傷を縫う。

 珍しく彼から電話が来た。
 深夜の二時。はじめは無視していたが、あまりにもしつこいので受話器を取ったら、相手は彼だった。
 さて、彼のほうからここへ電話をかけてきたことなど過去に何度あったろうか? まともに電話番号を知っていたという事実さえ少々意外なくらいでもある。
 すまないが、と彼は言った。冷静な口調だったが、明らかに無理をして取り繕っている声だった。
『手を借りたい、ドクター・キリコ。おまえさんなどに頼るのは癪だが、おまえさんほど私に興味がない人間を他に知らない。金は払おう』
「どうした、ブラック・ジャック」
 相変わらずの憎まれ口。本当に私がきみに興味がないと思っているのなら、そもそも深夜に傍迷惑な電話なんてかけてこないんじゃないの。
 テーブルに手を伸ばして、煙草を一本取った。片手で火をつけてから、つい今まで広げていた資料のペーパーウエイト代わりになっていた灰皿を引き寄せる。
『縫わないと駄目みたいだ』呆れるほど淡白に彼が言った。『出血がとまらない。長さは、そうだな、精々十センチくらいだが、ちょっと深い。輸血が必要なほどじゃないが、多少意識がぼんやりする』
「…怪我をしているのか?」
 指先で落とした煙草の灰が、目算を外して灰皿からこぼれた。そうだ、と彼は他人事のように答えた。
『縫ってくれ。ここへ来てくれ、できれば。少し遠いかもしれないが、出張料も払おう。今自分でハンドルを握ったら事故りそうだ。厄介だ』
「バカか。とにかく、血を止めろよ。縫えるだろう? 自分でさ。慣れたもんじゃないか」
『右腕の傷をどうやって自分で縫えと?』
「だったら近場の病院に飛び込め。見当たらないなら救急車を呼べ」
『面倒なんだよ。どう見たって堅気な傷じゃない。あれこれ聞かれるのが厭だ。その点おまえさんなら何も聞かない。私に興味がないからな』
「…公衆電話か? 場所を言え。住所が書いてあるだろ」
 他人に頼ることが死ぬより嫌いな男が他人を頼るほどなのに、わざわざ牽制。何も聞くな? そう言うなら聞かない。
  淡々と告げられる住所を煙草のパッケージに書き殴り、受話器を乱暴に戻すとテーブルから車のキーをひったくって玄関に向かった。咥え煙草のまま家を出て、 車に乗り込み、叩き起こすようにエンジンをかける。その場で対処する必要があったとしても、彼のことだから必要なものは一揃い持っているのだろう、ただ足 りないのは傷を縫う指だけ。
 アクセルを踏み込んでから、ドアに鍵をかけ忘れたことに気がついたが、まあいい。
 深夜の道路はがら空きだった。スピードの出せる車を持っていて、良かった、などとぼんやり思う。





 見知らぬ町、全く人通りのない深夜の寂れた商店街も外れ。
 公衆電話から五十メートルほどの、シャッターの下りた煙草屋の前に、彼の車が横付けされていた。すぐ後ろに車を止めて、運転席から降りた。ちらりと見やった公衆電話の下に、この闇では黒くしか見えない血の跡がある。馬鹿だ。
 彼の車の運転席側に回って、ガラスを叩く。ただ人がそこにいることしか判らない暗い車内に一瞬赤い綺麗な瞳が浮かび、ドアのロックを解く音がした。
 ゆっくりとドアを引く。
 彼は、右腕を左手で抱きかかえるように押さえたまま、こちらを見ていた。車内灯がつき、彼の青白い顔を映し出した。黒いコートを着ている所為で見た目には出血の具合がよく判らないが、そこに少なくはない血が流れたことくらいは判る匂いが夜の空気に散った。
「…よくまあ不審尋問を受けずに済んだな」
「本能的に他人の目を避けて通るみたいでね。一日一日その能力には磨きがかかる」
「見せろよ」
 身体を屈めて彼の右腕を取った。可能な限り消しているのだろうが、一瞬、彼の表情に苦痛が浮かんだ。左手を外させると、コートの腕の部分に刃物で切られた裂け目が見えた。見事なものだった。ちゃちなナイフや包丁くらいではこうも綺麗には切れない。
 脱がせるのは諦めて、その部分から強引に、スーツもシャツもまとめて大きく破く。傷口も鮮やかで美しかった。鋭利な刃物で一太刀、そんなところか。確かに堅気な傷ではないだろう。
 彼の言った通り長さは十センチほど。放っておいて塞がるような深さではない。傷口には触れないようにして指で開く。白い組織が見えて、一瞬でそれを隠すように血液が盛り上がり、肌に伝い落ちる。
「ッ、」
「おれの家までもたせろ、飛ばせば三十分だ、死にゃしねえ。で、ここだけか? ヤクザな傷は」
 彼の襟元からリボンタイを引き抜き、傷の上の部分で腕をきつく縛る。彼は痛みに僅かに眉を顰めながら、大人しく身を任せていた。
「あとは、左足に軽いのが一箇所。そっちは自分で縫った。平気だ」
「この右腕で縫ったのか? そりゃご苦労だったな。鎮痛剤ぐらいあるか?」
「別に要らない」
「ああそう。じゃあ、ちょっと掴まれ」
 一応足の傷も見る。几帳面な縫合の跡が目に入った。まあ大したものだ。
 彼の左腕をとり、自分の首に回させて、抱き上げた。彼は一瞬だけ反射的に抗ったが、すぐに諦めたように縋る腕に力を込めた。まともには立てないのだろう。
 自分の車の助手席に彼の身体を下ろし、受け取ったキーで彼の車をロックしてから、運転席に座る。エンジンをかけたところで、彼の低い声がぼそぼそと言った。
「…悪いな」
「おれは高いぜ」
 無表情にボンネットのあたりを睨む彼を横目で見やって、少しも感情は交えずに答えてやった。
 悪い。ああ、確かに悪い。
 シフトレバーを握る手に、無意識に不必要な力がこもって、その自分に呆れる。
 何を言われたっていい。死神、殺し屋、人殺し。
 どんなに嫌われたっていい。ただ、きみの血は、見たくない。





