オペ代

 今夜、今、今ならば、誘えるかもしれないと思った。
 ホテルの最上階のレストラン、オペのあと何となく連れ立って何となく一緒に食事。これだって充分奇跡に近い気がする。ワインがまた飛び切りに旨いし。
 ガラス張りの店内から見下ろす夜景。淡い照明、テーブルには赤い蝋燭。
 今ならば誘えるかもしれない。
 誘えるかもしれない瞬間なんて、滅多に訪れない。顔を合わせれば文句ばかり。
 今を逃したら。
 ほら、まあ相変わらず表情の読めないツラをしているけれど、その右目は少しだけ穏やか。
 綺麗な瞳。その銀髪に、触れたらどんな感じだろう。
 今ならば誘えるかもしれないんだ。
 できるだけ軽く、意味なんかないように、気紛れに、濡れて色めく花みたいに。
 相手が彼である必要もないというくらいの素っ気なさで。
「なあ、キリコ。今回のオペ代、身体で払えよ」
 いやらしい薄笑みを唇の端に浮かべて。
「オペのあとは、なんだか火照るんだ。おれを抱いてみないかい? 安く上がっていいだろう」



 彼は一瞬の間を置いたあと、にやにやと笑いながら、そいつはいい、と答えた。
 男を抱いたことがあるのだろうか? 抱かせろとは言わなかった。男相手で役に立つのか。
 いや、私相手で。
 頭からシャワーを浴びながら、自分の身体に指を這わせて点検する。別に何処もまずいところはない。まずいというなら最高にまずいこの縫合痕、これで彼が引くならしようがない。文句はない。
 どうして彼はついてきたのだろうかと、自分で誘っておきながら疑問に思う。
 オペが成功して気分がいい? まあそれはあるのかもしれないが、いくら気分がよくたって普通男が男に誘われて、そうほいほいとついてくるものか。しかも誘ったのはこの私、商売敵、邪魔で邪魔でしようがない男。
 酒に酔っている? 有り得ない、あの程度の酒であの男が酔ったら地球がひっくり返る。
 単にオペ代にキャッシュを出すのが厭? いや、男を抱くくらいならば普通金を出す。
 私に少しでも興味がある、なんてことは絶対に絶対にない。
 随分と大胆な気の迷い。或いはこんなふうに誘われるのは慣れているのかもしれない。
 彼は色男だから。
 だったらいい。遠慮なくいただくだけだ。
 ずっとずっとずっと、彼のその腕に抱かれたいと思っていた私は乞食みたい。
 歯向かい罵倒しながら、ずっとずっとずっと、彼に触れたいと思っていた私は哀れな変態。
 タオルで適当に身体を拭き、バスローブを引っかけてバスルームを出た。
 彼は煙草をふかしながら、二人がけのソファでのんびりくつろいでいた。いつの間に開けたのだか赤ワインをボトルから直接飲んでいる。
 レストランから真っ直ぐホテルの一室に来た。飛び込みだったから、安くて野暮な部屋だ。広い室内にダブルベッド、ソファにガラステーブル一式、壁にはめ込まれた鏡と向かい合うデスク、バスルームにトイレ、それだけ。趣味の良い間接照明が何とか品位を保っているという程度、サラリーマンの、精々課長か部長かレベルの出張向けがいいところ。
 その色気のない部屋で、これから男を抱かなくてはならないというのに、よくもまあそうもくつろげる。
 わざとスリッパの音を立てて背中から彼に近づくと、彼は咥え煙草のまま顔だけで振り向いた。
「シャワー空いたの?」
「おまえはシャワー浴びなくていい」
 言ってから、少々ぶっきらぼうに過ぎたかなと思ったが、可愛らしい声で可愛らしいセリフを吐ける性分でもないので、今更どうしようもない。
 瞬きひとつで何故と問う彼に、またもやつっけんどんな口調で返す。
「おまえの匂いが好きなんだ。そのままでいい。そのまま、おれを抱いてみてくれ」
「へえ」
 彼は私の言葉に、なかなかお目にかかれないような、実に楽しそうな笑みを浮かべて見せた。
 嫌悪を示しても良いところだが。
 彼の余裕を良いことに、ソファに埋まる彼の前に周り、片膝をついて彼の靴を脱がせた。まるで奴隷の仕草。
 彼は厭がりもせず、逆にくつくつと小さく笑い声を聞かせた。本当に楽しんでいるのだろうか、本当に面白がっているのだろうか、それとも本当は薄気味悪がっているのか、本当に、判らない。
