多分、彼よりも私のほうが、幾らか冷静だった。
勿論、彼が冷静でなかったわけではない、彼は冷静だった。冷静すぎて、その色素の薄い瞳に、隠し通さなくてはならない困惑が、ちらついて見えたくらい。
自分がやっていることは、とてもよく把握していた。やろうとしていること、やりたいという欲望も、彼はちゃんと把握していた、ただ、それを突き動かす感情が、彼には理解できていなかった。
そう思う。
理解しようと思考をフルに回しているのに、理解できなくて、彼は、困っていた。
衝動がそこにあって、それを行為に移すことが可能で、それに従っているのに、彼は困っていた。自分のその衝動が何処から来るのか、理解できなくて、困っていた。ただ無心に身を任せるには、彼は冷静に過ぎた。
そして、その彼よりも私のほうが、幾らか冷静だった。
わざと隙をつくって見せたのは、私だ。
誘ったのは、私だ、きっと。
だからこれは、茶番だ。
「大声を出すなよ」
夜の病室。
彼の大きなてのひらに口を塞がれて、私は、いかにも本気であるかのように抗ってみせた。電気の消えた部屋を照らすのは、カーテンの開けられた窓から差し込む月明かりだけ。
無人の病室と言ったって、ドアを挟んで廊下、ナースステーションまで何メートル。
私はおそらくは簡単に、助けを求めることが出来た。
私はおそらくは簡単に、彼の手から逃げることが出来た。
私がそれをしなかったのは、単純に、私が彼を求めていたから、そうされたくて私が誘惑した、それを隠すために懸命に抗ってみせる。
彼には判っていたのだろうか?
判っていて、気付かないふりをしているのか? 即興の舞台に乗ったのか?
私が心底彼を拒めば、彼はきっと、あっさり手を引いたろう。
私が本当には厭がっていないことを、彼は知っていたに違いない、肌で、視線で、感触で、頭で。知っていなければ彼はこんなことはしない。では何故彼は、知っていながら、乱暴で強引な行為を選んだのか?
無論私も知っている。それは彼が、認められないから、認めたくないから、理解できないから。
自分が私に恋焦がれていることを。
「キリコ」
「黙ってろって。喚いたって恥ずかしいだけだぜ、おれは、やると決めたらやる、必ずやる。諦めて大人しくしてなさい」
「やめろ…放せ、」
「やめろと言われてやめるなら、はじめからやってねえよ」
「あッ」
抗う頬を軽く叩かれて、精々ショックを受けた表情をしてみせた。まさか、こんな撫でるような暴力で、男ひとり自由になるなんて、お互いに思ってはいない。
もっと徹底的に、殴るなり蹴るなりしないと駄目だ、私が、真剣に抗っているのなら。
私の抵抗は真剣ではない、だから彼はこの程度のことしかしない、なんと馬鹿げているのだろう、私達は、今、ここに、二人きりなのに。
それでも彼には、そうすることしか出来ないのだろう。彼の困惑は、私にもよく解る。私は彼よりも少しは冷静だと思う、何故なら私は、自分で認めてしまっているから。
私が彼に恋焦がれていること。
彼が認めないことを、認められないことを、それでもいいと思う私は、大した馬鹿だ。いつまでも理解できない彼も、馬鹿だ。私達は子供のように愚かで、けれどその欲は切実で、だから彼は困惑し、私は誘惑する。
ねえ、他にどうしろと言うのか? 私達は確かに求め合っている、だが互いにそれを認め合い分かち合ったところで、何がどうなるというわけでもないのだ。ねえ、嘘を吐いて誤魔化し合って、この恋情を刹那の衝動にかえる、私達はとても卑怯で、とても臆病、けれど、真っ直ぐに手を伸ばし合ったところで、私達は決して結ばれることはないのだ。
ねえ。
