情熱

 ふたつの影が重なって、口付けを交わした。
 我ながらタイミングが悪いよな、と煙草のフィルタを噛みながら思った。
 逆光のウッドデッキ、知らない男のシルエットが、彼の細身の身体を抱き寄せる。
 またいざこざを起こしたと聞いた。
 詳しいことは知らないが、彼のオペを見たいと言った何処かの皇帝陛下の目の前で、オペをやるやらないで口論になり、結局メスを取らずに帰ってしまったとか。
 ちょっと顔を見に来ただけだ。まさか落ち込んでなどはいないだろうが、八つ当たりでもしたい気分になることだってあるだろう。
 夕方訪れた彼の家の真ん前に、見慣れぬセダンが横付けされていた。患者か、と思った。
 少し離れた場所に車を停めて、運転席のシートを斜めに倒した。別に用があるわけでもなし、腹が減ったら帰ろう。
 崖下は海、完全に太陽が落ちて、見渡す周囲には他の灯りもない家に光が点いた。
 ウィンドウを下ろしても掻き消えない煙草の煙で目が痛くなってきたころに、暗いドアから、人影がふたつウッドデッキに立った。
 いっそ見なければ良かったとも思う。
 そうすれば欠伸のひとつも洩らしてさっさと帰った。
 片方が彼であることはすぐに判った。まあ見慣れているから。もう片方は、知らない、男だ。遠目ではよく判らないが、カーテンを透ける部屋の灯りに仄かに照らされた横顔は、明らかに異国の色、日本人ではない。彼よりも背が高くて、すっと背筋の伸びた綺麗な姿勢をしている。
 権力の匂いがするな、と思った。
 ふたつの影はデッキの柵に凭れて、何やら話をしているようだった。或いは黙っていたのかもしれないが、判らない。絶妙の空間を隔てて彼らは暫くふたり佇んでいた。
 この闇夜、この距離この角度では、彼らにはここに車が一台停まっていることが判らなかったらしい。
 少なくとも彼は知らなかったろう。私の車があると知っていれば彼はちょっとは抵抗するだろうから。
 そう、彼は抵抗しなかった。
 不意に伸びた男の腕に抱き寄せられ、仰いた唇に口付けを落とされても、彼は抵抗らしい抵抗をしなかった。そう見えた。片腕を腰に巻き付けられ、片手で髪を押さえられ、それでも少しは抗えばいいのに彼はされるがままに口付けを受け入れていた。
 真っ暗闇に微かな灯り、重なる二つの影、それはとてもとても綺麗な光景だった。
 なんでこんなものを見なけりゃならねえの、と思った。
 我ながらタイミングが悪い。
 煙草のフィルタを噛みながら眺めたその光景は、しかしそれほど長くは続かなかった。家の中から小さな子供の影が覗いて、彼らは慌てたように飛び離れた。
 長くなくたって、充分なんだよ。
 腹が減ったら帰ろうと思っていたが、自分が腹が減っているのかどうかもよく判らなくなった。
 二人が部屋に戻って、ウッドデッキは無人になった。再度玄関のドアが開いたときにはそれから小一時間は経っていた。食事でもしていたのか、患者ではないのか?
 彼を抱き寄せ彼に口付けをした、あの見知らぬ男がセダンに歩み寄った。家から洩れる頼りない灯りの中、初めて正面からその姿を見て、ああ、とそこで思い当たった。多少誤魔化してはいるけれど、新聞で見た顔だ。彼のオペが見たいと言ったらしい、何処かの国の、皇帝陛下。
 ご執心なことで。
 開け放ったドアの前で、彼とその娘が男を見送った。
 闇夜でも判る柔らかな雰囲気、彼が私の車に漸く気付いたのは、セダンがぱっと明るいライトをともしたとき。
 愉快なほどに彼は狼狽えた。
 狼狽えるようなことをした自覚があるのかい?
