ホテルのモーニング・サービスに、苺がついてきた。結構な大粒の苺が四つ、氷のように透明なガラスの皿にやたら自己主張して乗っている。
トーストもプレーンオムレツも敢えて無視して、サラダだけをつついていたキリコが、多分全く気紛れにその苺に手を伸ばした。
長い右手の指が果実を掴んで、左手の指が器用に蔕を取る。そのまま口元に運ぶ。
失礼だが、目の前の男にはその可愛らしい果物があまりに似合わなくて、何となく可笑しくなる。
いつも赤く色づいた先端の方から食べていたが、そうか、蔕の付いている方から食べるのが正しいのかと、ブラック・ジャックはぼんやり思った。後味を甘くするために。考えてみれば理に適っている。
テーブルに片肘を付き、手の上に顎を乗せて、苺を食う彼の姿を特に意味もなく眺める。
薄い唇が開いて、一度に食べるには大きすぎる苺を半分くらい囓った。
咀嚼する顎のライン。
嚥下する喉のライン。
舌がちらりと覗き、右から左へ、唇を濡らす果汁を舐め取っていく。
「ちょっと酸っぱい、これ」
「……」
イヤラシイ。
ふと思い、それからはたと我に返ったブラック・ジャックは、慌ててそれを打ち消した。何がいやらしいものか、ただ彼は苺を食っているだけだ。
肘を付いて顎を支えていた手にコーヒーカップを取り、少し温くなったコーヒーを飲んで誤魔化そうとしたが、軽く噎せて墓穴を掘る。
「どうした? 赤い顔をして」
キリコがその様子に気付き、左手でコーヒーカップを奪いながら、唇の端を少し上げてにっと笑った。人の悪い笑み。どうしたかなどは確実に判っている目つきだったけれど、馬鹿正直に、苺を食うアナタに見蕩れていましたとも言えずにいい加減な言葉を吐く。
「……コーヒーが気管に入っただけだ。別に赤くなってない」
「ふうん? まあ、おまえさんがそう言うならそうなんだろう」
奪ったコーヒーカップをブラック・ジャックの前に返して、キリコは更に笑みを深めた。気付かないふりくらい出来ないのか。理不尽な怒りを込めて、テーブル越しに彼を睨み付けると、彼は素知らぬ表情で苺の皿を指さしてみせる。
「喰えよ」
「……」
従わないとは思ってもいない命令口調。勿論従う必要もないのだが、下手に拒んでなんだかんだといびられるのはごめんだ。
右手を伸ばして赤い苺をひとつ取る。彼と同じように蔕を取り、口に運ぶ。半分囓る。
じっとこちらを見つめる彼の視線を感じる。無視だ、無視。気にしない。
「……甘いじゃないか」
「そうか? おれの喰ったのは酸っぱかったが」
「ハズレだ。日頃の行いが悪いんだろうよ」
「まあ、良くはないな」
殆ど普段通りの声には、良く聞けば少しばかりの揶揄が含まれている。いけ好かない。蔕を灰皿に落とし、残った半分を口に入れようとしたところで、キリコが、またもや命令口調で言った。
「喰わせろ、甘いやつ」
「……」
口をぽかんと開けたまま、ブラック・ジャックはつい、まじまじと目の前の男の顔を見た。
食わせろ?
