時々彼の目が、私を見なくなる。
私だけではない、誰をも、何をも見なくなる。
濁りのない月の光みたい、何処までも何処までも澄み切って、あれはもう、人間の目じゃない。
これだから、死にたがり屋の死神は、困る。
「…酒?」
深夜の傍迷惑な電話に出ると、開口一番、彼は、酒を持ってきてくれと言った。
名乗りもしなかった。まあ名乗らなくても声で判るが、心なしか少し掠れている。この男、酒の飲み過ぎじゃないのか。
『そう、酒。うちにあるアルコール類はもう飲み尽くしちまったのよ。足りねえ。おれの命の水』
「…買いに行けばいいじゃないか?」
『この時間に、この酒臭いおれにハンドルを握れってのか』
「…消毒用エタノールでも飲めばどうだ?」
『ちょっと飲んではみたが、ありゃさすがに不味い』
「…」
飲んだのか。
ちらりと時計を見る。真夜中の二時。多分これは相当調子が悪いのだろうと思う。外科医でなくて精神科医を呼べば少しは救われるだろうに。
彼は大抵、いっそ私などより余程安定しているが、その安定の基礎となっているものはきっと虚無感とか諦念とか絶望とかで、そんなものには気付かないふりをして生きていればいいのに、平然と自覚してしまうから時々、私の知る限りでは時々、落ちる。
きっかけがあるのかないのかなどは知らない。誰にでもある波のようなものなのかもしれない、その波の高さがちょっと一般的ではないだけで。しかし彼はあまりにも自分の存在に対して、自分の周りにある世界に対して執着がないものだから、あっさり簡単に境界線を越えてしまいそうで、怖くなる。
しかもあの男は、落ちたときくらい見苦しく藻掻くなり唸るなりしてみせればいいのに、普段同様全く平然としているのだ。誰をも何をも見ない透明な瞳を虚空に投げて、独りゆっくりと沼の底へ沈んでいく。
だから、こうして私に手を伸ばしてくるということは、相当に、調子が悪い。
「…諦めて眠っちまえばいいんじゃないか? 一晩眠れば酒も抜けるだろう、そうしたら買いに行け」
『眠れりゃあとっくに眠ってるだろうさ。とにかく酒だ、酒、酒持ってきてくれ、今すぐにだ』
「…おれから買うと高いぜ。他のやつに頼んだらどうだ? おまえの言うことなら何でも聞くような女の何人かはいるだろう」
『高く買う。おまえじゃなくちゃダメ。早く来い。早く、来い』
「…我が儘男」
誰をも何をも見ない透明な瞳、それでも私を見ようと目を凝らしている。
おまえじゃなくちゃ駄目。ぞくりと表現し難い感情が肌を這う。
適当に返事をして受話器を置き、数秒間壁と見詰め合った。あの男は今相当に調子が悪いのだろう、それなのに、私は今歓んだか、私は酷い男だろうか。
振り返ると、深夜の電話に目が覚めてしまったらしい娘が、寝ぼけ眼のまま居間の入口にぽつんと立っていた。凶悪な天使、私の雛。いつだか彼に言われた言葉を不意に思い出し、今度はざわざわと鳥肌が立つ。
「先生、お出かけ?」
「そうだよ」
「患者さん?」
「まあ、そうだな」
「ふうん。行ってらっしゃい、気を付けてね」
一緒に行くと言わないのはこの子が賢いからか単に眠いのか。
歩み寄って髪を撫で、寝室へと軽く肩を押す。私の作り上げた砦、私の執着、私の最後の枷。
私はそうして生きている。そうしないと私は生きてはいけない。
ああ、このか弱き生命のように、あの男のデスウィッシュを踏み潰せるだけの力が、この私にあればいいのにと、叶わぬ理不尽な願いを不在の神に捧ぐ。
おまえが娘を作った理由を教えてやろうと、彼はあのとき言った。
