報酬

 ドアの前で逡巡する。
 彼に告げるべきなのだろうか。やはり黙っているべきか。いや、だが彼の協力がなくてはとても患者をここから逃がすことなど出来ないだろう。
 必ず捕まる。誰かが奴等を引き止めなくてはならない。しかしこの周りは敵だらけの要塞で、一体他の誰に頼めるというのだ。部外者は自分と、そして彼の二人だけ。
 彼が簡単に頷くはずがないことは判っている。
 金で動くかもしれない。金だけで動くとも思えない。
 多分そんなところは彼と自分はよく似ている。
そしてもう一つ知っていることがある。信じているというべきか。彼は決して、自らが課した己の役割を楽しんでいる訳ではない。

 とにかく金を積んで、あとは彼の気紛れに賭けるしかないか。
海辺の研究所内に与えられているドクター・キリコの部屋の前で、ブラック・ジャックはようやくその右手を上げた。
 ごく控えめにドアをノックする。時間は深夜、音は無駄に廊下に響く。周囲に気付かれるのは嬉しくない。
 しばらく待つとドアが部屋の内部から開かれ、キリコが姿を見せた。
 シャツの襟元をくつろげたラフな格好をしている。艶やかな長い銀髪は、無造作に結い上げられていて、こぼれた前髪の隙間からのぞく色素の薄い瞳が、深夜の訪問者をさも気だるそうに見た。
その瞳が、ブラック・ジャックの姿を認めて、一瞬驚いたように見開かれた。
そんな表情をされてもまあ仕方がないとは思う。冗談にも友好的な関係ではないのだから。
「……ブラック・ジャック? こんな夜更けに何の用だ? 夜這いにでも来たのかい」
「話があるんだ。悪いが部屋へ入れてくれないか。見られたくない」
「……ふうん」
一瞬の驚きはすぐに掻き消え、キリコの右目はすぐに普段の冷ややかさを取り戻した。瞳の色と相まって、無表情を決め込んだときの彼の目は、一見えらく酷薄そうにも見える。
 招かれざる客は、余程切羽詰った顔をしていたのだろう、キリコは窺うようにブラック・ジャックを眺めたあと、特に文句も言わずに体を引いて相手を部屋へと通した。
 ブラック・ジャックは部屋へ入るとすぐに、それでも音を立てないように慎重にドアを閉めた。部屋の中にはコーヒーのよい香りが漂っていた。正面の奥にデスク、その横にベッド、ソファが一式。左右には簡単なキッチンとバスルーム。結構広い。自分があてがわれている部屋と殆ど同じつくりである。
 ただし自分の方は、明日の朝にも追い出される事になっているのだが。
 とにかく誰にも見られずに彼と接触することが出来た。思わずほっと溜息が洩れる。そのブラック・ジャックを眺めながら、キリコは部屋の奥のソファを指差した。
「コーヒーでいいかい、先生? とにかく座って落ち着けよ、まるでこれから初めてオペする研修医みたいなツラしてるぜ」
「ああ……コーヒーは飲みたい。ありがとう」
「ほう? 妙に素直だな。いつもそんなに可愛いけりゃいいのに」
「……私だって礼くらい言うぞ」
 睨む視線は身長差のせいでどうしても見上げる格好になる。差し出されたコーヒーカップを受け取ってソファに座ると、これまでメスをふるい通しだった身体の疲労が足元から這い上がってくるようで、ブラック・ジャックは眉を顰めた。
 疲れただなどと言っている場合ではないのだ。そうだ、この男を、とにかく何とかして頷かせなければ、この一週間の手術は全て無駄になる。
キリコはブラック・ジャックの向かいのソファに腰を下ろし、足を組んだ。薄い唇に煙草をくわえて、火をつける。軽く伏せられた瞼、銀色の睫。ライターを操る長い指、形の良い爪。全く、妙に絵になる男だと変なところで感心する。
「それで? 話というのはなんだ。おまえさんがわざわざ大嫌いだろうおれのところにまで足を運ぶんだから、まあそれなりの話なんだろ」
「他言無用で頼む」
「ふん。そんなことはおれが決める。解っているだろう? ブラック・ジャック。それでもおまえさんはおれに話しがあって来たんじゃないのか」
「……。……患者のことだが」
 差し出された煙草を一本抜いて、ブラック・ジャックは一瞬黙った。それから、意を決したように唇を開いた。
「治るかもしれない。白血球数が上がってきた。治る見込みが出てきたんだ。ところが奴等、幹部会議の決定だとかで、私に手を引けと言ってきた。患者を殺すつもりなんだよ。明日になったら、ドクター・キリコ、おまえさんの手に患者が渡るだろう。そうなってまで、おまえさんに患者を殺すなと、奴等に逆らってくれとは、私は言わない。そうなる前に私は患者を逃がすつもりだ。私がここを出て行くのは明日。患者は夜が明けたら隙を見てここから逃がす。裏にボートがあったから使えるだろう。それを私が拾って治療を続ける。だが、ただ患者を逃がしたところでどうせ捕まる。奴等を足止めしなければ駄目だ。まだここにいられる誰かが」 
言い募る言葉は自然に早口になった。言い出した以上は彼に全てを聞かせなくてはならない。しかしキリコはブラック・ジャックの焦りとは裏腹に、途中で言葉を遮りも笑い飛ばしもせず、じっと相手の言葉を聞いていた。
そうなると逆に不安にもなる。キリコはどんな表情で聞いているのか。何を考えているのか。ブラック・ジャックは彼の顔を見ることが出来ずに俯いたまま、とにかく最後まで言葉を繋いだ。
「誰かが足止めをしなければ駄目なんだ。ここを追い出される私にはそれが出来ない。だが私には……そんなことを頼める人間がいない」
 ドクター・キリコ以外には。
 それを、言うべきかどうかブラック・ジャックは少し迷った。しかし結局は口に出せなかった。
 喉がやたらと乾く。左手のコーヒーカップに口をつけ、そこでようやく自分の指先が細かく震えている事にブラック・ジャックは気がついた。
 さあこれで、もう後戻りは出来ない。キリコ次第で自分は奴等に引き渡されて口を封じられるだろう。ここで自分が死んだところで何も起こりはしない。そしてここで自分を殺すことは奴等にとっては簡単だ。
 ドクター・キリコもいる。
「ボートで逃げる人間を」
 ふと、それまで沈黙を守っていたキリコが呟いた。
「追いかけるとなれば、普通考えるのは、ボートか。崖下にあったな。まあ奴等が崖を降りてボートに乗ろうとするなら、崖と靴に細工をすれば、落ちるだろう。あの崖から落ちれば無傷ではすまないか。足止めにはなるな」
「!」
 ブラック・ジャックは弾かれたように顔を上げた。途端に、自分をじっと見つめていたキリコと目が合う。
そのキリコが、不意に、まるで視線がそうして絡まるのを待っていたかのように、唇の端を引き上げてにやりと笑った。
「勘違いするなよ、ブラック・ジャック。おれはな、今すぐ奴等にお前さんの計画とやらをバラしてやることだって出来るんだぜ。むしろそうするのが自然だ。そうしたらおまえさん、どうなるのかねえ」
「……」
 皮肉な笑み。冷笑。追い詰めて追い詰めて遂に捕らえた獲物を目の前にしたみたいな。
 ドクター・キリコにはその手の表情が実に良く似合う。と言うよりも、ブラック・ジャックは過去にそんな彼の表情ばかり見てきたような気がした。無表情の仮面よりたちが悪い、何を考えているのだか知れない残酷な微笑。銀に彩られた彼の端正な顔は、それだけで酷く冷ややかに見える。
 少し冷えたコーヒーで喉を湿らせて、ブラック・ジャックは再び彼から視線を逃がした。
「消されるのだろうな」
「そうだ。それなのにおまえさんはおれに喋ったわけだ。何故? おれに何を期待している。え? 先生、ちゃんと言え」
「……患者が、逃げ切るまで、奴等の足止めをして欲しい」
