悪夢の如き一瞬の生に、現実は残酷に過ぎる。
身を委ねてしまえば楽かとも思うが、この手がそれを許さない。
抗う必要などないだろうに、私は、背かなければ一瞬さえ掴めない。
敵は理、嵐の中で風に刃向かうよう、あっという間に吹き飛ばされて、身体の奥まで雨が突き刺さる。
だって許せないんだよ。
流れのまま生きてしまえば、それは、私じゃないんだよ。
目の前の闇は何の答えも返さない。
私は矮小な獣、目をぎらぎらと血走らせて、走る、走る、もう逃げ込む場所はない。
現実が真実だと知っている。死、唯一絶対、瞳に映る確かなもの。
誘惑の薄赤い舌が、私の精神を這いずり回る。
大丈夫よ、ぼうや、私はずっと待っているわ。
私はずっと待っているわ。
死神め。
おまえの纏う漆黒は、リアルそのもの。
「おい」
少し乱暴に髪を掴まれて、顔を上げさせられた。
私を抱き寄せる背の高い男と、目が合った。
「…なんだよ」
「余計なことをいつまでも、ぐちゃぐちゃ考えてるんじゃねえよ」
「…考えてねえよ」
「おまえ今、おれと何しようとしてるわけ? ブラック・ジャック先生よ」
「セックスだよ、キリコ先生」
「だったらさっさと忘れろ、おれに失礼だろ」
「…失礼で悪かったな」
言ってから思った。この返事はつまり、余計なことをいつまでも、ぐちゃぐちゃ考えていると肯定した意味になるのか。
馬鹿馬鹿しいような豪奢なホテルに、馬鹿馬鹿しいようなチップを積んで、男ふたり同じ部屋に泊まる。なんて馬鹿馬鹿しい。
儲けがなかった仕事の後は、下手な贅沢をしたくなる。高価いだけのシャンパン、花瓶に突き刺された薔薇の生花の、仄かな香り。
救えた命と同じ数くらいは、私は誰かを殺してきた。
救えた? 傲慢な。
それが救いであるのかどうかなど。
「は、」
髪を掴まれたまま、仰のいた顔に彼の顔が近づき、下唇を軽く噛まれた。すぐに離れた唇を見やると、薄赤い舌がいやらしく、濡らした私の唾液を舐めた。
バスローブ越しに彼の肉体を感じる。腕、胸、しなやかな筋肉の動き。リアルそのもの。目を瞑れない嫉妬、この男は嵐の中で笑っている。
風を操り、雨を味方に、真実に寄り添って、その味は甘いだろうか。
「忘れろよ」
冷たくも熱くもない声で、耳元に吹き込まれる、こめかみに、おまけのようなキスひとつ。
「忘れたさ」
「嘘吐き」
「おれがどう言えば満足なんだ?」
「今はあなたのことしか考えられません」
「気持ち悪い」
「ああ、気持ち悪イな」
笑みを浮かべた唇が、私の唇にしっかりと重なった。最初から深く、探るように。違う煙草の味、他人の唾液を飲み込んで、少しも不快ではない、不快どころか。
身体の内側から侵され犯される、歓び。
リアルだ、あまりにも。
心電図の平坦な音が耳に残る。今日この手の中で、消えていった命を知っている。拍動が止まり、肌が冷える、その瞬間を超えた生は、最早生でない、その絶対的な瞬間を。
ぞくりと背筋が震える。
差し込まれた彼の舌の所為か、この耳に残る音の所為か。
「ウ、ん」
生ぬるい舌が口蓋を、奥まで舐め上げる。ぬるりと触れ合う舌の裏まで弄られ、無意識のうちに彼の胸にしがみつく。
舌を咬み合う口付けの間、彼の手は私の髪を離れ、ずっと私の背を撫でていた。
強引なのだか、丁寧なのだか。
この男は死を手懐け生きている。
誰もに平等に訪れる安寧、苦しみからの永遠の解放、差し出される異界からの優しい手、だとしたら私は。
だって厭なんだよ。
消えゆくものをただ見ているのは、厭なんだよ。
無駄な足掻き、指の隙間から確実に砂は零れている。
おまえは笑うだろうか?
