傾城の戯れ

 襖の隙間から、向こうの和室にちらりと見覚えのあるものが見えたような気がして、ドクター・キリコはふと立ち止まった。
 人生がアホらしくなるような他人の豪邸、過去に来たことなどはないし、いくらやくざな商売をしているからと言って暴力団組長宅を見分けも付かなくなるほど見慣れたくはない。
 視線に少し意識を傾ける。
 襖の奥、やたらと縫合痕の残る、つぎはぎの肌が目に映る。
 つぎはぎの肌?
「ブラック・ジャック!」
 思わず足下に医療鞄を落とし、襖の隙間に両手をかけて、ばんと開け放った。静まりかえった廊下に控えめとは言えない音が響いた。無論その向こうに広がった光景に、ぽかんと口を開けたキリコには、自分が立てた無遠慮な音はよく聞こえなかったが。
 まだ青い畳、毒々しい紅色の褥の上に、それよりも少し色の濃い深紅の襦袢を引っかけたブラック・ジャックが寝そべっていた。前は合わせただけ、しどけなく乱れた裾から、襟から、見えていた肌こそが襖の隙間に覗いた見覚えのあるもの。
 右手に煙管、左を下にして横たわり、左手で頬杖。
「ななななにやってんだ、おまえ。っていうか、なんだ、なんなんだ」
「…そのカタコトこそなんだ」
 ぷかりと唇から煙を吐いて、鬱陶しそうにブラック・ジャックが言葉を返した。気怠げな眼差し、部屋にこもった何やらあやしげな香の匂いが朝の空気に不似合いに散る。
 あからさまに乱れた紅色に、ドクター・キリコは軽い目眩を覚えた。
「な、な、」
「寒い。襖を閉めろ」長い睫に縁取られた目をすっと細めてブラック・ジャックは言った。「馬鹿みたいに突っ立ってないで、出るか入るかしてくれ。それから、馬鹿みたいに騒ぐな。本当に馬鹿みたいだから」
「…」
 そんなに馬鹿馬鹿言わなくても。
 できることならば何も見なかったことにして、何もかも忘れて立ち去りたいところではあったが、こうして見てしまった以上は今更踵も返せず、ドクター・キリコは黙って部屋に踏み込んだ。
 後ろ手に襖を閉める。途端にむっと濃くなる甘ったるい香り。
 あまりにもだ、あまりにもだ。
 薄暗い和室に残る淫靡な気配に圧倒され、思わず半歩ほど後ずさる。
 待て、待ってくれ、反応しないでくれ、おれの自慢の相棒。
「で、こんなところでなにやってんだ、おまえさん? 安楽死他人に頼むような半端者、この組織にいたっけか」
 襦袢の裾から殆ど太腿まではみ出した両脚を、ゆっくりと擦り合わせながらブラック・ジャックは気のない声で言った。こいつ、わざとじゃないのか、と思った。
 わざと見せ付けていやがる。ふしだらに崩れた自分の姿。
 ああそうだ、大層色っぽいよ、おまえはそれでなくても無駄にお色気たっぷりなんだから、そうやって真っ赤な布団に半分裸で埋まってばさばさに長い睫で瞬いてみせりゃあ、そいつは犯罪級だろうよ。
 反応するなと言い聞かせても勝手に反応してしまうブツに、頭の中で呪詛をまき散らしてからドクター・キリコは口を開いた。
「…殺しにきたんじゃねエよ。なんかよく判らねえけど、ここの若いのが鉛玉食らったから内密に出してやってくれって知人の知人の知人くらいに言われて、出してやったんだよ。オモテの医者には行けなかったんじゃないの」
「なんだ、やくざに脅されてびびって言うなりになったのか、ドクター・キリコ」
「…あのね」
「まあ確かに、おまえさんでもできるような、そんなゲスな仕事、おれのやることじゃない」煙管の細い吸口で、下唇を軽く撫でながらブラック・ジャックは言った。見せ付けているのだ。「どこのヤブ医者でもできるような仕事なら、どこかのヤブ医者がやればいいのさ。だいたいおれは、今の今まで非常に多忙だったんだ」
「…聞きたくもないが訊くけどな。おまえこそ、こんなところでなにやってんだ?」
 いかにも、一晩中かけて力一杯セックスしていました、というような有様を目の前にして、訊くまでもないことを一応ドクター・キリコは低く訊ねた。なにかこう、少しは救われるような答えが返ってこないとも限らない。
 ああ、そんなところに内出血。そこも、そこも。おい、歯形。
 だいたいこの匂いが。ちょっと、どういう体勢でやれば、そんなところにそんな痕が付くのよ。
 ブラック・ジャックは脚の位置を更にずらして、薄らと笑った。深紅の下に覗く素肌が殆ど左脚の付け根まで露わになる。
「聞きたくないんだったら、訊かなけりゃいいだろ」
「…だから、なにやってんだ?」
「馬鹿な男。わざわざ傷付きたいなんて、馬鹿みたいだ」
 自分の唇を舐める仕草が異様にいやらしい。
 煙草盆に、かん、と煙管で音を立てると、ブラック・ジャックは紅色の襖のなかに身を起こし、両腕を持ち上げてやや長めの髪を掻き上げた。大きく開いた袖からはみ出す腕、なにもかもが計算ずくであるだけにたちが悪い。
 ああよせよせ、恋人の、少なくとも自分は恋人だと思っている相手の、浮気現場をうっかり押さえて、普通勃つか?