「ほう。おれにそれを頼むのかい。おれは死神の化身なのだろう? そのおれに、おまえさんは一体何を期待する。はいそうですかとおれが簡単に了解するなんて思っちゃいないだろう? 先生、おれに何を期待してるんだ、ほら、言え」
「おまえさんにしか……頼めない」
「は! 自分から死神の鎌の前に首を持ってくるようなもんだぜ。おれに頼むくらいならば池の鯉にでも頼んだ方が害がないだけまだマシだ。それともなにか? おまえさんはおれが、このおれが、おまえさんの頼みを聞いてやるとでも思っているのかい? さあ、先生、言え。おれに何を期待している? おれがそんなお優しい男だと思うのか? 言えよ。ブラック・ジャック。期待しているから来たんだろう? だったらしっかり……おれを口説け」
「……」
 いたぶられている。
 弄ばれている。
 ブラック・ジャックは唇を噛み、上目遣いにキリコを見た。思わず睨みつけたかもしれない。キリコはしかし、全く怯みもせず、いっそ揶揄うような眼差しでその瞳を見返してくる。
ここで文句をつけたらいつものペースだ。
 ブラック・ジャックは噛み締めた唇を舌で湿らせると、細く息を吐いてからぼそぼそと言った。
「私はおまえさんが、楽しんで人を殺しているとは、思っていないよ」
「……ふうん?」
 キリコは、そのブラック・ジャックの言葉に、眉を上げて少し笑った。失笑と言うのか。 ブラック・ジャックは唇を引きつらせて、それでも、強引に口を開いた。元々こういう台詞を吐くのは大の苦手だ。
「助けられるかもしれない人間を殺すのは、厭だろう? キリコ。おまえさんは否定するかもしれないが、私は、そう思うよ。ドクター・キリコは、人を殺すときに、多分……悲しんでいる。迷いはないのだろうが、それでも、悲しんでいる。おまえさんは、死にたいと言う人間は、死なせてやらなくちゃならないんだろう。それがおまえさんの信念だから。もう何の救いもなくて、どうしても助からなくて、死にたいと言う人間がいたら、殺すんだろう。だけど、悲しんでいる。だから、大金を要求する。折り合いをつけるために」
 所々声が掠れる。指先が冷えていくのが判る。これが緊張というのだろうかとブラック・ジャックは他人事のように思う。
口説け、とドクター・キリコは言った。
 そんな器用な真似は出来ない。
 不意にキリコが、それまで手の中で遊ばせていたライターを、ブラック・ジャックのほうに差し出し、気障な仕草で火をつけて見せた。ブラック・ジャックはそこでようやく、自分の右手が煙草を握っていたことを思い出した。紙巻は好きではないが、仕方がない。
 火を吸い付ける煙草の先が、無様に震えていて厭になる。
「私は」
 深呼吸をするように煙を一服してからブラック・ジャックは再度口を開いた。毒素が身体中をめぐる感覚が妙に心地よい。
「自覚しているつもりだよ。ドクター・キリコは私を嫌っている。それも相当にだ。鬱陶しいし、煩い。会うたびに自分の仕事に文句を言われていれば当然だろう。だが、その仕事を肯定するなんてことは私には出来ない。そんなことをして、それじゃあおまえさんの感情はどこへ行くっていうんだ? 悲しみは。苦しみは? おまえさんの行為を肯定するってことは、そこに多分ある悲しみを見ないってことだ。認めないってことだ。許さないってことだ。私にはそんなことは出来ない。おまえさんは機械じゃない。機械じゃないんだ。だから私は……おまえさんに頼みに来たのだよ、ドクター・キリコ」
 ちらりとキリコの顔を覗き見る。彼は何も言わずに、その視線を受け止めながらソファの背に深く背を凭れさせた。薄い唇にくわえられた煙草から、彼の髪と同じ色の煙がゆっくりと天井に向かって昇っていく。
 解っている筈なのに。
 こんなものでは足りないか。まあそうだろう。
 ブラック・ジャックはキリコから視線を外し、まだ長い煙草を灰皿に押し消した。コーヒーカップをテーブルに置き、凍えた両手の指を軽くこすり合わせる。
 緊張はあってもいい。だが、躊躇はないほうがいい。
そして、今度はきっぱりと顔を上げ、思い切り視線をキリコに突き刺した。
「おれは、あんたが引き受けると思っているよ」
 がらりと変わったブラック・ジャックの口調に、キリコの右目が、二度素早く瞬いた。どんな意味があるのかは知らないが。
「治るかもしれない患者を、しかも治りたいと思っている患者を、あんたがそう易々と死なせるもんかい。あんたはな、殺し屋だの死神だの言われて否定しないけどな、患者には優しいよ、だから殺しもするんだろ。あんたはな、おれに患者を横取りされるといつでも怒って見せるけどな、本当は少しは嬉しいんだよ。死なせるしかなかった患者が治るかもしれないんだからな。おれならそれが出来ると判っているんだろ? だったらおれの頼みを聞いたらどうなんだい。治るかもしれないっておれが言っているんだぜ? あんたに断れるもんか! あんたはな、それほど冷たくはないんだよ、そんなに残酷になんかなれねえよ」
煙草をくわえたキリコの唇が、僅かに動いた。笑ったのか、怒ったのか。
 そんなことは知らない。ブラック・ジャックは自分の膝に手をついて、彼のほうに身を乗り出した。縮まる視線の距離に、ありったけの力をかき集めて投げ込む。
 今更言葉が過ぎましたと言ったところで、どうしようもない。
「おれの言葉に唯々諾々と従うのがしゃくだってなら報酬は出すぜ。奴等が用意した金なんか目じゃないくらいの報酬をな。そりゃあ死神と名高きドクター・キリコがタダ働きの人助けなんて柄じゃねえや。あんたはな、善人になんかなりたくないんだよ。あんたはな、正義なんか大嫌いなんだよ。だったら報酬のために動け。金でも宝石でも島でも、あんたが欲しいものを欲しいだけくれてやるさ。キリコ、あんただって、奴等の言いなりになってヒトゴロシするのなんか御免だろ? どうせ誰かの頼みを聞くんだったら、より高い報酬を払う人間の頼みを聞けよ。おれの頼みをだ!」
何ともいえない感情が、ぞくりと背筋を這い上がる。恐怖か。後悔か? この男相手に、はったりが効くのかどうかは勿論知らない。
 ドクター・キリコは、ゆっくりと紫煙を唇から吐き出したあと、長い指先を弾かせて煙草を灰皿に投げ捨てた。薄い笑みを形作る唇。そして、色素の薄い瞳。その瞳には、もしもブラック・ジャックの勘違いでないのならば、先程まではなかった何らかの感情が、ほんの僅かに透けて見えるような気がした。
「ふうん……。頑張るねえ、ブラック・ジャック先生?」
 口調には相変わらずの揶揄がたっぷり含まれている。
「口下手な先生にしちゃ、まあ喋った方なのかな。ふふ、目が必死だ。そんなにあの患者達が大事かい? ここで見捨てていったって、一億は貰えるんだろ、それで満足すればいいのに物好きな奴だな」
 組んでいた足を解き、まるでブラック・ジャックの視線を焦らせるかように、キリコは殊更ゆっくりとソファから立ち上がる。彼の姿勢は綺麗だと思う。肩のあたりから、まっすぐ伸ばされた背筋、腰にかけてのラインがとても綺麗だ。
 ここで視線をそらせたら負けのような気がして、ブラック・ジャックは噛み付くようにキリコを見つめていた。キリコは殆ど楽しそうにさえ見える表情でその眼差しをきっちりと見返す。
「あることないこと喋ってくれたが」
 頬に落ちる前髪を無造作に掻き上げながらキリコが言った。
「おまえは取り敢えず一つは正しいことを言った。おれは確かに正義なんて虫唾が走る。善人なんてクソくらえだ。だから」
「!」
 そして、不意に腰を屈めて右腕を伸ばし、髪を掻き上げたその手で、ソファに座るブラック・ジャックの顎を掴んだ。
「……報酬の話をしようか、ブラック・ジャック」