 走り去るセダンが横をすり抜ける瞬間に男と視線が合った。ここに私の車があり私がいることを不審に思ったようだが、敵国の刺客でもないと見て取るとあっさり男は目を逸らした。
 整った、貴族的な顔をした男だった。
 新聞の写真で見た印象よりずいぶんと若かった。
 皇帝陛下ね。わざわざこんなところまでお出ましとは、ご執心なことで。
 ウィンドウは下ろしたその隙間から腕と顔を出して、玄関の前、娘を足に纏い付かせながら固まっている彼に声をかけた。
「よお、ブラック・ジャック先生。また何かやらかしたらしいじゃない」
「…」
 何か呟いたが距離があって彼の声は聞こえなかった。そのまま背を向けようとする彼に、精々軽薄な口調で言う。
「つれないねエ、せっかく心配してきてやったのに。ちょっと付き合えよ」
「…患者がいるんだ」
「お嬢ちゃん、看病しといて。助手なんだろう? そのくらいできるできる。もしなんかあったらおれの家に電話くれ、先生はそこにいるからよ」
「…」
「なに? おれと二人になれないような疚しいことをした覚えがあるの」
「…患者は安定してるから大丈夫だ、おまえは早く寝ろ」
 彼は多分無意識に右手の甲で唇をぐいと乱暴に拭ってから、娘の頭を軽く撫で、私の車に近寄ってきた。強張った表情、緊張した目付き、私の頭の中を見透かそうとする視線。
 指さした助手席のドアを開け、細身の身体がシートに滑り込んだ。
「いつからここにいるんだ、キリコ?」
 動揺を押し隠した声で訊く。
 僅かに嫌味を含めて答える。
「さア。日が沈む前かなあ」
「…」
 すっとこちらを向いた彼に横顔だけで笑って見せて、エンジンをかけた。ドアは開け放った玄関の前、ライトに照らされた幼い子供の表情は、暗闇に慣れた目には眩しすぎてよく見えなかった。
「おかげで楽しいものを見ちまったよ」





 腕を掴んで寝室まで引っ張り込み、服を脱げ、と言うと、彼はぎょっとしたように目を見開いて私を見た。
「なに…」
「だから、服を脱げよ。身体を見せろ。点検してやるよ」
「なに、を」
「ブラック・ジャック先生がおれに隠れて浮気してないかどうか」
 にやにや笑いながら言ってやると、彼はかっと頬を血の色に染めた。
 この男は本当に、いつでも良い表情をする。燃え立つ赤い瞳で私を睨み上げる、その顔もいい。
「…そんなことをおまえに言われる筋合いはない」
「なぜ」
「…おれはおまえのものじゃない。浮気とかどうとか、おれが自分の身体で誰と何をしようとおれの勝手だ」
「おまえの身体で、誰かと何かをしたのかい?」
 敢えて手は出さないでただ見詰める。この、生意気な口を利く唇がさっき他の男と口付けを交わしていたのだと思うと、原形がなくなるまで滅茶苦茶に壊してしまいたいような、或いは反吐が出るほど優しく可愛がってやりたいような衝動に駆られて少し困る。
 彼は、私のその視線を、きっと見返して言った。
「してない」
「じゃあ、いいじゃない。見せろよ。服を脱げ」
「だから、おまえにそんなことを言われる筋合いはない。おれは別におまえの…」
「何処かの国の皇帝陛下と何してた?」
「ッ、」
 減らず口を遮って問うと、彼の目付きがあからさまにたじろいだ。
 なにを今更驚くの。私が見ていたことなど承知なんでしょ。
 それとも、あの男の正体が私にばれると、まずいのか。
「なに、も」
「おれは日が沈む前からおまえの家をじろじろ観察していたんだぜ。何もしてないの? じゃあ、おれが見たものはなんだったの」
「あ、んなの…は、ただの、」
「あ、そう。でもおれは厭なの。信用できないの。だから、脱いで、見せろってんだよ」
「…」
 声にわざと少しだけ乱暴な力を込める。彼は可哀相なくらいに瞳を揺らし、今度はさっと顔色を白くした。
「子供が…子供がいたんだぞ、患者も。何ができるって言うんだ」
 やや必死な口調が面白い。
「少なくとも抱き合ってキスはできたんだろ」