それでも私は少しだけ、無意味で乾いた夢を見る。
私のことを、好きだと、欲しいと、おまえが例えば私に言ったなら。
認めてしまえばいいのに、ねえ、あなた、私のことが好きで仕方がないのだと。
「キリコ、」
優しく何度か叩かれて、呆然としている、ふりをしているすきに、襟から抜かれたリボンタイで、後ろ手に両手首を縛られた。こんなふうに大人しく縛られてやるなんて、誰が見ても私は、私こそがこの状況を望んでいる。当然彼が見ても判るだろう、私は彼にこうされたくてたまらない、叩かなくとも縛らなくとも私は彼から逃げはしない、だが、私達は最後の言い訳を、最後の逃げ場を、捨てることがいまだに出来ない。お互いに。
彼が恋情を認めたら、私が抵抗を止めたら、私達の関係はどう変化してしまうのか。
甘い毒を舐めて、鮮やかな愛に溺れるか。
その先は無い、弾き合うことで漸くクリアになる輪郭が、溶けて、溶けて、私も彼も、別の生き物になってしまう。
だから私達はこうして、観客のひとりもいないのに、誰よりも自分を欺くために、欺かれたふりをするために、冷淡な獣と、諦めを知らない子羊を演じてみせる。
茶番だ。
ねえ、そうだろう。
「いい子だよ、先生。いい子だから暴れるな」
「やめろ、腕が…痛い」
「痛みなんて、すぐに判らなくなるさ。おまえは最初におれに犯されたときから、とても気持ちが良さそうだったぜ、そうだろう? すぐに気持ちよくなる」
「死ね、人殺し…っ」
「口が悪いなあ、医者のくせに」
馬鹿を言うな、死神のくせに。
シーツを敷いていない窓際のベッドへ、横から、仰向けに押し倒される。後ろ手に縛られた腕が、固いマットレスの上、背中に痛い。
病室のベッドは高くて、腰を掴んで引き寄せられると、両脚の間に立ったまま身体をねじ込む彼の股間に、ぴったりと私の尻が触れた。どうするつもりもないけれど、足をばたつかせて抗う。彼は勿論構いもせずに、私の服のボタンを外していく。
服越しに密着した彼の股間が、硬くなっているのが判る。
多分彼にも、私が興奮していることが、伝わっている。
本当に、馬鹿みたい。
犯すだけならば、私が痛がろうと苦しがろうと、さっさと犯せばいいのに、彼は必ず私に丁寧な愛撫を施した。私の身体がきちんと快楽を覚える方法で、彼は私を、抱いた。そう、最初にこうされたときから。
あのときも私が誘ったか、私が隙をつくって、彼をたらし込んだか?
このくだらない行為の主導権は、最初から私にあったのだろう、きっと。彼よりも私のほうが、少しだけ、冷静だったから。
これが浅ましい恋だと、理解していたから。
「あっ」
シャツの前を大きくはだけられて、彼の冷たい唇が頸に触れた。音を立てて軽く吸われ、何箇月ぶりかの彼の感触に、一瞬で全身の肌が目覚めた。
こんなのは犯される人間の反応じゃない、当然互いに知っている、こんなのは、レイプじゃない。
「あんまり色っぽい声を出すなよ」両手で乳首を擦り上げながら、彼が揶揄う声で言った。「ここを何処だと思ってるんだ? 病院だぜ、最中にドアを開けられたら言い訳が出来ないぜ」
「は…ッ」
「おれは見られたって別に良いけどね、おまえが恥ずかしいんじゃないの? いい子だから黙って静かにやられてな、すぐに済む、おれだって長居したい訳じゃないんだ」
「…リコ、」
言葉とは裏腹な指先に、丹念に乳首を捏ねられて、私は掠れた声を吐息に混ぜた。後ろ手に縛られ、身体の下敷きになった両腕が、痺れて痛みを忘れていく。さあどうだ、私は、私の身体は、私の心は、こうもおまえを欲しがっている、判るだろう。
ねえ、いつまで後生大事に抱えていなくてはならないか。
