頸を絞める。

 カーテンが白く焼け付く時間まで、ベッドの中で二人、怠惰に過ごす。
 剥き出しの肌をくっつけて微睡み、意味のない煌びやかな夢に目覚めては口付けをせがむ。馬鹿馬鹿しくなるような、午前十時。
 入れ違いにシャワーを浴びる。湿度の高いバスルームに彼の香りを探す。
 このひとときを何と呼べばいいのか、私には言葉が探し出せない。
 日向の蜂蜜みたいな、でもそんなには濃密でもないような。ずっと続けばいいと思いながら、でもそれも怖いような。
 身体を重ねれば必ずこのひとときが来るわけではない。肌を合わせなければ訪れないわけでもない。ほんのちょっとしたきっかけで、いやに繊細な歯車が合うみたいに、不意にやってくる。
 言葉は知らない、言葉は要らない。酔って蕩けてしまいたい。
 でも、それほど手緩くもないような。
 大きな鏡に自分を覗き込みながら、一人服を着る。なんて顔をしているんだろうと思う。
 爪を切られた猫、刃のないカミソリ、年上の男に一晩中抱かれて、余韻にうっとりしていやがる。豚め。卑しいメス豚だ。聞き慣れない言葉を幾度も囁かれて、もう腰砕け。
 サイアク。
 ねえ、それでも。
 それでも私は、このひとときに、酔って蕩けてしまいたい。
 シャツのボタンを一番上まできっちりとめて、リボンタイを片手に部屋へ戻る。二人とも随分と目立つ人相をしているものだから、あまり同じホテルには入らない、だが、ここには何回か来たか、カーテンが、ソファが、絨毯が、純白でとても気に入ったから。
 彼は真っ白なカーテンを背に、真っ白なソファに足を組み、のんびりと煙草を吹かしていた。胸元のボタンは二つ三つ開いたまま、銀色の髪を肩に散らせて、真っ白な背景でくつろぐ彼は、本当に、別の世界の生き物みたい。
 美しいと思う。足跡のない一面の雪が跳ね返す夜明けの光みたい。
 このシーン、この一瞬を、切り取って鞄に仕舞ってしまえればいいのに。
 いや、そうじゃない。私は足音を立てて、その一瞬に裂け目を入れる。彼の目の前に歩み寄り、無言で片手のリボンタイを差し出す。
 そうじゃない、切り取ってしまえないからこそ。
「…せめてにっこり笑ってみれば」
 彼は、煙草を灰皿に消しながら、少し揶揄うような声で言った。私は仏頂面のまま、彼をじっと見詰めた。だから、にっこり笑って、昨日は楽しかったわ、とか、また誘ってね、とか、大好きよ、とか、言えるわけがないじゃないか、この私が。
 だから、せめておまえの手で、私を縛ってくれ。
「…いやらしい男だ。可愛いよ」
 彼は私の代わりにその端正な顔へ笑みを浮かべると、私の差し出したタイを受け取り、ソファから立ち上がった。背が高い。今まで見下ろしていたのに、途端に見下ろされる。
「ちょっと顎上げて」
「…」
 彼の指先がすっと顎の下を撫で、それだけで私は多分、ふしだらな目付きになった。
 卑しいメス豚め。
 彼はその私に形の良い眉をひょいと上げて見せ、それから私のシャツの襟を立てて、丁寧にタイを巻いた。
 視界の下端、ぼやけた領域で彼の長い指が動く。自分の鼓動がどきどきと響いて煩い耳に、しゅ、とタイの擦れる音が聞こえる。
 解るだろうか、こうして無防備に、私はおまえに命を差し出している。
 タイを掴む両手に、そのまま力を込めてもいいんだよ、ドクター。
「よく似合う」慎重に時間をかけてタイを結んだ両手を離し、彼は満足そうに言った。彼の手が離れた襟元が、少し寒い、と思う。「この先生は、なんだってこんなものが似合うんだろう。なあブラック・ジャック。なかなかお目にかかれないぜ、リボンタイが似合う男。おれが結んでやると、よりいっそう似合う」
「誰が結んでも一緒じゃないか?」
「本当にそう思うなら、おまえはおれに結んでくれとタイを差し出すか?」
「…さあね」
 穏やかというのではない、でも切迫もしていない。時間の速度は、遅くて、早い。
 このひとときに。
