いつだってすかした顔をしているから、たまには嫉妬くらいして見せて欲しかっただけだ。
違う男に抱かれたその足で追いかける。
偶然出会ったような顔をして、いつものように憎まれ口。また誰かを殺したのか、死神。
それが偶然ではないと、勿論彼はすぐに気付くが、気付かないふりをする。大きなお世話だよ、ブラック・ジャック。おれの仕事に口出すな。
彼が気付いていることを、勿論こちらも知らないふり。
腹立たしいくらいに、彼は、まるで無反応だった。
首筋に残る知らない口付けの跡を、確かに見た。いつもとは違うリボンタイの結び目を見たし、どちらのものでもない男の香りさえ出会った途端に感じたはず。
それでも、彼は全くの無反応だった。
顔を歪めるとか、せめて眉を顰めるとか舌打ちするとか、そんなちょっとした変化さえなかった。この男は本当に何も感じないのかと思った。
少なくとも身体の関係はある相手が、他の男に抱かれても、その痕跡を見せ付けるように目の前に現れても。
まるでいつもと同じようにあしらわれて、罵詈雑言も柳に風。まるでいつもと同じように意味のない睨み合いをして、それから、まるでいつもと同じように彼の車の助手席を指さされる。
うちに来いよ、と言う。いつもと同じ、セックスしようぜ、の意味。
直前までの言い争いさえ一瞬で忘れる、それもいつもと同じ。
この男は本当に何も感じないのか。
最初からそのつもりで電車で来ていたから、まあここで放り出されても面白くない。彼の車に乗り込んで無言で十五分、そのくらいか。ようやく気が付いて運転席に目をやった。
「あんたのうち、方向違う」
「ああ、今日は違ううち」くわえ煙草のままハンドルを握る彼が、淡々と言った。「福島の山の中にログハウスがあって。今までおれ以外の人間を入れたことないんだけど、ま、いいか」
「…なんで。工事でもしてんのか」
「いや別に。ただ、邪魔が入ると厭だから。患者とか、客とか、電話とか、色々。山の中なら客も来ないし、電気と水道くらいあるけど電話も引いてないし、だいいち逃げられない。泣いても叫んでも聞こえない」
「…」
何を考えているのだか判らない。
見詰めた彼の横顔には全く感情がなかった。冷えた表情を作ろうと思えば彼ほど上手い男もそうはいないが、特に冷たいというわけでもない。実に、素晴らしいまでの無表情。
彼の左手が伸びて、短くなった煙草を灰皿に消した。その指に、身体を触られるんじゃないかと、無意識に身構えたが、彼は何もせずに手を戻した。
「福島って…。どんだけかかるんだ、もう夜になるぜ」
「そんなにかからないだろ」インターチェンジの方向へ車を走らせながら、彼が欠伸のような調子で言った。「この車、チューンドだし。踏めば三百は出る。一時間くらいで着くんじゃない」
「…おい。三百出したら刺してでも止めるからな」
「事故らねえぜ、おれ。安心して仮眠でも取れば」
「…駄目だ。出すなよ。正気じゃない」
「はいはい、じゃあ二百くらいにしとくよ、センセ」
彼は本当に公道で時速二百は出した。同じ方向へ走っている車が、こちらに向かってくるように見えるスピードだ。変人である。助手席に座っている連れが固まっていたからか、或いは本気で刺されちゃたまらないと思ったからか、それ以上は踏まなかったが。
一時間と少しで到着したログハウスは、彼の言葉通り山の中にあった。いわゆる別荘地ではなくて、まさしく山奥。周囲は見える限り鬱蒼とした木々だけで灯り一つない。水道と電気を通すことができて、かつ車が乗り付けられる最果てのように思える。
鍵など必要ないような気もするが、彼は一応ドアを鍵で開けた。
「…いつもここで、なにしてんだ、あんた」
「瞑想」
この山の中、普段はいい加減に放置されているのかと思いきや、ログハウスの中は案外綺麗だった。床には多分安価くはない絨毯が敷かれ、所々から柔らかく差し込む間接照明の趣味も悪くない。高いロフトで、木の階段がかかっていた。広いリビング、シャワールームにトイレ、小さなキッチン。コテージと言ったら言い過ぎか。
じろじろと観察するその肩を掴まれ、準備してきて、とシャワールームに追いやられた。彼と寝るときはたいていその前に酒を飲むが、そんな気分でもないのか、それとも、この肌に残る知らない男の香りが厭だったのか。
まさか。
三十分ほど時間をかけたあと、用意されていたバスローブを引っかけてシャワールームを出ると、彼は、高いロフトの柵から垂らしたロープの端を片手で掴んでいた。
一瞬、首でも吊る気なのかと思った。
山奥の丸太小屋、シチュエーションは最高、ロープの長さとしても充分だったから。
しかしまあ、彼が首を吊るつもりだったら、何も私を連れてくることはないだろう。
「…なにやってるんだ? あんた」
「強度はどうかと思って」最後に力を込めてロープの端を二、三度引っ張ってから、彼は手を放した。「これなら大丈夫だろう。なかなかのもんだ。おまえ一人ぶら下げたって柵も折れなけりゃロープも切れないよ」
「…」
何考えてんだ?