ねえ、それでも踏み越えることは出来ないね。
私に、彼に、私達の間に無言で決められた禁忌、破ることは出来ないね、互いの唇に毒を注ぐようなもの。ねえ、それでも。
私は少しだけ、無意味で乾いた夢を見る。
私のことを、好きだと、欲しいと、おまえが例えば私に言ったなら。
「ア、」
刺激されて過敏になった乳首を、大きく突き出した舌で舐め上げられた。生温く濡れた感触と、視覚から侵される。暗い病室、窓から差す月光に、淡く煌めく銀髪が、私の肌に落ちる。色の白い彼の唇から覗く舌の赤さが、妙にいやらしい、それが私の身体を這う様子も。
彼が私を舐めている。私はどんな味がするだろうか、旨いだろうか? 私のそこは彼を満足させるだけ硬いだろうか。
「…ッ」
軽く歯を立てられて、ぞくぞくと震えが走った。唇を噛んで喘ぎを殺し、閉じた瞼の裏に視線を隠す。このまま食われちまってもいいんだ、おまえにならば、おまえが望むならば、けれどおまえは決して認めはしない、理解は出来ない、私達がこれほどまでに互いに焦がれていることを。
彼の両手が私のベルトにかかる。私は無言のまま、身悶えるように僅かに抵抗を示す。
好きだ、恋しいと、甘く囁き抱き合うなんて、有り得ない、あってはならない、ああ、それでも。
認めてしまえばいいのに、ねえ、あなた、私のことが好きで仕方がないのだと。
彼に会うだろうと思ったから、私はここにいたのだ、きっと。
彼に抱かれたくてたまらなかった。毎夜病室で彼を待ちわびた。
彼の名前を仄めかされたから、仕事を受けたのだとまでは、言いたくないけれど。
夜の窓の下に、月明かりで艶めく銀髪を見付けたときの、あの動揺のような狼狽のような、歓喜のような鼓動の高鳴りは、まるで少女みたい、夢見心地の恋に落ちて、もう彼のことで頭が一杯、今夜どんな顔をして彼に抱かれよう。
わざとらしくタイを緩めて、襟のボタンをひとつ弾く。
何を認められなくとも、理解出来ずとも、私が求めていることくらいは判るはず。
病室のドアを開けた彼と私の視線が重なった瞬間に、さあ、茶番のはじまりはじまり。
ねえ、おまえはどうだろう? 私に会うと思ったから、ここに来たのではないか?
私を抱きたくてたまらなかったのではないか? 私の名前を仄めかされたから、仕事の依頼に耳を貸したのだとまでは、言わなくてもいいけれど。
平行線の応酬、いつもの筋書き通りの即興劇、睨み上げる視線に熱を滲ませても、胸倉を掴む指に力を込めても、何処かで二人きり肌を合わせるまでは終わらせられない、だから申し合わせたように潜めた声で。
廊下に引きずり出され、空いた病室に押し込まれるのを、蹌踉めいたふりをして手伝う。
身体を捩って彼の手を避けながら、彼の手を誘う、素振りだけは強引な彼の手が、腕に、肩に、腰に、触れるだけで私の肉体には下品でグロテスクな火が点る。
そう、それでも私のほうが、彼よりは幾らか冷静だったろう。
唇に冷ややかな笑みを浮かべ、私を開かせながら、彼は相も変わらず自分の恋情を許せないまま、自分の恋情に、困惑したまま。
誰かが見たら呆れて匙を投げるだろうね。
言い争って、暴言を吐いて、ねじ伏せられて犯される、わざわざその手順を踏まないと情欲さえ交わせない、拘っているのは私と彼だけだ、私と彼だけは、その手順を外せないのだ。
例えば好きだから抱いてくれと言えばどうだろう?
彼の胸に自分から身を投げたらどうだろう?
有り得ないね、とても有り得ないね、彼は気付いて認めて理解してそして消えていく。誤魔化しの行為さえ許されなくなった私達はどうすればいい? 抱き合えも帰れもしない二人は何処へ行けばいい?