今日、また一人、死んだ。
「おい」
長い口付けの後、漸く離れた唇で、彼が低く言った。
言い返す前に、いきなり頭の上から水をぶちまけられた。
途端に、噎せ返るような薔薇の匂いが部屋に充ちる。花瓶。私は、髪からバスローブからずぶ濡れになり、足下の絨毯まで水浸しになった。
「…なにをする?」
「目が醒めたかよ」
右手の花瓶をテーブルの上に戻し、彼は淡々と言った。私とくっついているのだから、当然彼も少なからず濡れていた。
「…冗談みたいなやつだな、キリコ先生よ」
「上の空で、おれに食らわれようとしている、おまえが悪いんだよ」
「冷たい」
「脱げばいいだろ」
「寒い」
「すぐに熱くなるさ」
彼の両手が、さっさと私のバスローブの紐を解いた。私は、言われるままに、濡れて重いバスローブを脱いだ。
彼の前に裸体を晒す羞恥を、私はとうに忘れてしまった。
何度抱かれたろう? 彼は私の身体と言うより、精神を犯した、その圧倒的なリアルで。
知っている。私がそれに抗い続けることを。
そうしなければ生きては行けない、あの日、あのとき、私の母星が消えてから。
この世に流れる風は、残酷に過ぎる。
しかし、残酷というなら、むしろ私こそが、残酷。
従うもの。背くもの。
闇から伸ばされた二本の腕の、どちらが。
「寒い」
「可哀想にな」
彼は、全裸になった私の、濡れた髪を軽く撫でた後、私の肩を掴み、ベッドに向かって軽く押した。私は従順にシーツに乗り、仰向けに身体を投げ出した。厭がってもしようがない、厭ではない。きっとこれが私の望み。
誰かを殺した夜は、痛みを塗り替えるような快感を、更なる痛みを。
「相変わらず、見るに耐えない身体だな、傷痕だらけだ」
彼は、見上げる私の前で、バスローブを床に落としながら、言った。
私は黙っていた。その、見るに耐えない身体を、彼はもう何度も抱いた。
欲情というのか判らない、もっと、切羽詰まったもののような気がする。傷口を擦り合わせるように、彼に触れ、彼に溺れてしまいたい。
身を切るような鋭い風、彼が指を立てれば私に襲いかかる。彼は、司るものから許しを得た使者、或いは彼自身が。
「忘れさせてやるよ、一瞬くらいは」
床に散らばった薔薇の花を一本掴み、それを指先で弄びながら、彼は私に向かっていやらしく笑って見せた。
忘れてしまいたいのか。
忘れたくないからこそ彼なのか。
私は瞼を閉じ、冷えた身体に重なる、彼の体温を待った。
悪夢の如き一瞬の生に、現実は残酷に過ぎる。
許せない私の罪は、どれだけ重く深いのか。
身体中切り裂かれ引き千切られても、諦めるわけにはいかない。
だって感じたいんだよ。
幾千もの鼓動、耳に煩いほどの、手を引いてしまえば、それは、私じゃないんだよ。
無意味であることなど判っている。
私は無力な獣、決して辿り着けない場所に向かって、走る、走る、もう逃げ込む時間はない。
誘惑の淡い色の瞳が、私の精神を這いずり回る。
早くいらっしゃい、ぼうや、私はずっと待っているわ。
私はずっと待っているわ。
死神め。
おまえが纏う血の色は、リアルそのもの。
私の右側に、肘をついて横たわり、手にした薔薇の花弁で、彼は私の身体の至る所を撫でた。
甘く鮮やかな香りに、酔ってしまいそう。
「は…」
ひんやりとした花びらに、乳首をなぞられて、そのもどかしい刺激に、思わずシーツの中、重く身悶えた。
「もう尖ってる」
笑いを含んだ声が、私の耳元で囁いた。
「おれはまだ、指一本触れてないぜ、なあ」
「痛、」
鋭い棘で引っ掻かれて、身体が揺れる。
薄らと開いた瞼の向こうに、銀色の淡い煌めき。
暫く胸を弄っていた薔薇の花が、脇腹を辿り、今度は股間で遊び始めた。私は呼吸を乱しながら、その淡い煌めきを、ただ見詰めていた。
彼が美しいのだとしたら、私は醜い、途轍もなく。
知っているはずじゃないか、無駄、無駄、全て無駄、私が掴んでいる一瞬は、はじめから無駄の塊。
それでも我慢できないんだ、どうしようもないんだ、向かい風を追い風にしてしまえば、私の立ち位置は奈落の底。
「もう勃ってる」
今度は、低い、短い笑い声を聞かせて、彼が言った。
「おれはまだ、指一本触れてないぜ、なあ」
「…わって、くれよ」