私はぽかんと口を開けてその場に立ち止まった。彼はその私の間抜け面を見ると、ほんの少し笑みの形に目を細めて、大股で私に歩み寄った。
すぐ目の前で立ち止まり、意図的にしっかり視線を合わせた。
すっとごく自然に指が伸びた。
首筋へ。
「ッ」
「で、どこの誰に抱かれたの、ブラック・ジャック」
「…、」
一瞬だ。
彼はしばしば、見事なくらいに一瞬で距離を詰める。余所見をする隙さえ与えない。
今の今まで知らんぷりだったじゃないか。
漸く口に出した、ざまあみろだとか、その言葉にはちょっとは嫉妬が関係しているのだろうか、とか、少なくとも私に興味はあるのだとか、考える前に私は何故か酷く狼狽えた。見せ付けたくて彼を追ったのに、いざ突き付けられると戸惑う。ああそうだ、私はどこの誰に抱かれたんだっけ?
首筋に置かれた彼の指が、少し力を込めて皮膚を押した。ぞくりと肌がざわめいた。そこは、彼がいつも口付けをする場所で、昨夜私が彼以外の男に跡を残してくれと言った場所だ。
彼の指が肌を辿り、バスローブを少しはだけた。
「ああ。すごい沢山付いてる、痕。ずいぶんとしつこいやつとやったもんだ」
「…やめろ」
バスローブにかかる彼の手をはね除けた。
それと殆ど同時だったと思う。
ぱん、と肌を叩く派手な音がした。
思わず蹌踉めいて、それから漸く、あ、今叩かれた、と気が付いた。
「なに…」
痛みはなかった。感じなかったと言うより、彼が力を入れなかったのだ。
音はえらく大袈裟だったが、それもきっとわざとなのだろう。力は込めず、音だけ出す。
叩かれた頬を押さえ、思わず目を見開いて彼を見ると、彼は相変わらず微かに目を細めた表情のまま、無言で私の身体に手を伸ばした。
バスローブの紐を引き、解く。脱がせようとする。
両手で襟を掴み、その彼に抗うと、今度は逆の頬を叩かれた。
「…っ」
やはり大した痛みはない。ただ、肌を叩く高い音。
ショックを受けた。傷付いたとか腹が立ったとかいうのではなく、ただ、衝撃だった。愕然とした。
彼が私を叩いた?
私に触れるときは、彼はいつでも気紛れで、いやに優しく甘いときもあれば、それとは正反対に強引で少々乱暴なときもある。それはそれでいい。だが、彼が私を叩いたり殴ったりしたことは、かつて一度もなかった。どんなに私が反抗しようと、或いはどんなに酷い言葉を吐こうと。
私が彼を叩いたことは何度かある。それでも決して彼は私を叩かない。
手懐けられて慣らされて、それが当たり前なのだと勝手に思っていた。
彼が私を叩いた。
彼が私を。
まるで行儀の悪い犬をしつけるみたいに、彼はその行為を繰り返した。
無表情な顔の、目だけを笑みに似た形に細めて、無言のまま。
抗うと、叩かれる。叩かれて抗い、また叩かれる。
「…はッ、」
もがく自分の呼吸の音と、いつまでも続く、平手で肌を叩かれる音を聞いているうちに、衝撃が段々と混乱に変わってきた。彼の手付きは、叩くという行為の割には優しくさえあったが、肉体的な痛みが弱いだけ私の精神を掻き乱した。
そうだ、だいたい何故私はこんなふうに叩かれているんだっけ? 私は何をしたんだっけ? 彼はどうして私を叩くんだ?