「ッ」
 ブラック・ジャックは思わず息を呑んで硬直した。キリコはそれをいい事に、無遠慮なまでに間近に顔を覗き込んできた。仰向いた顔を彼の髪が掠めた、そのくらいの近さだった。逃げようにも、顎を掴まれ、視線を外すことも出来ない。
「不器用で健気な先生に免じて、口説かれてやるよ」
 キリコはうっとりするような微笑を浮かべて、低い声で言った。吐息が触れる、そのくらいの近さだった。
「おれがやると言うからにはちゃんとやる。あとはどうなろうと知ったことじゃないが、おまえの大事な患者がここから逃げ切れるだけの時間はしっかり稼いでやろう。だから報酬をよこせ。口止め料込みだぜ。おれの欲しいものを欲しいだけくれるんだろ?」
「い、いくらだ」
「なあ先生? お互い金には困ってないんじゃないか? 他人の稼いだオペ代掻っ攫うなんて趣味じゃないんでね」
「なに、が、欲しい」
「おまえが欲しい。よこせ、ブラック・ジャック」
「な……」
 顎を掴むキリコの指は、乱暴ではなかったが、強引だった。
 冷たくはない。熱くもない。自分と同じ、人間の体温。
 至近距離で囁かれた言葉に、ブラック・ジャックは目を見開いた。顔が青ざめていくのが自分でも判る。その表情がよほどおかしかったのか、キリコは少し声に出してくすくすと笑った。
「意味は解るんだろう? 抱かせろと言っている。勿論前払いだ。今すぐ、ここでだ。断れないよな、先生?」
「お、れは」
「おまえの頼みを聞いてやろうと言うんだぜ? そのくらいの報酬はくれてもいいんじゃないのか」
「ま、待て」
「どうしてそんな顔をする……。今更、だろ」
「……っ」
 今度は、かっと顔面に血が上ったのが判った。直接瞳に捻じ込まれる視線についていくことが出来ない。
 今更だろ。
 キリコの言葉が刃物のように頭の中を突き刺した。今更だと?
 彼と寝たことは過去に何度かあった。勿論愛情なんて生温いものが介在していたためしはない。彼はほんの気紛れで自分を抱いたのだ、それこそ、子供が虫を弄繰り回して遊ぶように。捨て猫をいたぶり楽しむように。 
望んだことはない。彼とて望んだわけでは決してない。当然優しい言葉は一つもなく、それでいて与えられる快感は恐怖を覚えるほどに鮮烈だった。
 彼以外の男と寝たことがないとは言わない。それでも、彼は特別だった。
 忘れたいと心底願った。溺れて狂わされるのは怖かったし、何より惨めだ。だが彼はそれを許しはしなかった。冷淡にあしらわれて、残酷に突き放されて、それなのに次の瞬間にはその手が伸びる。全く気紛れに。
 また繰り返そうと言うのか。この悪魔。
「厭だ……」
 思わず洩れた言葉を、キリコが聞きとがめた。
「イヤ? 何故? おまえの願いを聞いてやれば、何でもおれの欲しいものをくれるんだろ。それとも、おれのことがそんなに嫌いか、ブラック・ジャック先生?」
「そんなんじゃ、ない……。だけど」
「だけど?」
 気味が悪いくらいに、静かな、優しいキリコの声。
 ブラック・ジャックは彼からそらすことの出来ない目を瞬かせて、聞き取れないほどの小さな声で言った。瞼を閉じてしまうのはもっと怖い。
「……だけど、あんたが、あんたがおれを嫌いなんじゃないか」
「……」
突き刺さるようなキリコの視線が、一瞬、たじろいだ、ような気がした。
 ひとこと言ってしまえば後は比較的簡単だった。ブラック・ジャックは、そこでようやく自分の顎を掴むキリコの右手を振り払い、その勢いのまま言葉を吐き捨てた。
「おれを貶めたいだけなんだろ。だったら、もっと簡単な方法で貶めればいいじゃないか。そのためだけに嫌いなやつを、しかも男を、わざわざ抱くなんて馬鹿じゃないのか。おれのことが、大嫌いなくせに!」
 息を吸うと、冷えた空気が流れ込んでくる。彼の吐息に今にも窒息しそうだった胸を喘がせて、ブラック・ジャックは彼の視界から逃げるように顔をそむけた。女々しいことを言っているような気もしたが、考えるよりも先に声が出てしまう。
「あんたは前ッからそうだよ。おれをいたぶるのはそんなに楽しいか? そんなにおれが嫌いか! だったらおれのことなんかさっさと殺せばいいじゃないか、あんた、それなら得意なんだろ。そうすればおれはあんたの前から永遠に消えてやるよ、もう二度とあんたの前には現われないよ、そのほうがいいだろ、そのほうが満足だろ、そんなに嫌いだったらおれのことなんか殺しちまえよ!」
 最後は殆ど悲鳴だった。肌がひりひりするくらい、こんなに感情的な言葉を口に出したのは、一体いつ以来なのだろうと頭の隅でぼんやり思った。
 同時に、同じ頭の隅で、自分の言葉に傷ついている自分をはっきりと嫌悪した。駄々をこねる子供みたいだ、誰かの目にこんな姿を晒すなんて、一体自分はどうしてしまったというのだろう。
 キリコは、ブラック・ジャックに振り払われた右手を宙に浮かせたまま、まるで時間がそこだけ止まっているかのように、ただ突っ立っていた。
 皮肉な言葉を返すでもなく、嘲笑を浴びせるでもなく、黙って、突っ立っている。まるで彼らしくない。
 ああ、逃げ出すならいまなのだ、とブラック・ジャックは思った。思ったが、それだけだった。そういえば、自分は何をしにここへ来たのだったか? そうだ、患者を逃がす手助けをしてくれと彼に頼みに来たのだった。醜態を晒しに来たわけではない。それとも、これくらい惨めな真似をしたほうが彼の好みには合うだろうか。
キリコは何も言わない。
