抵抗されたものだから、かえってむきになった。
どうして私を受け入れない。
今日、今夜、今、私は彼を手に入れなければならないのに。
「キリコ…ッ」
シャンプーの匂い。
玄関先から殆ど無言で寝室へ引っ張り込んだ彼の髪は、まだ洗いたての、いい香りがした。理不尽な死神に突然夜中に呼び出され、眠っている子供を気にしながら慌てて風呂に入ってきたのかと思うと、この男をキスで殺してやりたくなるような、首輪を付けて飼い慣らしてやりたくなるような、妙な気分になってその自分が少し可笑しい。
抱き寄せようとして抗われた。
厭がる両手首を掴んで、肩の高さで壁に押さえ込んだ。
磔にされて一瞬怯えた表情を見せた彼に、今度は妙に腹が立つ。
「どうしたの。おれに抱かれるつもりで来たんじゃないの」
「…あんた、」
無駄だと理解しているはずなのに、掴んだ彼の手首から力が抜けない。勿論放してはやらない。今日、今夜、今、私は彼を手に入れなければならないのだから。
久し振りに間近に聞いた彼の声は、私の記憶を探るように低く、私の神経を煽るように、甘かった。
「…あんた、変だ。変な目をしてる」
「失礼な男だな。いつもと一緒だろ、おれはきっといつも変な目をしてるんだろうよ」
「違う。なんだ。なにがあった」
「別に。なにもないけど」
美しい男だよなあと思う。
何よりその目が好きだと思う。私をまっすぐに見詰める目。長い睫に縁取られた目。奇跡のように澄んだ赤い瞳に酔ってしまいそう。
さあ、その目に私の卑しい姿が映るかな? 出来損ないのヒトゴロシ、平面の世界に死を配って歩く離人症のヒトデナシ。
手に入れなければならない。
この美しい存在の鼓動を感じたい。
「なにもないわけない」往生際悪く掴まれた両手に力を込めながら、彼は眉を顰めて言い切った。「あんた、自分で思うほどポーカーフェイスが上手くないぜ。そういう目をしているあんたは厭だ。放せ。私は帰る。私にここにいて欲しいなら、なにがあったかちゃんと話せ」
「だから、別になにもねえよ。仮になにかあったにせよ、どうでもいいだろう? そんなこと」
「厭だ。そういう目をしているあんたに抱かれるのは厭だ」
「せっかくキレイにしてきたんだろう? 抱かれるために来たんだろう? いい子だから変な意地をはらないで、大人しくしていてちょうだい」
「厭だ…!」
口付けをしようとして唇を寄せると、彼は咄嗟に顔を背けてそれを拒んだ。構わずに晒された白い頸の肌を軽く吸い上げたら、不意に左手で掴んでいた手首が逃げ、突き飛ばすように思い切り胸を突かれた。
何度も抱かれていながら、身体中をどろどろのぐちゃぐちゃにして媾っておきながら、この男は本当に清廉、汚れを知らない少女みたい。
或いは気位の高い娼婦みたい。
彼の肩に埋めていた顔を離し、行儀の悪い彼の右手を再度捕らえて、今度は両手首をまとめて彼の頭上の壁へ縫い止める。間近に覗き込んだ彼の瞳は、怒りだか屈辱だか焦燥だかそれとも別のものなのだかで、ぎらぎらと暗く煌めいていた。
ああ、美しい男だ。実に、実に美しい。
早く、早く、早く、手に入れなくては。
今。今なんだ。
「言うことを聞けよ、ぼうや」唇の端で笑って見せて、低く囁いた。「いつもしていることじゃないの。今更なにが厭だ? 散々おれに抱かれたじゃないの。今更出し惜しみする身体でもないだろう? あんまりおふざけが過ぎるのも可愛くないぜ、ブラック・ジャック先生」
「…誤魔化しに使われるなんてごめんだ」
突き刺すような眼差しで私を睨み上げる彼の、美しさといったら。
ねえ、その息吹を直に感じたいのだ。
「…なにかあったんだろ、厭なことでもあったのか、厭な仕事でもしてきたか? 誤魔化しに使われるなんてごめんだ、私はおまえの玩具でもなければ人形でもない、人間だ、生きてるんだ、話せよ。聞いてやるから、話せ」
「何度も言わせるなって。なにもねえよ、あったとしたってどうでもいいよ、さっさと抱かせろってんだよ」
「私はあんたの気晴らしの道具じゃない」
「おれを好きだろう? 道具になれよ」
今度は逃げられないように片手で彼の顎を掴んで、再度顔を寄せる。
唇が触れ合い、彼の体温を舌で味わう前に、下唇を、思い切り噛まれた。
「…」
血の味。
顔を引いて彼を見やると、彼は私の血で唇を赤く染めたまま、少しの動揺もない目付きでじっと私を睨み付けた。ああ、美しい。実に美しい。
顎を掴んだ手の親指で、血に濡れた唇を拭ってやる。ルージュを塗るのに失敗した淑女みたい、生々しい赤が肌に擦れて何だか余計にいやらしい。
噛み付かれた下唇に舌を這わせると、ぴりぴりとした痛みを感じた。
「なんだよ。キスをするのも厭か? おれのことが好きなくせに。もう少し素直な方が可愛いぜ」
「…私は道具じゃない。なにかあったなら、話せ。聞いてやる。私はあんたの気晴らしの道具じゃない。私は生きている」
「おれの道具になるなら本望だろうよ、え?」
「道具じゃない…!」