「それ、甘いんだろ。おれにも喰わせろ」
「……他のを喰えばいいんじゃないか?」
「おれは日頃の行いが悪いから、どうせどれを取ってもハズレだ」
「……そんなに苺が好きだったか? 他人の喰っているやつを横取りするほど?」
「実は好きなんだ。ほら」
唇を薄く開いて催促してくる。つまりその唇にこれを食わせろと言っているのか。
見つめた彼はにやにやと面白そうな笑みを浮かべてこちらを窺っている。
当然嫌がっても良い。普通は嫌がるだろう。だが、ここで嫌がると何を言われるか大体予測は付くし、動揺を易々と見透かさせるようで腹が立つ。
力一杯平静を装って、無造作にその唇に右手の苺を差し出した。
「ほら、喰え」
キリコは、そのブラック・ジャックの仕草に満足そうに目を細めると、差し出された苺を口で盗んだ。さりげなく、だがどう考えてもわざと、唇が指先を掠め、舌が爪と皮膚の間を辿った。
「ッ、」
柔らかく、濡れた感触。
思わず慌てて引っ込めそうになった手を何とかそのまま宙に浮かせておく。彼の舌は意外にもすぐに離れた。それを待ってから、まるで何も気が付かなかったようなふりをして、ゆっくりと手を戻す。
「本当だ。甘い」
見せつけるように噛み砕き、わざとらしく飲み込んで、キリコは言った。苺か、指か。
まだ大丈夫。少し頬が熱いかもしれないが、このくらいなら。
冷めた視線を取り繕って、ブラック・ジャックは呆れたようにキリコを見やった。そう簡単に思い通りになるか。いたいけな少女じゃあるまいし。
その目の前に、今度は、食べかけの苺を摘んだ、彼の右手が差し出された。
「じゃあこれ喰えよ。お返し」
「……酸っぱいと判っている苺を喰えというのか? いらない」
「おまえさんが喰えば甘いかもしれないぜ。なにせ、普段の行いが良いからな」
「……」
そんなわけあるか。アホらしい。
それでも、しつこくいらないと突っぱねれば、これまた彼が何を言うのかは容易に想像できる。こういう場合は平然と食っちまったほうがいいのだ。言うなりになるのは癪だが。
仕方なく彼の差し出す苺に顔を寄せ、唇を開く。絶対に彼の指に触れないように歯で苺を挟み、唇で口の中に入れたその時に、不意に、彼の指のほうから、全く躊躇いなく唇に触れてきた。
「…、」
ぎょっとして、彼の手から彼の顔に視線を移す。そうすると、まるで元から繋いであったかのように、ぴったりと彼と目が合った。
揶揄か、悪戯か、はたまた欲情か、その淡い色をした瞳の奥に何があるのかは知ったことではないが、彼が楽しんでいることだけは明らかだった。
視線に非難を込めて睨み上げる。彼は、むしろ僅かに嬉しそうな表情をして、唇に触れた指をブラック・ジャックの口の中に突っ込んだ。
「ウ…」
苺を強引に喉の奥まで押し込まれ、抵抗しようとする舌を弄ぶように指が蠢く。まともに咀嚼も出来ないまま苺を飲み込まされて、苦しさに思わず彼の指を強く噛んでしまう。
キリコは、全く痛みも感じないようににやりと笑うと、赤く歯形の付いた指をゆっくりとブラック・ジャックの唇から引き抜いて、低い声で囁いた。
「どうだ。甘いだろ」
「……ヘンタイ」
少し咳き込んでから、唇を手の甲で拭って悪態を吐く。舌に残る彼の指の感触がいやにリアルで、不本意にもますます頬に血が上る。
ああ、こんなのは、まるで。
「甘い? 酸っぱい?」
濡れた指を見せつけるように顔の前に翳して、彼がわざとらしく掠れさせた声で言った。
甘い? 酸っぱい?
それは、何の味。
「…味なんか判るか。無理矢理飲み込ませたくせに」
意味のあるようなないような台詞で応酬する。一度くらいこの男が困る顔を拝んでみたいと、意図的に怒りを映した表情の端あたりに、切実な感情をちらつかせて見せる。
さあ、喰え。
あさましいくらいに甘い果実。
「そんなに可愛い目付きをするなよ」
キリコは、くく、と小さく声を洩らして笑うと、えらく艶やかに微笑んだ。ああ、そんな顔。
他の誰かの前でも見せるのか。
他の誰かも知っているというのか。
口の中に微かに残る苺の味は、実を言えば酷く酸っぱい。
「無理に飲み込まされたって、イヤじゃないくせに。なあ、ブラック・ジャック先生?」
「……私が厭じゃないなんて、おまえさんに判るもんか」
憎憎しげに言ってから、彼の真似をして、唇を舐める。少し舌を出して、右から左に。
ほら、喰え。
実は好きなんだろう?
滅多にお目にかかれないような、心底楽しそうな笑みを浮かべると、彼はいまだに持っていた左の指先に残る苺の蔕をコーヒーカップに捨て、両手をゆっくりと、テーブル越しに伸ばしてきた。
(了)