「だから…、」
「脱げ。従えよ。さもないと、おまえのことを嫌いになっちまうぜ?」
「…ッ」
 子供みたいなセリフで、もう言いなり。
 嫌いたければ嫌え、でも、どうせ嫌いなくせに、でも、いくらでも彼らしい反抗の言葉は吐けるはずなのに、彼は何も言わず、ただごくりと喉を鳴らした。
 それから、不器用な手品師に操られるようにのろのろと両手を上げ、リボンタイに指をかけた。
 声を飲み込んだ苦しげな表情。
「そう。最初から、そうやって素直になればいいんだよ、ブラック・ジャック先生」
「…」
 噛みしめた唇は屈辱なの、羞恥なの、嫌悪なの。
 馬鹿な男。そこまでしても私に嫌われるのは厭。
 彼は、早く勘弁してくれ、早くストップと言ってくれ、と身体中で訴えながら、ゆっくりと服を脱いだ。なかなかボタンを外せない震える指先、その同じ手が奇跡のオペをするというのだから笑える。
 嫉妬。
 嫉妬か。
 おれも堕ちたな。
「おまえは危なっかしくて放っておけない」縋り付くような目で私を見ながらベルトを外す彼を、腕を組んだまま眺める。確かに彼は彼の言う通りあの男と、私が見た以上のことはしていないのだろう、でも、それで充分だ。「あっちでふらふら、こっちでふらふら、隙だらけだ。ちょっとは身を守る術を覚えたら。それともわざと誘っているのかな」
「してない…そんな、こと」
「ほら、口答えしている暇があったら、さっさと全部脱ぐ。見せられない身体じゃないんだろ」
「…」
 私を見詰める視線に熱がこもる。屈辱、羞恥、嫌悪。
 そこまでしても。
 身体を折り、肌を赤く染めながら下着を脱ぐ彼の素肌を露骨に目付きで探る。最後に触れたのは一月前? 二月前? こうして目の前に晒されれば、縫合の痕が散ったその細身の身体に無様なほど執着している自分を思い知らされる。
 脱いだ靴下を絨毯へ放り出した彼に、にっこりと笑って見せた。
「さあ、ベッドにあがれよ。浮気をした痕がないか、見てやろう、ブラック・ジャック先生」





「俯せに這え、膝を立てて、尻を見せな。両手で広げるんだよ、いつも男のものを咥え込んで悦んでいるいやらしい場所を、ちゃんと見せろ」
「…ウ」
 手の中で抗炎症剤のチューブを遊ばせながら、ベッドへ浅く腰掛ける。
 彼は、恨めしそうに喉の奥で呻き、それでも私の言葉に従って、シーツの上へ俯せた。
 枕に頬を埋め、私の目の前に尻を突き出し、震える両手の指を食い込ませて肉を開く。この男はどうしてここまでするのだろうかと私は他人事のように疑問に思う。
 私に嫌われるのは厭。
 それは、私を好きと言うこと? そうじゃない、ただ愛されたがりな彼だから。
「ふうん。確かにここは使ってないみたいね」
 剥き出しにされた後孔をすっと指先で撫でると、彼はその浅ましい姿勢の身体をびくんと揺らした。
「ア、」
「ねえ、どうして厭がらなかったんだ?」乾いた場所を擽る指はそのまま訊ねる。「家には子供がいたんだろ? 厭がれば無理にはされなかっただろ? 何処かの国の皇帝陛下ってのは、厭がれもしないほどにお偉いのか? それともあの男を、おまえは好きになったのか」
「や…め、」
「答えなよ。好きになったのか?」
「は…」
 顔の半分を枕に埋めた彼は、私に尻を差し出す自分の有様を見たくないと言うかのように、眉を寄せ、ぎゅっと目を閉じていた。指を太腿に移し、内側を上下にてのひら全体で強く撫でてやると、彼の唇が僅かに乱れた吐息を洩らした。
「ン、違、う。そんなんじゃ、ない…」
「へえ。じゃあおまえは、誰にでもああいうことさせるのね」
「違…」
「好きになったわけでもない、誰にでもさせるわけでもない、それなのにおまえは厭がらない、いったいなんなの。本当はどうでもいいんだろ、自分を可愛がってくれる相手なら、それでいいんだろ、可愛がってもらうためなら誰にだって何だってするんだろ」