欲しいのはリアルの手触り、指から逃げ出す実感を握りしめる無慈悲な強さ、決して、赦して欲しくなんか。
拘束され、暴れたがる両手を押さえ込んだ腕に力を加え、空いた片方の拳を彼の無防備な腹部に叩き込んだ。胃の上あたり、大してパワーは要らないのだろう、さほど頑丈そうな身体でもなし。
痛みとか苦しみよりも、ただ一瞬、信じられない、というように目を見開いて、それから彼は力なく膝を折った。両手首を掴んでいた手を放しても、別に攻撃はしてこない、小さく呻きながら腹を抱えるようにその場へ蹲る。
私が暴力を使わないと思うかい? 子猫ちゃん。甘やかしすぎたおかげで随分と生意気になったこと。
「おれの役に立てるんだぜ、嬉しいだろう? え? 先生よ。おれはとにかくやりたいんだよ、今すぐにやりたいんだよ。減らず口を叩いてないで、喜んで尻を差し出せよ。大好きなおれの道具になれて、光栄だろうがよ、なあ先生?」
「…、リコ…ッ」
「オハナシなんかしたくねえんだよ、やりてえんだよ。従え。おれと会えない間、寂しかったろう? 抱かれたかったろう? 抱いてやるってんだよ、従え。おれに従え」
「や…め、ろ」
シャンプーの匂いだ。この男はいつでも清潔な匂いがする。
むかつく。
腰を屈め、乱暴に髪を掴んで顔を上げさせると、僅かに潤んだ赤い瞳と目が合った。少しは従順なふりをしてみせれば可愛いのに、ぎらぎらと私を見詰めるその突き刺さるような眼差しには変わりがなくて、何故か苛立つ神経を逆撫でされる。
腹を押さえて背を丸めたがる彼を、髪と腕を掴んでベッドまで引きずり、軽くはないが重くもない身体をシーツの上へ放り投げた。大して力も入れなかったのに、そんなに痛かったろうか? 海老みたいに腹を庇う彼の上へ、膝を付いて乗り上げて、強引に仰向けに組み敷く。
「キリコ…厭だ…ッ」
「煩エなあ。黙っていい子にしてろ。それとも、強姦じみたプレイのほうが、先生はお好きかな?」
「放せ…!」
深夜に男に抱かれるためにきっちりスーツを着込んでくる彼が、馬鹿らしいような、可愛らしいような。
ジャケットのボタンも外さず、リボンタイも解かず、いきなりベルトに手をかけると彼は派手に暴れて抗った。
その腹を、もう一度、先程と同じ程度の力で殴り付ける。効果はある角度を測ってはいるが、私にしてみればごく軽く、撫でるくらいの強さだ。この男だってそれなりに危機的局面に置かれたこともあるだろうに、それをパスしてきたのは多分その精神力によるもので、純然たる暴力には案外軟弱なのかもしれない。
それとも私の知る暴力というものが桁を越えているのか。
「…ウ、」
両手で腹を押さえた彼が痛みに抵抗を忘れているすきに、下着ごと服を引きずり下ろし、尻を剥き出しにする。苦痛の所為か恐怖の所為か怒りの所為かそれともその全ての所為か、可哀相に彼の股間は力無く項垂れ、私の目をいつでも楽しませるふしだらな姿は見せてくれない。
まあいい、彼が快楽を覚える必要はない。
今日、今夜、今、必要なのは私が彼を手に入れることだけ。
宙に浮いて彷徨うリアルをこのイカレたアタマに呼び戻したいだけ、必要なのは悦びでも哀しみでもない、言葉でも温もりでもない、本当は彼を犯すことでもない、けれど、私にはそうするしか方法が思い付かない。
全てが妄想だと、判っているのに、どうしようもない。
彼の鼓動を。息吹を。
立ち止まることも逃げ出すことも捨て去ることもできないこの大地に、血に濡れた足跡を刻むために。
頼む。クリアな意識が欲しいのだ。ヴィヴィットな景色が見たいのだ。私が私であるために、罪と罰を抱くために、地獄に背中を向けて薄靄に包まれているなど赦されてはならないのだ。
「厭…だ…ッ、」
「おまえがいい子にしてりゃあ、優しくもしてやるのに。おまえは本当に馬鹿だ、おれはやるって言ったらやるんだ、無駄に抵抗するから痛い目に遭うんだぜ? いや、そうじゃないな、おまえはこういうふうにされるのも好きなんだよな」
「私…はッ、道具じゃ、ない…!」
「道具なんだよ、愛おしいブラック・ジャック先生。おまえはおれの、道具なんだよ」
「違う…!」
両膝の裏に手を入れて、胸に付くほど彼の身体を折り曲げる。尻をさらけ出した露骨な体勢に、彼は無駄にばたばたと不自由な脚を暴れさせる。
石鹸の匂いだ、何の飾り気もない石鹸の匂い。清潔な匂い。
むかつく。ああ、むかつく。
私のものに、なりたいくせに。
抗う彼の両脚を片腕で更に深く押さえ込み、唾液で濡らした片手の指を乾いた尻の狭間に滑らせた。尖った悲鳴を聞きながら、強引に指先を熱い肉へめり込ませる。
さあ、教えておくれ、私の可愛いお人形。
おまえに血が通っていることを、おまえの心臓が脈打っていることを、おまえの身体に意思があることを、おまえが、生きていることを。
おまえがおまえであることを。
私が私であることを。
重ねる肌がリアルであることを。
今日、彼によく似た少年を一人、殺した。
(了)