 彼の唇から奪った煙草を灰皿に消し、履いていたスリッパを差し出した。自分は裸足で、彼の腕を掴み、引っ張り立たせた。
 彼は特には抗わない。
 ベッドの前まで導いてから手を放し、掛け布団を引き剥がしてシーツに乗った。
 彼のほうへ向き直ってベッドの上にべったり座り込む。じっと見上げると、彼は僅かに首を傾けて両手を広げて見せた。そういう仕草が、嫌味なくらいに様になる男だ、嫌味だ。
「で、どうしろと?」
「服を脱いでくれ。そこで」
「おまえ、自分で脱がせたら? そのほうが興奮するんじゃない」
「おれは、おれの目の前で自ら服を脱いでいくおまえをじろじろ見たいんだ。オペ代だからな、三千万円分のストリップだと思えば気分良く脱げるだろ」
「へえ。どういう趣味なんだかねエ」
 彼は形の良い眉を少し歪ませて呆れたように笑い、それでも言われるままにジャケットを脱ぎ、床に落とした。
 安物ではないだろうに、皺にならないかと余計な心配をする。本人は全く気にする様子はなく、無造作な手付きでストライプのタイを解いている。
 しゅ、と衣擦れの音。
 色気があると思うのは私がおかしいからか。素っ気ない仕草でも彼がやると端々に色が滲む。立つ、歩く、座る。肉を食う、酒を飲む、ナプキンで口元を拭う。煙草を吸う。ジャケットを放る。ネクタイを外す。
 まだ幼いとも言えるころに、毎日のように男と性的に戯れていた時期があった。以来何人かの男と肌を合わせた。抱いた女の数と同じくらい。それはそれで私にとっては差し迫ったものだったこともあるけれど、その所為でこうも異常なくらいに男に色気を感じるわけでもないと思う。
 この男だから。
 男と寝たことがなければ誘えない、誘えないが、男と寝たことがなくても、きっと、とても惹かれる。
 月光の香りに吸い寄せられる惨めな虫みたいに。
「服を脱ぐおれを見ていて、欲情するのかい? ブラック・ジャック」
「ああ。するよ」
「注文を付けたら? もっと色っぽく脱いでくれとか」
「普通に脱げばいい。それでいい」
 間接照明に映える銀の髪。
 彼は、じろじろと見る、と言った私が、いったい自分が見ているのだかそれとも見られているのだか判らなくなるくらいに、まっすぐに私を見ながら、服を脱いだ。
 感情の読めない視線には熱もない。怒っているようではないがそれも判らない。
 ゆっくりと晒される肌に徐々に鼓動が早くなる。
 自分の身体に余程の自信があるに違いない、彼は人前で服を脱ぐという行為に全く何の躊躇いも見せなかった。むしろ私のほうが馬鹿みたいに緊張してベッドの上で固まっていた。傷跡だらけの自分の肌を二度と見たくなくなるような、美しい肉体、均整の取れた、あらゆる曲線を、角度を、まるで緻密に計算して絵に描いたみたいな。
 私は多分相当間の抜けた顔をしていたのだろう。物欲しげな顔と言った方がいいか。
 下着一枚残して服を脱ぎ捨てたところで、彼は、その私を揶揄う声で笑って言った。
「これくらいは、おまえ、自分で脱がせてみる? 今にも食い付きそうなツラだ。いつもオペのあとはそんなに餓えるのか」
「…もっとこっちに来いよ」
「ブラック・ジャック先生がこんなに貪欲だとは思わなかった。サルだな」
「サルで結構。こっちに来いよ」
 ローライズのビキニ、黒? 何だってコイツはこんなにいやらしいものを常用してるんだ。
 彼は実にのんびりとした動きでベッドまでの距離を詰めると、シーツの上に座り込んでいる私のすぐ目の前に立った。僅かな動揺もない、これっぽっちも切迫していない、綺麗に力を抜いた姿勢のまま間近に私を見下ろした。
 ごくりと喉を鳴らした私の頬を、長い指がすっと一瞬だけ撫でて、すぐに離れた。
「でかくて良いだろ。おまえ好みなんじゃないの」
「…」
「頑張ってもっと使い勝手がいいシロモノにしてみたら。御期待を裏切らないだけのものにはなると思うけど」
「…気味が悪いとは思わないのか?」
「別に。これはオペ代なんだろう? いいんじゃない、別に。おまえの好きなようにしてやるよ」
「…」
 気味が悪いとは思わないのか?
