ねえ、これはあんたのためなのだよ。
ねえ、ちょっと正直にさせてあげただけだよ。
言い訳ができればあんたも楽でしょう。欲しくて欲しくてたまらなかったくせに。
ねえ、あんたは今、とてもシアワセそうだ。
私の手に堕ちて。
「いい子にしていましたか？ ブラック・ジャック先生」
灰色のコンクリートが剥き出しの狭い部屋、あるものといえば粗末なパイプベッドと変色した便器、裸電球、それだけ。窓はない。昼も夜も区別が付かない。全裸でいるには少々寒いだろうが勿論彼はそんなことなどは感じない。
鉄製のドアは開閉音が非常に不快だ。
もうこんなことをしなくても彼は逃げないと知っていながら三箇所に施錠する。鍵が鳴る音、これも不快。なるべく不快な方がいい。不快な音、不快な空気、寝ても立っても不快、不快。
そう、快感がより鮮やかになるように。
不快さえ悦楽にすり替わるように。
冷たい部屋の隅で彼は膝を抱えていた。腕の中に顔を伏せて、できるだけ自分の容積を小さく小さくしようとしているみたい。
細かく震えている彼にゆっくりと歩み寄る。狭い部屋に硬い靴音が響く。実に不快。
「御主人様がお帰りになったというのに、挨拶のひとつも出来ないんですか？ 悪い子だ。ほら、いつものように物欲しげな顔を見せてごらんなさい」
「は…、」
靴の革底で太腿を軽く蹴る。大して力は入れなかったが、彼はそれでもぐらりと姿勢を崩して片手を床に着いた。
私の言葉通りにのろのろと顔を上げる彼はまるで操り人形。
ねえ、解っているでしょう？ これはあんたのためなのだよ。
ねえ、自分にすら正直になれない、あんたのためなのだよ。
「…リ、コ」震える唇から零れる彼の声は、掠れて儚く、切れ切れだった。「…す、けて…、助け、て、くれ…」
「全くお行儀が悪いですね。お帰りなさいも言う前におねだりですか？ 本当に、あなたは意地汚い」
潤んだ深紅の瞳は焦点がずれている。
何日間経ったか、何週間経ったか、彼は少し痩せた。腕や脚、綺麗な筋肉のラインが少しだけ細くなった。これ以上落ちるようなら経管流動食でも与えたほうがいい。
いっそ、この美しい男を醜い豚のように太らせてやったらどうか。私は彼を捨てるか、或いは、他の誰が彼を捨てても私は捨てないか。
スーツの胸から、予め無色透明の液体を吸っておいたディスポーザブルの注射器を取り出す。指先でシリンジを軽く弾いて泡を切り、プロテクターは着けたまま内筒を押してエアを抜く。
もう見慣れただろう私のその一連の動作に、べったりと座り込んだコンクリートの床へ爪を立て、彼は熱い吐息を洩らした。ただひたすらに濁りのない闇を真っ直ぐ見詰めていた彼の気高いあの姿、今や片鱗もない。
こんなものひとつで人間は誇りさえ失う。
このあさましくも哀れな有様、さあ、好きなだけ正体を晒せ。
「つらいでしょう。もう厭でしょう、ブラック・ジャック先生？」
「つら…い、…欲、しい…キリコ…」
「欲しいのならばちゃんとお願いしなさい」
「…ウ、」
彼は喉の奥で呻くと、ずるずると身体を引きずり、私の目の前に跪いた。虚ろな視線を暫く彷徨わせてから、冷えた両手で私の左手を、触れれば壊れる、さも貴重な物でも扱うように掴んだ。
手の甲に血の気のない頬を擦り寄せ、目を閉じる。
救いを求める聖職者みたい、さしずめ私はキリストの像。
縛り上げられ殴られ蹴られても、腕に注射針を突き立てられても、最初のうちは彼は必死に理性を繋ぎ止めようとした。皮膚が破れるくらいに、血を吐くほどに犯されても。
薄暗いコンクリートに囲まれた部屋、素肌を晒すことさえ極端に厭がった。捕らえられた野生動物だってあそこまでは手こずらせない。
それが今となっては。
指先に彼の乾いた唇が触れる。薄赤い舌が覗き、中指と人差指が濡れる。
ねえ、これはあんたのためなのだよ。
ねえ、初めて出会ったあの日から、いつでも全身で私の気配を欲していたくせに、その自分にすら気付かない、馬鹿なあんたのためなのだよ。
私の指を咥えて眉を寄せる彼の表情は、完全に私の奴隷。
コントロールされた餓えと恍惚、不快と悦楽、夜の砂漠に立つ孤高の獣はもう何処にも存在しない。
「ン…」
「あなたはあまりおねだりが上手ではないですね」
閾値の低い指先で彼の口腔内をまさぐる。生温い舌が懸命にその動きを追う。
震える長い睫、床に座り込んだ両脚がつま先までぴんと張りつめて、初めて強引に組み伏せたときの彼を思い出す。
気持ちよかったでしょう？ あんたにもあれは快感だったのでしょう？
ここまで見苦しく貶められた彼でも構わないのか、私は。まともな意思も感情もない傀儡でもいいのか、私は。
ああ、はしたない。
「もっと顔を上げて、仰向けに。舌を出して」
「ア、」
「欲しいんでしょ。差し上げますから、言う通りになさい」
ぬめる彼の舌を、唇に差し込んだ二本の指先で挟む。彼は一瞬、怯んだようにびくんと身体を引きかけたが、私の言葉を聞き慌てて舌を突き出した。
親指も使って唾液に滑る舌を摘む。ああ、はしたない。舌の裏に走る血管に注射針を刺し、僅かに引いてからゆっくりと内筒を押す。
「震えないで。針がずれますよ」
