破壊衝動

 壊したい。
 時々、何もかもを、壊したくなる。
 壁があれば殴りたくなるし、ドアは蹴り倒したくなる。目に映る全ての光景、耳に入る全ての音、手に触れる全てのもの、とにかく滅茶苦茶に打ち壊したくなる。
 私と彼女の関係とか。
 或いは、私と彼の関係とか。
 私の名前、一人歩きする噂、欲と金と、自虐、自尊心、私の心とか、私の身体、全てが疎ましくて、鬱陶しくて、今この瞬間に、何もかもを、消してしまいたくなる。
 ゼロにしてしまいたくなる。
 私の手で、この手で、破壊してしまいたい。
 理由なんて無い。強いて言うならただのヒステリー、私は実に醜い。
 その衝動は突然に訪れて、私を震わせる。
 特にこんなとき、こんな夜は、どうやって抑えればいいのか判らなくなる。
「…ッ、」
 がちゃん、と、思ったよりも鈍い、こもった音がした。
 私を見詰める私に細かい亀裂が入り、右手の拳がかっと熱くなる。
 ぬるりと手首を伝う血液は、粘度が高くて、気持ちが悪い。
「なにしてんの」
「…」
 不意に背中から声をかけられて、罅の走る鏡の中、焦点を斜めにずらした。
 スーツのジャケットは脱ぎ、タイを緩めた彼が、全く表情のない眼差しで、私を眺めていた。
「なにしてんの」
 再度繰り返される問い、その声にも、感情はない。
 羨ましい、ふと、そう思う。まさかこの男に本当に感情がないわけではなかろうが、もしも本当にその無表情の通り感情がないのだとしたら、実に羨ましい、このおぞましい感情を、身に滾り私を汚す感情を、持たぬ人間が、この世にいるのだとしたら。
 鏡を叩き割った拳に力を込めて、亀裂の中心、抉るように柔な皮膚を傷付ける。
 少しも満足しない、余計に湧き上がる破壊欲、何もかもを粉々に砕いて、全て消えてしまえばいい。
 何故私は、今夜、ここにいるのか。
「ブラック・ジャック先生」
 肩越し、冷淡な声をかける男とぴたり、鏡の中、視線を合わせる。
 おまえの所為だ。おまえの所為だ。私の今宵の狂気、全ておまえの所為だ。
 そう、信じてしまえれば。
「先生、なにしてんのよ」
「…別に」
「別に何でもないけど、ホテルの鏡を割って回る趣味が、おまえにはあるのか?」
「…腹が立ったんだ」
「何に」
「さあ」
「ヒステリーだな」
「…そうさ」
 生温い血が肘まで伝い、バスローブの袖を濡らす。
 罅割れた鏡は、亀裂に沿って赤く染まる。
 見苦しい。
 発作的な衝動を、完璧に押さえ込む術を私は知らない。私は少しも満足していない。この男に、この男との関係に、そして私自身に、私は少しも満足していない。
 ふとした瞬間、溢れ出す嫌悪感、憎悪、恐怖感、私は何故ここにいる、彼と一緒にいる、まるで普通のことのように、彼に抱かれるために、ここにいる。
 壊したい。
「おれに言いたいことがあるか?」
「…別に」
「何が不満だ」
「…強いて言えば何もかもが不満だ」
「おまえは子供のようだな」
「悪かったな」
「ギャップに耐えられないか?」
「そうだ」
 鏡の中、彼がゆっくりと歩み寄るのが見えた。振り返らない私の肩に、彼の大きな手がかかり、やや強引に振り向かされる。
 真っ直ぐに目が合った。
 吐きそうだ、と私は思った。
 私と彼との間には、何一つ絆はない。甘い感情もなければ、実りも約束もない。多分欲情すらも、切実なものではない。愛していない、恋もしていない、好意もない。それなのに何故。
 彼の手が私の血に濡れた拳を掴み、視線は合わせたまま、口元に運んだ。薄い唇から赤い舌が覗き、私の傷を舐めた。
 咄嗟に、手を振り解き、彼の頬を叩いていた。
 気持ちが悪い、そう思った。
 何が私にそう思わせたのか、判らないが。
「滅茶苦茶だな」
「…謝らないぜ」
「謝らなくて結構だけど」
 彼は私に薄らと笑って見せた。その完璧さが、いつでも、或る意味、疎ましい。
 彼が嫌いだ。彼との関係が嫌いだ。彼の傍にいる私が嫌いだ。彼から離れられない私が嫌いだ。
 私が嫌いだ。
「先に手を出したのは、おまえだからな」
「なに?」
 笑みを深めた彼に、身体が反応するよりも早く、彼の拳が、私の頬に食い込んだ。
「ッ」
 多分彼なりには手加減をしたのだろうが、たまらずに私は蹌踉めいた。血塗れの右手を洗面台に付き、何とか身体を支えようとする、その頬をもう一度、立て続けに殴られる。
 痛い。
 腹が立ったのだろうか、私に叩かれて?