 バスローブからはみ出した肌に走る縫合痕を、目をぎらぎらさせて男の裸を見詰めている男を。
 おまえに抱かれたいと言う、醜い私を。
 無言のまま手を伸ばそうとした私に、彼は気のない声で言った。
「おまえも脱げば?」
「…どうして」
「おれを興奮させてくれないと、使えないぜ? おまえを見ればやる気になるかもしれない、おれが服を脱いで見せただけで、意地汚く興奮して、もうたまらなくて勃ってるおまえを見れば。興奮ってのは伝搬するんだ」
「…おまえだってサルみたいなもんじゃないか」
「サルで結構」
 伸ばしかけた手を自分のバスローブの紐にかけ、緩い結び目を解いた。心臓の拍動が胸腔を突き破りそうだった。この身体を見て彼はどう思うのだろうか? 驚き、哀れみ、背を向けるか。
 あまりにも違いすぎる。その足下に跪いて許しを請い、涙を流して慈悲を求めることができるならば。
 彼をじっと見詰めながら、バスローブを腕から抜く。そうすれば、彼は私の頭を踏み付けて、私の願いを一度くらいは聞いてくれるかもしれない。薄汚れた人形の価値を計るみたいに、一度くらいはその腕に抱きしめてくれるかもしれない。
 そして二度と私は彼の瞳には映らない。そんなことは私には耐えられない。
 頸から肩、腕、胸、それから彼の言葉通り意地汚く興奮している股間を、だらしなく座り込んだ脚を、彼は舐めるような目付きでじっくりと、時間をかけて眺めた。
 私はただ彼の視線の前に全裸の身体を晒していた。じりじりと肌が焼けるような気さえした。
「ツギハギだ。よくもまあ生きていたもんだ」
 暫くの沈黙のあと、彼は全く遠慮のない口ぶりで言った。
「こんな身体は見たことがない。ちゃんと機能しているのが奇跡だな。そのうえこんなにはしたない身体も見たことがない、おれを見ておれに見られるだけでそんなになるのか」
「そうだ。面白そうだろう。少しはやる気になるか? この壊れかけのはしたない身体が、おまえにどんなふうに反応するのか、抱いて確かめてみてくれよ。三千万円分、楽しませろよ」
「現金を積まれるよりも、おれに抱かれてみたいんだな」
「おまえは現金よりも、いいものを持っているんだろう?」
 にやにや笑いながら言い返してやると、彼は鋭利なラインを描く眉を跳ね上げ、私を見下ろす目を笑みの形に僅かに細めた。私の言葉に満足したような、或いは飛び切りに気分を害したような表情だった。
 本当に、何を考えているのだか判らない。多分、そんなところが私を惹き付ける。
 そして私以外の人間を。
「おまえはとても可愛いね、ブラック・ジャック」
 彼は私の顔を鏡に映したみたいに唇の両端を引き上げてにやにやと笑いながら、片手の指を黒い下着の縁にかけ、少しだけ引き下ろしてみせた。
「さあ、おまえの欲しいものを手に入れろよ」





 恋人を抱くように抱いてみてくれと言った。
 彼は、ネズミの尻尾を踏んだ猫みたいに喉で笑った。
「アバウトすぎて解らないよ、それじゃあ。もしかしたらおれは恋人を虐めて悦ぶタイプかもしれないぜ」
「それならそれでもいい。どうやってもいいから、おれのことを好きでたまらないと思って抱いてみてくれ。おれのことを世界で一番好きだと思って抱いてくれ。おれが愛おしくてならないと思ってくれ」
「へえ。おまえは恋人に抱かれるように、おれに抱かれたいわけね」
 僅かに嘲りを含んだ口調にさえぞくりと鳥肌が立つ。
 初めて交わした口付けは冷たくてそれなのに甘くて、まるで彼そのもののよう。
 照明は消さずにベッドの上で縺れ合った。色気のない部屋、相手は色気もクソもないツギハギの男、せめて言葉通り虐めて楽しみでもすればいいのに、彼は全くオーソドクスに私に触れた。
 全身に指先を這わせ、私の弱点を探し出しては丁寧にその場所を愛撫する。徐々に呼吸を乱し、淫らな声を洩らしはじめる私を確かめるみたいに、ゆっくりと。
 優しく抱かれて戸惑う私は何処かおかしいか。