抗うから?
抗う。どうして私は抗っているんだっけ。
抗っていいんだっけ。
彼の手が止まったのが先か、私が抵抗を失ったのが先か、よく判らない。
バスローブを剥がされ、抗っているうちにスリッパも何処かに飛んでいき、私は、文字通り丸裸で跪く奴隷のように彼の足もとに座り込んだ。乱れた頭の中には、ただ、彼に抗ってはいけない、彼に抗ってはいけないと、その言葉だけがくっきり暗示でもかけられたように踊っていた。
ぐらぐらと揺れる視線の先に、綺麗に磨き上げられた彼の革靴が見えた。
「酷いもんだ。身体中、吸い付かれた痕だらけだ」
淡々とした彼の声が、頭上に聞こえた。支配者の声だった。
「おれに見て欲しかったんだろ? 可愛いな、おまえ。わざわざ見せてくれようとしたんだから、たっぷり見てやるよ。それから」
「ウ、」
俯く顎の下に、革靴の爪先が食い込んだ。
「心配しなくても、いやってほど愉しませてやるよ」
高いロフトの柵に通したロープで、きつく手首を縛られた。
頭の上に掲げた両方の手首をまとめて、まさに吊り下げられるように。
足は絨毯についたが、それでも爪先だけだった。爪先立ちの姿勢を少しでも崩すと、縛られた手首に全体重がかかって、腕が肩から外れそうになる。
私は抗わなかった。
いや、抗うことを忘れていた、と言ったほうがいい。繰り返し、しかも平然と私を叩き続けることで、彼は私の抵抗をいともあっさり奪ってしまった。私の意識は一度真っ新にフォーマットされ、そこに彼の存在だけがくっきりと刻まれてしまったかのようだった。多分それにはこう注意書きがある。
従え。さもなくば。
手首に食い込むロープの痛みに呻きながら、爪先立ちで吊された無様な身体を晒して、私は待った。
とにかく、従え。そして、終われ。そうすれば。
何故自分がこんな目に遭っているのだか、考えることも忘れた。
彼は私をそう待たせはしなかった。シャワールームに消えたかと思ったらすぐに戻ってきて、私に歩み寄り、私の目の前に立った。
身体を支えるものは不安定な爪先と手首に巻き付いたロープだけ、という私を見下ろして、彼は実に彼らしくにやりと笑った。
「いいベルト使ってるね。上等な革だ」
「…、」
ジャケットは脱ぎ、タイを軽く弛めてはいたが、彼はきっちりと服を着たままだった。その手には、私がシャワールームに放り出しておいた革のベルト。
ざっと血の気が引くのが判った。
彼はその青白くなっているだろう私の顔を見詰めながら、ベルトをループにし、両手で一度、ぱん、と音を鳴らした。
思わず一瞬息が止まったほど、高い、露骨で、大きな音がした。
「こいつが使い物にならなくなったら、新しいのを買ってあげるから」
「や…めろ…」
「抗うと、狙いが外れて逆に痛いぜ」
彼の手がベルトを握ったまま腰を掴み、私の身体を回させた。この体勢では今更抗えもせず、私は彼に剥き出しの背中を、尻と太股を晒しながら、爪先立ちでがたがたと震えていた。回されて捩れたロープで、更に手首を上に引っ張り上げられているような気がした。
最初の一打は唐突だった。
頬を叩かれたときとは較べものにならない鋭い音がして、それと同時に尻に灼熱の衝撃が走った。
痛覚というよりは、むしろ、それは熱だった。焼け焦げた鉄の棒を肌に押し当てられたみたいな。
「ヒ…!」