 それとも、私のヒステリーがうつったか、とにかく全てを破壊し尽くしたいこの衝動が。
 洗面台に寄りかかるようにして、見上げた彼の顔には、貼り付いたような薄い笑みが浮かんでいるだけだった。
 そうではないか。
 或いは、荷担してくれようというのか、このお優しい死神は? 私をも壊したい私の、胸に影なすざわめきに。
「…おれは平手で叩いただけだぜ」
「先に手を出した方が悪いんだよ、暴力を使いたいときにはどうするべきか知っているか? まず、相手に一発殴らせるんだ」
「暴力を使いたいのか」
「今、それ以外に使うべきものもないだろう」
「…口の中、噛み切っちまった」
「じゃあ、次はしっかり歯を食いしばっておくんだな」
 洗面台に凭れる肩を、彼の両手に掴まれた。抗おうと思い付く暇もなく、今度は、彼の膝が私の腹部を深く抉った。
「は…っ」
 いきなり、無防備のまま胃を蹴り上げられて、こみ上げる吐き気が胸を焼く。痛みと言うよりも衝撃と、驚き、この男は私相手にここまでやるのか、いや、彼にとってはこの程度、遊びの一種のようなものなのか。
 洗面所の床に沈もうとする私の腕を、乱暴に彼が引っ張り上げた。
 腹を庇う右手から血液が滴り、バスローブを、洗面台を、床を、赤黒く点々と汚した。
 壊したい、惨たらしく、残酷に、壊したい。
 壊れたい。
「痛いか?」
 飄々とした声が、頭上から私に問いかけた。嘔吐感を堪えながら、小さく頷いてみせると、私の腕を掴んでいた彼の手が腰に伸び、そのまま身体を肩に担ぎ上げられた。
「キリコ…ッ」
「おまえは欲張りだ。そんなに認めたくないか? おれに抱かれる自分が厭か」
「…下ろせ、」
「だが、残念ながら、おまえの厭がるおまえこそが、本物のおまえなのさ。おれに抱かれたいだろう? いつになったら慣れるんだろうねえ、この先生は」
「黙れ」
「ギャップに耐えられないんだな。これだから清廉なるお方は面倒臭くて困るぜ、所詮皮一枚剥げば、おれもおまえも餓えた子豚ちゃんなのよ。なあ、ヒステリックな子豚ちゃん、殴られるのも快感だろう?」
「黙れ…!」
「可愛いぜ」
 軽々と担がれた彼の肩の上、手足をばたつかせて暴れてみるが、彼には怯む様子もなかった。そのままベッドルームに連れ去られ、シーツの上に落とされる。乱暴な動作にずきずきと疼く腹を無意識に庇う。
「全てを壊したい気分かい?」
 ベッドに転がされて見上げた、胸に私の血の痕が付いたシャツ、襟元をくつろげながら問う彼を、私は思い切り睨み付ける。
 ああ、そうだ。
 全てを壊し、壊されたい気分だ、今夜、このベッドで。





 バスローブを剥がそうとする彼の手に暴れたものだから、シーツの上でも、何度か殴られた。
 私の身体は痛みに耐性が出来ている。一定の苦痛を過ぎると麻痺が起こる。ただ、身体を揺さぶられる衝撃だけに、感覚も思考も奪われる。
 俯せに押さえ込まれて、背で両手首を縛り上げられた。バスローブの紐ではなくて、彼のタイ、腕を動かすと肌に食い込んで、皮膚が擦り切れる。
 この破壊衝動に名を付けるとしたら、何と言えばいいのだろう。
 子供のようだ。その通りだ。
 ギャップに耐えられない。その通りだ。
 ヒステリックな飢えた豚。その通りだ。