上がっていた息がおさまると、その沈黙が、徐々に絶えがたいものになってきてブラック・ジャックは当惑した。顔をそむけたまま、彼の反応をじっと待っている。心臓の拍動が鼓膜に響くような気さえする。
 こんなふうに黙り込まれるくらいなら、侮蔑でも軽蔑でも、一歩的に食らわされるほうがまだ耐えられるだろう。
 多分、その沈黙は、実際には数秒間のことだったと思う。だが、ブラック・ジャックには異様に長い時間に感じられた。その時だった。
 不意にキリコの腕が伸びた。今度は両腕だった。ブラック・ジャックがそれに気がつく前に、彼の長い指は、ブラック・ジャックの首にきつく巻きついた。
「っ!」
 抵抗もなにもあったものではない。巻きついた指は躊躇いなくぎりぎりとブラック・ジャックの首を締め上げた。思わずその指に縋り、爪を立てて引き剥がそうとするが、それくらいのことでは彼の指は少しも緩まない。
「キ…リコ!」
 掠れた声で彼の名前を呼ぶ。キリコは、ブラック・ジャックの首を締め上げたまま、もがく相手の姿を見つめながら、そこでようやく低く呟いた。
「……本当にそんなふうに思ってるの?」
「……ッ、」
 その一瞬、苦しさも痛みも忘れ、ブラック・ジャックは目の前の男の顔に、意識を奪われた。
 これはキリコじゃない。
 キリコはこんな顔はしない。
 自分の首を締める男は、酷く悲しそうな、酷く傷ついたような表情をして、自分を見ていた。
 どうしてそんな顔をする?
「おれがおまえを嫌いだと思っているの? 殺したいほど嫌いな男の頼みを聞くと思うのか?」
「く…」
「ああそう……」
 と、今度は、巻き付いてきた時と同様に、彼の指は唐突にブラック・ジャックから離れた。
 たまらずに身体を折って咳き込むブラック・ジャックに微塵の情けもなく、キリコの長い足が二人の間にあるテーブルを軽々と跨ぎ越し、いままで首を締めていた大きな手が二の腕を掴んでソファから引きずりあげる。
「っ!」
「もういいさ。先生の言うことなんかいちいち聞いちゃいられねえ」
先程の一瞬の表情は既にその顔にはなく、キリコは、喘ぐブラック・ジャックを見下すように眺めながら、普段どおりの声で言った。
「頼みを聞いてやるって言ってんだから、おまえは大人しくおれの言うままになれ。ほら、いつまでへばってんだよ、ブラック・ジャック。早く脱げ」
「キ、リコ、あん、た」
「なんだ、脱がして欲しいのかい? ん? 違うって? だったら早く脱げ。おれに脱がして欲しいってならそのままにしててもいいぜ、まるで、男を知らない処女みたいにな。ほら」
 キリコの長い指が伸びて、器用にブラック・ジャックのリボンタイをするりと解く。ジャケットのボタンを簡単に外し、肩から落とされる。
 ブラック・ジャックは咄嗟に、今度は襟元に伸びた彼の手を、両手で掴んだ。
「やめろ!」
「なんだよ。電気を消して、なんて間の抜けたこと言うんじゃないぜ」
「自分で…自分で脱ぐから、やめろ」
「……ふうん?」
片方の眉を跳ね上げて、面白そうにキリコがブラック・ジャックを見た。男を知らない処女みたいに? ああ、全く酷い台詞だ。充分だ。この身体は彼の手を、彼の熱を知っている。彼以外の男の重さをも知っている。そして、それを悦ぶ事実を、彼は知っている。
 ああ、そうだ。もう、今更だ。今更、何を拒む。
 その言葉が、自分の吐いた暴言の仕返しだと言うのならば成程的を射ているだろう。ブラック・ジャックは、のろのろと指を自分のシャツのボタンにやりながら、つい先程まで自分の首を締めていた男の顔を見た。
 彼は本気で自分を殺すつもりだったのかもしれないと思う。少なくとも、あの瞬間の彼の手の力は、遊びではなかった。あのまま彼が手を放さなければ、と上の空で考える。自分は、彼の手にかかる、何人めの死者になったのだろうか。
 思うように指が動かず、ボタンがなかなか外れない。どうして彼の目の前で、彼に抱かれるために自分が服を脱いでいるのだかはもう考えたくもないが、それでも、彼に脱がされるよりは幾分かマシだ。
「手が震えている」
 キリコが目を細めて言った。ブラック・ジャックは答えずに、ただ自分の指に力を込めた。
 なんとか最後までボタンを外すと、彼が解いたタイを首から外し、ソファに捨てた。シャツの腕を抜いて、投げやりに身体から引き剥がし、それもソファの同じ場所に落とす。
 ひやりとした空気を素肌に一瞬感じたときに、いきなり身体をキリコの腕に抱き上げられた。
「な…」
 抵抗する余裕はなかった。男の腕に抱えられる羞恥を感じるよりも早く、そのままベットに運ばれ、シーツに縫いとめられた。
 非難の言葉が口を出たのは、キリコが鷹揚な仕草で覆い被さってきてからだった。
「なにをする!」
「なにって? ベッドよりソファの方が良かったか?」
「そういう…そういう意味じゃないだろ!」
「待ちくたびれちまうよ」
 キリコの右手が彼の髪に伸び、後ろで結い上げていたピンを抜いた。それだけで彼の見事な銀髪は綺麗に解けた。天井のライトの明かりを反射する珍しい色の髪。自分が何をされているのか、何をされようとしているのかも束の間忘れ、ブラック・ジャックは、その煌きに思わず見蕩れた。
「口で言っても解らないんだろう?」
 キリコの髪は好きだと思う。ずっと好きだった。多分、あの時も、そして、あの時も。
「なあ、強情で鈍感なブラック・ジャック先生? こう言っちゃなんだがな、おれは、セックスの相手に不自由をしたことはないよ、相手が女でも、男でもな。そのおれが、やりたくもない男押し倒して勃つと思うか? アタマで解らないんだったらカラダに教えてやるから、ちゃんと解れ。覚えろ……おれの感触を」
