肉を噛む。

 枕の上に散った柔らかい髪で遊んでいたら、奴はぱちりと目を開けて、私のその手を取り、いきなり親指に噛み付いた。
 結構な強さだった。
 朝もまだ早い時間、ホテルのベッド、隣に埋まった男が眠っているものとばかり思っていた私は、確かに少々驚いたが、奴に私が驚いたことが判ったかどうかは判らない。
「痛い」
 きっちりと閉じられたカーテンからは殆ど朝日も入らず、ベッドサイドの淡いランプの光だけが、奴の端正な顔に影を彩っている。つやつやとした赤い瞳には、寝起きの不確かさはなく、ただ伺うように私の動きを待っている。
 噛まれた指の先を、ちらりと濡れた舌が掠めた。
「痛いよ、ブラック・ジャック先生」
 何箇月に一度、年に何度? 私達は気紛れに抱き合って、やがて老いて、薄れて、互いを忘れていくのかも知れない。或いは死が二人を分かつまで、互いに何かを相手の上に見続けるのかも知れない。
 それは判らない。判ろうとも思わない。
 ここに今他人の体温が、不自然でなく、ある、それ以上でも以下でもない。
 ただ、時々は思うことがある。
 刻み刻まれるような、刻み合うような、衝動的な、野性じみた、身に滾り一瞬で通り過ぎる切なさを、どうしたらいいのだろうかと。
 愛しているのだとは思わない。愛されているとも思わない。
 もっと鋭い、敵意にも似た尖った感情が、ふと、足下から湧き上がり、傷付け合うように、私達は抱き合う。愛情のような穏やかなものが、万が一私の中に滲むことがあるのだとしたら、快楽の果てに眠りについたその男を見るとき、翌朝目覚めたベッドで、枕の上に柔らかい髪を散らせて、眠るその男を見るとき、淡いランプの光が、長い睫の影を落として。
 愚かな夢に沈んでいるとき。
「先生」
「腹が減っているんだ」
 親指を吐き出し、奴は今度は手首に噛み付いた。離れる瞬間、触れる瞬間、柔らかい唇が愛撫のように肌をなぞる。意図的なのか、そうでないのか。
 皮膚と肉越し、ごりごりと骨に歯があたった。真っ直ぐに電気が通るみたいな痛みが、心地よいと何故だか思う。
 手首を食い飽きたら、次は二の腕の肉を口いっぱいに頬張る。
 私は自分の親指と手首に、くっきりと残る奴の歯形を眺める。
 互いに相手の行動の意味を、見透かす無駄を私達は無意識に避けていた。それでもどうしても、解ってしまうときはある。
 例えば、私と奴が同じときに同じことを感じているとき。
 刻み合うような、衝動的な、野性じみた。
「おまえは食い難いな」奴は私にのしかかるようにして身体の位置を変え、顔を上げた。濡れた唇をちらりと舌で舐める、そのいやらしい仕草。「女みたいに柔らかくないし、ふわふわしていない。食い難い。骨は太いし、筋肉は硬いし」
「女にその強さで噛み付いたら、泣きながら逃げるんじゃないの」
「歓ぶ女もいるぜ、もっと噛んで、もっと噛んでってな。おまえはそう言う女は抱かないのか?」
「御期待を裏切るようで悪いが、おれは紳士的なセックスしかしないんだ」
「おれを抱くときは、おまえ時々獣のようだぜ」
「おれが紳士的なのは相手が女の場合だよ、フェミニストだと思ってくれ」
「化けの皮を被りやがって、厭な野郎だ」
「厭な野郎なのさ」
 表情も作らずに言い返すと、奴はひとつ舌打ちをして、私の耳元に顔を伏せた。軽く耳朶を噛み、頸を噛み、それから思い切り肩を噛む。
 薄膜を手探りで破られるような痛みは、遠くにあって、同時にとても近くにあった。
 奴の好きなようにさせながら、私はやはり自分の腕を見ていた。
 私が今ここにいて、奴もまた今ここにいる、それこそが生というものだ。瞬きをする合間に、私も奴も消え失せる、それこそが死というものだ、今この一刻一刻、それこそが生と死だ。
 奴の唇が、歯が、舌が触れた部分は、唾液に濡れ、そっと冷える。
 手首の骨に響いた痛みがいつまでも居座り、私は初めて、二つの感情が共にあれることを知る。
 刻み合うような、衝動的な、野性じみた。
 愚かな夢に沈んでいるときの、穏やかなもの。
 嘘、幻を見るよりは、砂漠を、荒野を見ていたいと、願う私達はとても貪欲なのだろう。何の誤魔化しもなく生きていくことなど出来よう筈もないのに、誤魔化すことは嫌いだからと、卑怯にも口を噤んで、それでも目だけはぎらぎらと。
 私達は罅の入った鏡、見つめ合えば左右対称に自分が映る。
 いつか叩き割ってしまうのか、それとも視線を外せなくなるのか、それは判らないし、判らなくて良い。
 今ここにある、それだけだ。
 右手を伸ばせば、奴の左手に触れ、左手を伸ばせば、奴の右手に触れる。
 剥き出しのまま。
「…厭がるとか歓ぶとかしろよ。痛いんだろ?」
 私の鎖骨に歯を立てていた奴が、顔を上げ、少し呆れたような表情を見せた。顎の先を軽く噛み、そのあとをぺろりと舐める。生意気で、不貞不貞しくて、可愛らしいなどと頭の隅で思う。
「おれがどうすればおまえは嬉しいの? 教えてくれればそうしてやるよ」
「それがつまらねエんだよ、自分で考えろよ、痛いんだろ?」
「そりゃあ痛いけど、ね」
「本当に、つまらねえ男」
 二度目の舌打ちをして、奴は私の下唇を噛んだ。伺う赤い瞳は、まだ私の動きを待っている。
 こんなふうに露骨に誘ってくるなんて、珍しいじゃないか?
