泣く子も黙る死神の化身、ドクター・キリコには、大いなる苦悩の種があった。
日本政府も警察も、CIAもMI6も怖くはない。ただ怖いのは、恋人の、少なくとも自分は恋人だと思っている男の、モテっぷり、及び奔放っぷりである。
奴は魔性なのだ。
あっちでこっちでフェロモンを撒き散らし、蜘蛛の巣にかかった餌を端から食っていく。妖艶な笑みで夜を渡る。まったくもって悩ましい男である。
先日などは某暴力団組長宅で、ばったり、情事後の奴に出くわしてしまった。外見を裏切り、実はホットで嫉妬深いドクター・キリコは、まんまと奴に遊ばれて暴力団関係者様方と乱闘騒ぎを起こした挙げ句、三週間ばかり奴の診療所で入院生活を送る羽目になった。
入院中の話はあまりしたくない。
ただ、屈辱と、更なる嫉妬に悶え苦しんだ日々だったとだけは言っておこう。
そして、漸く退院の許可を得たドクター・キリコは、目ん玉の飛び出るような請求書に悪態を吐いてキャッシュを積み、天才外科医の住居兼診療所をあとにしたのである。
で、ドクター・キリコが今何をしているかというと。
診療所を出て我が家に戻ったその足で、着替えて車を出して診療所にとって返し、ブラック・ジャックの車を尾行しているのである。
正直に言おう。バレバレであった。
市街地を走っているうちは、それでも尾行の意味をなしていた。しかし、車も少ない別荘地帯に入ってからは、誰がどう見てもあからさまな追走だった。勿論ブラック・ジャックにも知れていたろうが、彼は基本的にその愛すべき死神の間抜けさを愉しい遊びに変える男でもあったので、敢えて後方の車をまこうとはしなかった。そしてドクター・キリコは、己の完璧なる尾行が、気付かれていることに全く気付いていなかった。
ブラック・ジャックの車は、一軒の馬鹿でかい別荘の門に消えた。
この際一緒になって門を潜っても同じ事であったが、ドクター・キリコは教科書通り目的地より若干の間をあけて車を停め、裏口からその馬鹿でかい別荘へとこそこそ侵入した。
尾行したのには訳がある。
簡単に言うならば、唆されたのである。
触れたくはないが、少々触れるなら、傷口を縫合の上からがちがちにテーピングされて転がされたまま、恋人が知らない来客といちゃついている姿を、薄く開けたドア越し見せられる毎日は、悲惨であった。奴の娘にはオモチャにされ、自慢の銀髪などは大抵可愛らしいおさげにされていた。
抜糸が済み、手足が自由になったとて、では自由に恋人を腕に抱けたかと言うと、無論そんなはずはなかった。長い睫で瞬かれ、誘惑されてはその気になって、手を伸ばしてもひらりひらりとかわされる。力ずくで押さえ込めば、喉元にメス、三週間の入院期間、怪我人なんかごめんだと、キスのひとつも許して貰えなかった。
一発やらせろ、とドクター・キリコが、もう恥もなく迫った退院前日に、麗しい恋人はこう答えた。
明日の夜、いっぱい使うから今日は温存なんだ。
眉を顰めてみせたその目を覗き込む、濡れた瞳は、誰をも蕩かす怜悧で甘い、ワインレッド。
盗んでみればどうよ、王子様、おれだって好きで政府高官に抱かれるわけじゃないんだぜ。
ドクター・キリコは押し黙った。
つまり、唆されたのである。
表立ってはいけないのだ。掠めて取れと言っているのだ。天才と言えど無免許医、奴にも立場があるのだろう。
だからこっそりと。
政府高官の別荘らしいのに、セキュリティは意外と甘かった。目立つ人相、煌めく銀髪、三週間の禁欲を強いられて血走った右目、何処からどう見ても不審者そのものの男が、何の網にもかからず要人の住処に踏み込めるなどと、有り得るはずもないのにただのラッキーとしか思わないドクター・キリコは、極めつけの楽天家であった。それこそが群がる獲物を弄ぶ小悪魔の仕業だとも知らないで。
恋は人を狂わせるという。
死神の化身もその前では幼子に変わりない。