「おれは、」
「もう黙れよ…」
 殆ど穏やかと言ってもいいくらいの甘さで唇を塞がれた。
 色素の薄い瞳と目が合って、ブラック・ジャックは慌てて目を閉じた。
 それでも瞼の裏で彼の視線を感じてしまう。見られている、と思う。それだけで、目が眩むようだった。
 少し乾いた彼の唇が、ゆっくりと自分の唇を辿っている。確かめるように強く触れ、軽く吸い上げる。嘘のように鮮明に、過去に彼に抱かれたときの記憶が次々と蘇った。平気で残酷なことを言う。平坦な眼差しで嘲笑う。それでも、それなのに、キリコの口付けは時に非常に優しくて繊細で、ブラック・ジャックはそのたびに戸惑った。
 彼の長い髪が、頬に落ちる。ひんやりとした感触。誘惑に抗いきれず、ブラック・ジャックはその髪にそっと触れてみた。見た感じよりも柔らかくて、指に纏わりついてくる。この手触りを、自分は、知っている。
 その手に反応するかのように、キリコの舌が唇を割って入ってきた。
 無理やりにではないが、全く躊躇いも遠慮もない動きだった。生々しい感触に、ブラック・ジャックは思わず指に絡めた彼の髪をぎゅっと握り締めた。どうしても逃げてしまう舌に、彼の舌が追いついて、誘うように触れてくる。早く陥落しろと言っている。
 そんなふうにしなくても、と思う。こうして生温い粘膜を交換し合うだけで、自分は例えようのない慄きに襲われているのに。
 唇を開き、舌を受け入れて、流し込まれる唾液を飲み込む。彼はどんな表情をしてるのだろうかと少し気になる。喉を鳴らして彼の体液を啜る自分は、あさましい姿をしているか。
「は……」
「舌を出せ」
 低い声が言った。
 ブラック・ジャックは薄く瞼を開いてキリコを見た。きっと酷く濡れた目をしているのだろうと自分でも思った。口付けだけで? そう、それだけで。
 天井のライトが目を射り、影になった彼の表情が良く見えない。もう、抗うだけ見苦しいか。
 目を閉じ、彼の言葉に応えて差し出した舌を、少し強く噛まれた。
「ん、」
 途端に、面白いくらいに肌がざわめく。それを宥めるように彼のてのひらが何度も繰り返し撫でていく。肩、腕、腰。差し出した舌には彼の舌が思うさま絡み付き、合間に角度を変えて立てられる歯が、容赦ない刺激を与えてくる。
 舌を出しているせいで唾液がうまく飲み込めず、唇の端から溢れて肌に伝った。
「う…ン」
「……イヤラシイ顔」
 好きなだけ貪ったあと、ブラック・ジャックの唇から離れたキリコの唇が、囁くように言った。言い返す気力もなく、ただ徐に瞼を上げると、それを待っていたかのようにキリコと視線が合った。
「こんなんで、そんなになっちまうの? 先生。もうどうしようもないね…。おまえ、おれ以外に何人男を知ってるんだ? 全く冗談じゃねえぜ。誰にこんなにされちまったの」
「……た、の」
「うん?」
「あんた、の、せいだ」
「……」
 答えた声は掠れて溶けていた。ブラック・ジャックのその言葉に、キリコは一瞬、彼らしくもない感情的な色を瞳に掠めさせると、つい先程までの甘やかな口付けとは打って変わった獣じみた仕草で、ブラック・ジャックの首筋に噛み付いた。
「あッ」
 指の隙間から彼の銀髪が解けていく。
 思わず声を上げ、反射的に逃れようとするが、押しのけようと掴んだ、服を着たままの彼の広い肩はびくともしなかった。そのまま血管に沿って肌を舌で舐め上げられ、ところどころきつく吸われて体が跳ねる。
 ぞくりと腰のあたりから這い上がったのは、紛れもなく快感だった。優しく溶かされて、強引に与えられて、この身体は間違いなく悦んでいる。期待して震えている。
 力強い男の肉体に、否応なく圧倒される快感を知っている。 
首筋にいくつもの跡を残したキリコの唇が、肌を辿り、左の胸の突起を吸い上げた。
「ああっ! や…」
 歯を立てられ、神経の先を直接弄られるような刺激に、ブラック・ジャックは男の腕の中で身悶えた。乱れ、喘ぐ呼吸を止められない。
キリコの唇は執拗だった。その一点だけを、長い時間をかけて、噛み、優しく舐め、舌を尖らせて押し潰し、吸い上げる。一方で、彼の右手は、ブラック・ジャックの身体中を余すところなく撫で回した。仰け反らせた背中をこすり、腰骨の窪みを掠め、まだ服を着たままの太腿を擦り、脇腹を下から上に強く辿る。ただ性器だけには服越しにも触れなかった。それが余計にブラック・ジャックを焦らし、煽り立てた。
「んん…ふ、ン……ッ、はあ…」
洩れる声は自分でも判るくらいに、潤んでいる。
 キリコの唇がようやくそこを離れたころには、身体中から力が抜け、ブラックジャックは息も絶え絶えにシーツに重く沈んでいた。
「相変わらず、イイ声で鳴くもんだねえ、先生」
 キリコは笑みを含んだ口調で言った。
「慣れたカラダをしている。おれの知らないところで、おまえはこの身体を誰かに抱かせてきたし、これからも抱かせるんだろ。そして誰かを抱くんだ。だが、今はおれのものだ、そうだろうブラック・ジャック? おれの、せいで、そんなになってんだろう?」
「……ふ」
「まだだ。まだだぜ、もっと鳴け」
 キリコの指先が、狙い済ましたような正確さで、肌をなぞった。
 その途端、ブラック・ジャックは閉じていた目を見開き、その視線に怒りを込めてキリコを睨み上げた。彼の手を力一杯払いのけ、弾む呼吸の下から声を絞り出す。
「やめろ……そんなふうに触るなッ!」