 私は私の目に映る私が許せない。私の手に触れる私の身体が、私の耳に入る私の声が許せない。
 この男の前にいるときの、私が許せない。
 彼が憎い。
 私が憎い。
 肌も震えるような、不意に湧き上がる悪寒のままに、何もかもを切り裂いて、粉々に砕いて、馴染んだ暗闇の中に捨ててしまいたい。もう何も欲しくない、生まれ変わりたいとも思わない、無くなってしまえばいい、私も、彼も、私と彼との間にある、何か薄汚いものも。
「は…」
 彼の愛撫は乱暴で、強引で、僅かにサディスティックな色を帯びていた。
 俯せに組み敷かれた身体にのしかかられ、髪を掴まれる。そのまま強く引かれ、露わになる耳朶に噛み付かれて、喘ぎが零れる。
 腕を、脇腹を、撫でる手は時々爪を立て、皮膚を抉った。
 後ろ手に縛られた手首を軋ませながら、私は嵐のような行為に溺れていく。
「どうして欲しい」
 首筋にぎりぎりと歯を立てていた彼が、肩胛骨へ唇を移す合間に、低く囁いた。熱く火照った頭を緩く振り、私は呻く。どうか壊してくれまいか。
 おそらく彼には判っているのだろう、私が判っていることと同じくらいは。或いはそれ以上? 私は私と私の影との間で藻掻いている。今の私はあまりにも、あまりにも、醜い。
 どうか壊してくれまいか? 私を今ここに捧げるから。
 私が壊したくて壊したくて壊せないものを、おまえがその大きな手で壊してはくれまいか。
 得意だろう、殺し屋、死神の化身。
「おまえはマゾヒストなんだ」
 背筋を軽く啄みながら、言い聞かせるように言われ、そうかも知れないと意識の端で思い込む。
 快楽に目覚め始める重い身体の下、シーツとの隙間に手を入れられ、既に硬く尖っているはずの乳首を摘まれ、目が眩む。
「ん…っ」
「自分の血を見たり、殴られたり縛られたり、噛み付かれたり引っかかれたりすると、いつもよりもずっと発情する。哀れで目も当てられない」
「おま…えの、」
「おれの?」
「おまえの…所為、だ」
「おれの所為か」
「あッ」
 乳首を摘む指に、押し潰すようにぎゅっと力を込められて、唇から勝手に声が洩れた。明らかに快楽に酔った声だった。浅ましい、雌の声だった。
 乳首から身体の芯へ、直接針でも刺されたみたいな刺激が走る。腰から愉悦の澱みが溜まる。私の身体は、この男にこうされて、歓ぶか。
 キチガイじみている、そう思う。
 私が壊したい私は、この私だ。
 彼に抱かれて、彼に夢中になる、彼に抱かれて、彼に虜になる、この私だ。
 これが私の本当の姿? 認められない、壊してしまえ。
「おまえが可愛いもんだから、勃っちまったぜ、ほら」
「やめ…、」
 ぐっと腰を引き上げられて、突き出した尻に彼の股間が押し付けられた。服越し、熱く硬い彼の性器を感じて、とうに火のついていた私の身体は、あっという間に沸点を超える。
 悪い病でも感染したように、自分の性器が硬く屹立するのが判った。
 殆ど条件反射、縛られて、尻を差し出して、私は次の快楽の予感に無意識に息を乱す。
 そうだ、この私が厭なのだ。
 厭で厭でたまらないのだ。
 愛でも恋でもない、好意もない、愛想のない男の前に、身体を開いて鼻を鳴らす餓えた子豚、おまえは、たとえばおまえは、私に触れて股間を張らせる自分を認められるのか。
 おまえは何故平気でいられるのか。