場所は忘れた。正確な日にちも知らない。ただ、二人で酒を飲んでいた、それは覚えている。
私と彼は二人きりになるとしばしば儀式のように酒を飲む。まるで今は正気じゃないんだ、素面じゃないんだ、気紛れなんだと、お互いに言い訳でもするかのように。
どうしてそんな話になったのかはよく判らない。
私はそのとき多分怒っていた。拗ねていたと言ったほうが正確か。欲しいものが手に入らなくて喚き散らす子供のように、自分以外の何をも許容できない小娘のように、私は拗ねていた。焦れったくてしようがなかった。
底なしに澄み切った彼の目が、私を見ないから。
暗い沼の底に沈む彼が、私の手を取らないから。
私の身勝手だとは思う。
投げ付ける棘だらけの言葉には少しも傷付かずに、彼は感情のない笑みを見せ、それから不意に、実に平坦な声で、言った。
おまえが娘を作った理由を教えてやろう。
「…え」
どきりと胸が鳴って、私は少したじろいだ。
「だから、おまえが娘を作った理由だよ」
「…成り行きだ。理由なんてない、成り行きだ」
「いやいや、ブラック・ジャック先生は、そんなにいい加減な男じゃない」笑みの形を作ってはいるが笑ってはいない唇から低い声。その彼の表情は厭だと思う。手を伸ばしても彼の身体を素通りしそうで。「おまえが娘を作ったのは、おまえのためだ、おまえ自身のためだ。おまえが生きるために消えるはずの命をちょっと利用したんだよ。命ですらなかった命を利用したんだよ。なんて意地汚いんだろう」
「…あの子は生きているじゃないか」
「おまえのために、おまえが生かしているのさ。あの子のためじゃなくて、おまえのために」
「…あの子のためにおれは何でもする」
「おまえのためなんだよ、そこにあるのは、愛情じゃない、なんて意地汚いんだろうね」
すっと指先から血液が引いていくような感じ。
思い出すと今でも寒気がする。
ドアに鍵はかかっていなかった。
勝手にリビングへ向かうと、彼は二人がけのソファへ横向きに、だらしなく脚を投げ出して座っていた。
目が痛くなるような煙草の煙、それだけで酔いそうなアルコールの匂い。
「…おまえ、いつから酒飲んでるんだ」
床に転がった空の酒瓶の数に呆れながら踏み込んで、向かいのソファに座る。テーブルの上から煙草を一本盗んで火を付ける。
荒んだ部屋、荒んだ姿、彼の心象風景はきっとこんなもの。
「昨日、いや、一昨日の夜か」焦点のない視線を私に向けもせずに、彼は答えた。やはり少し声が掠れている。「酒は人類の文化だ、命の根源だ、好きなだけ酒を飲めるなんておれは幸せだ。ところが酒が尽きちまった、途端におれは不幸のどん底だ」
「どうせ酔えもしないくせによく言うよな」
「その通り。一度でいいから正体をなくすほどに酔ってみたいもんだ、おれはもう思考なんて鬱陶しいものとはおさらばしたい」
「酒は持ってこなかった」
声は掠れていたけれど、彼の言葉は気味が悪いほどに滑らかだった。感情を上滑りするような口調、時々掬い上げる灰汁が苦い。
煙草を口に咥えたまま、私が空の両手をひらひらと振ってみせると、彼はそこで漸く私に目をくれた。
ほら、私を見ているのに私を見ない、その目。
深く、何処までも深く、限りなく深く、光も追いつかないほどの深くまで、落ちている。
「なんで? おれは酒が飲みたいから呼んだんだぜ」
「嘘吐き。酒が飲みたいだけなら、そこいらの女でも良かったろう。キスの一つもしてやれば何ダースでも運んでくるさ」
「この退廃しきった姿を女に晒せと言うのか? だから見せても痛くも痒くもないおまえに頼んだのに」