 消毒して、縫合して、包帯を巻く。
 抗生物質を飲ませて、自分のベッドに寝かしつける。
 彼は一言も文句をつけずに素直に従った。その元気もないといったところか。たまに顔を合わせれば、なにかにつけて反抗的なセリフを吐く彼ばかり見ているから、こうも大人しいとかえって妙な気分になる。
 寝室に、椅子と、放り出してあった資料を持ち込んで、彼の寝息を聞きながら読む。時々彼の寝顔を確認する。文字の列がしばしば空回りして、あまり効率的とはいえない。
 明け方に彼は熱を出した。
 診療所へ注射器と解熱薬を取りに行った。寝室に戻ると、彼は熱で潤んだ目を開けて、天井をただじっと見詰めていた。呼吸が荒い。
「傷は痛むか? 鎮痛剤はいるか」
「…いらない」少し掠れた声で彼は言った。意識はまとものようだ。「傷は痛くないし、痛いとしても別にいい。ただ、苦しい…身体中寒気がする。肌が気持ち悪い。熱くて、寒い」
「熱があるんだよ。大丈夫、すぐ治る」
 シリンジに薬を吸い上げながら、宥めるように声をかけた。意識はまとものようだが、少々弱っているのかもしれない。大怪我の上に高熱、しかも寝ているのは会うたびに喧嘩ばかりしている商売敵のベッドときては、まあ仕方がないか。
 真っ直ぐ上を向いていた彼の目が、ふとこちらに視線を移した。美しい色だな、とどうでもいいことを何となく思った。深い赤。身を沈めたくなるような、他のものは全て捨て去りたくなるような、誘惑の色。
「苦しい」
 眉を寄せて、彼が再度言った。これは本当に苦しいのだろう。身体を少し折って、その顔を見る。熱で頬が上気している。
「キリコ…苦しい。何とかしてくれ」
「大丈夫。すぐに楽になる。心配するな」
「じっとしていられない…ざわざわする。辛いんだ。助けてくれ」
「助けてやるよ。さあ、腕出して。怪我してないほうだ」
 相当参っているな。
 シーツからそっと彼の左腕を出し、適当に着せたシャツを捲り上げた。肩のあたりをアルコール綿で消毒して、解熱薬を吸った針を刺す。
 内筒を軽く引いてから、押し込む。痛かったのか、彼が少し身じろぐ。アルコール綿を押し当てて針を抜き、注射器をベッドサイドに戻しながら、筋肉を揉んで薬を散らす。
「…楽になるか?」
 荒い呼吸に紛れそうな小さな声で、彼が言った。アルコール綿をゴミ箱に放り、彼に覆い被さるようにシーツに両手を付いて、その瞳を覗き込んだ。
「ああ。楽になるよ」
「おれは…辛いんだ。もういいか?」
「ああ。もういいよ」
「…おまえなら、おれを赦すか?」
「ああ。赦すよ」
 ベッドサイドの光を映す赤い瞳は、こうして間近に見ると、少し焦点が狂っているようでもある。ああ、あんまりまともでもないのか。
 出来る限りの優しい声で吹き込んで、喘ぐ唇に唇でそっと触れる。渇きを癒すように舐める。奪うのではなく、ただ与えるだけ。
 彼は瞼を閉じ、やや顎を上げて受け入れた。
「…眠れ。心配するな」
 有り得ないほど甘ったるい口付けの最後に囁くと、彼はまるで無防備に、安心しきったように頷いた。そのまま左腕をシーツに隠し、横向きに丸まって眠りに落ちる。
 可哀想に。何があったの? それでも聞くなときみが言うのなら。
 資料を読むのは諦めて、椅子を枕もとに近づけ、組んだ膝の上に灰皿を掴んだ左手を乗せた。煙草に火をつけ、煙を深く吸い込んで、吐く。目の前の患者もヘビースモーカーだから文句は言わないだろう。
 眠る彼の額にてのひらをあてる。少し汗ばんでいて、熱い。早く薬が効けばいい。
 たまにはこうして頼ってね。なんでも望み通りにしてあげるから。
 手を離し、寝顔を見詰める。唇が、くっきりとした長い睫が、熱に震えている。大丈夫、すぐに楽になる。
 このままきみが私のベッドで、眠り続ければいいなんて、酷いことをほんの少しだけ思う。