 破壊衝動は訪れないか。
「おまえも勃ったな、センセ」
「言う、な…」
「ああ、突っ込みたいぜ、力を抜いてくれよ、丁寧に慣らしてやる気分じゃないからな」
「ん、あ…ッ」
 多分洗面台から盗んだスキンローション、場違いに華やかな香りがして、突き出した尻にとろりと冷たい液体が落ちた。びくんと身体が震える、その私をあやすように、しかし充分に強引に、ローションに濡れた彼の指が何の遠慮も躊躇いもなく、後孔に食い込んでくる。
「ああ…ッ、は」
「結構柔らかいな、風呂場で自分で慣らしたの?」
「ウ、あ」
「そうか、だからいきなり、ヒステリックになっちゃった訳ね、おれに突っ込まれるために準備をする自分が、疎ましかったかい」
「キ、リコ…、黙れ…ッ」
「おれは可愛いと思うぜ? おれに抱かれるために、一人で自分の尻に指を突っ込んでいるおまえを想像すると」
「ああ、厭、だッ」
 彼の手から逃れようと尻を振っても、余計にきつく彼の指を咥え込むだけだった。これほどおぞましい私が、今この瞬間以外にいるだろうか。
 何を言われても、性器は硬く立ち上がったまま、彼の指を飲まされた尻が、嬉しそうにひくついているのが判る。
 頼む。
 壊せ。壊してくれ。
 舌を噛んで死ねるものならば、私はこのベッドで死んでもいい。
「我慢出来ねエや」
 最後にぐるりと私の内部を大きく拡げてから、彼の指はあっさりと抜けた。ベルトの金具が鳴る間があって、それからぐいと尻を掴まれ、微かに口を開いている場所へ、熱く猛ったものを押し当てられた。
「は…」
「きついだろうが、まあいいよな、おまえはマゾヒストだから、少しくらい痛い方がお好みだ」
「あ、よせ…ッ」
「言ってるだろ、我慢出来ねエ、実はおれはおまえの血を見たり、おまえを殴ったり縛ったり、噛んだり引っ掻いたりすると興奮する、変態サディストなんだ」
「ああ…!」
 ずぶり、と太い先端を、力任せにねじ込まれた。
 私は枕を唾液に濡らしながら、甲高い悲鳴を上げた。
 逃げたがる腰を両手で掴まれ、しっかりと固定される。彼ははなから私が慣れるまでは待つつもりもないらしく、強引に腰を使って、一度では入りきらない肉棒を、楔を打ち込むように私に押し入れた。
「あああッ、…リ、コッ」
「いい気持ちだ」
 根元までぎっちりと埋めた性器で、中を掻き回すように腰を揺すり上げられる。
 深く鋭い快感と、恐怖のような絶望感で、私の思考は弾け飛ぶ。
 多分彼は判っているのだろう、私の破壊衝動にもしも理由があるのだとしたら、その理由を。
 多分彼は判っているのだろう、私の破壊衝動を、封ずる手段がもしもあるのだとしたら、その手段を。
 そして、多分彼は決して許さないだろう、私が私の破壊衝動を、飲み込み、手懐け、コントロールすることを。
 彼は、足掻く私が見たいのだ。苦しみ、憎み、哀しみ、傷付き、気も触れんばかりに身悶え転げ回る私が見たいのだ。
 ならば、見せてやろう。
「さあ、いっぱい擦ってやるからな、いつものように可愛らしく鳴けよ、子豚ちゃん」
「死、ね…ッ!」
 ならば、望みのものを、見せてやろう、その代わり。
 頼む。
 壊せ、壊してくれ。
 おまえが私に厭きたら、そのときには、おまえのその手で、この私を。



(了)