薔薇が咲いた。
いつだったか妹が来た際に、この庭があまりにも殺風景だと言って、植えていった薔薇だ。一つ、二つ、三つ、全部で十五輪ほど。
肥料どころか水もやったことがないのにまさか咲くとは思わなかった。死体でも埋まっているのだろうか。
他に花らしい花もない庭の隅に、その一角だけ真っ赤な薔薇の花。場違いで少し笑える。
これも妹がその時おいていったジョウロを見つけて、水を汲み、庭に出た。咲いてしまうとどうしたものか、枯らすのも悪いような気になって困る。このところは晴天続きで雨が降っていないし、花に水をやる時間もないほど今日は忙しくない。
庭の隅、薔薇が咲く一角のちょうど前に立ったところで、ドアを叩く音が聞こえた。
気にせずにジョウロを傾けた。患者ならば診療所の方に来るはずだし、患者でないのなら対応する必要もない。
ドアを叩く音は一度でやんだ。
庭の土は随分と乾いていたらしく、水をかけるとあっという間に染み込んだ。まともに花を育てたことなどないので、どのくらい水をやっていいのだかよく判らない。まあ水捌けも良いようなので、この分なら大丈夫だろうと勝手に判断し、ジョウロの水を全部まいた。
空になったジョウロを片手に振り返ると、彼が立っていた。
玄関からまっすぐ庭に続く石畳の上。
あまり見たことのないようなぽかんとした顔をしている。
「……おまえさん、なにをしているんだ?」
「……それはおれのセリフだと思うが」
ジョウロを土の上に置き、少し眉を顰めて見せた。綺麗な赤い瞳。ああそうか、と思う。
この薔薇の花は、彼の瞳の色に似ているのか。
彼は、私の言葉に少したじろぐと、黒いコートの中から右手を出した。見覚えのある本を持っている。
「いや、このあいだ借りた医学書を返しに来たんだ」
「本を返すためなら勝手に他人の家に入って良いのか?」
「いや…ノックはしたんだが。庭の方に姿が見えたんで、聞こえてないんだろうと思って」
「……聞こえなかった」
聞こえていた。
視線で促すと、彼は素直に歩み寄ってきた。差し出した手の上に本が返される。それから、今度はえらく訝しげな顔をして、再度言った。
「おまえさん、なにをしているんだ?」
「見て判らないのか? 花に水をやっているんだが」
「……おまえさんが植えたのか? 花を?」
「そうだ」
嘘である。
彼は、失礼なほど目を丸くしてまじまじと私の顔を見つめたあと、一度頷き、さらに続けて二度頷いた。
「そうか。きれいだな」
まるで上滑りしている言葉が面白い。
受け取った本を手の中で弄びながら、その彼に少し顔を近づけて赤い瞳を覗き込んだ。
「で? お礼は?」
「え」
「おまえさんは時々おれのところから本を持っていくくせに、一度も礼をしてくれたことがないんだ」
「ああ……そうか。そうだな」距離を取るようにやや背をのけぞらせて彼は言った。「何か欲しい本があれば買って返そう。買えるものならば。うちにある本で欲しいものがあればそれでもいい」
「実は今ひとつ貸してほしいものがある」
にやりと笑って見せて、何の予備動作もなく、いきなり片手を彼のコートの中に突っ込んだ。
「ッ!」
彼は滑稽なほど驚いて体を強張らせた。この男は、私の動きにはいつでも過剰に反応する。なかなか良い。彼が固まっている隙に、必要以上に腕を深く入れ、わざとらしく腰を撫で上げる。
彼の腕がぴくりと動いたのが判った。その腕に、殴りつけられる前にあっさり手を引いてやる。
「なにをする!」
「ちょっと貸してくれ。本の礼に」
彼のコートから盗んだメスを一本、刃先は自分に向けて、彼の目の前に晒して見せた。こんなものをいつでも服に仕込んでいるというのだからおちおち手も出せない。
勿論、私は別。
彼は、少し赤らんだ頬をそれで打ち消そうというかのように、平坦な声で言った。
「なんだ。オペが必要な患者でも来ているのか? 使いたいなら使っていい。いや待て、それは最近立て続けに使ったあと研いでないから良く切れない。どうせなら…」
「違う違う。大体、おれのところに来る患者は殆どもうオペなぞ必要ない患者だ」
違うメスを取り出そうとする彼を視線で制して、薔薇の群れに目を移した。さて、どれが一番美しく咲いているか。ああ、あれだ。
本をジョウロの上に置いて、花に手を伸ばす。待て、という彼の声を無視し、彼のコートから失敬したメスで、枝を二十センチばかりつけて大輪の赤い薔薇の花を一輪摘み取った。
「おい、せっかく咲いているのに」
「おまえさんに貰われていくのなら本望だろ? ほら、どうぞ」
今度は余計な悪戯はせずにメスをコートに返しながら、彼の前に薔薇の花を差し出した。
こうして間近に較べてみるとよく判る。
彼の瞳とよく似た、少し影を帯びた深紅。だから枯らしてしまうのが惜しいだなんて思ったのか。
彼は、先ほどよりも更に目を見開いて、私と薔薇とを交互に何度も見た。まるで鳩が豆鉄砲を食らったような表情。かと思ったら、はたと気づいたように薔薇に手を伸ばし、私の指からひったくるように取るとつぶさに観察を始めた。
「なんだこれ……毒でも仕込んであるのか。ああそうか、むしろ毒草か。おまえさんが開発したのか? 棘か。葉か、花か?」
「あのね」
少し脱力して溜息を洩らす。多分この男の場合、嫌味でも皮肉でもなくて、本気だ。
薔薇の花弁の奥まで目を凝らすようにして睨んでいる彼の腕を掴み、視線を取り戻してから、なるべく軽薄な口調で言った。
「赤い薔薇の花だぜ。愛おしい人に贈る以外どうするってんだ」
「な……!」
燃えやすい紙に火をつけたように、彼がぱっと赤面した。
本当に良い反応をする。こんなに可愛い男が他にいるだろうか? 笑いそうになるのを堪えて、少し体を屈め、つかんだ腕を軽く引き寄せて短い口付けをした。
薄く開いている唇に、一瞬だけ舌を入れてすぐに離れる。
「……バカか!」
ますます顔を真っ赤にして、それでもようやく思いついた言葉を絞り出すように口にすると、彼は自分の唇を片手で押さえてくるりと背を向けた。
そのまま、どかどかと音のしそうな足取りで玄関へと向かう。
「おい。せっかく来たんだから珈琲でもいれようか?」
「いらん!」
その背中へ声をかけてもまるで取り付く島のない返事。
見えなくなるまでは待たずに私も彼に背を向けた。腕を伸ばして本とジョウロを取り、両手にぶら下げて家へと戻る。
綺麗な赤い薔薇。いずれ儚く散るだけの花。
立ち去る彼の手は、私の贈った薔薇の花を握りしめたまま、黒いコートの中に消えた。
(了)