう、表情を歪める彼の唇から、低い呻きが洩れる。そうか、そうだな、全く足りないな。
 私ひとりでちょうどいいと言うからには、おまえの全身が血にまみれるくらい、たっぷり虐めて差し上げないと、この贅沢者は、更に罪人を増やしてしまう。
 細かく震えている太腿を、靴の革底で踏み付けて、身を屈め、僅かに潤んだ赤い瞳を見下ろした。
 綺麗な目をしているよな、と思う。
 多分、それは、それだけは、本当なんだろう。
「ねえ、先生、ゴミのような先生様、次はどんな酷いことをして遊ぼうか?」



(了)