「女ってのは案外男のそういう姿に弱いもんさ。知っているだろう? ついでにおれも結構おまえのそういう姿には弱い」
「言ってろ」
「おれに会いたかったんだろう? おれをその目で見たかったんだろう?」
にやにやと下品に笑ってみせる。少しは水面を揺らしてみたいと思う。いつだって私の身勝手、でも、今夜、彼は私を呼んだ。
私でなければ駄目だと言った。この孤独癖の死神が。引きずり上げることはできないけれど、せめて同じように同じ絶望に沈んでみたい。
その澄み渡った色のない瞳には何が映っているの。
「おれはおまえのそういう挑発的なところが好きだよ」私に虚ろな視線を向けたまま、見事なまでに抑揚のない口調で彼が言った。「なあ先生。泥が詰まってんだ。アタマの中にも、腹の中にも、泥、泥。重い、黒い、鬱陶しい。なあ先生、酒で薄めるくらいしかないんだよ、それを許してくれないなら、ひとつ自慢のメスさばきで、おれの身体から泥を掻き出してみちゃあくれないか」
「いくらおれが天才でもおまえの泥はメスじゃ切れないだろう」
「じゃあ、催眠でもかけてみてくれよ、酔うこともできないなら、せめて眠りたいもんだ。なあ先生、おれはただ眠りたいだけなんだ、一、二の三でおれを眠らせてくれ」
「おまえみたいなひねくれた男に催眠が効くのかねえ。無駄じゃないか?」
吸い殻が山になった灰皿に煙草を消し、腰を上げる。テーブルを迂回して、ソファの上へ横向きに脚を投げ出している彼のすぐ脇に立ち、真っ直ぐに見下ろす。
いつも身長差の所為で見上げてばかりだから、こういう角度は少し新鮮だ。彼は人形のような目付きで私を見やり、下手な役者みたいな溜息を吐いた。
「あれも駄目、これも無理、それも無駄、全く、おまえはまるでおれのオカアサンだ」
「おれにはこんなに態度も図体もでかい鬱病の息子なんかいない」
「そうか、おまえはおれのオカアサンじゃなかったな、でないと近親相姦になっちまうからな。なあ先生、あれもこれも赦されないなら、くたくたになるまでセックスして、おれを眠らせてよ」
「二日間も眠りもせずに酒食らっていた男が、役に立つのかねえ」
「試してみたら。手ぶらで来たってことは、身体くらい差し出す気はあるんだろ」
「そうだな、お互いその気なんだろうな。試してみるか」
本当に彼の心をメスで切り開くことができるならばと思う。
彼の心に巣食うデスウィッシュを切り取って、そのあとに私の胞子を埋めてしまえ。私への執着で死ぬこともできなくなればいいなんて、私はなんという身勝手。
知っている。
こうして虚無に揺蕩う彼もまた彼、この彼をこそ受け入れなければ、それが私の最大の身勝手。
私を見ない彼。それでも彼は彼。
私が背を見せれば彼は決して追っては来ないのだろう、彼にはきっと欲しいものも必要なものもない、私のことなどどうでもいい、それが耐えられないのならば、彼から離れることもできないのならば、私を見ない彼を私が見るしかない。
泥沼に浸かった彼にはどんな言葉も届かない、足掻いても藻掻いても無駄、それならばいっそ。
呼吸を止めて羽根を濡らして、彼に触れてみたいと思うことも身勝手か。
皺になるのも気にくわないので、一応ジャケットは脱ぐ。
シャツもタイもそのまま、下半身だけ晒して、ソファに座り直した彼の前に跪く。
性急にベルトを外しボタンも外し、そこだけさらけ出した股間にしゃぶり付く。男の性器を咥えることに今更恥も感じない。
知っている。何をしてもどうにもならない、永遠に報われることはない。