 縫合の痕に軽く爪を立て、ゆっくりとなぞる。身体中に走る彼のその部分は酷く過敏で、指で、唇で、何度か辿ってやるだけで彼はいつでも泣き声を上げる。
 慣れた刺激に、シーツに突き立てられた彼のつま先が引きつれた。ぴんとアキレス腱が張られ、脹ら脛に綺麗な筋肉の線が浮かぶ。私はそれを美しいと思う。
「そ…、じゃない、けど」さあ、犯してください、という体勢で、言われるままに自分の尻を開く彼が、掠れた声で私の言葉を否定した。「誰だって、いい、わけじゃない…けど」
「けど?」
「ア、 彼…は、とても、情熱、的、だったから」
「…」
 かっと一瞬で意識が熱に眩むのが自覚できた。
 ああ、おれは今嫉妬に狂った、とそこだけやけに冷えた頭の何処かが、どうでもいいことのようにそう思った。
「あ、そう。おれのジョーネツが足りないわけね」
 こんなときくらい正直に、いかにも嫉妬に狂った声が出ればいいのに、唇から零れた言葉は厭になるくらい冷静で、まあ確かにこれでは情熱が足りないよな、とそうも思った。
 後孔を擽られ、敏感な傷跡を撫でられ、反応を示し始めている彼の性器を、後ろから片手で鷲掴む。
「あッ」
「おれじゃ物足りないんだな。おれじゃ満足できないか。おれがどんなにおまえを可愛がったって、おまえはおれじゃ不足なんだろ」
「違…う、けど…ッ」
 少し強引に擦り上げると、彼の性器は私の手の中であっという間に硬くなった。多分殆ど条件反射、私に与えられる感触は良くも悪くもいつだって性的。
 身体はこんなに私になついているのにね。
 心はちっとも私になつかないのね。
「けど、なに?」
 先端を親指の腹で撫で回しながら言う。甘ったるいのに感情のない自分の声に腹が立つ。
 だって見せられないんだよ。
 キモチを表現する練習なんてしたことないんだよ、私はいつだって隠すばかり。
 それが私の生きてきた場所。
 彼は自分の尻に爪を立て、性器を掴む私の手に切れ切れに喘ぎながら、答えた。
「ン、けど…、おまえは…いつ、も、冷たくて、何考えてるか、判らなくて、おれは、…怖い」
「…」
「おまえは、必ず…いつか、おれを、捨てる。気が、する。…おまえは、冷たい。怖い…ッ」
「…捨てるかよ」
 言い返した声さえ見事に冷たい。
 だって見せられないんだよ。これが私なんだよ。
 ああ、解ってくれ、ここまでおまえに執着するこのおれを、滾る熱を。
 おまえが他の誰かに触れるだけでおかしくなる。
「怖くて…だからおれは…彼の、彼の情熱、が、」
「そんなの言い訳になるか。何度おれのジョーネツを咥え込めば解るわけよ、欲張りで寂しがりなブラック・ジャック先生? 足りないってなら、解るまで何度でもしてやろう、浮気をする気にもならなくなるくらいに」
「んッ」
「捨ててなんかやるもんか。たとえおまえがおれから逃げようとしたって、おれは許さねえよ、解ってないみたいだから教えてやるけどね、おまえは、おれのものなんだよ」
「ア、や」
 歯でキャップを開け、チューブから直接クリームを彼の尻の狭間に絞り出した。手の中で遊ばせていた抗炎症剤はもう冷たくはなかったはずだが、違和感にか彼の背中がぶるりと震え鳥肌を立てた。
 夜のウッドデッキで口付けを交わすふたつの影、その綺麗な光景をふと思い出して残酷な気分になる。あの皇帝陛下が情熱的に求めれば、彼はあの男の前でもこうして身体を開いてみせるのか。
 片手で性器を握ったまま、もう片方の手でクリームをゆっくりと彼の後孔に塗り込めた。
「…リ、コ」
「スプロフェン。害はない」
「は、あ…」
 唇を寄せることもなく、愛撫らしい愛撫もなく、ただ折檻のように肉を割る行為に意味なんてない。だがそれを言うのなら、どんなに優しく抱いたって、どんなに甘い言葉を囁いたって、所詮意味なんかない、ただの不毛な欲と不毛な感情。
 言われた通り、律儀に自らの両手で開かれた彼の尻は、クリームに濡れて私の指に敏感に応えた。細かく震え、きつく閉じた後孔に中指の先を食い込ませると、握った性器が手の中でびくびくと跳ねた。