「…何故。痛いのか? 痛くないだろう、おまえは、ここが感じるんだろう?」
「厭だ……やめろ!」
 身体中に走る縫合の跡。
 キリコの指先はメスのようにその跡をなぞった。
ブラック・ジャックは、自分の身体の傷跡を決して恥じてはいなかった。誰かと抱き合うときにも隠しはしなかった。だが、彼に故意に触れられるのは耐え難かった。そこに愛情も、慈しみさえもないのであれば、その行為はただ残酷なだけだろう。
 キリコは払いのけられた自分の手を見て、それからブラック・ジャックを見た。何を考えているのだかわからない、いつもの表情。
かと思うと、やおらブラック・ジャックの両手首を掴み、左右に開かせ、強引にシーツの上に押し付けた。
「キリコッ、い、やだ!」
「煩い…」
 ブラック・ジャックは今度こそ本気で抵抗したが、ベッドに縫い付けられた腕は少したりとも動かなかった。キリコの長い髪が肌に落ち、有無を言わさず柔らかな舌が傷跡に触れる。濡れた感触。そして、意外にも優しい、愛撫。
 喉の奥から悲鳴のような喘ぎが洩れた。既に堕ちていた身体にその刺激は強すぎた。薄い皮膚が感じる頭を揺さぶられるような鋭い快感と、絶望的な屈辱に無意識に涙がにじむ。
「や…めッ、ア、う…っ、ああ、あ…!」
 恐怖を覚えるほど丁寧に、まるでいたわるかの様に、彼の舌は傷跡をゆっくりと辿った。 やめてくれ、と何度も訴えた。叫ぶように、あるいは、すすり泣くように。キリコはそのブラック・ジャックの言葉を聞き入れようとはしなかった。身体中の無尽の傷跡を、隅々まで唇で優しく犯した。ブラック・ジャックの腕が、遂には抵抗も忘れて、彼の背に縋りつくまで。
気が触れてしまう、と思った。
 まるでこれでは愛されてでもいるようではないか。
「……泣くな。ブラック・ジャック」
 キリコの唇が、ブラック・ジャックの唇をそっと啄ばんだ。
「気持ちいいんだろう? もう泣くな。苛めているわけじゃない。おれはおまえが欲しいだけだ……解るだろ」
「う……」
「綺麗な目だな…。赤い。おれはおまえの目が好きだよ」
 濡れた瞼に優しいキス。ああ、この瞬間に、とブラック・ジャックは思う。
 彼の手がもう一度この首を締めてくれたら。そして二度とその指を緩めないでくれたら。
 自分は錯覚に落ちたまま永遠の眠りにつけるのに。
 顎を上げ、唇を開いて求めると、キリコはすぐにブラック・ジャックのその望みに応えた。口付けを交わしながら、片手を滑らせ、双丘を揉むように撫で回す。
服の上から、明確な意図を持った指先にその場所をぐいと刺激されて、ブラック・ジャックは重なる唇の隙間にくぐもった喘ぎを洩らした。
「ふ、ン」
「脱げよ…」
 キリコの囁きは珍しく少し熱を帯びていた。ブラック・ジャックはそれに操られるように、言われるがまま震える指を自分の服のベルトにかけた。
 もつれる指先でベルトを外し、覆い被さるキリコの身体に窮屈な足を曲げて服を脱ぐ。あさましい、と思う。火のついた身体をこうして男の目の前に晒していく自分。
 なんとか全て引き摺り下ろした服を、キリコがベッドから追い出した。触られるまでもなく反応している性器が直接キリコの服に擦られて、ブラック・ジャックは逃げるように身体を悶えさせた。
「ア」
 その身体を捕らえられ、股間にキリコの腰を押し付けられる。服越しに、彼もまた興奮していることを示されてブラック・ジャックは目を眩ませた。
 この熱に、屈服する快楽を自分の身体は知っている。
 この熱に、蹂躙される瞬間を自分の身体は待っている。
「足を開け…膝を立てて」
 命令は耳元に直接吹き込まれた。抗わずに従うブラック・ジャックの唇に、キリコは右手の指を二本押し込むと、もう一つ指示を与えた。
「濡らして」
「ンン…」
 長い、キリコの指。ブラック・ジャックは懸命にその指を舐めた。舌を使って根元まで、滴るほど唾液を塗りつける。
 唾液の糸を引いて唇から引き抜かれた指は、焦らしもせず、勿論躊躇いも迷いもせず、その場所に触れた。思わずびくんと跳ね上がる身体に構わず入り口の筋肉の壁を解し、やや強引に、一本中に入ってくる。
「ああ……ッ、ア、ア」
「どうした? 力を抜けよ」
 唾液で濡れた指は、反射的に拒んでも簡単にそれを押し切った。根元まで入り込み、爪先まで引き抜かれ、また奥まで挿入される。ブラック・ジャックはキリコの背中にしがみつき、シャツを握り締めて耐えた。痛みはないが、そうして引き出される快感は、息苦しくさえあった。
「力を抜いて。これじゃおれが入れない」
「…ああっ! あ!」
「気持ちいいだろ? ほら」
 指先が容赦なく前立腺を刺激してきた。ブラック・ジャックは身体を波打たせて悲鳴をあげた。誤魔化しようのない直接的な快感に、意識を揺さぶられて正気が跳ぶ。
 キリコは、憎たらしいほど冷静に、じっくりとそこを馴らした。ブラック・ジャックが気付いたときには、いつのまにか二本の指を咥えさせられ、その指が内部で蠢くのを許していた。
 身体はドロドロに溶けていた。もう早く、彼の強い力で犯して欲しいと思った。彼の熱で内側から揺さぶられたかった。
 キリコは、そのブラック・ジャックの淫らがましい欲を、見透かしたように指を引き抜いた。腕を掴まれ、身体を起こされる。それから、眩暈にふらつくブラック・ジャックの耳元に、低い声で囁いた。
「しゃぶれ」
「く……」
 ブラック・ジャックは上目遣いで彼を見つめた。だが、キリコは、その言葉を撤回するつもりなどさらさらない様子だった。ブラック・ジャックは軽く頭を振って眩暈を追い出し、快楽に重く湿った身体をのろのろと動かして、ベッドに座る彼の前に跪いた。
 今更だ。今更彼に抗ったところで、どうなるものでもない。
 まだきっちりと服を身につけたままの彼のベルトに手を伸ばす。自分の服を脱ぐよりもそれは難しかったし、更に物欲しげであさましい行為に思えた。ベルトを外して、服を寛げ、震える指で彼の性器を掴み出す。直接触れたそれは、服越しに感じたよりも、熱く、太く、堅かった。
「しゃぶれよ…」
 息を呑んで、躊躇うブラック・ジャックに、キリコが再び言った。手の中で脈打つ肉とは裏腹に、彼は呼吸一つ乱していなかった。それでも少しだけ熱のこもった眼差しに刺すように見詰められ、ブラック・ジャックは彼の股間に顔を伏せた。彼の長い指が、頬に被さる髪を優しく掻き上げてくれる感触が心地よかった。まあ、自分を咥える男のいやらしい顔をよく見たかっただけだと言われればそうなのだろうが。
 唇を一杯に開いても、彼の性器を全て口に含むことなど到底出来なかった。仕方なく張り出した先端だけを咥え、残りは指で擦った。舌で刺激し、吸い上げると、髪を梳く彼の手に少し力がこもる。感じているのだろうかと唇を唾液で濡らしながら思う。
「舌を出して、裏も舐めて」
 低い声が頭上に聞こえた。
「たっぷり濡らしておけよ、ブラック・ジャック」
「ン…う」
 言われた通りに、顔を傾け、思い切り舌を出して、片手で掴んだ彼の性器を裏から舐め上げた。時々軽く歯を当て、唾液を塗りつける。その顔を、見られているのが判ったが、見返すことは出来なかった。ただ懸命に舐めて、全面に唾液を塗していく。
 これが自分を犯すのだ、と、思うだけで無意識に腰が揺れた。優しく、それとも、乱暴に。太い肉の棒で彼と繋がる瞬間の想像は、ブラック・ジャックの意識を簡単に眩ませた。