「最初の十発なんだよ」尻を鞭打たれた、という事実に頭がついていかず、ただがんがんと煩く鐘でも鳴らされているかのように眩む意識に、彼の飄々とした声が聞こえた。「打たれるほうは、その気があれば、まあ大体十発目くらいから気持ちよくなる。おれは今からちゃんとおまえが気持ちよくなるように、計算して打つ。愉しめ」
「や…ッ」
ひゅ、とベルトが空を切る音がして、次の瞬間に、今度は右の太腿に熱が弾けた。息が整う前に、次は背中に、その次は左の太腿に、そしてまた尻に。
打たれるたびに、私の唇からは掠れた細い悲鳴が洩れた。身体が揺れ、爪先だった脚の、脹ら脛のあたりが引きつれる。もちろんそこにもベルトが飛ぶ。
彼は一言も喋らずにベルトを振った。そのとき私と彼との間にあったのは、その一瞬の激しい接触だけだった。
一秒たりとも乱れのない一定のペースで、打つ。また打つ。打撃と打撃の間隔は同じでも、次に何処へその熱が叩き付けられるのかが判らない。
続けざまに同じ場所を叩かれたり、全く予期していないところを打たれたり。
「ハ、ア…」
打たれ続けるうちに、ただ乱れていた呼吸が、彼のそのペースに合致してきた。自覚はなかった。
混乱は相変わらずだったが、最初の恐怖は次第に薄れてきた。麻痺してきたと言えばいいか。打たれる直前の重力が掻き消えるような緊張感と、打たれた直後の束の間の開放感に、その交互に身体を占める感覚の、目移りする暇もない速度と落差に、私はただ溺れていった。
結局何発打たれたのだか判らない。
私は身体中を汗まみれにし、完全にコントロールされたスピードでベルトを振り上げる彼の支配下に置かれながら、それでも奇妙な一体感すら覚えて、為す術もなくひたすら喘いでいた。自分の耳にも、それは快楽の波に呑まれている声のようにさえ聞こえた。
爪先立っているせいで強張る脚も、手首に食い込むロープの痛みも、最早感じなかった。
打たれる衝撃しか感じなかった。
背中から膝の裏、脹ら脛に至るまで、熱湯をかけられたように熱く燃え、打撃を受けるたびに皮膚が破れて何かがそこから弾け出すのではないかと思えるほどだった。
気持ちよくなる? これが気持ちよくなるということか?
よく判らない。
彼は最後に何度か続けて尻を鞭打ったあと、漸くその手を止めた。
絨毯に消されて足音は聞こえなかったが、過敏になった肌で近付く彼の気配を感じた。
きっと真っ赤に腫れ上がっているに違いない尻を優しく、ごく軽く一度撫でてから、彼は私の腰を掴み身体の向きを変えさせた。
「ア…」
「勃ってる」
向き合わされた目に、彼の鋭利な顔がぼやけて映った。なんだ、私は泣いているのか?
彼のてのひらが、少し乱暴な仕草で私の濡れた頬を拭った。
「気持ちよかったんだな、先生。もうちょっと続けて欲しかった?」相変わらず冷ややかな声が、相変わらず淡々と言った。「理解できるかなア。これが性的な行為だというスイッチが入っていなけりゃ、勃たねえよ、普通。おれに吊されて、おれに打たれて嬉しくなけりゃ。愉しかったんだろう? 先生。淫乱だね」
「ふ…、」
「おまえは、痛くされると、興奮するんだ。奴隷のように虐げられると、興奮するんだ。変態だね。おまえは、おれから懲罰が受けたくて、いつでも必死だ、そうだろう?」
「キ、リコ…」
「違う男に抱かれて気持ちよかったか?」
彼の手が拭った頬に、また新たな涙が溢れ出た。自分が何故泣いているのだかよく判らなかった。
違う男に抱かれて?
