パラダイス

 その赤い瞳が私を見詰めるならば。
 私はもうそれだけで、テンゴク、パラダイス。


 愛おしいアナタ。麗しいアナタ。
 どうかこの穢れた私を、罵って、貶めて。
「汚いな」
 肌を刺すような雨の真夜中、身勝手に彼の家に押しかけて、身勝手に上がり込む。
 自室でカルテを眺めていた彼の前に、無言のまま這い蹲る。
 木の床の匂い。雨に濡れた髪からぽたぽたと垂れる滴が暗い染みを作る。
「床が汚れるじゃないか。どうしておまえはびしょ濡れのまま他人の家に入ってくるんだ。そもそも、どうしておまえは勝手におれの前に現れるんだ。不快極まりない」
 ぎし、と木の軋む音がして、椅子から立ち上がった彼の足がゆっくりと、間近に歩み寄った。部屋にこもるパイプの甘い香り。ああ、彼の香りだ、と思う。
 見上げることもできなくて、ただ阿呆のように見詰めた彼の靴が持ち上がり、底の部分で私の肩を、蹴った。
 触れたくもない汚いものを、嫌々遠ざけようとするみたいに。
 厭だ。せめてお傍にいさせてクダサイ。
「どうせまた、愚にもつかない自己満足な感傷に浸っているんだろ」
「…」
「どうせまた、人を殺してきたんだろ、殺し屋。ヒトゴロシ。死神。それで感傷に浸っているんだろ、そういうのをな、自己満足っていうんだよ、解っているんだろ?」
「…」
「ああ、おまえの所為で床がびちゃびちゃだ。不快だ。不愉快だ。どうしておまえはそうもおれに迷惑をかけるんだ、どうしてさっさとおれの前から消えちまわないんだ」
「…」
「殺し屋。みっともなく俯いてないで、哀れなツラを見せてみろよ」
「…」
 もう一度、彼の靴底が肩を蹴る。もう一度、更にもう一度。段々強さを増して。
 私は蹴られながら、雨に濡れた惨めな顔を上げて彼を見る。ああ、愛おしいアナタ。ああ、麗しいアナタ。
 その赤い瞳が私を見詰めるならば。
「醜い」私の顎の下に靴の先を食い込ませて、彼が吐き捨てた。「汚いな。おまえは汚い。醜い。キレイな顔をしているのに、ぐちゃぐちゃだ。泥と欲と絶望と、諦念にまみれてぐちゃぐちゃだ。死臭がする。おまえは本当に、サイアクだ」
「…」
 醜い。汚い。死臭がする。
 そうよ、アタシはぐちゃぐちゃよ。
 だからアナタのその瞳で、血色の瞳で、どうか。
 視線を重ねた彼の目が、微かに細められた。コケティッシュな唇に浮かぶ酷薄な笑みにふさわしい、嫌悪の目付き。
「おれに触りたいだろ? ドクター・キリコ」
「…」
 私に許されているのは、ただ彼を見詰めることだけ。
「おれに触りたくてしようがないだろ? おれを抱きたくてたまらないんだろ? おれの身体を開きたいだろ? おれを犯りたいだろ? え?」
「…ッ」
 顎の下に食い込んでいた靴が引かれ、一瞬ののちに、今度は鳩尾を蹴られた。多分遠慮はしていない強さ、相手に最大のダメージを与える正確な位置に食い込む衝撃。
 思わず背を丸めて嘔吐感に堪える。惨めな姿だろうと思う。大の男が、雨に濡れて、男の前に這い蹲り、許しを請うては蹴り上げられる。私は乞食、私はさまよえる哀れな愚昧な、アナタの信者。
 肩に、腹に、ずきずきと疼く痛みが甘い。
 ああ、もっと痛くしてクダサイ。罰をお与えクダサイ。
 アナタに与えられる痛みにアタシは悦びの涙を流すの。
 吐き気に滲む視界の隅に、はらり、彼のリボンタイが落ちた。
「犯りたいんだろ?」
 私が濡らした床の上に、美しい青。痛みで乱れる呼吸のままその青に見とれる私の耳へ、冷淡な彼の声が降る。
「おまえの非常識なブツを、おれの尻にぶち込みたいんだろ? それでおれがヒイヒイ言う姿を見たいんだろ?」
「…」
「殺し屋。みっともなく丸まってないで、惨めなツラを見せてみろよ」
「…」
 操られるようにのろのろと顔を上げる。きっと私は捨てられた子犬のよう、ぐちゃぐちゃに汚れて少しも可愛らしくない、雑種、薄気味悪い混血のヒトゴロシ。
 視線が合う。それだけで私の意識は眩む。
 愛おしいアナタ。麗しいアナタ。
 どうかこの穢れた私を、罵って、貶めて。
 氷みたいに冷たい眼差しで、私をずたずたに切り裂いて。
「変態」薄い笑みを浮かべた唇が、汚いものを吐き出す口調で言う。「男の尻に突っ込むのが好きなんて、おまえはイカレてる。そのうえマゾヒストで、ナルシストだ、おまえはおれを犯しながら実はおまえ自身を犯しているんだよ」
「…」
「さあ、上手にお願いしてみろよ、おれを抱きたいと言えよ、おれを抱きたくてたまらないと言えよ、どうか犯らせてくださいと、お願いしてみろよ」
「…おれはおまえを愛している」
 喉の奥から絞り出す声、厭になるほど感情のない、棒読みのセリフ。
 違うんだ、違うんだ、なあおまえ、解ってくれやしないか。
 おれのココロは外に出ないんだ、出せないんだ、そんなに器用な真似はできないんだ。
