怖い夢

 怖い怖い夢の中で、あなたは生きている。
 さあ今宵、この一時は、わたしの夢で眠りなさい。


 夜中に泣いて起き出してきた娘を、ベッドに寝かしつけているときに、玄関の鍵が開く小さな音が聞こえた。
「先生…誰か来たの?」
「気にしなくて良い、安心して眠りなさい」
「ん」
 合い鍵を持っている人間なんて、一人しかいない。
 もう殆ど眠りかけていた娘が、とろんとした目を開けて、私を見た。にっこり笑ってみせると、すぐに瞼が落ちた。
 寝息を立てながらも、ぎゅっと握った私の手は離さない。この子はまさに卵の殻を割って、この世に生まれ出でた瞬間に、私の姿を見たのだと思った。
 悪魔の所行と言わば言え。
 確かに私は悪魔に近い。
 玄関のドアが閉まる音がして、足音がゆっくりと家の中に響いた。まずはリビングへ、それからキッチン、書斎を覗いて、寝室に近付いてくる。
 暗くすると娘が怖がるので、明かりはつけたままだった。
 ドアの隙間から零れる光を見つけて、足音は寝室の前に止まった。
 僅かな軋みを聞かせてドアが開いても、私は振り返らなかった。カーテンの合わせ目に細く覗くガラスに映る、彼の顔の表情を盗み見る。
 最初は私がここにいたことに、彼は微かに安堵したような目つきになった。それから、ベッドの端に腰掛けている私と、娘が仲良く手を繋いでいるその手を見て、形の良い眉が、軽く歪んだ。
「何をしてるんだ? ブラック・ジャック先生」
 一応、子供が寝ていることには気を遣った、低い声だった。
「娘を寝かしつけているんだよ、見れば判るだろう?」
「おまえのところのお嬢ちゃんは、パパの手を握っていないと眠れないような、ヤワなガキだったっけ」
「怖い夢を見たのだとさ。怯えていたんだ、だから宥めていたんだ」
「ふうん。そりゃあまた麗しい親子愛だ、羨ましい限りだ」
 ガラスに映る彼は、安堵も不興もあっさり仮面の裏に押し込んで、いつもの、少し皮肉じみた無表情になった。娘の寝息を聞きながら、私はこっそり笑った。らしくないんじゃないか、それとも充分彼らしいのか?
 娘に嫉妬するなんて。
「で、おまえさんはいったい何しに来たんだ? わざわざ嫌味を言いに来たのか」
「別に。何となく、そんな気分になっただけだ」
「そうか、何となく、そんな気分になったんだな」
「…おまえのほうが嫌味ったらしいぜ」
 彼には子供がいない。
 だから、親が子に注ぐ情というものを、理解できない、と彼自身思っている。
 だから、勝ち目はない。そう思っている。
「先生…?」
「ああ、悪い、眠っていなさい」
「こよしやのおっちゃん来てる?」
「おまえの怖い夢を、やっつけに来たんだよ、怖い夢より殺し屋のほうが、よっぽど怖いだろう。眠りなさい」
「あそばないの」
「もう遅いからね、お休み」
「うん…」
 話し声に目を覚ました娘が、半分寝ぼけた声で私を呼んだ。繋いでいた手を解き、髪を梳く。頬を撫で、瞼をなぞる。
 ちらりと目をやったカーテンの隙間、ガラスに映る彼の顔が、一瞬凶悪な色を帯びた。
 ざまをみろ、いつもは私が嫉妬するばかり、偶にはこういう立場も悪くない。
 絶対に勝てないライバルは、眠る幼子、さあ、どうだい気分は。
「遊んでくれよ、ブラック・ジャック先生」
「もう遅いからって、言っただろう? おまえも早く家に帰って、良い子に寝たらどうだ」
「眠れないんだ、寝かしつけてくれ」
「怖い夢でも見たのか、キリコ先生?」
 娘の寝息を確かめてから、腰を浮かせた。それでも夢の中、縋ろうとしてくる小さなてのひらに、わざとらしく口付けをして、私は立ち上がった。
 彼と、目が合った。
 今夜初めて、私と彼は、漸く向かい合った。
 視線がまっすぐに噛み合うと、彼はその端正に顔に、はっきりと嫉妬の色を浮かべて見せた。私の知る誰よりも、彼は、表情を外に出さない男ではあったが、ごく希に、こんなふうに、意図的に感情を見せつけるときがある。
 そういう彼は、嫌いではない。
 いつもの彼のように、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、彼に歩み寄る。彼は、私と娘との関係には割り込むことが出来ない、そう思っている。