別荘の中はうんざりするほど広かった。かつ和洋折衷のうえ趣味が悪かった。存在意義の不明な茶室やら、全面金箔張りの便所やらにうっかり見入っているうちに、結構な時間が過ぎた。ドクター・キリコはこれでマニア魂を持つ男である。自宅には膨大な量の毒物劇物コレクションがあり、日夜愛でている種類の人間である。政府高官の威勢のよい無駄遣いは、何処か通ずるものがあった。
やれ地下だ屋上だと、うろちょろしていたドクター・キリコの耳に、漸く恋人の遠い声が聞こえたのは、さてどれほど経ったころか。
誰が観るのかも知れない天体望遠鏡についぼんやり眺め入っていた死神は、はたと顔を上げ、コートを翻して踵を返した。盗んでみればどうよ、と囁いた、恋人の言葉を、今更思い出したのだとは、ドクター・キリコの名誉にかけて言えない。
声は二階の、最早それが寝室なのだか客間なのだか応接間なのだかも判らない、襖の向こうから聞こえた。何処かでお目にかかったことのあるシチュエーションに、果てしなく厭な気分になりながら、ドクター・キリコはその襖へ耳を付けた。
間違えようもない、ブラック・ジャックの声である。
くぐもって、秘密めいた、ことの最中の声である。
「…」
一人きり襖の前で、ドクター・キリコは死神の名に恥じぬ凶悪なツラになった。あっちだこっちだとふらついておきながら、いざ恋人のそんな声を聞かされると、三週間お預けの欲求不満も手伝って、一気に頭に血が上る単純男でもある。
コンチクショウ、人の気も知らないで。
がっと両手で襖を掴んだ。ばんと音を立てて左右に跳ね開けた。ああ、これもつい最近に、経験したばかりのシチュエーションだと、思うだけの余裕があったか無かったか。
確かに恋人はそこにいた。
月の光に輝く鱗粉を撒き散らし、優雅に暗闇を舞い去る蝶より妖艶な、最愛なる恋人はそこにいた。
全裸だった。
いや違う。黒いレザーの首輪をしていた。
「なっ」
ドクター・キリコはその場に硬直した。
奴が他の男や女といちゃついている姿は、確かに何度も見た。奴はとにかくモテるのだ。だが、思い起こせば真っ最中というのは目撃したことがなかったかも知れない。
他愛もない愛撫とか、キスとか、でなけりゃことのあととか、そういえば精々がそんなところ、こんなふうにモロやっているシーンに出くわしたことはなかった。
しかも3P? しかもちょっとSM?
踏み込む足も忘れてただ呆然と立ち竦んでしまう。
ブラック・ジャックは二人の男に犯されていた。全裸に首輪だけという彼とは対照的に、彼を犯している男達は、ダークスーツを着たまま腰回りだけを緩めて勤しんでいた。
四つん這いになった奴の前で膝を付き、奴の顔に勃起した性器をぬるぬると擦り付けている、腹の出た男は新聞テレビで見たことがある。こいつが政府高官か。一方、奴の尻で腰を使い、奴が俯こうとするたびに首輪に繋いだ鎖を引っ張って、顔を上げさせている銀縁眼鏡の男は、見たことがない。まだ若造じゃないか。秘書か。美形だ。
彼らは、襖がいきなり開けられたことも、そこにドクター・キリコが唖然と突っ立っていることも、全く気にしていないように行為を続けていた。奴の尻をぐちゃぐちゃと出入りする赤黒い男根がはっきり目に入って、ドクター・キリコは、まるでその煌めかしい銀髪と同じような、真っ白な顔色になった。
太腿を垂れ落ちる精液、こいつら、一体何発使っていやがるんだ。
二人の男に汚されて、奴の股間は嬉しそうに反応し、先端に鈍く光る体液を染み出させている。顔を濡らされ、いやいやと頸を振るブラック・ジャックの動きを制するように、尻を犯す美形が鎖を引き、狸腹の政府高官が奴の赤い唇へ性器を突き入れた。
「ああ…ッ、ウ、んッ」
尻を穿たれる快楽と、口を塞がれる苦しさに、ブラック・ジャックは掠れた喘ぎを洩らした。
艶めいた声、不覚にもぞくりと身体の深くに欲を呼び起こされ、ドクター・キリコは思わず喉を鳴らした。