 早く。ああ、早く。もう自分はこんなに熟れているのに。
 長い時間をかけて彼の性器を唾液まみれにしてしまうと、ブラック・ジャックはそれに手を添えたまま彼を見上げた。きっと切羽詰った表情をしているのだろうと思ったが、もう隠す気もなかった。
 キリコはそのブラック・ジャックの顔を見下ろして、少し笑った。それからブラック・ジャックの腕を掴んで起き上がらせると、今まで彼を舐めていたせいで唾液に濡れた唇を、指先で軽く拭いながら言った。
「どういう格好で入れて欲しい?」
「……た、の、」
「ん?」
「あんた、の、好きに」
「そう」
 唇に触れるだけの短い口付け。
「じゃあ、うつぶせになって、腰上げて」
「は…」
 ブラック・ジャックは言われるままにキリコに背を向けて、ベッドにうつぶせになった。火照る頬を枕に押し付けながら、彼の目の前に、腰を上げてその場所を晒す。激しい羞恥さえも今や快楽だった。知らずに唇から抑えきれない喘ぎが洩れる。
 背後で、衣擦れの音が聞こえた。と思うと、枕の横に彼の着ていた服が落とされた。
 霞む視界にそれが目に入ったときには、大きなてのひらに腰が掴まれ、秘所にぬめる先端を押し付けられていた。
「ふ、う…」
「入るぜ」
「…あ、ハア…んッ、あああ、あっ!」
 ぐっと力を込められると、散々指で蕩かされたそこは抵抗しきれずに、彼の先端を咥え込んだ。想像以上に太くて、熱い違和感が押し入ってくる。張り出した部分が侵入してきたときには、一瞬、裂けるのではないかと思ったほどだった。身体中に震えが走り、膝を立てた足が慄く。
 唾液に濡れたキリコの性器は、そのまま容赦なく、ずぶずぶと根元まで沈んだ。
「ああ、ン、あッ、アアア!」
「熱い…」
 背後から、キリコの溜息のような声が言った。
「おまえの中は、熱くて、気持ちがいい。おれのはどうだ、気持ちいいか?」
「あっ…!」
 キリコの指が、それまで一度も触れることのなかったブラック・ジャックの性器を掠めた。一度握って、先端を弄り、すぐにするりと離れていく。それだけ。
 それだけでも、ブラック・ジャックはたまらずに声を上げた。彼を咥え込んだ場所が細かく痙攣しているのが判る。
「おれのは気持ちいいか? 答えろよ」
「ふ、う…」
「答えろ。気持ちいいのか?」
 深く性器を突き刺した腰を、焦らすように揺らされる。ブラック・ジャックは必死で何度も頷き、頬を押し付けた枕の端を握り締めた。
「は……ッ、ン、いい…気持ち、い、い」
「どうして欲しい? 言え、ブラック・ジャック。このままじゃ足りないだろ? 言え」
「ん…、擦って…ッ、いっぱい、擦って、くれ」
「…いい子だな」
 ブラック・ジャックの背中に一つ口付けを落としてから、キリコはゆっくりと動き出した。小刻みに性器を出し入れし、時々リズムを乱すように、抜けるほど先端まで引きずり出して、一気に根元まで埋める。
 不意打ちのようなその動きに、ブラック・ジャックは高い嬌声を上げて身悶えた。
「ハア、んッ! ……ああっ、は…ア! ああ、ンッ」
「これがいいのか?」
「や、あ! ああ! あッ、アアア!」
 肌に跡がつきそうなほど強く腰を掴み、キリコは、その激しい動きを何度も繰り返した。太く長い肉棒で内部を擦り上げられ、深く奥まで突き込まれる。繰り返されるうちに、引き出される性器は、そのたび殆ど外に抜けるほどになった。閉じようとする肉壁を、強引な力で押し広げられ、また抜かれ、貫かれる。
 結合する部分から、ぐちゅぐちゅといやらしい音が聞こえた。
「は、あッ」
「ああ…吸い付いてくる。気持ちいいぜ、先生。おまえも、もっと感じろ」
「ウ…、ああ、あッ」
 長い時間をかけて、何度も、何度も、キリコの性器を咥え込まされる。敏感になったその部分は、擦り上げられるたびにびくびくと震えて彼の肉棒を締め付けた。もう、何を考えることも出来ない。自分を突き上げる男が、何を考えているかも、もうどうでもいい。
「アアッ! キ、リコ…!」
 耳まで真っ赤に上気しているのが自分で判った。揺さぶられながらブラック・ジャックは自分を蹂躙する男の名を呼んだ。キリコは、ブラック・ジャックの望むとおりにその手を、後ろの刺激だけで堅く勃ち上がった性器に伸ばした。
「は、あ…ッ、ああ、あ!」
 彼の手はほんの僅かに性器を擦っただけだったが、それで充分だった。ブラック・ジャックはこらえきれずに彼の手に射精した。神経の端から一気に中心に向かって駆け上がってくるような、気が狂うような圧倒的な快感。奥深くに埋め込まれた男の性器をギリギリと締め上げて、その波にただ飲み込まれる。
「く…、」
 背後でキリコが、堪えるように低くうめいた。その声すらもブラック・ジャックを揺さぶった。
 だが、その快感に酔っている余裕は与えられなかった。
 息をつくまもなく、キリコの性器が、むしろ先程までより激しくブラック・ジャックを穿ち始めた。
「な……、やッ、や…ア、キリ、コッ!」
「駄目だ。もっとだよ…」
「アッ、や…ッ、…く、るっちまう…っ」
「狂っちまえよ」
 限界を超えた限界、絶頂の先の絶頂。身を震わせた快感は過ぎ去ることはなく、更に煽り立てられてブラック・ジャックは声にならない悲鳴を放った。 
シーツを握り締め、思わず逃げようとする身体を、キリコの手が引きずり戻す。肩を上から強く押さえ込まれ、腰から下だけを高く差し出した露骨な姿勢を強いられると、もうそれ以上もがくことも出来なかった。
 いったんキリコが離れ、熱を帯び閉じることもままならないその場所に自分の出した精液を塗り込められて、再度貫かれる。更に太さと堅さを増したような気がする彼の性器は、熟れた肉壁を擦り上げながら深く沈んだ。
 角度をつけて斜めに突き上げられ、奥まで存分に揺さぶられたかと思えば、今度は張り出した先端で執拗に前立腺のあたりを刺激してくる。
「ッ、ひ…ああッ! ア、ア、も、」
「また出る? 早いね…いいよ、出しても。ほら、出しな」
「ンン、あ…ッ!」
 熱を冷やすことも許されない身体は異常に反応した。キリコの手に促されて精を吐き、同時に痙攣してきつく締まるそこを彼の肉棒は強引に掻き乱した。射精の瞬間が少しも衰えることなく長く引き伸ばされるような快感に、ブラック・ジャックは薄ら寒い恐怖を覚えた。唇から洩れる声は最早泣き声に近く、ガタガタと震える身体を抑えることも出来ない。
 一体その行為は、どれだけの長い時間続けられたのか。
 途切れることなく繰り返し与えられる強烈な快感に、数え切れないほど何度も彼の手に射精し、殆ど手放しかけた意識の片隅で、ブラック・ジャックは彼の声を聞いた。
「少しは解ったか?」
「ウ…」
「おれがどれほどおまえに焦がれているか、少しは解ったか?」
「…ン、あ」
 彼が何を言っているのだか良く判らなかった。頭がまともに回らない。ただ、繋がった場所から彼の低い声は身体に深く響いた。少し身じろいで喘ぎを洩らすと、汗ばんだ背中に軽く口付けを落とした彼が、「おれももう出すぜ」と言って一際深く性器を埋め込んできた。
 腰を掴む彼の力が強まり、中の奥深くにどくどくと精液を注ぎ込まれるのが判った。
 焦ガレテ、イルカ?
 ブラック・ジャックはその感触に肌を震わせながら、声にならない声を上げ、既に限界だった意識を、遂に手放して闇に沈んだ。