私と彼が身体を繋げたところで何が起こるわけでもない、何が変わるわけでもない、何が生まれるわけでもない、互いに不毛と承知していながら飢えた犬みたいに番う。
彼は深く沈んだまま、或いは霞のように宙に浮いたまま、私は身勝手に焦れたまま、或いは恋人のように拗ねたまま。
彼の目は私を見ない、私が道化みたいに踊ってみせても、彼の目は私を見ない。そんなことはよく知っている。多分一生このまま、無意味なままこの関係は続いていくのだろう、そして彼は多分一生、この関係に囚われることはない。
ああ、それでも構わない。
それでも彼が気紛れに、こうして私を呼ぶことがあるのならば。
「もっと舌を出して、いっぱい濡らして、手も使って」
「ウ…、」
左手で、彼の差し出したハンドクリームを自分の尻に塗り込めながら、右手で彼の性器を掴む。ぴちゃぴちゃと音を立て、逞しく勃起したその裏側に舌を這わせる。
着たままのシャツの下、彼の股間に顔を埋めるだけで、触れてもいない自分の性器が硬くなっているのが判る。いつの間にこうも彼に貪欲になったのだろうかと頭の隅で少し呆れるが、もうそんなことはどうでもいい、もうどうしようもない。
時々歯を当て、横に咥えて刺激する。噎せ返るような男の匂い、唇を溶かす熱、ほらみろ、生きているじゃないか、死にたがり屋の死神、おまえは、生きているじゃないか。
口の周りを唾液でべたべたにして、うっとりと男根をしゃぶる、はしたない私の顔を見てくれ、私を見ないその目で、私を見てくれ。
「旨そうだ」
優しく、だが振り払えはしない強さで髪を掴まれ、正面から咥え込むように促された。左手の指を尻に突っ込んだまま、抗わずに大きく唇を開き、太く張り出した先端をなんとか受け入れる。
息ができない、顎が痛い。それでも私はこの行為が好きだと思う。
汚らしくて、見苦しくて、浅ましい。それでも彼が私にそうしろというのであれば、私はこの行為が好きだと思う。
咥えた滑らかな皮膚を舌で舐め回しながら、唾液で濡れた幹の部分を右手でゆっくりと摩り上げる。髪を掴んでいた彼の指がそっと後頭部を辿り、耳の裏を、首筋を愛撫してくれる。主人に褒められたペットみたいに奉仕に懸命になる私は、哀れか、可笑しいか。
そうだろう、嘲笑してくれ、どうか可愛がってくれ。頭の悪いペットの一匹もいれば、おまえだって簡単には死ねないだろう。
私を感じてくれ。
「さあ、ちゃんと拡げた? 上手にできたか? 準備をしている姿を見せてごらん」
「は…」
暫く私の唇を使ったあと、彼は促したときと同じように髪を掴んで股間から私の顔を剥がした。瞑っていた瞼を上げると、おそらく表情などはふしだらに溶けて崩れているだろう私を、相変わらずの透明な眼差しで見る彼と目が合った。
恐怖のような興奮のような感覚が、背筋を這い上がる。
自分はこの男が好きでたまらないと同時に、憎たらしくてたまらないのだと、今更のように思い知らされる。
「おまえは本当に旨そうにおれのペニスをしゃぶる。気分がいい」大して気分がいいようにも聞こえない声で、彼が言った。「さあ、おまえのも見せてごらんよ、指一本触れられてもいないくせに勃っちまうおまえのも見せてごらんよ、自分の指で尻を開いてる姿を見せてごらんよ、ほら、跨って、膝はここに付く」
「あ、」
「触っていいよ、待ち焦がれているんだろう、自分のを擦っていいよ、でも、まだいくな」
「…ん」
彼の膝に、向かい合わせで跨るようにソファに膝を付く。後ろ向きに転がり落ちそうになる背を彼の手が支えてくれる、そのてのひらの、シャツ越しに伝わる体温が。
いつでも私を狂わせる。私の思考を掻き乱す。