ああ、またもや、よしてくれ、おれの相棒。
ドクター・キリコは顔に似合わず、実は繊細な男でもある。繊細であるが故の安楽死稼業であった。そのドクター・キリコには、この状況は少々酷であった。恋人が二人の男に、前から後ろから犯されている、それを見ている。
泣く子も黙る死神は、権力は怖くはなかったが、コンプレックスはあった。ついでに言うなら、己の容貌にも少々、美形と向き合うと弥が上にも湧き上がるコンプレックスがあった。
ドクター・キリコは端正なツラをしている。自分でもそう思いはする。なかなかおれはいい男だ。だが、怖い。怖すぎるのだ。乳幼児など目を合わそうものなら、引きつけを起こされかねぬ悪人顔である。
そのコンプレックスを掻き毟ってくれる、権力と美貌の持ち主に、恋人が犯されている。
不幸であった。
「…は、あ」
「…ッ」
その不幸のただ中にあるドクター・キリコが、漸く踏み出す足を思い出したのは、二人の男に好き放題されている、ように見える恋人が、ちらりと視線をこちらに寄越したからだった。
ほんの一瞬だった。
見間違えかも知れない。勿論見間違えではないのだが。
助けてくれ、と言っているように、死神には見えた。
勿論それも小悪魔の遊びの一環なのではあるが、ホットで嫉妬深いドクター・キリコには、充分な合図であった。うっかり反応している股間を強引に意識の外に追いやって、ドクター・キリコはまずは、恋人の尻を使っている美形に歩み寄った。
口は許せない。しかし、尻はもっと許せない。
一応腕っ節には自信があった。狸親爺とインテリ美形くらいなら数秒で叩きのめし、哀れな生贄の首輪を解いて抱きしめてやることくらいは、わけがないように思われた。
「貴様、他人の恋人に…」
きっちりとネクタイを締めたままの、美形の胸倉に腕を伸ばした。
じゃき、と聞き覚えのある厭な音がした。
「…なにしてやがるんだ」
啖呵は殆ど惰性で続いた。
銃口をぴたりと額に押し当てられて、ドクター・キリコは再度硬直した。そんな飛び道具の登場は予想していなかった。アレ、ここは日本じゃなかったっけ、やくざだって精々匕首だったのに?
「こいつですか」ぎっちりと腰をブラック・ジャックの尻に押し込んだまま、飄々と美形が言った。「ブラック・ジャック先生のストーカーとかいう男は?」
「おい! 蠅がいるぞ!」
狸腹の政府高官が、濁声で怒鳴った。ばたばたという複数の重い足音で、もう振り返らずとも、自分の置かれている立場がドクター・キリコには実によく判った。
おい、またかよ。
ねえ、またなのね。
「ご安心ください、ブラック・ジャック先生」ぐいぐいと銃口を額にめり込ませながら、美形が言った。「このような蠅、二度とあなたのあとをつけ回すことが出来ないように、きちんと処置して差し上げましょう」
「殺さないでくれ…おれの実験材料だから、アッ、もっと…深く…ッ、ああ、いい…ッ」
「ハッハッハ、ブラック・ジャック先生の実験材料じゃあ、死ぬほうが楽だろうになあ」
「…」
ええ、そうね、その通りね。
死ぬほうが楽かも知れないわね、私。
凍り付いたままの死神の耳に聞こえる会話は地獄であった。美形に伸ばしかけていた腕を、後ろから足音が近付いてきたと同時に、思い切り背中側に拈り上げられて、絶望と痛みに最早声さえ出なかった。
そのままずるずると部屋の隅に引きずられ、腰を蹴られて壁に激突した。なんとか体勢を変えたところに、複数人の靴の裏が容赦なくどすどすと踏み込んできた。せめて部屋を変えてくれ、とドクター・キリコは思った。切実であった。身体の外側が痛いのだか内側が痛いのだか、次第に訳が解らなくなってきた。
視線の先には、奴隷のふりをした、首輪付きの支配者の、艶やかな笑み。
ああ畜生、おれが一体なにをしたってんだ、この悪魔め。
その後、ドクター・キリコはブラック・ジャックの診療所に、今度は四週間入院したという。
(了)