「アア…」
「最後におれに抱かれてから、他の誰かにここを使わせたか?」
 纏わり付く抵抗には構わずに、指をゆっくりと根元まで突き立てる。熱い彼の内部は娼婦のように淫らに私の指を飲み込み、それでいながら処女のように固く締め付けて拒もうとした。
 この身体が欲しいと思う。その欲ならいつでも充たされる。私が手を伸ばせば、彼は大抵の場合素直に私に身体を差し出す。
 何が不満なのだろう。独占欲。そんなものが自分にあるなんて信じられない。
 何にも囚われず、何をも求めず、私はそうしてこの冷たい太陽の真下をひとり歩いてきたはず。誰かと交わり、肌を重ね、そして目が覚めたら背を向けてさようなら。気紛れな一夜だけで充分だったし、それ以上はただ鬱陶しいだけ。
 私は彼の何が欲しいのだろう。
 彼が私以外の誰かと抱き合う、それが許せないのは何故だろう。何故こんなに、狂おしいまでの嫉妬を覚えるのだろう。
 ありえはしないことなのに、未来永劫、彼をこの手で掴んでいたいと思う。
 彼の目が私だけを映せばいいと思う。
 子供じみた、独占欲。
「答えろよ。最後におれに抱かれてから、他の誰かにここを使わせたのか?」
「ふ、ウ」
 突き入れた指を抜き差しし、怯える肉を解しながら内側まで丁寧にクリームを塗る。綻んできたところで指の本数を増やし、手首を拈って更に広げる。
「アッ、」
「先生、使わせたか?」
「ンン、…て、ない…ッ」
 膝を付いた脚をがたがたと戦かせ、それでも強いられたはしたない姿勢は崩さずに、彼は答えた。跳ねる呼吸に途切れる言葉、それで意識を焼く嫉妬が払拭されるわけではないし、ましてやそれが事実だとしたところで彼が私のものであるということにはならず、きっと彼は誰かに、それこそ情熱的に求められればその身体を与えるのだろうとは思うが、それでも私は壊れた蓄音機のように繰り返し、彼に会うたびに同じ問いを繰り返すことしかできない。
 指先で彼の弱い場所をしつこく弄り、細い喘ぎを聞いて飢えを慰める。
 四六時中傍にいて、いつでも優しく抱き寄せて、そんな真似ができたらおまえもおれに堕ちるのかな。
「誰かと寝たか?」
「し、てな…い、」
「じゃあ、ひとりでした?」
「…た、」
「おれのこと考えて、ひとりでした?」
「…し、たッ」
 ぎゅっと閉じられた瞼を縁取る長い睫が、震えている。私はそれを美しいと思う。
 充分に濡らし、広げてから指を抜いた。腰掛けていたベッドに膝で乗り、適当に服をくつろげると、その気配に彼が薄らと目を開けて私を見た。
 何かを訴えかけるような、拒むような求めるような濡れた瞳。私はそれを美しいと思う。
「キリコ」
「浮気してないっていうなら御褒美をやろう。おまえがおれのことだけしか考えられなくなるような」
「ン、」
 さらけ出された潤んだ後孔へ、掴み出した性器の先端を擦り付ける。彼は再びきつく目を瞑って、肌を震わせた。
「ほら、入るぜ。力抜け」
「アア!」
 指で広げたとはいえ狭い肉の隙間に、腰を使ってあてがった性器を食い込ませる。力を込めて先端を打ち入れると、彼は高い悲鳴を上げ、熱い内部で私の欲を飲み込んだ。





 後ろから回したてのひらで彼の精液を受け止め、絶頂に痙攣する肉の震えをたっぷりと味わう。
 きゅうきゅうと締め上げ、吸い付く熱い内部、まるで私たち、愛し合っているみたい。
 彼の呼吸が落ち着くのを待って、性器を引き抜いた。その感触に呻く彼の身体をシーツの上へ倒し、てのひらの精液を塗り付けて、今度は正面から覆い被さる。
 両脚を肩に抱えて押し入ると、先程までとは違う角度で異物を飲まされた彼が、短く鋭い声を放った。見下ろした涙に濡れた顔、歓喜で頬を上気させ、まるで恋い焦がれていた誰かと繋がり震えている淑女みたい。
