会いたかったとか。
好きだとか。
決して口に出さない、無言の約束。
夜に近い夕刻、異国の空港のエントランスで、偶然出会った。
何箇月ぶり? 最後に会ったのは随分と前、会いたいからと言うだけの理由で、互いに相手を呼びつけることなど、勿論出来ない。
会いたかったのだと思う。とても会いたかったのだろう。
不意に名前を呼ばれた途端に、私の冷えた感情が密かに目覚めた。
「ドクター・キリコ。遅かったじゃないか?」
呼ばれて私が視線を上げたときには、彼はもうわざとらしい笑みを浮かべて、上目遣いで私をじろじろと眺めていた。自覚的に作る、小憎たらしい表情、彼が、思わぬ場所で私の姿を見付けたその瞬間の顔を、見られなかったことが残念だ。
彼は、私に対して優位でいようとするためか、他にも果たして理由があるものか、いつでも私に対して皮肉な態度を取ろうとする。しかし残念ながら、私は承知している。
彼が自分で気付いているのかいないのか、彼のそうした態度は、かえって彼の内面を簡単に映した。
会いたかったとか。
好きだとか。
揶揄う笑みのすぐ下に、本物の、歓び。
空港を出る私に、逆光で歩み寄る彼は、どんな場所で見てもやはり、異質そのものだった。
他人が見れば私も同類なのだろう、空気に馴染まぬ、異分子。
惨たらしい縫合痕と、眼帯。
「国立病院の、院長に呼ばれてきたんだろう? だが、遅かったな、今回ばかりは無駄足だったようだぜ、キリコ先生」
一歩の位置に向かい合わせで立ち、私を覗き込んで薄い笑みを浮かべる。きらきらと光る赤い眼は、私を出し抜いた優越感からだけではない。
会いたかったろう?
好きなんだろう?
決して口に出さない、それが無言の約束。
「おれは、副院長に呼ばれてきた。昨日オペが終わって、今から帰るところさ。おまえがもう何日か早ければなあ、儲け損なったな」
「おれの仕事に、遅かったも早かったも無いさ」
流れる人混みの真ん中で、二人きりの小芝居。
黒ずくめの男二人が、相当不気味に映るのか、私達の周りには不自然な空間が出来ていた。ありがたいことだと思いでもしなければ、厭になりそう。もうこんな疎外感には、とうに慣れてはしまったが。
暫く会わないでいるうちに、彼はまた少し荒んだような気がした。
どんな修羅場を潜ったか、それを訊ねる権利は私にはないし、訊ねる気もない。
それでも、その瞳の奥が。
会いたかった、会いたかった、そう言っている。
ああ、会いたかった、会いたかったさ、いざ彼を目の前にして、私は自分の感情の鬱陶しさに少し驚く。
そうか、こんなにも会いたかったか、私は彼にこんなにも会いたかったのか。
日の光を避けるような日々に埋もれて霞んでいた、何か透明なものが姿を見せる。
おまえだってそうだろう? 私に会いたくて仕方なかったろう。
彼の表情が隠し切れていないように、私も隠し切れていないのだろうか。
「おまえは確かに患者のオペをしたんだろうが、おれだってこのまま病院に向かって、患者に処置することが出来るんだぜ」
口付けでも求めるかのように、空いた右手で彼の顎を掴む。
彼はされるがまま、形の良い眉を顰めて、私に言った。
「冗談だろう?」
「さあね」
「生きるかも知れない患者を、おまえが殺すのか?」
「さあね。やらないとも限らないぜ、おれは、ろくでなしの人殺しだからな」
「…」
まさか、そんなことを私がするはずもないし、それは彼も充分に理解している。
理解しているからこそ、彼は私の次の出方を、じっと待っている。
会いたくて、会いたくて、漸く会えた。
このまま右と左に別れるわけにはいかない。
会いたかったとも、好きだとも、言わずにふたり一緒にいられる方法は。
まだまだ甘いね、先生、声をかけるだけであとは相手任せ、ああそうですかと私が踵を返せば、おまえはまた私のいない数ヶ月を耐えるのか?