 思い返せば自分からこうもはっきりと求めて誘って誰かと抱き合ったのは初めてだった。彼の指が、唇が、剥き出しの肌が、私に触れるだけで泣き出したくなるほど身体が熱くなるのはその所為か。
 何度も男と寝たことがある。それでも、こんなふうに感じたことはない。
 体温を寄せ合うだけで神経が焼かれるように苦しくなる、こんな感じは、知らない。
 私の息がすっかり上がってから、洗面所に備え付けの安っぽいミルキーローションで、彼は私の後孔をじっくりと解した。熱に浮かされた声で、そこを使ってくれと、私が要求した。男を咥え込むことに慣れた浅ましいその場所で、私は彼と繋がりたかった。
 彼を身体の奥で感じたかった。何がそこまで私を切実にさせるのか、私にはよく判らない。
「ア、」
「力を抜けよ。おまえがここを使いたいって言ったんだぜ?」
 向かい合って横たわり、私を肩にしがみつかせたまま、彼は右手だけで私の尻を弄った。脚を閉じようとしても、逆に彼の脚で大きく開かされ、震えるつま先を彼の腰に絡み付かせることしかできない。
 自分がどんな体勢になっているのだか、もうよく理解できなかった。ただ目の前にある彼の逞しい肩に縋り、与えられる刺激を飲み込むので精一杯だった。
「ほら、力抜けって。して欲しいんだろう? 慣れているんじゃないの」
「ウ…」
「もっとぐちゃぐちゃに開かないと、おれのは入らないよ。今までにおまえを抱いたそこいらの男がどうだったのかは知らないが」
「…キ、リコ、あッ」
 ローションで濡らされた内部に潜り込んだ二本の指を、軽く出し入れされて、思わず彼の肩に爪を立てた。ぎゅっと閉じた瞼の裏で、ワイングラスを掴む彼の指を、煙草を唇に運ぶ彼の指を思い描く。
 あの長くて美しい指が私の尻に入っている。そう思うと何かを冒涜しているかのような、ぞくぞくとした快感が湧き上がり精神を焦がす。
 暫くは入口の強張りを宥めるように浅く動かしていた指を、不意に今度は思い切り深く突き立てられて、自分でも意図していない高い声が出た。
「アア…!」
「感じやすいのねえ、先生。これじゃあおれのを入れたらおまえ、気が狂っちまうなあ」
「ン、や」
「でも、入れて欲しいんだよなあ? しようがないね、三千万円分、ちゃんと楽しまなくちゃねえ」
「あ、あ、」
 深く差し込んだ指先が、ぐっと内部で曲げられる。そのままずるずると内壁を擦り上げられて、唇から途切れがちな悲鳴が洩れる。
 指だけで、なんだか途轍もなく広げられているような気がした。指先が最も過敏な場所を往復するたびに、びくびくと勝手に身体が跳ねる。
 ああ、この男は男を抱いたことがあるんだと、今更ながら快楽に霞む意識の端でぼんやり思った。
 女を抱く手付きじゃない。この男は男を抱いたことがあるんだ。抱いたことがあるなんて可愛いものじゃないのかもしれない。
 どんな男を抱いたのか。
 私などとは比較もできないような、綺麗で、従順で、穢れのない男か。
 彼はその男を、愛したのか。
「餓えてるんだな」揶揄を含んだ低い声を、首筋に囁かれる。そのまま耳朶を甘く噛まれて、私ははしたない喘ぎを零す。「とても可愛いね、ブラック・ジャック。おれの指はそんなに旨いか。そんなにおれに抱かれるのは嬉しいか。いつもこうなの? それとも、相手がおれだからこんなになってんの」
「は…、ア」
「せめてもう一本は咥えろよ。そうじゃないと、本当におれのは入らない」
「ンッ」
 内部を穿っていた指がいったん抜かれ、いやに優しく、それでも抗えはしない動きでシーツの上へ仰向けに押さえ込まれた。彼の肩にしがみついていた腕を解き、薄らと目を開けて彼を見ると、ぼやけた視界に相変わらず何を考えているのだか知れない彼の端正な顔が映った。
 ローションで濡れた手に、ぐいと大きく膝を開かされ、その露骨な姿勢に咄嗟に息が詰まる。頭の上へ投げ出した両手で枕をぎゅっと握りしめ、羞恥を散らそうとした次の瞬間に、今までよりも嵩を増した違和感を後孔にねじ込まれた。
「ッ!」