左手の指で後孔を慣らしながら、右手で自分の性器を掴んだ。一箇所だけもどかしく触れた彼の温度、私を見ない残酷な眼差しだけで、私は本当に達しそうになった。
色のない彼の瞳を見詰めたまま、自分の手が生み出す快感に、自分の指を締め上げて酔う。親指の腹で撫でた性器の先が、我慢できないというように濡れている。
「指、何本入った?」
「…さ…、ん」
「何本」
「三…本…ッ」
「ふうん。じゃあそろそろおれのが欲しいんじゃない」
「…し、いッ」
私と彼が身体を繋げることに、意味などないけれど。
彼は、私の言葉に唇の端だけで薄く笑うと、片手で自分のシャツのボタンを外し、前をはだけた。多分汚れるのが厭だったのだろう。それから、私の腰を掴み、ぐいと強く引き寄せた。
太腿の内側に彼の隆々と勃起した性器が触れ、唇から勝手に淫らがましい声が零れる。
「ああ…」
「いいよ、自分で入れてごらん。そのくらいはしてくれるつもりで来たんだろう? おれをくたくたに疲れさせてくれよ、おれを、眠らせてくれよ」
「我が儘男…ッ」
「ああ、おれは我が儘なんだよ、おれは誰よりも我が儘だよ、そのうえ非情で冷たいよ、でも、そういうおれも好きだろう?」
「憎、ッたらしい…、」
ハンドクリームでべたべたになった左手の指を、彼の胸の素肌で拭き、彼の肩に縋らせた。右手で彼の性器を掴んで、この太すぎる異物ができるだけ入りやすいように、ソファへ付いた膝の位置を少し変える。
ああそうだよ、我が儘で非情で冷たいおまえが好きだよ、大好きで、憎たらしいよ。
死にたがり屋の不眠症、全くたちの悪い、死神。
もしも彼の目が私を見詰め、私に傷を晒し、私に癒しを求めてくれるのならばと思う。
私と彼は愛し合えるのだろうか。天使みたいに真っ白になって。それとも、やはり共に深い泥沼の底へ、堕ちていくだけなのだろうか。
「ふ…う、」
彼がいつもするように、張りつめた先端と尻の狭間をぬるぬると擦り合わせ、今からこれが入ってくるのだ、この熱くて太いものが入ってくるのだという予感に、甘ったるい溜息を吐く。彼の性器に塗りつけた唾液とハンドクリームが、混ざり合ってぴちゃぴちゃいやらしい音を立てる。
何度か角度をずらしてから、彼の肩に縋る左手に力を込めて、もうよく知っているはずなのにどうしてもその大きさには慣れきらない肉棒の先端を、腰を落としてぐっと飲み込んだ。
「は…アッ、きつ…、」
「きついくらいのほうが気持ちいいだろう?」
「ああ…、あッ」
「ほら、びびらない、びびらない。こうだよ、こう。もっと、こう」
「あ…!」
彼の両手に腰を引き寄せられ、ずる、と性器が中程まで埋まった。
薄いシャツ越し、綺麗に張った彼の肩の筋肉に殆ど無意識で爪を立て、彼の膝の上で私は背を仰け反らせて悲鳴を上げた。
なにか、とんでもないものを、尻に突っ込まれている気がする。自分も持っている身体の一部というよりは、もっと熱くて、もっと太くて、もっと凶暴で、もっと絶対的な、なにか、とんでもないもの。
肉を裂かれる感覚は、痛みでもない、苦しさでもない、快楽を幾重にも重ねた、戦慄のような。
「ア、ア…、や」
「アル中で不眠症のおれを、慰めに来たんだろう?」両手で彼の頸にしがみついた私の腰を、じりじりと落とさせながら、彼は私の耳元に低く甘く、えらく優しく言った。私のことなどどうでもいいくせに、卑怯者。「態度も図体もでかい鬱病の可哀想なおれを、慰めに来たんだろう? 治してよ、先生。一生懸命やって、おれを失神でもさせてみて」
「ああ…ッ、あ」