「狒狒オヤジに抱かれていたのさ」
 濡れた唇が吐くのはやっぱり救いのないセリフ。
「ここのオヤジ、おれに夢中だから。たまに抱かせてやるんだよ、ケダモノのように食らいついてくるぜ、死ねと命令すれば死ぬ配下を山ほど抱えたやくざのオヤジがよ、おれに捨てられたら死ぬとまで言う」
「…なんで? 狒狒オヤジは気持ちいい?」
「だって三回オペするより、一晩抱かせてやったほうが稼げるんだもん」
「…」
 だモン、じゃねえよ。
 投げやりな声、憮然としてみせたドクター・キリコを高飛車な目付きで眺めて、ブラック・ジャックはくすくすと小さく人の悪い笑いを洩らした。
 緋色を肌に纏い付かせ、男を嘲りあしらう、艶めいた姿はさながら最高級の遊女、傾城の戯れ。
「まア、気持ちいいよ。純血の日本人はいいな、鋼みたいに硬くて」
「…」
「あのオヤジ、滅茶苦茶だぜ。本当に滅茶苦茶やるんだ。もう厭だとおれがいくら言っても、これっぽっちも聞かないで朝までやりまくるんだ。まあ、そういうのもたまにはいいな、生温いのは飽き飽きだ」
「…」
「ゴムもつけないし、ナマで散々、溢れるまで中出ししやがるんだ。終わるころにはぐちゃぐちゃだ、でもあのオヤジは嬉しそうな顔をして、おれのぐちゃぐちゃの尻を舐めるぜ」
「…」
 随分と手酷い言葉で唆す。
 適当に、オ盛ンデスネとか是非アヤカリタイとかなんとか言って、この香で噎せ返るような和室を出てとっとと帰ってしまえばいいのだ、とは思うが、生憎とドクター・キリコはそこまで達観した男ではなかったうえに、哀しいかな嫉妬深かった。
 ずかずかとブラック・ジャックに歩み寄った。
 性交の痕を残した胸元、襦袢の襟を左手で掴み、乱れた褥の中でぐいと引き寄せた。
 クソ、この際、ナニが勃っていることは見逃せ。
「あ、そう。つまりおれじゃ満足できないと、そういうこと?」
「なぜ」
 罠にかかった獲物でも見るみたいに、或いは自分の思い通りに動いたチェス盤でも見るみたいに、ブラック・ジャックはにやりと笑った。
「誰がそんなこと言ったんだ?」
「そういう意味にしか聞こえなかったけど」
「コンプレックスでもあるのか? 自分じゃおれを満足させられないと思うのか?」
「おれは生温い男だから、おまえが厭だと言ったらやらないもの」
「馬鹿みたいだな、ドクター・キリコ」胸倉を掴み上げられながら、うっとりするような微笑み。年上の男に向かって、子供をあやすような声。「おれが厭だと言ったって、おれを殺すほど滅茶苦茶のぐちゃぐちゃにやればいいのに。そうすりゃおれも狒狒オヤジを相手にする暇なくなるかもしれないぜ」
「…欲張り男」
 襦袢を掴んだ手はそのまま、乱暴に紅色の上へ押し倒した。甘い香の匂いに酔いながら、適当に合わされただけの前をはだけて素肌に手を伸ばす。
 と、そのときだ。
 ブラック・ジャックが盛大な悲鳴を上げた。
 かつて一度も聞いたことがないような、あまりにも悲痛な、あまりにも怯えきった、かつあまりにも芝居がかった悲鳴だったので、ドクター・キリコには一瞬それが誰の声だか判らなかったくらいだ。
「助けてッ! 誰か助けてッ! 犯される!」
「…、」
 犯される、だ?
 呆気にとられたキリコが思わず手を引くよりも早く、背後で、ばんと派手に襖が跳ね開けられる音がした。
「どうしました先生!」
「貴様ッ、親父の大事な御方になにしやがる!」
「先生、御無事ですか!」
「先生!」
「先生様!」
 振り返れば、暴力団関係者ですと身なり顔付きで言っているような男が数人、十人弱くらいか、ずらり大きく開かれた襖の向こうに並んでいる。うちひとり二人の手には、朝陽に光る匕首。
「…え。」
 まじかよ、とドクター・キリコは思った。
 咄嗟に見やったブラック・ジャックは、先程までの小憎たらしい様子からは想像も付かないような、か弱くて、可憐で、儚げな、まさに今手込めにされようとしている令嬢みたいな表情を浮かべていた。
 涙を湛えた目、ふるふると唇を震わせて、ドクター・キリコの手から奪い返した襦袢の襟を必死にかき合わせる。
「この男…ッ、おれ、を、おれを、無理矢理押し倒してッ、おれに、おれに触って、それから、それから…ッ、アアもうこれ以上言えない」
「て、てめえエ!」
「先生になにしてんだオラア!」
「死にてえのかア!!」
 どかどかと足音も荒く和室へ突っ込んでくる男たちを、ドクター・キリコは殆ど呆然としたまま眺めていた。
「…」
 なにそれ。
 冗談でしょ。
 ああそうね、いっそ死にたいわ、私。
 三人くらいは反射的に投げ飛ばしたが、匕首を突き付けられてつい固まったすきに足を蹴られて畳にひっくり返った。あとはもう文字通りぼこぼこにされながら、ちらり視線をやった先、ブラック・ジャックは煙管を片手に、妖艶に微笑んでいた。
 畜生、おれが一体なにをしたってんだ、この悪魔め。

 その後、ドクター・キリコはブラック・ジャックの診療所に、三週間入院したという。



(了)