 悲鳴を上げそうになった唇を彼の唇で塞がれ、私は思わず固く目を閉じた。指で尻を突かれながら与えられる彼の口付けはやはり冷たくて甘くて、私の知らない他の誰かにもこんなふうに突き放したような籠絡するような口付けをするのだろうかと、熱に眩む頭の隅でどうでもいいことを思った。
 ただ指を入れられているだけなのに、まるで性器で犯されているみたいな強烈な圧迫感。
 それから、ぴんと張りつめた神経を揺さぶる、快感。
 なんだ、この男。どうしておれはこんなに気持ちがいいんだ。
「ンン…ッ」
 鼻から抜ける蕩けた声が自分のものだとは思えない。重なった唇が誘うように離れた隙間へ、微かな喘ぎと吐息を洩らして舌を差し出す。
 彼の生温い舌が私の上唇をなぞるのと同じ動きで、彼の下唇へ舌を這わせる。ぴちゃぴちゃと唾液の音を立てながら互いの唇を舐め合い、その行為に酔う。
 僅かに角度を変えた三本の長い指で、内部の弱い部分を不意に、強く突き上げられ、つい引きかけたその舌に彼が噛み付いた。
「は、ッ!」
 声すらまともには出せずに私は重く身悶えた。性器に触れられてもいないのに、今にも達しそうになる快楽の波を必死で抑え込んで、少しでも彼の指の狙いを外そうと腰を揺らす。
 勿論それで逃げられるわけもなかった。彼は私の舌に歯を立てたまま、私の微かな抗いを罰するように、更に激しく私の尻で指を使った。
 内部で複雑に指を曲げ、出し入れを繰り返しながら、関節と指先で濡れた内壁をくまなく擦り上げる。とてもただの指だとは思えないほどの刺激、こんな男、今すぐ不穏な商売なんか捨ててパトロンでも探しに行けばいいんだ。
 舌を噛まれる痛みに溢れる唾液を、甘く吸い上げられる。
 唇と後孔を同時に犯されて、アタマも身体も熱に溶ける。
 しつこく悦楽を引きずり出され、ああもう駄目だ、と半ば投げやりに思ったそのときに、彼は実に鮮やかなタイミングで手を引いた。嫌味だ。絶頂の間際で放り出され、漸く解放された唇を喘がせて空気を貪る私の身体を、上から覆い被さった彼がぎゅっと優しく抱きしめた。
 ああ、畜生。なんだ、この男。どうしておれはこんなに気持ちがいいんだ。
 男の身体の重さが気持ちいい。
「さあ、どうして欲しい」興奮した股間をぐいと擦り合わせて、耳元で彼が言った。「おまえの好きなようにしてやろう、可愛い、可愛い、ブラック・ジャック先生。世界で一番可愛いブラック・ジャック先生。愛おしくてならないブラック・ジャック先生。おれの恋人のブラック・ジャック先生」
「…大根、役、者ッ」
「可愛い。可愛いよ。おまえの好きなようにしてやるよ。言ってるだろう? このまま終わらせて欲しかったらそうしてやってもいいぜ、さあ、どうして欲しいか言えよ」
「…て、くれって、…言ってる、だろッ!」
 跳ねる呼吸の所為で上手く言葉が繋げない。漸く絞り出した声も掠れていて、みっともないことこの上ない。
 枕をきつく握りしめて固まっていた指を解き、重なる身体の間に腕を入れる。震える両手で彼の性器を掴む。まあ確かに大したサイズだ、こんなものが本当に入るのかどうかはよく判らない。でも、本当に入ったら、きっと本当に、気が狂う。
 この男は私が相手でも勃つのだと、そう思うとそれだけで身体中に悦びが満ちる。馬鹿みたいだ。多分この男は機械のスイッチを入れるみたいに自由にコントロールできるんだ、私に興奮しているわけじゃないんだ、スイッチをオンにした程度のものなんだ。
「おまえ好みだろう? 御期待を裏切ってはいないだろう」
 彼は私を抱きしめていた両腕を外し、僅かに身体を浮かせた。もっとその体重を感じていたいのにと、女々しいことを少しだけ考えた。
 瞼を上げると、シーツに両手を付き、私を見下ろす彼と目が合った。唇には薄い笑み。彼の性器を掴む両手を少し動かすと、その笑みが微かに深まった。
「旨そうだろう。食ってみたいだろう? さあ、言えよ、え? 可愛らしくおねだりしてちょうだい」
「…れて、くれって、言ってる…じゃないか…ッ」