「慰めてくれよ…おれには今、なにも見えねえんだ」
「キリコ…ッ」
嘘吐き。
慰められるつもりなど、ないくせに。
何も見えないんじゃない、諦念の果て、おまえは何も見ようとしてないんだ。
抱き付いた両腕に力を込める。震える指先で長い銀髪を掻き回す。酒と、煙草と、彼の匂い。息苦しくなるほどによく知っている匂い。
ああ、それでも、彼は私を呼んだのだ。私でないと駄目だと言ったのだ。
暗く儚い蝋燭の光、なくして惜しいものなど一つもないと言い切るおまえを、私はなくしたくはない、そのまま、そのままで構わないから、どうかこの胸に、燃えていて。
佇む暗闇の中で、その細い灯りは独りきり、ただあるがまま。
「ほら、全部入った。痛い? 痛くないだろう?」
「ん…ッ、大き…、」
「おまえの中、ひくひく震えてる。もう少し力抜いてごらん、きついんじゃないの」
「きつ…い、けど、気持、ち、いい…ッ、ア」
ゆっくりと、根元まで咥え込まされたその位置で、下から揺すり上げられて私は息も絶え絶えに喘いだ。どうでもいい、こうすることに意味はない、何も救われない、だがそれがなんだというのだ、今こうして私と彼が神経を繋げて、快楽を分け合っていることは、紛れもない事実。
これ以外に何ができるというのだ。
例えば互いに愛を囁いてみたって、幸せの形を知らない私と彼では、それはただの欺瞞。
例えば私が祈るとしたら。
「動け」シャツの下、ぎちぎちに勃起している私の性器を片手でするりと撫でた彼が、私の耳元に甘ったるく命令を囁いた。「ほら、先生、上手に腰を振れ、おれをいかせてくれ、おれがそのままぐったり眠れるくらいに、おれをよくしてくれよ」
「は…、」
「なあ、でなけりゃおれを、殺してくれよ、疲れたんだ」
「…我が儘、男…ッ」
殺してくれよ。
それは欺瞞の愛の言葉に似てはいないか。
銀髪を引っ張り、仰のいた彼の唇に噛み付きながら、彼の性器を飲み込んだ尻をゆっくりと上下させる。限界まで拡げられた内部をずるずると擦り上げられる快感に、身体中鳥肌が立つ。抑えきれない声が、自ら重ねた唇の隙間に零れる。
厭だ、殺してなんかやるもんか、おれはそんなにお優しくはないんだよ、ドクター。
おれは我が儘なんだよ。
我が儘なのは、おれなんだよ。
達する瞬間の、或いはその直後の、彼の小さな溜息が好きだと思う。
幻想でも嘘でもいい、そのときだけは、彼が私を抱いているわけではない、私が彼に抱かれているわけでもない、二人抱き合って、何かちっぽけなものを共有しているような錯覚を覚える。
私は言われた通り精々一生懸命尻を振ったつもりだが、私の動きだけでは足りなかったのだろう、彼は結局、最後には私の腰を鷲掴んで激しく揺さぶりながら、思い切り下から突き上げて私の中に射精した。
触っていいとは言われなかったが、止められもしなかったので、私は片手に自分の性器を握りしめて彼と一緒に達した。とても生々しくて、あからさまな行為、下品で、汚くて。
動物に戻って身体を繋げる、この卑しい行為が連れてくる快楽は、どうしてこうも桁外れなのだろう。
「…ふう」
汗で濡れた身体を寄せ合って、絶頂の余韻を二人分け合う時間が好きだと思う。
彼は私を膝に乗せたまま、暫く背中の縫合痕を指先でなぞって遊んでいたが、呼吸が落ち着いてくると私の腰を掴んで性器を引き抜き、私を立ち上がらせた。
「は、」
まだ何度でも使えそうな硬いものが、抜け出る感触に思わず蹌踉めく。
彼は、私を膝から下ろしてしまうと、私の目の前、シャツを脱ぎ、そのシャツで性器と、私の精液で汚れた腹とをいい加減な手付きで拭き、そしてそのままシャツを床に放り投げた。汚れるのが厭だったわけではないのか。