ああそうだ、私は違う男に抱かれたのだ。
ただ彼の嫉妬する姿が見てみたくて。ただ彼の私に対する執着を確認したくて。
違う。
誰かが彼の瞳に映る。それだけで吐き気がするような嫉妬を覚えるのは、私だ。
彼が私に背中を向ける。それだけで気が遠くなるほど彼に執着しているのは、私だ。
待ってなんかいられない。
誘ったのは、私だ。
「違う男に抱かれて、気持ちよかったのか?」彼は繰り返しながら、俯く私の髪を後頭部に回した片手で乱暴に掴み、強引に視線を合わせた。「ほら、答えろ、ブラック・ジャック。おれじゃない男に抱かれて、満足したか? おれじゃない男に抱かれて、愉しかったか?」
「ン…」
髪を掴まれたまま、微かに首を左右に振った。頬に溢れる涙が肌を伝って首筋に流れた。
私のその仕草に、彼は唇の端を引き上げて、笑った。
「そうだろう? そんなこと、いちいちやってみなくたって、おまえはとうに知っているじゃないか。おまえはおれじゃなくちゃ駄目なんだ。それなのに、どうして他の男に抱かれたんだ?」
「…」
「おれに、何をして欲しいんだ?」
「…、を」
「なに」
「懲罰、を」
そうじゃない。
頬を叩かれて抵抗を奪われ、ロープで吊されて尻を鞭打たれ、頭の先から爪先まで彼の犬になりはてた私の唇は、操られるように勝手に彼の言葉を真似た。
そうじゃない、私はただ彼に、嫉妬を。
彼は、くく、と短い笑い声を聞かせたあと、引っ張っていた髪を解放し、いきなり、既に硬く勃起していた私の性器を片手で鷲掴んだ。
もう片方の手を後ろに伸ばして、じんじんと熱く火照る尻の肉をぎゅっと掴む。
「アア…!」
「入れさせたのか?」
殆ど痛みと変わらない、鋭い快感が身体の内側を走り抜けた。高い声を上げた私を、腹を開いた蛙でも見るような目付きで眺めながら、彼が低く訊ねた。
「先生。ここに、入れさせたのか? 男のモノを」
「は…」
彼の指先が一瞬だけ後孔を掠めた。私は小さく頷いた。思考はまともには働かなかった。
ただ、性器を強く握りしめる彼の手と、ひりひりと焼ける尻を掴む彼の手、それから少しも弛まずに手首を引っ張り上げるロープの感触だけが、私の意識を占めていた。
低い彼の声と。
「だらしのない先生だな。で、その男のモノは、よかったか?」
「…、」
「おれのモノより太かった?」
「…たの、ほう、が、太い…」
「おれのモノより硬かった?」
「…んた、の、ほうが、硬い…ッ」
「そうだろう。満足できなかったろう?」性器と尻の肉を両手できつく握ったまま、吊り下げられた私の耳元に、彼が顔を寄せた。「…おれのモノを入れて欲しいだろう?」
「…、て」
私の言葉は最早譫言だった。
先程まで私に鞭打ちをくれ、今でも乱暴に私の身体を引っ掴んでいる男と、同じ人間とは思えないような甘ったるさで耳朶を噛まれた。既に昴らされていた私の身体は、その刺激に否応なく反応した。
「そうだろ、入れて欲しいよな。で、入れたら、思い切り突いて欲しいよな」
「…て、突い、て…、ぐちゃぐちゃに、して…、」
「それから?」
「…に、…して…。中、に…出し、て…、いっぱい…て」
「欲張りな先生だ」
「アア…」
笑みを含んだ声が聞こえ、そのまま耳に吐息を吹き込まれた。手首の皮膚がロープに擦れるのも構わずに、私は爪先立ちのまま、重く身悶えた。
違うんだ。私はただ、あんたに。
高いロフトから吊されたロープを彼が切った。
今度は後ろ手に縛られた。手首だけではなく、肘の部分まで重ね合わせるように、がっちりと。
立ったまま、僅かに服をくつろげた彼の、その股間に顔を突っ込むようにして、私は彼の性器をしゃぶった。跪き、男の匂いに意識を霞ませて。
彼の性器は逞しく勃起していた。
「咥えて」
はしたなく鼻を鳴らし、横から、裏側から幹の部分に舌を這わせる頭上に、平坦な彼の声が聞こえた。淡い照明を跳ね返す革靴が、靴底で押し潰すように、私の興奮した性器をぐいぐいと刺激した。
「ハア…」
「咥えろよ。口を開いて」
鞭打たれた背中を、尻を、熱く火照らせながら、全裸で男の前に膝を付き、その性器を舐める。靴で股間を弄ばれる。屈辱感はとうに何処かへ飛んでいた。
言われた通りに大きく唇を開いて、彼の性器を先端から口に含んだ。彼の性器は大きくて、いつも精々張り出した部分までしか口に収まらない。