洩れそうな喘ぎを堪えて、私は強請った。今更、恥ずかしいとも思わない。私が彼を欲していることを、彼は誰よりもよく知っている。
「なに?」
「触ってくれよ」
「何処を?」
「いつもみたいに、おれの身体中、触って、舐めて、くれよ」
「淫乱だよね、先生」
屹立した性器の裏側を、花弁で上下に摩っていた彼が、揶揄の口調で言った。私は彼の淡い色の瞳を見やり、頷いた。淫乱。そうならそうでいい、そのほうが、ずっといい。
柔らかに擽られた身体には、とうに火がついている。
その身体の上に、彼は、片手で千切り取った薔薇の花びらを、ぱらぱらと撒いた。
「おれのことが好き?」
「…」
「おれに抱かれたい?」
「ああ」
「最低」
彼はにやにやと笑うと、私の右側から身体を起こし、私に覆い被さった。
最低。そうならそうでいい。
耳朶を噛まれ、敏感な、頸の薄い皮膚を吸い上げられる。ぞくぞくとした快感が、全身に伝わる。濡れた唇が肌を這い、唾液が残る、ひやりとした感触、リアルだ、泣きたいくらい。
「アッ」
指先で乳首を摘まれ、声が出た。
すでに硬く尖っていたそこを、押し潰すように愛撫され、肌が震えた。
「あ…、キリコ」
「おまえ、薔薇の味がする」
「ん」
指先を唇に代え、彼は私の乳首を貪った。右、左、また右、尖らせた舌先で揺さぶり、音を立てて吸い上げ、歯を立てる。
そうしながら彼の手は、私の望んだ通り、私の身体中を撫で回した。
古い縫合の痕を爪で辿り、大きなてのひらで摩る。仰け反る背中、骨の突き出した腰、尻、太腿、膝。
意地の悪いことを平気で言う、この男は実は、とても優しいのだと思う。
私に対してだけではない、勿論。
誰にとっても、とりわけ、最期を前にしたものにとっては。
永遠の無の約束。
彼はリアルを背負って立っている。始まれば、終わる、それが理。望むものには安らかなる眠りを。少しの穢れもないままに。
この狭い惑星で、誰かが誰かを救えるとしたならば、それは私か、それとも彼か。
私ではない。
私では有り得ない。
ああ、でも今日は一人だけ、救ったのか、皮肉なことに。
「おい」
胸から顔を上げた彼が、言った。
「まだぐちゃぐちゃ考えてるの」
「…えて、ない」
「せっかく言う通りにしてやってるんだから、愉しめよ」
「ア!」
彼の右手が、無造作に、私の性器を掴んだ。シーツに埋まった身体が、勝手にびくんと跳ねた。
「熱いぜ。熱くなったか? まだ寒いか」
「…つ、い」
「どうして欲しい」
「擦って、くれよ…っ」
喘ぎの合間に言うと、彼は、確実な動きで私を扱き始めた。再度乳首に触れた唇が、吸い上げる力と合わせるように、徐々に動きを早め、何の小細工もなく、私を絶頂へと導く。
「アア…ッ」
彼が私の性器に触れてから、何分も持たず、私は呆気なく、達した。
耐えもしなかった。誘われるままに彼のてのひらに精液を吐き、身体を痙攣させて快楽に酔った。
忘れさせてくれるのか? 一瞬くらいは。
そうだ、忘れさせてくれ、せめて一瞬くらいは。
「あ…ッ」
彼は、余韻が去るのを待たなかった。
強張る私の脚を肩に抱え、尻に、私の出した精液を塗り付けた。
「ん、は…」
「さあ、どうして欲しいんだ? 先生」
「…れて、」
「なに?」
「入れて、くれよ、おまえのやつを」
「おまえのその素直さは、嫌いじゃないね」
指を一本、二本、差し込んで、彼はやや強引に、私の後孔を拡げた。胸を喘がせながら目を開くと、ぼやけた視界、白いシーツの海に散らばる薔薇の花弁が見えた。
立ち込める匂いには、もう麻痺してしまった。
この一瞬の生の間、何かに麻痺してしまったように。
ただ鮮やかなのは、私に触れる彼の体温、私を開く長い指の感触、リアルそのもの、たとえどんなに苦痛であっても、これにだけは慣れてはならない、現実に、真実に、慣れてはならない、刃向かい続けることで私は生きている。
「入るぜ、上手に食らえよ」
「あっ、あ…! キリ、コ」
「駄目、駄目、もっと弛めるんだよ、出来るだろう」
「ああッ、は…ッ」
太い性器を飲まされる衝撃に耐えられず、私は目を瞑った。視界から花びらが消えた。
容赦なく、ずるずると沈んでくる彼に、甲高い声を上げる。
熱い。苦しい。痛い。
どうしようもなく、リアル。
死神め。
おまえの纏う暗闇は。
(了)