「もっと可愛らしく」
「サル…ッ! 勃ってんだから、使えよ、このでかいやつを、おれに、使ってみろよッ」
「ああ、ああ、可愛いな。可愛いよ」
 くすくすと小さく声に出して笑ってみせてから、彼は私に覆い被さっていた身体を起こした。離れる体温を無意識に追いかけて伸ばした腕を取られ、俯せにひっくり返された。
 シーツに股間が擦れて、見苦しく喉が鳴る。咄嗟に浮かせかけた腰を、彼の大きな両手が掴み、ぐいと力を込めて引き上げられた。
「膝立てて、腰上げてよ。下手な体勢じゃおれのは入らない。痛いぜ」
「は…、」
「もっと高く上げてよ。おれのを使って欲しいんだろ? いい子だからもっといやらしく尻を突き出して。楽に入る姿勢をして。判るだろ、慣れているんじゃないの」
「…ン、」
 両肘をシーツに付いて枕を抱え込み、そこへ火照る右頬を押し付けた。彼の手に促されたあからさまな格好に湧き上がる羞恥を、ぎゅっと目を瞑って耐える。
 きっと肌が真っ赤になっているだろうと思う。何人かの男に言われたことがある。羞じらうと私は足の裏まで紅潮して、面白いらしい。
 だが、そんな生温い羞恥を感じていられたのは、ほんの一瞬だった。指で散々に開かれた尻の狭間に熱い先端をぐっと強く押し付けられ、そうしろと言ったのは確かに自分のはずなのに、思わず私は腰を揺らして逃げようとした。
 ちょっと待て、あんなにでかいもの、本当に入るか。
「や、」
「ヤ、じゃねえだろうが」逃れようとする私の腰をがっちりと掴んで、彼が冷ややかとも取れるような声で言った。「おまえが使えって言ったんじゃないの。ほら、力抜いて、いい子にしてろ。半端に抗うと裂けちまうぜ、判るだろ、ちゃんと入れてやるから言う通りにして」
「待、て…」
「ああ、ああ、いい子だ、いい子だ。可愛いな。さあ、おまえの望み通りにしてやろう、力を抜いて、上手に飲み込め」
「あッ」
 ぐちゃぐちゃに塗り込められたローションを塗すように、何度か尻の谷間を先端で上下になぶったあと、綻んだ後孔にその熱いものがぐいと食い込んだ。
 凶器のようだった。咄嗟に身体を強張らせ、反射的に拒もうと竦み上がる入口を、全く怯みもせずに硬い先端が押し広げた。
「アアッ、ア…ッ!」
 熟れた場所を埋められる鮮烈な快感と、何処まで広げられるのだか想像も付かない恐怖に、身体中鳥肌が立つ。もう無理だ、と思う限界をじりじりと瞬間ごとに超えて、彼の性器は確実に私の尻を侵していく。
 なんだ、これ。こんなのは正気じゃない。
「まアだまアだ。先も入ってないよ。力抜けって」
 ゆっくりと私を貫きながら、低い声で彼が言った。彼に尻を捧げた姿勢で衝撃に震える私には、その冷静さを呪うだけの余裕もなかった。
 身体の奥に逆巻く灼熱。
「言ったろう? おまえの好きなようにしてやるってよ」





 どうにか先端を咥え込んだときには、肌という肌に冷たい汗が滲んでいた。
 快楽であることには間違いないが、私が知っている種類の快楽ではなかった。或いは、私が今まで快楽だと思っていたあの薄っぺらい満足は、本当の快楽ではなかった。
 この正気を逸した圧倒的な感覚を快楽だというのなら。
 私はこの男にしか快楽を感じない。
「いい子だ。上手だ。あとは平気だろ」
 張り出した傘の部分までをじっくりと時間をかけて押し込んでしまうと、彼はいったんそこで動きを止め、それから一気に全長を私の中に突き立てた。
「ヒ…、アア…ッ!」
 挿入されただけで達してしまったのだとはすぐには判らなかった。
 指で拡げられたときよりも遙かに深く開かれて、湧き上がるというよりも連れ去られるように絶頂の波に投げ出された。
 尻を引きつらせてきゅうきゅうと巨大な異物を締め上げながら、触れられてもいない性器から精を吐き出す。押し込まれたもののあまりの太さを、吸い付く内壁がリアルに測る。
 ああ、畜生。気が狂う。
 どうしておれはこんなに気持ちがいいんだ。