そこまで口に入れて、軽く吸い上げたときに、後頭部に彼の手が置かれた。
あ、と思った次の瞬間には、その手が強引に私の頭を股間に引き寄せた。
「…ッ!」
勿論声は出なかった。悲鳴は多分ただの振動になって彼の性器に貼り付いた。
髪を鷲掴みにされ、頭を前後に揺さぶられた。無理矢理捩じ込むように、太くて長い性器で何度も喉の奥を突き込まれ、私は嘔吐感に身体を引きつらせて涙を流した。
歯を立てないようにと、それだけ考えた。
「唇に力を入れて、少し締めろ」彼は充分に好き勝手に私の頭を動かしながら、命令の口調で言った。「舌も使えよ。裏側に、押し当てるだけでいいから。もっと唾液出して」
「ウ、」
彼のその言葉に従おうと、私は懸命に努力はした。如何せん彼の性器は大きすぎて少しも思い通りにならず、だから彼が満足したかどうかは知らないが。
彼はそうして暫く口を使ったあと、引き剥がすように私の唇を解放した。髪を掴む指はそのままもう片方の手で私の腕を掴み、唇の端から唾液を流して胸を喘がせている私を、その場へ俯せに組み敷いた。
腰だけを高く掲げさせられ、いきなり後孔に性器を押し当てられたときには、驚愕と恐怖で思わず悲鳴が洩れた。
「やめ…っ!」
「懲罰を与えて欲しいんだろ?」後ろ手に腕を拘束されているせいで、抵抗するどころか絨毯に肩と片頬を押し付けて悶えるしかない私に、彼は淡々と言った。「だったら少しは痛くないとね、先生。まあおまえは淫乱で変態だから、すぐに愉しくなるよ。最初だけだ、我慢しな」
「ああッ!」
何の準備もされていない乾いた場所へ、彼の性器は少しの気遣いもなく侵入してきた。自分の身体が、めりめりと裂ける音を立てているような錯覚さえ覚えた。
実際に切れたのだろう、喉を鳴らせて吸い込んだ空気に、微かに血の匂いが混じった。
「…ハ、あ、」
不自然な形に戒められ、絨毯に押さえ込まれた身体が軋んだ。血のぬめりを借りて、ずるずると沈んでくる性器のあまりの威力に、目の前が真っ赤に染まった。
彼はいつでも、私と繋がる前に、いやというほどそこを丁寧に解した。
それは、私を優しく扱うときでも、逆に強引に扱うときでも同じだった。濡れれば何でもいいと言わんばかりに、正気とは思えないものを塗りたくることもあった。例えば皿に残ったオリーブオイルとか。
単に性戯の一つとして、はしたなく反応する私を愉しんでいるだけなのではないかと思うこともあったが、少なくとも私を傷付けないための用意でもあったのだと、今になってはっきり判った。こうやって無理矢理突っ込むことも彼はいつだってできた。私が血を流そうと、気にせずに。
根本までぎっちり食い込ませてしまってから、彼は両手で私の尻を強く撫で回した。先程散々に革のベルトで叩かれたせいで、僅かに触れるだけでも痛みに跳ね上がりそうになるのに、捏ねるように揉みしだかれて私はたまらずにびくびくと身体を震わせた。
「アッ! いや…あ」
埋められた内部がぎゅっと彼の性器を締め付けるのが判った。太腿の裏に、生温い液体がつうと伝うのを感じた。血だ。
「切れちまったねエ」背中に聞こえる彼の声が、少し笑みを含んだ。「しかたない、おまえがおれのモノを入れてくれと言ったんだから。それからなんだっけ? 突いて、ぐちゃぐちゃにして欲しいんだよな?」
「ン、ウ」
「その通りにしてやろう。おまえはもう、他の男に抱かれる気にもならなくなるだろうよ」
「アア!」
両脇から私の腰をしっかりと掴むと、彼ははじめから、一切の躊躇も手緩さもなく、思い切り惨たらしく私を抉り出した。
私は絨毯に顔を押し付けながら、甲高い悲鳴を上げた。掻き回されるたびに、血の匂いが濃くなる。
彼はたっぷりと、長い時間をかけた。
裂けた場所を擦り上げられる痛みに、最初はただ、早く彼が果ててくれるのを私は必死に待っていた。強引に使われた唇も、髪を鷲掴まれた頭も、鞭打たれた背中も尻も太腿も、ずっと爪先立ちを強いられていた脹ら脛も、全身が火を噴くように熱く、痛かった。
押さえ込まれた腰も、絨毯に付いた膝も、固く縛り上げられた腕も。
そのまま、気の狂うような、濃密で残酷なときが流れた。血で塗れた後孔を深く犯される音と、自分の唇から吐き出される掠れた喘ぎと。