私がくつろげた服を直し、ベルトはだらりと垂らしたまま、ソファの肘掛けに長い脚を投げ出して仰向けにひっくり返る。
「…おい」
「シャワー浴びておいで、先生。シャワー」ソファに横たわった彼が、気のない声で言った。「そこにいると襲っちまうぜ、おれは限界知らずなんだから。早く逃げろ。これ以上やったらおれは自己嫌悪で狂っちまう」
「…」
「いやらしい格好をして。目の毒だぜ」
「…ッ」
ちらりと視線を投げられて、そこではじめて、私は漸くぱっと赤面した。
リボンタイを解きもしない真っ白なシャツの下、さらけ出した両脚、太腿の内側をどろりと男の精液が伝う。
彼が投げ出したシャツを拾い上げて勝手に自分の脚を拭き、シャツは持ったまま慌ててリビングを出た。逃げ込んだバスルームのドアをばたんと派手な音を立てて閉め、洗濯機に劣情の染み込んだシャツを放り込む。
彼と交わったあとの、冷静な思考が薄れるような甘い倦怠感、それから、これしかできない、こうするしかないと思っているはずなのに、何故かつきまとう、罪悪感。
それは、この行為に愛情が介在しないからか、この行為に意味がないからか、それとも、この行為自体が罪だからか。
知らない。興味がない。
彼は自己嫌悪と言った。
知らない。誰が何を言おうと構わない、それが私でも彼でも同じこと、何かに背きながら、私を見ない目を見て、私を感じない身体を抱きしめて、暗く冷たい虚無の沼、私は凍えた彼に、体温を分け与えたい。
おまえは歯止めがないと生きていけないんだよ、と彼は言った。
自由でいるのが怖いんだよ、自由でいて、うっかり死んじまうのが怖いんだよ、だからおまえは歯止めを作ったんだよ、あの子のためじゃない、自分のために。なんて意地汚いんだろうね。
怒りでも羞恥でもない、ただ、目の前の景色からざっと色がなくなるような感覚、それを今でも覚えている。
何の酒を飲んでいたのだっけ。
忘れた。ただ、とても苦かった。
自分に執着して欲しいなんて、まるで初めての恋に落ちたばかりの少女みたい。私を見ない彼、私に救いも求めずに、独りだけ底なしの憂鬱に沈んでいる彼、私は悔しかったのだと思う。私は哀しかったのだと思う。それも全て私の身勝手であるには変わりないけれど。
何にも縛られない彼を、何をも欲しない彼を、もしかしたら、無意識に少しは羨んだのか。
「自分がいないと死んじまう、か弱い命を作ったんだ。自分が生きていなけりゃならない理由を、おまえはそうやって作ったんだ。意地汚いね。独りで生きているのはそんなに怖いか? おまえはなあ、おまえの絶対的な味方が欲しかったんだ、おまえしか見えないでおまえの後ろをついて回る、雛が欲しかったんだ、盲目的におまえを信じ、盲目的におまえを赦す、か弱い命が欲しかったんだ、ああ、反吐が出るぜ」
「…」
「否定しないのか?」
「…」
否定しない。
彼の胸に棲むデスウィッシュと、多分同じようなものを私も胸に飼っている。
ふとした瞬間の誘惑に、私は気が狂ったように抗う。
私は歯止めが欲しかった。私の執着、私の枷、私の雛が欲しかった。私がいないと生きていられない凶悪な天使が欲しかった。
視界を閉ざして、思考を閉ざして、死の誘惑と深い闇の中戯れる彼のようには決してなれない。
私は悔しくて、哀しかった。
私の歯止めに、私の執着に、私の凶悪な天使に、彼はなってはくれなかった。
独りで生きる彼の姿は無欲で残酷なまさしく死の化身、惜しげもなく肯定をばらまいて、拾い上げ縋ったものなど知らんぷり。