おまえと私は表と裏、背中合わせで違う景色を見ている。
同じものを見ることがあったとしても、それは一瞬、それなのに惹かれ合うのか、それだから、惹かれ合うのか。
「おれに仕事をさせたくなければ、見張っていたら?」
見つめ合う視線の距離を僅かに詰めて、鏡のように皮肉な笑みを浮かべてみせる。
彼は、空港のエントランスの真ん中、顎を掴む私の手を振り払うことも、私の胸を突いて飛び退くことも出来ずに、ごくりと喉を鳴らした。声をかけてきたときの厭らしい笑みは、あっさりと消えた。
「見張って?」
「おれが病院へ行っちまわないようにさ。おれは生憎今から日本に帰るチケットは取っていない。この時間じゃあ空席もないだろ。一方、ホテルの部屋なら取ってある」
「…」
「おまえが止めなけりゃ、おれは仕事へ行くぜ、ブラック・ジャック先生」
「…どうしろと」
「そこまで説明してやらなくちゃ、判らないの?」
「…」
周囲の低い、意味をなさない喧噪が、ふと遠のいていく。
ああ、いい目をしている、と私は思う。
揶揄の色はもう何処にもなく、悔しがっているような、安堵しているような、それでも挑戦的で、しかし僅かに縋るような。
まだ、求められている。そう思ったか。
まだ、私が彼を欲している、そう思ったか。
彼が私を求め、欲しているのと同じように。
会いたかったとか。
好きだとか。
口には出さない、無言の約束がなかったら、私達の関係はどうなっていただろう?
浸って酔って、とうに崩壊していたか。
それともより深く、溺れていたか。
絶妙のバランス、私達は決して踏み外さないように、一歩一歩、それこそこれ以上はないというくらいに慎重に、この綱の上を渡っている。
時々無性に、バランスを崩してしまいたくなることもある。
その先にあるものは、別離か、融合か、倦怠か。
おまえも、そして私も、会いたくて会いたくて、しようがなかったんだよ。
口に出すことも許されないなんて、実に愚かだ。
「判った…」低い、小さな声で、彼は言った。「おまえが人殺しをしないように、おれが見張る。せっかくオペした患者を、簡単に殺されたんじゃ、たまらないからな」
「ああ。そうだろう」
「それ以外の意味はないぞ。勘違いするなよ」
「ああ。そうだな」
視線を下に逃がした彼の、長い睫が頬に影を落とした。緊張して乾いた唇を、彼の薄赤い舌がちらりと舐めた。
誘っているようにしか思えない。
勿論彼に、自覚はない。そんなに器用な男ではない。
く、く、と勝手に、殺しきれない笑いが零れてしまう。私達はこんなにも会いたがっていた、会った途端に他のことなどどうでも良くなるくらいに。
会いたかった、会いたかった、それを認めてはならないくらいに、会いたかったのだ。
彼は自分で判っているのだろうか? 自分がどれほど私に会いたがっていたのかを。
「アッ」
周囲の視線など今更気にもせず、彼の顎を掴む手に力を足し、ぐっと顔を近付けた。
口付けの角度で唇を寄せ、触れる寸前の距離で、囁いた。
「会いたかった」
「…ッ」
「そう、言いたそうな目付きをしているぜ、おまえ」
「…馬鹿言うなっ」
ぱん、と派手な音を立てて、彼のてのひらが私の左頬を引っぱたいた。エントランスを行き来する人の波が、さっと一斉にこちらに視線をくれるのを感じた。
くすくす洩れてしまう笑いを、隠せない。
彼は顔を赤くして、私を睨んでいる。威嚇のような、怒りのような、潤んだような。
「好きだ」
「…貴様、」
「おまえが好きだよ」
「…黙れ」
「そう、言いたそうな目付きをしているよ、先生」
「…、」
再度、私の頬を叩きに来た彼の右手を、ぐいと掴んで止めた。
そのまま引き寄せて、異国の空港、衆人環視の中、トランクを床に落とし、彼の細身の身体を抱きしめた。
「やめろ…」
「否定していりゃいいだろ、むきになるなよ」
「…馬鹿野郎」
黒ずくめの男が二人、片方には縫合痕、片方には眼帯、とんだ見せ物だ。
彼は最初、私の腕から逃げ出そうと、必死に藻掻いていたが、力で敵わないと悟ると、漸く大人しくなった。
会いたかった。
おまえが好きだよ。
なあ、これなら無言の約束を、破ったことにはならないか。
今までなんとか保ってきた、ギリギリのバランスを、崩したことにはならないか。
服越しに、少し早い、彼の鼓動を感じる。
興奮したせいか、彼の体温は少し熱くて、気持ちがいい。
会いたかったと。
好きなのだと。
一度くらい言ってみたかっただけなんだ。
(了)