髪を切る。

「どうして私が、おまえさんの髪を切らなくちゃならないんだ?」
「いや、切りに行くのが面倒で」
「私のところに来る方が余程面倒じゃないか……」
 診療鞄をあさりながら、ブラック・ジャックはドクター・キリコに悪態を付いた。
 金曜日の良く晴れた昼下がり。突然の珍客は、患者もピノコもいないことを知ると我が物顔で家に上がり込み、何の用かと思えば、髪を切ってくれと宣う。
 外科用の直剪刀をテーブルの上に取り出して、ブラック・ジャックはその厄介な客に向き直った。
「じゃあお客さん、三十万円ばかり貰おうか。ビタ一文まけないぜ」
「ああ、払いましょう。そのかわり、金を受け取るからにはきっちり働けよ」
「……おまえさんは、アホだよ」
 うんざりして溜息を吐く。
 それでもブラック・ジャックは、椅子に座るキリコの後ろに立ち、彼の銀色の髪を無造作に左手で梳いた。
「おまえさんなんかと知り合ったのが運の尽きだ。全く、うちの何処で髪なんか切ればいいんだ? もう何処でもいいか、風呂場か脱衣所で。いっそ庭でいいか」
 彼の髪は見た目のイメージよりも、随分と柔らかい。指にまとわりつく、珍しい色の、綺麗な髪。
 こうしてみると確かに結構伸びたなと思う。
 肩胛骨を隠すくらいか。仕立ての良いダークスーツの肩に散る銀糸は、まるで作り物のように繊細で、そう易々と触れてはいけないもののような気さえする。
 切ってしまうのが、勿体ない、と少し思う。
「いっそ伸ばしたらどうなんだ」
 自分の指がなぞるたびに光が揺らめく様子が美しくて、殆ど無意識に彼の髪を弄びながら言った。
「切るのが面倒なら。放っておけばいいんだから楽だろう」
「いや、あんまり長いとそれはそれでまた面倒で」
「……おまえさんは、存在自体が面倒なんだよ」
 なんとなくむっとして、つい憎まれ口を叩く。まあ、持ち主にしてみればこの髪がいくら綺麗でもどうでもいいことなのか。
 そのブラック・ジャックを不意に振り返り、キリコは、唇の端を引き上げてにやりと笑った。
「でも、その方がおまえさんの好みだって言うなら、伸ばしてもいいぜ」
「な……」
 頬がかっと熱くなるのが判る。
「わ、私の、好みなんか、関係ないだろう!」
「そうか? 重要だと思うんだが」
「だ、大体、好みも好みじゃないもあるか! 男の髪に」
「ふうん?」
 彼の髪に伸ばしていた左手を、つかまれる。そのままぐいと引っぱられて、ブラック・ジャックは椅子に座るキリコに覆い被さるような姿勢でテーブルに右手を付いた。
「おまえさん、おれの髪、好きだろう?」
「ッ!」
 間近に吹き込まれた囁きに、頬どころか、顔面が真っ赤になるのを感じた。
 慌ててキリコの手をふりほどき、二、三歩後ずさって叫ぶように言う。
「わかった! 百円だ、百円でいい! 百円で切ってやるから、それ以上くだらないセリフを吐くな!」
 冗談みたいに鼓動が飛び跳ねている。彼の髪に見とれていたことを見透かされた羞恥で肌が焦げそうだ。
 キリコは、そのブラック・ジャックの顔を眺めながら、面白そうににやにやと笑った。
「そんなに照れなくても良いのに」
「て…照れてない! 照れてないぞ、憤慨しているんだ!」
「本当に、おまえさんが長い方が好きだというのなら、おれは伸ばしても構わないが?」
「……クソ…! 坊主にしてやる……」
 恨みがましい目つきでキリコを睨み付けて、ブラックジ・ャックは呪いを吐くように言った。
 キリコはそのブラック・ジャックの言葉に、片方の眉だけ器用に顰めて首をひねる。
「ううん…。坊主ねえ。まあ別にどうということはないが、それだと何だか軍にでもいるみたいな気分がしてなあ」
「……」
 笑うところか? と少し悩む。
「でもまあ、おまえさんがそのほうが好みだと言うんなら…」
「わーッ! 判った、判った! 普通に切る! きれいに切る! 今すぐ切る! だからもう言うな! と、とにかく風呂だ、風呂場に行け」
「風呂? 一緒に風呂に入ると?」
「…馬鹿か! ここで切ったら髪が床に散らばるだろう、だから」
「ああ」
「な、何故脱ぐ?!」
「え? いやジャケットが汚れるから」
「そ、そうか。そりゃあそうだ」
「全部脱いだ方がいいか?」
「い、いや! それでいい、それで! 上に白衣でも着ろ、白衣白衣、ほら!」
 椅子から立ち上がり、濃いグリーンのシャツ姿になったキリコに向かって、ブラック・ジャックは乱暴に診療鞄の横に置いてあった白衣を投げつけた。向日葵みたいな黄色のタイ。まあ、それがセンスなのかもしれないが、普通の服より多少とっぱずれた服の方が妙に似合ってしまう男ではある。
 キリコは、言われた通りに白衣に袖を通しながら、ちらりとその自分の姿を見下ろした。
「ちょっと小さいな」
「うるさい。仕方ないだろう? おまえさんの方がでかいんだから」
「ああ、これ」
「なんだ!」
「おまえの匂いがする」
「……! …さっさと風呂場に行けーッ!!」
 金曜日の昼下がり。海辺の家に、かつて聞いたことがないほどの大声が響き渡った。