だが、どれだけたったころからだろうか、激しい抽送を受け入れているうちに、朦朧とした意識の片隅で、ぼんやりと気が付いた。
この痛みは、快楽に似ている。
或いは錯覚だったのかもしれない。
ただ、たとえ錯覚であれ、そう思ってしまってからは一瞬だった。後ろを突かれ、痛みに呻いているはずなのに何故か勃起したままだった性器が、更に淫らがましく硬くなるのを感じた。
ぶるりと男の性器を咥え込んだ場所から痙攣のような波が肌に広がり、意図しない甘ったるい声が漏れた。
「んん…ア、ア」
「…愉しくなってきた?」私の変化を容易く見抜いた彼が、腰を使いながら面白そうな声で言った。「さすがブラック・ジャック先生。なにかの見本みたいなマゾヒストっぷりに、ついつい感動しちまうよ。ああ…凄いな、そんなに食いつかないでくれ」
「ハア…ああ、ン、キリ、コ、」
「そうだ、愉しめ。おれじゃなくっちゃ、こんなに愉しめないだろう?」
「アッ…!」
太い性器を根本まで押し込まれ、それと同時に突如、ぱん、と音を立てて尻を叩かれた。予想していなかった刺激に、私は思わず空気を裂くような悲鳴を上げた。
ロフトの柵から吊され、ループにしたベルトで鞭打たれたときの恍惚が、あっという間に蘇った。
多分十か十五発くらい。熱に溶けた頭には正確な数は判らなかったが、彼はその行為を、充分な回数だけ繰り返した。彼の性器にきゅうきゅうと吸い付き、がたがたと身体中の筋肉を震わせながら、私は泣いた。正気は完全に消し飛んでいた。痛みと快楽の境界線が、いったい何処にあるのかさえ判らなかった。
尻を叩いていた手がその動きをやめ、ほんの一瞬だけ、掠めるように、これ以上はなく勃起した私の性器を撫でた。
私は啜り泣きの声で懇願した。
「キリコ…ッ、も…助、け、」
「助けて?」
「もう…いく…」
「いいよ、いけよ。おれは助けない」
彼はあっさりとそう言うと、私の性器をなぞった手を腰に戻し、性器を突き込む動きを微妙に変えた。
いつもならばこう言えば彼は私の性器を擦ってくれたが、どうもそのつもりなどはさらさらないらしい。しかも私の手は拘束されていて動かない。
硬く張り出した先端が、促すように内部の、私の最も弱い場所を続けざまに突き上げた。
「イヤ…!」
切羽詰まった悲鳴が唇から勝手に飛び散った。それでも彼はやめなかった。後孔の刺激だけで達しろと言うことか。
屈辱的であるような気もした。だが、屈辱なんてものを感じるだけの余裕なんて何処にもなかった。
「アアア…!」
絶頂の波動は、著しく高く、長く、寒気がするほどに強烈だった。
誰も触れていない性器から、精液が迸った。何か巨大な力に四方八方から握り潰されるかのように、身体中が硬直し、後孔の内壁が飲み込んだ太い異物をぎりぎりと締め上げるのが判った。
一瞬意識が途切れた。男の前に尻を捧げて屈従し、女のように穿たれるだけで達してしまった恥辱など、もうどうでもよかった。
痛みと快楽だけが全てになった。
どれだけの時間そうして襲い来るうねりに身を任せていたのだか、数秒だったのか、数十秒だったのかそれ以上だったのか、判らない。
次に気付いたときには、身体を今度は仰向けにひっくり返され、絨毯の上へ組み敷かれていた。
「あ…ッ」
身体の下敷きになった、縛り上げられた腕が痛い。鞭打たれた背中と尻が、絨毯に擦れて痛い。
しかし、その痛みさえ。
「それから、なんだっけ?」私の両脚を掴み、膝が肩に付くほど身体を折り曲げながら、彼が言った。薄い唇には笑みが浮かんでいた。「中にいっぱい出して欲しいんだったよな? 先生。我が儘な子だ」
「は…」
「思い通りにしてやるよ。溢れ出すほど中に出してやるよ。他の男の感触なんか忘れるくらい。だから、愉しめ…好きなだけ泣き叫べ」
「ああっ!」
達したばかりでひくひくと痙攣し、より過敏になった後孔へ、隆々と勃起した彼の性器が一気に突き刺された。私は髪を振り乱し、涙を流して、悲鳴を上げた。
傷口が爛れるような快楽。
違うんだ。
いや、もしかしたら、これこそが望みだったかもしれないんだ。
いつだってすかした顔をしているから、たまには、嫉妬くらい。
ねえ、これは嫉妬なの。
(了)