「…、」
「そう、そうやって、いい子にしていなさい」
シリンジ内の液体を全て押し込んで、針を抜いた。黒ずんだ血が唾液に滲んだ。
静脈内投与は効果の発現が早いうえに無駄がなくていい。
解放された舌を僅かに唇からはみ出させたまま、彼はぶるりと身体を震わせた。張り巡らされた血管の隅々まで薬物が染みていく体感が、見ているだけで判るようだった。
濁った沼の表面に風が通るみたいに、肌にざっと鳥肌が立ち、筋肉が強張る。それから弛緩する。
薄らと開いた瞼、深紅の瞳は先程までとは違う色に濡れ、知性の煌めきはますます遠のく。
蕩けた喘ぎ。
ねえ、私はこんなことがしたかったのだよ。
ねえ、私はあんたをこんなにしてまでも、あんたが欲しかったのだよ。
ただ求めるものは快感、気も狂うような悦楽だけ。ねえ、シアワセでしょう？
薄汚い欲に酔った、今の私とあんた。
「ああ…」
唇の端から唾液を零し、端正な顔にはうっとりと痴呆じみた表情を浮かべ、骨を抜かれたように座り込んだ身体を揺らす。時々、滾る快楽を噛みしめるみたいに、腕、脚、頸、パーツが引きつれる。
この男が天才だって？ 冗談もいいところだ。
こうして私の前で醜態を晒す、どこから見ても無力で惨めな愚者。
今更隠されもしない彼の股間が、じりじりと興奮して立ち上がってくるのが見えた。
「もっと気持ちよくして欲しいんじゃないですか？ ブラック・ジャック先生」声には甘さのひとつも必要ない。不快なほうがいい、その酩酊にはかえってそれくらいがちょうどいい。「あなたはもう、それだけじゃ満足できないでしょ？ もっと欲しいものがあるでしょ？」
「キ…リコ…、欲、…しい…」
「あなたも学ばない人ですねえ、先生。欲しいのならば、どうすればいいんでしたっけ？」
「は…ア、」
「さあ、上手にお願いしなさい」
ねえ、それなのに。
淀んだ空気を一瞬で切り裂くような深紅の輝き、その光が今彼の瞳にないことを、この手で奪ったことを、或いはほんの僅かにだけ。
「ああ…キリコ…」
彼は、コンクリートに膝を付いたまま、重い泥に浸されたみたいな動きで私の下肢に縋り付いた。手の甲にそうしてみせたように股間に頬を擦り付け、浅ましく喉を鳴らせる。
「キリコ…キリコ…欲しい…、くれ…早、く」
「もう少し上手におねだりしなさいよ」
「ンン…ッ」
ああ、どうしようもないね。
私とあんた、この密室で、こんなに密着して、こんなにかけ離れて、もうどうしようもないね。
頬で、てのひらで、まるで愛おしいものでも撫でるように私の股間を何度も摩り、それから彼はもどかしげに両手で服をくつろげた。中途半端に反応した性器を掴み出し、低く喘ぎながら唇を寄せる。
彼のその行為は少しつたない。
ただ、がむしゃらに食らいつく表情が、懸命な動きが、心地よい。それだけ。
彼が自ら私の性器を咥えるようになったのは、さて、この部屋に放り込んでから何日目だったか。
私が欲しいとその唇が言うようになったのは、さて、何日目。
肘の内側、前腕、手の甲、繰り返し注射針を刺されるうちに、彼の言葉からは長いセンテンスが消えた。厭だとかやめろだとか、誰でも言えるような拒絶の単語さえ次第に失われた。抵抗も薄れた。
残ったものはとても原始的な欲求と感覚、欲しい、くれ、もっと、つらい、痛い、助けて。
それから、私の名前。
譫言のように私を呼びながら、私に跪き、私を求め、私に身体を開く。
ねえ、足りないものなんて、あんた今ひとつもないでしょう。
ねえ、欲しいものならば、私が全て与えているでしょう。
フィジカルな苦痛と快楽、それが全てだ。それ以外に何があるの。
あんたが後生大事に紡ぎ上げてきたものだってただのガラス細工、コンクリートに叩き付け革靴で踏み潰してやればあとは肌を刺す鈍い痛みに変わるだけ。
ねえ、あんたと私、今、唯一を共有しているの。
「アア…、は…」
右手で私の性器を擦り上げ、舌を這わせながら、彼は唾液で濡らした左手を後ろから自分の尻に伸ばした。
私と繋がるために指を使う。びくびくと震える身体、私を掴む右手に力がこもる。
「やっぱりあなたは、あまりおねがりが上手ではないですねえ」
空になったシリンジをスーツの胸に収め、片手で彼の髪を掴んだ。もう片方の手で唇を開かせ、強引に先端を押し込む。
自分の尻に指を突っ込んだまま、口を塞がれ、彼は少し苦しそうに呻いた。それでも、抗おうとはしない。拒もうとはしない。
私の従順な奴隷。
髪を掴んだ手で彼の頭を動かす。身勝手に唇を犯される彼、ぎゅっと閉じた瞼の縁に涙の粒を浮かべ、必死で私を受け入れている。
痙攣し纏わりつく熱い粘膜が気持ちいい。
ちっとも萎えない彼のふしだらな性器に、つい嘲笑が洩れる。
楽しい。
そうだ、この快楽こそが唯一だ。
解っているでしょう？
ねえ、これはあんたのためなのだよ。
ねえ、ちょっと正直にさせてあげただけだよ。
私が欲しくて欲しくてたまらなかったあんたを、ちょっと正直にさせてあげただけなのだよ。
私とあんた、こうして求め合って、今、とってもシアワセ。
ねえ、陥落したのは、私とあなた、どちらでしょうね。
（了）