 背の高い男が立っている。
 美しい銀の髪。左目は眼帯の奥。何色と言っていいのだか判らない色素の薄い右の瞳が、こちらを見ている。
 手にはガラス製の注射器。随分と古めかしいものを使っているんだな。

 何も心配することはありません。

 男が低い声で言う。

 あなたはまず眠りに落ち、そのまま安らかに天国に召されます。もう苦しみがあなたを襲うことはありません。どんな痛みもあなたには手が届きません。

 男の手が腕を取り、指先が静かに血管を辿る。傷跡が走る肌を見て、薄い唇が穏やかな笑みを作る。

 もう大丈夫。私があなたを楽にしてあげましょう。あなたはもう充分に苦しんだ。それ以上苦しむことはありません。

 ああそうなのか、と思う。もういいのか。もう赦されるのか。
 この苦しみから、解き放たれるのか。

 男の右目が、こちらを見ている。ああ、それなのに。
 この男はどうしてそんなにも悲しげな目をしているのか。

 悲しいことはなにもありません、と男が言う。

あなたはただ静かに眠るだけ。悲しいことはなにもありません。あなたを縛るものはもうなにもありません。あなたはただ穏やかに還るだけ。

 ああそうなのか、と思う。この男がすべて引き受けてくれると言うのか。
 悲しみも、苦しみも、痛みも、迷いも、何もかも。

 ああ、それなのに。

 注射器の針が枯れた肌に刺さる。鈍い痛みが甘く溶ける。

 どうして。あんたの悲しむ顔を見たくないの。
 どうして。悲しまないあんたなんて見たくないの。

どうして。あんたとわたしは、永遠に混ざり合えないの。





「……」
 かちり、というライターの音で目が覚めた。
 腫れぼったい瞼を薄く開くと、ベッドに腰掛けたキリコの姿が見えた。服を着ているが、シャツはボタンをとめずに羽織っているだけのようだ。煙草をふかしながら、こちらに横顔を見せて手元を眺めている。
横文字の、手書きの紙の束。遠目でよく判らないが、フランス語か。カルテ?
「う…」
 ライトが眩しい。
 ブラック・ジャックはベッドに起き上がろうと身じろいだ。途端に、思い出したように、上からシーツをかけられていた裸の身体のあちこちが痛みを訴えた。何か悲しい夢を見ていたような気もするが、その曖昧な感覚はあっという間にどこかへ消える。
「おはよう、先生」
 ブラック・ジャックの呻き声に気付いたキリコが振り向いて、唇に薄い笑みを浮かべた。憎たらしいくらいにいつもと変わらない乾いた表情。
「傷付けたつもりはないが、多少無理をしたから身体が痛いかもね。何か飲むか?」
「水」
「待っていろ」
 キリコは立ち上がり、すぐに片手にグラスを持って戻ってきた。元の位置に座ってそれをブラック・ジャックに差し出す。受け取ったグラスは良く冷えていた。一息に水を飲み干して、自分が餓えていた事にようやく気がつく。
「まだ寝ていても大丈夫だよ」
 空になったグラスをブラック・ジャックから取り上げ、ベッドサイドに置きながらキリコが言った。
「夜が明けるまでには随分と間がある。起こしてやるからもう少し寝ていたらどうだ? 疲れ切った顔をしているぜ、ブラック・ジャック」
「疲れてない…私にも煙草をくれ」
「覚えているか?」
 唇に、彼の吸っていた煙草を差し込まれた。フィルタが唾液で少し湿っている。
 セックスのことなのだろう。
 ブラック・ジャックは眉を顰め、煙草を咥えたまま首をゆるく左右に振った。
「精々途中まで。あとはもう何がどうなったかよく判らない。なんだか長いことやってたような気もするが」
「都合の悪いことは忘れるタイプだったかい、おまえさん」
 キリコが、片手で新しい煙草に火をつけながら苦笑した。彼が身動きをするたびに、シャツを羽織っただけの露になった胸元に、綺麗な筋肉の線が浮かぶ。一見細身にも見えるが結構筋肉はついているものだと、妙なところで感心する。
 そういえば昨日彼は服を脱いだのだったか。
 脱ぎ捨てられた服は確かに見た気がする。だが、彼の裸は見ていない。彼の肌に触れていない。
 散々見ておいて。触れておいて。
「なんだ?」
 ブラック・ジャックの視線に気付いてキリコが言った。
「いや。おまえさん、私に肌を見られるのが厭なのかと思って」
 ストレートに思ったことを口にした。それから、彼の言葉を真似して付け足す。
「それとも、セックスのときは服を脱がないタイプだったかい、おまえさん」
「ふうん……。おまえ、おれの裸が見たかったのか?」
 キリコが面白そうな顔をしてブラック・ジャックを見た。煙草の煙を溜息と一緒に吐き出し、ブラック・ジャックは彼の言葉に呆れた表情をしてみせる。
「そういうわけじゃないが。見られるだけ見られてこっちは一度も見てないと言うのも気分が悪い」
「じゃあ次にするときは、おれに服を脱いでくれと頼むことだな」
「……次なんてあるか」 
唇を歪ませて睨みつけ、ブラック・ジャックはベッドから降りようとした。その拍子に、不意に身体の奥から、男に注ぎ込まれた生温い精液が流れ出てきた。
「……」
思わず身体を強張らせ、内股を伝うその感触に、ブラック・ジャックは唇を噛む。
「どうした」
「……べつに」
 自分に触れた彼の体温をふと思い出す。
 問い掛けてくるキリコに舌打ちを返して、ブラック・ジャックはベッドから降りた。身体が痛い。なにも身につけていない素肌に、キリコの視線が絡み付いてくるのが判る。
 今更隠しても仕方がない。
 身体中に散る口付けの痕も、足を鈍く伝い落ちる彼の体液も、彼の目は余すことなく見ているに違いなかった。ブラック・ジャックはそれに構わず、咥え煙草のままベッドの上のシーツを手に取り、乱暴に自分の身体を拭いた。
そのまま、脱ぎ捨ててあった服を身につける。シャツはボタンを一番上までとめ、鏡も見ずにリボンタイを適当に結んだ。ジャケットに腕を通し、これもきっちりボタンを嵌める。
 キリコはベッドに腰掛けて、そのブラック・ジャックをじっと見ていた。
「ドクター・キリコ。頼んだことは、やってくれるんだろうな」
 短くなった煙草を灰皿に捨て、言った。
「報酬がおまえさんのお気に召したかどうかは知らないがね」
「言ったろう? おれは、やるといったらやる。信用しろ」
 鬱陶しそうに銀髪を掻き上げながら、キリコは答えた。少し投げやりな仕草。自分の言葉が気に障ったのだろうとは思ったが、それもまあ、今更のような気もする。
 背をむけて、ドアに向かおうとしたブラック・ジャックの腕を、そのキリコの長い指が掴んだ。
「持っていけ」
 ベッドから立ち上がった彼の手が、ブラック・ジャックの前に紙の束を突きつけた。
「使えるかどうかは知らん。使うかどうかもおまえさんの勝手だ。この短期間で、この限られた施設じゃ大したことは判らなかったが、全く何も判らなかったわけでもない」
「……なに?」
「おまえさんが朝から晩までオペしている間、暇だったんだよ。暇つぶしに興味本位で調べただけだ。多少は面白かろうと思ったんだが、どうやらおれの仕事には役に立ちそうにもないんでね、新種の病原体なんて」
「……」
 やはりフランス語だった。
 カルテではなかったのか。
 万が一奴等に見られたとき、咄嗟に内容が解らないようにするためか、それとも彼の頭の中がフランス語で構成されているのかは勿論知らない。
ブラック・ジャックは一瞬虚を突かれたが、すぐに手を伸ばしてその紙の束を受け取った。
「貰っておこう。少なくともこの手のことに関しては、私よりもおまえさんのほうが上だろうから」
「そりゃどうかね。元軍医だから生物兵器に詳しいというのは飛躍だな」
 キリコの声が微かに自嘲を含んだ。何かを言おうと思ったが、どうせ無駄だと思って止めた。どうあれ、軍医時代の彼はきっと、辛かったのだろうから。
 代わりに、振り向かずに「ありがとう」と言ってブラック・ジャックはドアに向かった。
 今度は引き止められなかった。ドアを開けた背中に、キリコの鋭い視線を感じたが、振り切って外に出た。
 暇つぶし、か。
 早足で自室に向かいながら、ブラック・ジャックは、手の中の紙の束をぱらぱらと見た。流麗な文字だった。彼らしいような、まるで彼らしくないような。
 馬鹿な男、と思う。最初からこれを見せていればよかったのに。そうすればきっと、いとも簡単に。
 深夜の研究所は静まり返り、出来る限り忍ばせた自分の足音が、それでもいやに大きく聞こえた。
 自室に辿り着くと、音を殺してドアを開け、中に入る。途端に緊張が解けて、眩暈がするような疲労が身体中を襲ったが、ブラック・ジャックは軽く頭を振り強引にそれを意識から追い出した。
 まずはシャワーを浴びて、それから服を着替えて、そうしたら行動を開始しよう。大丈夫、失敗はしない。
 ブラック・ジャックは凭れていた壁から背中を引き剥がすと、大股で部屋に踏み込み、何より先に、キリコの書き上げた資料を、酷く丁寧に鞄にしまった。
大丈夫、失敗はしない。
 大丈夫、あなたには、殺させない。
 大丈夫、あなたが救いたいと思った人間を、私が、救ってあげるから。



(了)