 ゆっくりと沈む性器を耐えるように歯を食いしばった唇は、最後に根元まで乱暴に突き立て、深く揺すり上げてやると、すぐに解けて艶めかしい喘ぎを洩らした。
「アア、ア、」
「なあ、先生」
 腰を回すようにして奥を掻き回す。つい今達したばかりの彼の性器は、それだけで再び反応する。
 ねえ、これでも何も介在しないと言うの。あるのは肉欲だけだと言うの。
 執着、嫉妬、独占欲、それは愛ではないのだろうけれど。
 私に嫌われたくはない彼、それも愛ではないのだろうけれど。
「ふらふらするんじゃねえよ、見てられない。おれのことだけ考えていろよ。誰かに可愛がって欲しければ、おれに言えよ。厭ってほど可愛がってやる。そうじゃない?」
「は、あ…」
「足りないなら、もっと求めればいい。おれを骨まで食らえばいい。他の誰かを欲しがるならそれからだ。おれは結構これで食いがいがあると思うがね」
「ン…、ア!」
 ぎりぎりまで引き抜いて、一気に全長を突き刺す。何度も繰り返し、擦り合わせる快楽を分け合う。
 啜り泣く甘い声、確かに今ここに彼はいるのに、確かに私と同じ時間を共有しているのに、一瞬目を離せば、すぐにほら、私の手をすり抜けて何処かへ消えてゆきそう。
 ぐちゃぐちゃに蕩けて熱を持った肉壁を暫く激しい動きで掻き乱してから、最奥まで侵した位置で穿つ動きを止めて、その蠢きを感じた。
「もう二度と許すな。指一本触らせるな。たとえそれが何処かの国の皇帝陛下でもだ、どんなに情熱的に求められてもだ」
「…った、ら」
 ひくひくと秘所で私を締め付けながら、彼が僅かに瞼を上げて私を見た。濡れた赤い瞳は少し焦点が曖昧で、その言葉が本心なのかただの譫言なのかよく判らない。
「だったら、おれを、好きに、なってくれ…。おれだけが、おまえに、夢中なんて、…怖い」
「…」
「おまえがいないと、おれは、寂しい…。好きでもないのに、おれを抱く、おまえは、怖い」
「…どうしておれがおまえを好きじゃないと思うんだろうね」
 譫言か。
 熱に浮かされた、ベッドの上だけの、戯れ言。
 好きだとか、夢中だとか、寂しいだとか、死んでも口にしないような軽薄な言葉を抱かれてあっさり吐いてみせる彼は残酷だと思う。
 ねえ、例えば毎夜好きだと囁いて彼の隣で眠れば、彼は夜のウッドデッキで他の男と口付けを交わしたりはしないのだろうか。私のこと思い出して躊躇うのだろうか。或いは他の男に私を重ねるだろうか。
 私はこんな思いをしなくてすむだろうか。
 かつて身に覚えのないような醜い嫉妬。
 或いは一歩も引けないほど嵌り込んで更に見苦しく醜態を晒すか。
 ねえ。
 それはこの不毛を少しは救うのか。それとも。
「怖いのは、おれのほうだ」
 止めていた動きをゆっくりと再開すると、彼は身体を強張らせ、固く目を閉じた。引き止めるように、促すように食い付く内部をじっくりと貫き、零れる掠れた悲鳴を聞く。
「ンン、あ」
「おれに嫌われるのは厭だと、おれの腕の中で泣いてみせるくせに、おまえはいつもおれから逃げる。怖いのは、おれだ」
「アア…ッ」
 怖いだなんて馬鹿馬鹿しい。
 時々腰を捻り、角度を付けて追い込む動きに変え、彼を強く揺さぶった。頂点を欲して震える脚を押さえ付け、解放を許さずに深く犯す。
 もっと。もっと。
 たとえ今だけでもおれを求めて。おれだけを求めて。
「キリコ…ッ!」
 私を呼ぶ彼の声、絡み付く熱。もっと。もっと。
 おれを、おれだけを愛して。






 翌朝目が覚めると既に彼の姿はなかった。
 寝起きは良くも悪くもない。自分のベッドでいつも通りの朝。
 寝室の床に落ちたリボンタイがなかったら、ずいぶんとまあ露骨な夢を見たものだと思ったかもしれない。
 なんだったっけ。そうだ、彼の家で彼が知らない男と口付けを交わす様を見て、勝手に嫉妬に駆られたのだっけ。それで、攫うようにしてここまで連れてきて、子供でも言えるようなセリフで脅して服を脱がさせて、身体を合わせて、というか、犯して?