 何が欲しい? いや、欲しいものなんて無いのだろう、ただ、衝動的な、野性じみた、あの感覚が。
 私と奴の望みは、ただひとつ、多分ただひとつ同じもの。
 時々絡み付く感情も、多分、ある時は同じもの、そして、またあるときは、左右対称のもの。
 私に覆い被さっている奴の肩を掴み、反射的な抵抗は無視して、身体の上下を入れ替えた。昨夜の行為で乱れたシーツの上に、細身の身体を組み敷き、それから奴の片手を取って、徐に親指を噛む。
「キリコ」
「見本を見せろよ、先生。おれはつまらない男だから、男に噛み付かれたときにどうやって見せれば相手が愉しめるか、知らないんでね」
「痛い、本気で噛むな」
「おまえだって結構本気で噛んでなかった?」
「おれはおまえほど鈍感で頑丈じゃないんだよ」
「腹が減ったのさ」
 奴がしたのと同じように、手首に歯を立てる。皮膚を通して骨を噛む感触、思い切り力を入れたら砕けてしまいそう。
「い…、」
「痛いか。厭がったり歓んだりしろ」
「よせ、変態…」
「おまえが先にやったんだろう?」
「あ、」
 耳朶を噛むと、奴の身体がぴくんと跳ねた。細く息を吹き込んで、震える肌を愉しんでから、柔らかい頸の皮膚を丁寧に舐め回し、時々歯を立てる。縫合の痕に舌をねじ込み、しつこく辿る。
 生き物の味がする、と思った。
 旨いとか旨くないとか、そんなことは判らない。ただ、奴は奴の味がする。他の誰とも違う、味、匂い、手触り。
 ああほら、またあの感じ。
 それから、あの感じも。
「は…、キリコ、痛…ッ」
 肩にきつく噛み付くと、奴は少し掠れた声を上げた。充分に濡れて、色めいた声だった。
「や、め…、痛い…、ア」
「ふうん。そういうふうにして見せれば、相手は歓ぶのね。さすがブラック・ジャック先生、今後の参考にするよ」
「馬鹿…、が…ッ」
「勃ってるな」
 股間に、徐々に硬くなる奴の性器を感じる。私達は単純で、何も知らずに育った温室の果物のようだと思う。
 或いはあまりに知りすぎて、腐って落ちた果物のよう。
 他に方法を知らないし、他に方法がないことを知っている。
 ふと湧き出してすぐに去る感情を、慰め合うのではなく、確かめ合うのでもなく、ただ、こうして、共有する日があってもいいじゃない。
「おまえ、が、悪い…、キリコ」
「ああ、ああ、そうだよ、いつだっておれが悪いのよ」
「…め、よ」
「なに?」
「もっと、噛めよ…」
「なるほどねえ」
 衝動的な、野性じみた、身に滾り一瞬で通り過ぎる切なさを。
 愚かな夢に沈んでいるとき、滲み出でる愛情のような穏やかなものを。 
 ひとつの身体で同時に感じることが出来ると私は知る。多分奴も知っている。それは何より痛みに似ている。痛みに似ていると、私達は思うしかないのだろう。
 だから、この肌に刻もう、私達の切なさと愛情のようなものは、痛み、ただの痛みでいいから。
 この肌に、刻もう。



(了)