「可愛いな」崩れそうになる私の腰を強く掴んだまま、普段よりも甘ったるい声で彼が言った。「もういっちまったの。入れられただけでいっちまうんだな、おまえ。おれのものはそんなにいいか、気に入ったか?」
「ハア、…は、…んッ」
「満足したんだったら、ここでやめてやるけど。どうして欲しい、ブラック・ジャック。抜いてあげようか?」
「あ、」
 シーツに膝を立てた脚ががくがくと戦いている。荒い呼吸を繰り返すたびに淫らがましい喘ぎが洩れる。
 咥え込んだ彼の太い性器の所為で絶頂の衝撃が去らない。びくん、びくん、と不規則に痙攣する内部の蠢きが、彼に直接伝わっているのだと思うと、もう何もかも捨ててしまいたくなる。
 征服されたのだ、と思った。
 今、この瞬間に、私は彼に征服されたのだ。望んで征服されたのだ。
「ほら、言えよ。どうして欲しいんだ?」
 深く押し入れた位置で腰を揺すり上げられ、私は枕にしがみついて声を上げた。頂点を超えて少しも引かない快楽は痛みにも近かった。
 ああ、こんなにギリギリの愉悦こそを快楽だというのなら。
 私はこの男にしか。
「ふ…、ウ」
「どうして欲しい? ブラック・ジャック。辛いなら抜いてやる。もう満足したか?」
「…て、くれ、よ…ッ」
「なに?」
「…れの、中で、…ってくれよッ」
 舌が縺れてまともな言葉にならない。それでも彼はきちんと聞き取ったらしく、僅かに笑みを含ませた声で答えた。
「そうか。おれにおまえの中でいって欲しいんだな。欲張りな先生だ、自分だけじゃ物足りないんだな。そんなにおれが欲しいのか」
「欲…しい…ッ」
「いいよ、おまえの好きなようにしてやるよ。だけどねえ、おれがいくまでもつのかねえ、おまえ。死んじまうんじゃねえの」
「殺、せッ!」
「ああ。たまらねえなあ。どうしておまえはそうも可愛いんだ」
 私の尻を両手でしっかりと固定したまま、彼はゆっくりと腰を使い出した。絶頂のあとの過敏になった粘膜を、ぴっちりと埋め込まれた硬い性器で擦り上げられる刺激に、私は泣き声を洩らした。
 ああ、畜生。気が狂う。
 気持ちがいい。気持ちがいい。気持ちがいい。
 この快楽こそを本物だというのなら。
 おれはこの男にしか。
「あッ、ああ、あ…」
 いたぶるなり焦らすなり、今度こそ虐めて愉しむなりどうにでもできるだろうに、彼はまるでこれが恋人同士のセックスであるかのように、至ってオーソドクスに私の尻を突いた。
 恋人を抱くように抱いてくれと言ったのは私だ。そのつもりで彼が私を抱いているのかどうかは知らないが。
 律動的な動きを時々乱して掻き回され、唾液と涙で枕を濡らして泣き喚く。気紛れに後ろから性器を撫でられて、抵抗もできずに高波に溺れる。
 こうして欲しくて誘ったのだ。こうして彼と身体を繋げたかったのだ。理由などはもうどうでもいい、私はこうしたかったのだ。
 それでもここまでの、正気も飛ぶような悦楽を予想していたろうか。
「も…、…リコ…ッ! …や、く」
「駄ア目だよ。この程度じゃおれはいけないって。おれにいって欲しいんだろう? 頑張れよ」
「アア!」
 結合した部分から聞こえるぐちゃぐちゃと肉を抉る音に気が触れる。
 身体に内側から火をつけられたみたいだった。長い時間をかけて責め立てられて、たまらずに洩らした哀願はあっさりと退けられた。
 肌を破り溢れ出す快感と、滾る激情。
 容赦なく突き立てられる彼の熱に翻弄されるまま、何度目かの絶頂で、私の意識は途切れた。
 ああ、この激情に、名前を付けてしまえるのなら。





 目を開けても最初はそこが何処なのだか判らなかった。
 見慣れないオフホワイトの天井、今は点いていない小さな電球は非常灯、部屋をセピアに照らす淡い間接照明。
 煙草の匂い。
 ゆっくりと視線を巡らすと、自分が横たわっているダブルベッドの端に、バスローブを引っかけた銀髪の男が背を見せて座っていた。あれ、そのバスローブは私が着ていたのじゃなかったっけ。
 まっすぐに立ち上る紫煙。