 彼には子供がなく、多分、作る気もない。生物学的な意味でも、私のように物理的で環境的な意味でも。
 彼は、自分が他人の親になる資格はない、と思っているに違いない。何故なら彼の手は血で汚れすぎ、その空虚な目には絶望しか見えぬから。
 彼の立ち位置は重くて軽い。
 彼は意味をなしているのではなく、ただ怖い怖い夢を見ている。それは彼自身のみではなく、彼の知る生きとし生けるものすべてにおいて。
 そう思っている。
「怖い夢でも見たのか、キリコ先生」
 彼の目の前に立ち、繰り返してやると、彼は私の腕を掴んでやや強引に、私を廊下に引っ張り出した。抗わずに従う私の背を、閉じた寝室のドアに押し付けて、腕を掴んだまま間近に顔を覗き込んでくる。
「そうさ、おれはいつでも怖い夢ばかり見ているのさ、宥めてくれよ、先生」
「怯えているようには見えないがね」
「娘を宥めることは出来ても、おれを慰めることは出来ないのか? おれが見ている夢がどんなに怖いか、おまえに一度見せてやりたいぜ」
「冗談だろう?」
「ああ、冗談さ」
 滅多に私に見せることのない、あからさまな嫉妬と微かな不安と、何より色濃い諦念を映した、淡い色の瞳。
 冷ややかに見返してから、目を細めて嘲笑う。私はまだ終わっちゃいない、おまえのように、何もかもを終わりにして溜息一つ、絶望だけに身を任せて夢のない夢を見ちゃいない。
 私の手の先には幾つもの魂、そしてただ一つの魂。
 捨てる訳にはいかないんだ、おまえの見る悪夢を、一緒に見てやる訳にはいかないんだ。
 彼が、親が子に捧げる情を知らないように、私にも知らないことがある。
 例えば、彼を人間から死神に変えた悲劇を、私は知らない。
「おまえはおれよりも、あのお嬢ちゃんのほうが大事か?」
「そりゃあそうだ。おまえさんのような冷血野郎と、娘を比較しろというほうが間違っているんだ」
「いずれ奇形の命だぜ、おれも、アレもだ」
「青いことを言うじゃないか、どのツラ下げて」
「おれは今、世に言うやきもちというやつを焼いているんだ、宥めろ」
「気持ち悪いな」
「冗談だろう?」
「本気さ」
 突き刺さるような眼差しを、冷めた笑みで切り返し、両手を彼の胸について、覆い被さろうとする身体を押し返す。慣れた彼の匂いと、彼の手触り、どちらが大事かと迫られれば、私は迷わずに娘を選ぶだろう。
 彼は勿論それをよく知っている。
 彼には永遠に勝てない、勝ち目はない。
 私が作り上げた異形の灯火、悪魔の所行と言わば言え、私は確かに悪魔に近い。私がこの世に生きる限り、その小さな灯火は決して消えることはない、どんなに強い風でも、私がすべて受けて立とう。
 人ひとりに守れるものなど、せいぜい一つくらいのもの。
 私が生きている間に、彼は死ぬかも知れない。それでも良い。
 私には彼を守りきれない、それでも良い。ただし、一つだけ約束するならば、せめて安らかな眠りを。怖い怖い夢の終わりは、夢も見ない暗闇であれ。
 夢のない夢の終わりは。
「冷たいんじゃないの、先生。こんな夜におれを拒むのか?」
「言ったろう、おまえも早く家に帰って、良い子に寝たらどうだ」
「言ったろう、眠れないんだ、寝かしつけてくれ」
「しようのない子だ、こんなに大きななりをして、いまだにひとりじゃ眠れないなんて。本当にしようのない、我が侭な子だ」
「そうさ」
「あの子よりも聞き分けがないぜ」
「そうさ」
 彼の薄い唇が、にやりと笑みの形に引きつれた。私は彼のその表情は嫌いではない。普段の皮肉たらしい薄笑みよりは余程人間らしい。
 私に突き放されたまま、一歩の距離で立っている彼の左手を取り、てのひらに唇を寄せた。
 彼の大きな手からは、血の匂いがするかと思ったが、なんてことはない、甘くて深い彼の香りがしただけだった。
「ブラック・ジャック先生」
「大丈夫、もうこれでおまえさんはよく眠れるよ」
 彼が私を掴もうと伸ばした、その手に触れられる前に、身を翻して私は寝室のドアを開けた。するりと部屋に滑り込み、彼の表情は見ないままドアを閉める。
 ベッドの上には、眠りに落ちた幼子のあどけない寝顔。


 怖い怖い夢の中で、あなたは生きている。
 さあ今宵、この一時は、わたしの夢で眠りなさい。



(了)