 夢を見た、と彼は言った。
 翌日の昼過ぎに目覚めたときには、彼の熱もすっかり引いていた。ベッドの上で適当に食事を取らせ、抗生物質と、いらないと言い張る鎮痛剤をやや強引に飲ませたあと。
 カーテンを開けた寝室には、鬱陶しい太陽の光が斜めに差し込んでいた。ベッドサイドに置いたガラスの水差しが、反射してきらきらと煌いた。
「なんだか、苦しい夢だ。身体中悪寒がして、ぞくぞくして、気分が悪くて、もうこの際だから全部おっぽり出して終わりにしちまいたいと思っているような夢だ」
「ふうん。そりゃア随分とまた後ろ向きな夢だな」
 右腕の包帯を変えながら気のない声で答えた。夢か。まあそのほうがいいだろう。
 彼は従順に右腕を差し出したまま、寝室の壁に描き出される光の模様を眺めているようだった。縫合のあとは綺麗なものだった。腫れてもいないし、膿んでもいない。熱を持っている様子もない。
「そうしたら、死神がな」彼は殆ど独り言の口調で続けた。「死神が、助けてやると言ったんだ。えらい丁寧に毒を打ってくれたんだ、左腕に。楽になると、もういいと、赦すと私に言ったんだ」
「ふうん」
「私は、それを聞いて、なんだか物凄く…安心したんだよ」
「お優しい死神もいたもんだな」
 包帯を巻き終えた右腕をシャツで隠して、食器を手に彼に背を向けた。リビングのソファにでもひっくり返ってしばらく仮眠を取ろう。目下の患者はもう心配もないようだ。
「キリコ」
 ドアを開けたところで、背中から声をかけられた。
 振り返って彼を見やると、彼は視線を僅かに斜め下の方向に外したまま、少し言いにくそうに呟いた。
「…悪かった…ありがとう」
「現ナマを積んでくれりゃいいさ」
 彼の視線がきちんと合うまで待ってから、唇の端で皮肉に笑って見せる。彼が次の言葉を声にする前に、あっさり切り捨てて寝室を出る。こうしてやらないといけない。こうしてやらないと、次に彼の右腕が傷ついたとき、彼は私に電話をかけてこないかもしれない。
 興味がないふり。興味を持たれていることは知っていても、知らないふり。
 互いに手を伸ばしたって、笑っちまうほど不毛であることには変わりないもの。
 キッチンに食器を置き、洗うのは後回しにしてリビングに向かう。庭に続く窓のカーテンを閉めてからソファに横たわり、肘掛に足を投げ出して目を閉じる。
 楽になるか? もういいか? おれを赦すか?
 ああ、全て受け入れよう。きみが望むなら、たとえそれが二度と戻れない深い闇でも。
 きみが私に望むなら、何処へでも迎えに行こう。
 徹夜明けの身体に睡魔はすぐにやってきた。暗い眠りに落ちながら、彼の肌に溢れる血の色を、彼の瞳の色を思い出し、やけに生々しい感情がすぐ近くで波打つのを感じたが、すぐにそれも黒一色に塗りつぶされた。
 眠りでさえ憂鬱なこの世界。
 ああ、だからお願い。
 残酷な傷を庇いながら、一人きりで泣かないで。
 私はここにいる。
 私が、ここにいる。



(了)