「…は、」
 シーツにくるまれている身体を起こすと、その途端に、肌という肌に快楽の余韻が蘇った。指を、男の性器を咥え込んだ尻に残る違和感に思わず鋭い吐息が洩れ、なんだか途轍もなく自分が卑しいイキモノになったような気分に襲われる。
 背を向けて煙草を吸っていた彼が振り返り、私を見た。
 冷たくもないけれど熱くもない、色素の薄い瞳。何を考えているのだか相変わらずさっぱり判らない。
「ご機嫌いかが、センセー」
 薄い笑みを敷いた唇から吐かれる低い声にも、感情はない。
 そうだ、抱かれたのだ。この男に抱かれたのだ。
 言葉遊びのような拙い私の誘いに彼はあっさりと乗った。まるでいつかはこうして肌を合わせることになると見通していたみたいに。
 頭を振って靄を払う。
 湿ったシーツを掻き合わせて肌を擦る。
 ああそうだ、抱かれたのだ。私は彼に抱かれたのだ。恥ずかしい挑発の言葉を沢山言ったような気がする。餓えた姿をさらけ出して私が求めたのだ。
 そうだ、面白くない、彼は少しも乱れなかった。
「…身体が重い」
「そうかもね」
「…頭が痛い」
「そうかもね」
 その肌に私は触れたのに。
 ずっとずっとずっと触れたかった彼に私は触れたのに。
 なんだ、この距離感。
「で、満足したの? 気持ちよかったろう。おれに抱かれてみて楽しかった?」
 手を伸ばして催促すると、彼は吸っていた煙草を私に渡した。唾液で僅かに湿ったフィルタを唇に運び、毒素を肺一杯に吸い込む。
 そうか、もうおしまいと言うことか、私が要求したのはセックスだけ。
 彼は私が求めたものを充分に与えた。それ以上何をして欲しい。
「おまえ、いった?」
 吐き出す煙に紛らわせてつっけんどんに訊くと、彼はくすくすと面白そうに笑った。
「女みたいなことを訊くなよ」
「おまえ、いったか?」
「残念ながら。失神している相手を揺さぶってまでいきたくないんでね」
「…紳士的なことで」
 畜生。
 大して吸ってもいない煙草をベッドサイドの灰皿に押し消した。身体に残る彼の感触は鮮やかなのに、彼に抱かれた実感が妙に曖昧で、掻き寄せたシーツの下、自分の肌をそっとなぞって確かめる。
 彼は多分とても丁寧に私を抱いた。
 変態じみたこともしなかったし、まあ男が男を抱くということ自体変態じみているといえばそれまでだが、下手な小細工ひとつしないで、丁寧に私を抱いた。
 何が不満なんだ。
 その腕に抱いて眠って欲しいとでもいうのか。
「キスをしてくれよ」
 肌の痕跡を無意味に辿った両手で顔を覆って、言った。できるだけどうでもいいことのように、くだらない遊びに誘うように言おうとしたのに、声の端が僅かに震えて自分で自分が厭になる。
「なに?」
「キスをしてくれよ」
「何故。満足できなかったか?」
「満足した。そのくらいサービスしろよ」
「欲張りな先生だな」
 呆れたような声が聞こえて、ベッドのスプリングが沈んだ。両手首を掴まれ、顔を覆っていた手をそっと剥がされる。
「…なに泣いてんの?」
「別に」
「楽しくなかったのか」
「楽しかったよ。満足したよ。気持ちよかったよ。言わなくたって判るだろう」
 精々憎々しげに言った。彼は唇の端でにやりと笑うと、私の両手首を掴んだまま、不意に私に顔を近付けて、優しく囁いた。
 吐息が唇に触れ、肌が戦慄いた。
「じゃあ、領収書、ちょうだい」
「…」
 畜生。
 思わず返す言葉を失った私を見て彼は満足そうに目を細め、私の手首を解放し、さっさと私に背を向けた。バスルームの扉が閉まるばたんという音、それからシャワーの音が聞こえてくるまで、私は見事に固まっていた。
 畜生。
 好きだから、好きになってしまったから、抱いてくださいと言えば良かったとでもいうつもりか。
 私に、この私に、そんなことが言えるか。
「…ばか。せっかくの気分をぶちこわすな」
 何処かで聞いたような言葉を呟いてみる。
 せっかくの気分もなにも、あったもんじゃない。



(了)