おまえはもう、逃げられない、この私から。
何故なら、おまえが鬼だから。
足早に、彼の前を通り過ぎる。
「ブラック・ジャック」
呼び止める彼の声を無視して、夜の病院の廊下、階段へ向かう。
おまえはもう、逃げられない、この私から。
何故なら、おまえが鬼だから。
恋は、追いかけるほうが負け、追いかけられるほうが勝ち。
そんなこと、誰が決めたものでもないけれど。
「ブラック・ジャック」
真後ろに足音が聞こえて、肩に手が置かれる、瞬間に、その手から逃げるように振り返る。
黒いコートが翻って微かな音が鳴る。視線に強さと、僅かばかりの鋭い誘惑を混ぜて、背の高い彼を睨み上げる。
「うまくいったんだろう?」
「ああ」
「その割に、機嫌が悪いようだがね」
「…そう見えるか?」
唇の端に僅かな笑み、彼が瞬きをするその隙に、私はさっさと彼に背を向けて、階段へ足をかけた。
まさか走りやしないけれど、歩調を早めて、地下駐車場へと向かう。彼は少しの間を置き、私の後を追ってくる。
ほら、御覧。追いかけるのは、いつだっておまえのほう、だからおまえは逃げられない。
私を逃がすまいとして追いかけているようで、逃げられないのはおまえのほう。
もう私に嵌ったろう? 私に片足を突っ込んで、もう抜け出せないだろう。
勝手に笑みが浮かんでしまう、私にかかれば、死神の一匹や二匹。
「ブラック・ジャック」
地下駐車場への重い扉を開けたところで、後ろから彼に腕を掴まれた。ちらりと彼を見上げると、彼は微かに眉を顰めて、私を見下ろしていた。
「何かあったか? 先生」
「そう見えるか?」
「おれは時々、おまえが何を考えているのか、判らなくなる」
「時々じゃないだろう?」
くすりと笑ってみせると、彼は軽い溜息を吐き、それから、腕を掴んだ私を引きずるように、ひと気のない地下駐車場に踏み出した。
停まっている車はまばら、彼は真っ直ぐ彼のセダンに歩み寄った。助手席側に私を引っ張り、顎で座れと促した。
「乗れよ。厭じゃないだろう?」
「おれが厭じゃないなんて、どうしておまえに判るんだ?」
「ずっと会えなかった。漸く会えた。ここでハイさようならはないだろう」
「おれはおまえに会うために、ここに来たわけじゃないぜ」
にやにやと笑って、上目遣いに彼を見る。彼はまたひとつ、小さな溜息を洩らし、私の肩を掴んで助手席のドアに私の背を押し付けた。
正面から彼と視線が合う。
いい男だと私は思う。
少々鋭利に過ぎて、間違っても優しそうではないけれど、実はこの男は優しいし、信じ難いことに感受性もまあ豊かだ。
幾度となく心を捨てたような目付きをしているが。
「付き合えよ、何があったか知らねえが」
「別に何もない、ひとつ仕事が終わって、素晴らしい出来だっただけだ」
「だったら尚更付き合えよ、付き合えない理由があるのか?」
「おれがおまえに付き合わなくちゃならない理由こそ、ないと思うがね」
一度、二度、セックスできたからって、三度目が当たり前のように与えられると思ったら間違いだ。
それが十回でも二十回でも。
上手に誘惑して、捕まえて御覧、おまえが鬼なのだから。
彼は口が巧くない。
私の言葉に、何か言い返そうとして口を開いたが、結局は何も言わずに口を閉じた。皮肉を言うのは得意なのに、男を口説く言葉など出ないか。
全く可愛い死神だこと。
恋は、口説くほうが負け、口説かれるほうが勝ち。
そんなこと、誰が決めたものでもないけれど。
「放せよ」
唇に笑みを敷いたまま、肩を押さえる彼に言った。
彼は、困ったような、不機嫌なような表情をして、ゆっくりと私に顔を近付けてきた。
くすくすと笑いが洩れる。ああ、おまえ、すっかり私に夢中だね。
追いかける恋は盲目、だから私は永遠に追いかけられよう。おまえが脇目もふらずに私だけを追いかけてこられるように。
捕らえられたのは、おまえだよ。
唇が触れる寸前で、彼の身体を押しのけ、彼から逃げた。逃げられたことに驚いた顔をして私を見る彼に、揶揄う笑みを見せ、黒いコートを翻して背を向ける。
「ブラック・ジャック」
「おまえ、女を誘うときも、そんなに芸がないのか?」
「待てよ」
まばらに停まる車の隙間、くるりくるりと足早に逃げる。彼は大股で私を追ってくる。深夜の鬼ごっこ、銀髪の鬼に、捕まったら終わり、恋は収束に向かうだけ。
だから私は逃げるんだ。
おまえを逃がさないために逃げるんだ。
二人思いのままに抱き合ってしまったら、そこで終わってしまうもの。
終わってしまうのは怖い。
私も案外捕まっているのかもね。
押したり引いたり、逃げたり寄ったり、避けたり背いたり、恋の駆け引きなど、おまえは知らない。
ストレートな行為に、私も案外捕まっているのかもね。逃げてみせれば追ってくる、捕らえて、抱き合おうとする。
まだ駄目だ、おまえを捕らえておくために。
だっておまえは、鬼だもの。
自分の車に辿り着き、運転席のドアに手をかけたところで、後ろから追ってきた彼に手首を掴まれた。
「痛い」
「おれのことが厭なのか?」
口付けを求めたときと同じ、少し困ったような、不機嫌なような声で、彼が言った。
「痛い、キリコ。手を放せ」
「答えろよ、おれのことが厭なのか?」
「答える義理があるか?」
「…」
一瞬の沈黙があって、彼の手は私の手首から離れた。
素直な男だ、もうおまえは私のてのひらの上、如何様にも転がせる、私の思う通り。
おまえは逃げられない、この私から。
私に首輪をつけられたまま、いつまででも、いつまででも、私を追ってくるしかないんだよ、可愛い死神さん。
運転席のドアを開けても、彼は止めなかった。
ただ、顰め面をして、その場に突っ立っていた。
勝手に笑いが洩れてしまう。私はふと気紛れのように、爪先立ちをして、彼の唇に軽く口付けた。
彼が呆気にとられている間に、運転席に座り、エンジンをかけた。
アクセルを踏むときに、ガラス越しに見た彼の唇は、多分一度だけ、私の名を呼んだ。
どうだい、死神先生? こういう演出のほうが燃えないか?
言われるままに抱かれる男より、追いかけがいもあるんじゃないか?
ゆっくりと車を発進させる。ミラーに、二、三歩私を追い、すぐに踵を返した彼が映った。
「ははっ」
一人きりの車の中、遠慮無く声を出して笑う。
彼はきっとすぐに、彼の車のエンジンをかけて、私を追ってくるだろう。だってこれは鬼ごっこだから。
傾斜を上り、駐車場の出口で少し待つ。慌てたようなエンジン音を聞いてから、のんびり車道に出る。
さあ、今日は何処で鬼ごっこをしようか、最後は何処に行き着こうか?
天国でも地獄でも、全ては私の思うがまま、私の思う通り。
おまえはもう、逃げられない、この私から。
何故なら、おまえが鬼だから。
(了)