「ああ、さっぱりした」
 短くなった銀髪を片手で掻き上げて、ドクター・キリコは言った。薄い唇には紙巻きの煙草。ジャケットは肩にかけただけで腕は通していない。
「さすが天才外科医。そこいらのプロより上手いぜ。おまえさんのところに来て良かった」
「……ふん。言ってろ」
 ブラック・ジャックは彼から顔を背けてパイプに火をつけた。慣れないことをしたせいか、妙な疲れが腕のあたりに残っている。
 結局、やはり勿体ない気がして、そんなに短くは切れなかった。それでも五センチ以上は切ったと思う。彼の髪は、フェイスラインで肩に掛かるかどうかというくらいの長さになった。後ろはやや長めに。毛先は軽く梳いて自然に。
 自分で言うのも何だが、まあなかなかの出来だろう。
「で、あの元気なお嬢ちゃんはどうした」
「ピノコか? 遊びに行ってるよ。暗くなったら帰ってくるだろ。何か用だったのか?」
「ふうん。じゃあお父さんに渡しておくが」
 くわえ煙草のまま、キリコは自分の革の鞄をかき回す。取り出したのは正方形の、上品にラッピングされた小さな箱。
「今朝までフランスに行ってたから、土産」
「……あ、りがとう」
 一瞬間が空いてしまった。驚いて。
 キリコはそのブラック・ジャックの顔を見つめ、ぱちぱちと数回瞬きすると、それから、声を殺してくつくつと笑い出した。
「なにもそんな顔しなくても。なにか? おれが幼子に土産をやるのはそんなに変か? まああれだな、兵糧攻めというか、まず馬を射るというか」
「いや、変というわけでは……。は? 兵糧? 馬?」
「で、こっちはおまえさんの分」
 いかにもさりげなくといった感じで、今度は長方形の箱を渡され、何を言う前にキリコは椅子を立った。そのままさっさとドアに向かった彼は、しかしふと気づいたように途中で立ち止まり、何やらスーツのポケットに手を入れて探し始める。
「ああ、あった」
「え?」
「ほらよ」
 銀の弧を描いて何かが投げられた。とっさに片手で受け取ったそれは、百円玉。
「報酬。百円でいいんだっけ? ブラック・ジャック先生」
「う……。構わん……。頂いておこう」
 自分で百円と言ったからには文句も言えない。顰め面でうなずいたブラック・ジャックに、キリコは珍しくまるで含みのないとろけるような笑みを見せて言った。
「おまえさんの髪が伸びたら、こんどはおれが切ってやるよ、百円で」
 余計なお世話だ、と言った声は、彼が出ていったドアに当たっただけだった。全く未練のない態度。
 久しぶりに会ったのに、あの男、本当に髪を切りに来ただけなのか?
 うんざりして見下ろした両手には、報酬の百円玉と、それから、綺麗な箱が二つ。そうじゃないか、と思う。彼は多分これを渡しに来たかっただけ。そして、一目自分に会いたかっただけ?
 まあいいか。
 三つ並べてテーブルに置き、弛緩して椅子の背に体を預ける。遠ざかるエンジンの音を聞きながら、ブラック・ジャックは目を細め、パイプの煙と一緒にひとつ小さな欠伸を漏らした。



(了)