 ガウンの紐を縛り直しながら、ベッドを降りた。素足にスリッパを引っかけ、寝室を出てリビングに向かう。
 庭に続く窓、昨夜はカーテンも引かなかったリビングは、厭になるほど眩しい光で満ちていた。
 そうだ、それから、二人でシャワーを浴びて、シーツを変えたベッドに沈んで、二人で眠った。洗いたての彼の髪から、自分と同じ香りがして、そんな些細なことが私は少し嬉しかったのじゃなかったか。
 そこにも彼の姿はなかったから、玄関まで見に行ったら、彼の靴は何処にも見あたらなかった。
 なんだ。
 タクシーでも呼んだのか?
 指を絡ませて眠った翌朝、彼が私と顔を合わせることさえ厭がったというのならば、仕方ない。
 リビングに戻り、ソファに身体を埋め、ガラステーブルの上へ投げ出してあった煙草を手に取った。寝起きの一口が異様に旨くて、これはもう立派なニコチン中毒だとは思うが、別に誰も文句を言わないのでそれでいい。
 テーブルの上に新聞が置いてあった。
 今日の日付。彼が読んだのだろうか。
 咥え煙草のまま、何の気なしに手にとって眺めた。一面の隅に、あの男の写真が載っていた。
 昨夜車から見た顔とは違う。ああ、口髭だと今更気が付く。ご執心な孤高の外科医に会うために、ちょっとした変装をしたわけだろうが、口髭を落とすとは結構な決心だ。
 何処かの国の皇帝陛下、帰国予定は今日の昼。
 今日の昼?
 つい顔を上げて壁掛けの時計を見た。九時。彼がいったい何時にこの家を出ていったのかは知らないが、タクシーを直接空港に乗り付けるにしろいったん家に戻るにしろ、皇帝陛下をお見送りするには充分間に合うだろう。
「…」
 なにそれ。
 ずいぶんといやらしいことしてくれるじゃない。
 新聞をテーブルの上に放って、ソファへ横たわった。片方の肘掛けへ頭を乗せ、もう片方の肘掛けには足を投げ出してぼんやり天井を見る。
 こうやってわざわざ新聞をすぐ目に付くところへ置いていった。
 嫌味か。それとも、追いかけてこいと言っているのか。
 私よりあの男のほうが好きだということか?
 気付いたら、無意識のうちに煙草のフィルタを噛み締めていて、その自分にさすがに嫌気がさした。昨夜、車の中から他の男と抱き合う彼を見た。あのときと同じ行為、子供じみた独占欲。
 いいさ。
 解っているもの。おまえは私のものじゃない。
 腕を伸ばし、まだ長い煙草を灰皿に押し消して、目を閉じた。家から洩れる柔らかな灯り、逆光のウッドデッキで、ふたり抱き合うとても綺麗なシルエットが瞼に浮かんで消えた。
 情熱的だったからと彼は言った。
 私の熱は身の内に滾るばかりで、いつまでも行き場がない。



(了)