「じゃあ、おれのも結んで」
 彼は、ソファの肘掛けに投げ出してあったタイを指さし、特には感情を込めない声で言った。柔らかいゼリーの海に身を任せるみたい、星の砂に肌を優しく削られるみたい。このひとときに。
 解るだろうか。 
 彼のタイを拾い上げて彼に視線を戻す。緊張する指先で彼のシャツのボタンをとめてやり、立てた襟の下にタイを通す。ねえ、解るだろうか。
 そうして無防備に、おまえは私に命を差し出している。
 このまま力を込めても。
「いいよ」
「…え」
 不意に言われて、私は咄嗟にタイから彼の顔へ視線を跳ね上げた。
 彼は目を細めて私を見ていた。やはり特には感情のない表情、いつも通りの顔。
「…なにが」
「だから、いいよ」
「…だから、なにが」
「絞めたけりゃ、絞めろ。いいよ」
「…」
 このまま力を込めても。
 私は多分一瞬、彼にだけは判るような、彼ならば判るような、泣き出す寸前の弱々しい表情になった。私は彼を殺してしまいたいと思ったろうか、そんな素振りを見せたろうか、頸を絞めてしまいたいというような目をしていたか。
 奇跡のようなひととき、切り取れない純白、去るものだからこそ美しいなんて、欺瞞。
 酔って蕩けて腐り果てて、地中に深く埋まりたい。
 ああ、でもそうしたら。
「独りでやるのは怖いか?」彼の頸に回したタイの両端を持ったまま固まってしまった私に、彼は淡々と言った。「それじゃあ、おれもやってやるよ、一緒にいこう。おまえは力一杯絞めないと、同時にはいけないぜ、力の差があるからな」
「…おれは」
「ちょっと顎上げて」
「キリコ…」
 戸惑う私の頸を、彼の大きな両手が、全く躊躇も見せずに掴んだ。成り行きが飲み込めずにただ目を見開いた私に構わず、その指に僅かに力が込められた。
「あ」
 視界がぶれる。
 予期していなかった、歓びに。
 真っ白な新雪の上、夜明けの光が輝いて、私の大好きな彼の手、私の大好きな彼の瞳、薄い色の瞳、私が映って。
「ほら、おまえも頑張って絞めろ。緩いぜ、これじゃおれはいけない」
「…は、」
「昨日の夜みたいに、ぎりぎり締め付けてこい、独りでいこうなんて、狡いんじゃない?」
「…キリコ、」
 精々少し目が眩むくらい、それほどの力は入っていない。
 勿論彼には私を絞め殺すつもりはない。判っていても。
 その誘惑がこれほどに魅力的だなんて、私とおまえの溶け合う温もりが、これほどに、刹那的だなんて。
 酔って蕩けて腐り果てて、地中に深く埋まりたい。
 まっさらな雪の上に、血の痕を一つ、二つ。
 けれど、私は生きる。私とおまえは、暗闇の中、生きている。
「キ、リコ…」
 彼のタイから手を離し、私の頸に巻き付く彼の指に指を重ねる。声が掠れる。この男が私を殺そうとしたら、きっと簡単だろうなと思う。
「もう…、もう…しない」
「なにが? なにを?」
「…生きているおまえのほうが、いい」
「先生は、あれだね、一度ストーブに触って火傷しないと、学ばないタイプだね」
「…馬鹿なのさ」
「馬鹿だな」
 彼の手からすっと力が抜け、その手に今度はぎゅっと強く抱き寄せられた。結ぶ途中で放棄した彼のタイが、音もなく絨毯に落ちた。
 馬鹿なのさ、失うのが怖いから、今消してしまおうなんて。
 白いカーテンを焦がす太陽の光が、眩しい。
「せめて好きだとくらいは言ってみれば」
「…おまえが二人分言えばいい」
「益々いやらしい男だな。可愛いよ」
「いやらしいのは、おまえだ」
 心臓の音が重なる。彼の頸に腕を回してしがみつく。純白の部屋で二人抱き合って、私達、雪の冷たさも知らない天使みたいに見えるかしら。
 このひとときを、何と呼べば。
 ほら、もう午前十時すぎ。眩しすぎる太陽に射抜かれないように、薄暗い影の中、互いに背を向けて、違う場所へと歩き出そう。
 約束の一つも交わさないで、それでも私とおまえは、或る日また、運命みたいに抱き合う。



(了)