 ねえ、それでも、アタシは嘘吐きね。
 愛シテイル。それがどういうものなのか、知らない。
「ヘタクソ」
 私を眺めながら彼は天使のようににっこりと笑った。そして、蹴った。今度は胸骨の真上を、粉々に砕くように。
 私は仰向けに尻餅をつく。ああ無様だ。自分が晒している醜態を、他人の目で見てみたいと思う。
 木の床の上で這い蹲ったりひっくり返ったり、雨に濡れた髪を乱し、表情を作れない顔のまま、与えられる痛みに陶酔して、吐息を洩らして。
 濡れた身体の末端が凍り付くように冷たい。
 それなのに、彼が蹴った肩、腹、胸、そこだけが燃えるように熱い。
 痛みを。もっと痛みを。私の罪に見合うだけの痛みを。
 ああ、罰にさえ欲情する私はもう誰にも救えない愚か者、地獄に堕ちても足りない、殺しても殺し足りない。
 タスケテ。
 地獄に堕ちたいはずなのに、アナタの傍にいる、アナタの赤い瞳が私を見る、それだけで私は、テンゴク、パラダイス。
 アナタの齎す痛みが私の悦び。
 地獄に堕ちたいはずなのに、それよりもアナタの傍にいたい。
 穢れ腐った、楽園。
「ほら、もう一度だ、おれを抱きたいんだろ? 上手にお願いしろ、おれに赦して欲しいだろ?」
「…愛しているよ」
「ヘタクソ。もう一度」
「…大好きだよ」
「ヘタクソ。もう一度」
「…犯らせろよ」
 機械で合成された声みたい、自分の声じゃないみたい、けれどこれが私の声。
 マゾヒストでナルシスト、私は確かにその通りのイキモノなのだろう。殺し屋、変態、ヘタクソ、そう、その通り。
 ねえ先生、教えてクダサイ。
 アタシはアナタに何を求めているのかしら。
「ふん。まあ、まだマシか」彼はわざとらしくにやにやと笑って、靴の先で軽く私の脚を蹴った。「立てよ、殺し屋。見苦しく床にへばりついて、それでおれを犯れるのか? みっともない。立て。さっさと立て」
「…」
「鬱陶しい男だ。不快だ。不愉快だ。おまえはマトモじゃない。どうしてそんなにおれを不愉快にできるんだ、殆ど信じ難い」
「…」
 片手を床について、立ち上がる。
 向かい合った彼は私よりも背が低いが、私を見るその赤い瞳は、私を見下していた。
 パラダイス。
 薄汚いブタを見るように私を見て。禍々しい紋様の蛾を見るように私を見て。胴体のちぎれた蛇を見るように私を見て。踏み潰された蛙を見るように私を見て。
 それだけで私はパラダイス、罪の重さで窒息しながら潤い生い茂る美しい木々を見上げる。
「犯れよ」
 視線に射抜かれる。
 ああ、この痛み、もっと、もっと。
「犯れよ、獣のように、おれを貪り食えよ、そうしたいんだろ? 好きなだけ犯れよ、おまえのでかいやつで尻を突かれて、泣き喚くおれの姿を見たいだろ? 見たいだけ見ればいい、なんならおれを殺してもいい、断末魔の締まりは最高だって言うぜ」
「…」
「さっさと、犯れ、殺し屋。おれはおまえと楽しく見詰め合いたくなんかねえんだよ、突っ込まれてるほうがまだいいってんだよ」
「…」
 愛しているよ。
 大好きだよ。
 解らない、知らない、私は何をしたいのか。
 雨に濡れ、凍えた手を伸ばして、そっと彼の頬に触れる。ああ、穢してしまう。畜生、穢してしまえ。
 違う。
 アナタは永遠に穢れない、アナタは永遠に、穢れてはならない。
 お願いします、永遠に、穢れないでクダサイ。
 ゆっくりと唇を寄せ、軽く触れ合うだけのままごとみたいな口付けをすると、彼の右手が私の頬をひっぱたいた。
「…」
「気持ち悪イ」身体を引いた私の目に見せ付けるように、彼は乱暴に手の甲で唇を拭った。「やめろ、変態。変態は変態らしく、変態じみたことをしろ。気取るな、変態。ほら、いつもみたいに、食らい付いてこいよ、服を引き裂いて、そこら中に噛み付いて、血を啜って、唾液を塗りたくって、尻を開いて、突っ込んでこいよ」
「…」
「犯れ! おまえにはそれしかできねえんだよ!」
「…、」
 ああ、アタシはアナタが。
 ああ、アタシはアナタが。
 ああ、アタシはアナタが、アナタだけが。
 彼の足を払うように蹴って、仰向けに床に倒れ込んだ細身の身体へのしかかった。咄嗟に頭を庇った所為で肩を打ったのだろう、痛みに呻きながら肩をぎゅっと握りしめるその腕を掴んで引き剥がし、真っ白いシャツの前に両手をかけ、そのまま強引に左右に裂く。
 ボタンが床に転がる。見慣れた肌が視界を焼く。
 ねえ、これはなに、この身に巣くう、今にも爆発しそうな、熱いものはなに。
 ねえ、どうしてアタシの目からは、涙が出ないのかしら。
 大して抗いもしない彼の髪を乱暴に掴んで、その唇に噛み付く。
 赤い瞳が私をまっすぐに見詰めている。

 ねえ、その赤い瞳が私を見詰めるならば。
 私はもうそれだけで、テンゴク、パラダイス。

 漆黒の闇に、極彩色の夢を見る。



(了)