「愛情じゃないだろう?」
「…打算さ」
返した呟きに私自身が握り潰される。
自分の尻に指を突っ込んで男の精液を掻き出す行為は、誰が見ていなくても、なんだか途轍もなく恥ずかしいもののように思う。中で射精されて、身体を痙攣させて悦んだ、少し前のふしだらな自分の姿を思い出すと。
ふと、女もこんなふうに、自分の性器に指を入れて後始末をするのだろうかと、くだらないことを考える。もしも私が女だったら、彼は私を抱かないかもしれない。或いは、完璧に避妊をする素晴らしい男になるかもしれない。
自分では一口も飲んでいないのに、髪から、身体から、酒の匂いがした。
それから、煙草の匂い、彼の匂い、間違いなく抱き合った証拠の生々しい匂い。
髪も身体も、馬鹿みたいに時間をかけて、慎重に洗った。生温いシャワーの下、その刺激が心地よかった。
ああ、この身体一つで生きていけたなら、思考など投げ出して、獣のように生きていけたなら。
ああ、解っている、そんなことは、できやしないんだ。
それができないから、私は小さな雛を飼い、そして彼は、曖昧なデスウィッシュにくっきりと色を塗る。
自らに繋がる鎖を全て断ち切って、いつでも逝けると笑わない顔で笑っている。
大丈夫。私がここにいる。
彼が見詰めてきた光景を私は知らない、知らないけれど、笑わないで笑うおまえを、私を見ないおまえを、私は抱きしめたい。
彼は、そういう形でしか生きられない、生き物なのだ。
そういう形で、彼は生きているのだ、それ以上の要求が私に許されようか。
全身の泡を落としてからシャワーのコックを閉め、バスタオルで丁寧に髪と身体を拭いた。脱衣室の大きな鏡に映る私の姿は、他の誰でもない、私だった。
肌一面に縫合の痕、冗談でも美しい身体ではない。しかし多分、美醜はあまり関係がない。
彼が気紛れに私を呼ぶ理由。
それはきっと。自惚れかもしれないけれど。
汗で少し湿ったシャツをもう一度着るのは厭だったが、厭だと言っても仕方がないので、腕を通した。ボタンを一番上までかけ、鏡を覗き込みながらリボンタイを結ぶ。タオルだけでは乾ききらない髪から細い滴が落ちて、指を濡らす。
残りの服を取りにリビングへ戻ると、彼は私が去ったときと同じ姿勢のまま、ソファの上にだらしなく寝そべって、寝息を立てていた。
「…」
あ。
眠ってる。
足音を潜ませて近付いてみる。それでも彼は目を開けなかった。そっと腰を屈めて寝顔を窺ってみる。それでも起きない。
「…」
ざまあみろ。
ざまあみろ、眠りやがった。死にたがり屋で不眠症の死神。
ざまあみろ、さあどうだ、おれは、よく効くだろう?
向かいのソファに投げ出していた服を身につけ、さてどうしようかと少し悩む。結局勝手にベッドルームから真っ白な毛布を一枚盗んできて、窮屈なソファの上、半裸で眠っている彼の身体の上にそっとかけてやる。
目が覚める?
いや、大丈夫。
私はよく効くんだ。
長い銀髪を一筋掬い上げ、その柔らかな毛先に口付けを一つ。酒瓶の転がった部屋、灰皿には馬鹿みたいな吸い殻の山、それでもここで眠っている死神は、まるで純白の天使。
「…おやすみ」
聞こえてはいない耳元に囁いてから、身体を起こし、リビングをあとにした。
玄関の鍵を閉めたかったが仕方がない、そのまま外に出た。
空は夜から朝に変わる夢のような群青色、この空の彼方に、不在の神に私は祈る。
せめて一時の休息を。
せめて一時の解放を。
あの男の眠りが、誰にも何にも妨げられませんように。
(了)