ねえ、それでも。それでも。
おまえの唇が、瞳が、一度でも。
私を好きだと、私を欲しいと言ったなら。
「あ…ッ」
「だから声を出すなよ」
唾液で丹念に解された後孔へ、ぬるぬると猛った性器の先端を擦り付けられて、暗い夜の病室に、思わず鋭い声が洩れた。肩に抱えられた剥き出しの両脚、覚醒した皮膚で服越しに彼の筋肉の動きを捕らえ、私の身体は期待と予感に震える。
はじめから彼も私も勿論了解している、これはレイプじゃない、私達はこうも互いを求めているのだ、これは、ただのセックスだ。
「キリコ、やめろ…」
「だから、やめろと言われてやめるなら、はなからやってねえのよ」
「は…、太、過ぎ、る…っ」
「すみませんねえ、融通の利かない持ち物で」
「厭だ…、」
躊躇のない動きで、ぐっとその場所を押し広げられた。担がれた脚を引きつらせて、私は、熱く硬い他人の肉をじりじりと飲んだ。
男に侵食される、痛みにも似た快感に、全身の肌がざっと粟立つのが判る、そうだ、この感触が欲しかったんだ、彼と繋がるこの感触が、欲しかったんだ。
張り出した部分を埋め込まれ、息を合わせようとする前に、そのまま腰を使って強引に、深くまで開かれた。
「アア…ッ」
「もうちょっと緩めてよ、入らない、入らない」
「馬…鹿、言う、なっ」
「おまえのために言ってやってるんだけどなあ」
「あっ」
「きついだろ?」
先程まで私の体内に潜り込んでいた指では決して届かない奥まで、指とは比較にならない太さの肉棒が、突き入れられた。彼の一部でこうして拡げられる以上の悦びを、私は他には知らなかった。
背の下敷きになった腕の痛みなど、もう少しも感じない、どくどくと脈打つ彼を、ぴっちり張り付いた内壁で受ける。食ってくれ、そうやって私を食ってくれ、内側から焼き尽くしてくれ、ああ、これでも私のほうが彼よりは冷静か。
「は…!」
ぐい、と腰を拈るようにして、根元まで押し込まれた。そこだけ服をくつろげた彼の股間が、尻に擦り付けられるのが判る。ひとつになった、と思った。
異物感と言うよりも、もっと重くて、鮮やかで、切実なもの、肉欲以外ではなくて、肉欲だけではないもの、違う誰でも何でも齎されないもの、空白を隙間無く埋められるような、空白を穿たれ塞がれるような。
「キリ、コ、」
「具合がいいよ、上手だな、そうやってひくひく締め付けるのは、わざとやっているのか?」
「よせ…ッ」
「動くぜ、本当にちょっと緩めろ、擦り切れちまう。出来るだろ?」
「でき…る、か…!」
深さを確かめるみたいに奥をぐるりと掻き回したあと、彼はゆっくりと腰を使い出した。多分自分の快感よりも、私の快感に合わせた動きだったのだとは思うが、私は必死に声を殺しながら、彼の刻む速度についていくのが精一杯だった。
これほどまでに。
なのにどうして。
私達は。
「は…、あ…ッ」
「上手だ、いい子だ、とても無理矢理やられているようには見えないな」
「ん、…は」
「言い返す余裕はないか」
「…リ、コ」
「いい子だよ」
ぐちゃぐちゃと粘膜を擦り合わせるいやらしい音が、夜の病室に響く。繰り返し、深くを突き上げられ、喚き散らしたい唇で、細く彼の名を呼ぶ。快楽の向こう側に絶頂の波が見える。
無理矢理だなんて思っていないくせに。
知っているくせに。誘ったのは私だ、いつだって私だ、最後まできっと私だ。
私のほうが彼よりも、幾らかは冷静だから。
おまえの知らないことを、私は知っている。こうして私とおまえは、絶望的な恋に落ちている。
「キリコ…、キ…リコ、」
欲しいものがひとつ。
窓際のベッドを軋ませて、徐々に、私を揺さぶる彼の動きが早くなる。背の下で縛られたままの痺れた両手を握りしめ、髪を振り乱して、私は全身で彼にせがむ。ああ、それだけでいいんだ、私はそれだけでいいんだ、私達にはそれだけしか許されていないんだ、せめて、一瞬だけの融合を。
同じ光に溺れよう。
「は、…ッ、も…ッ」
「もう駄目? もういく?」
「ん、」
「もういきたいの?」
「い、く…っ」
「はしたない子」
「アアッ」
脚を抱えていた彼の右手が、するりと私の股間に伸びて、刺激を欲しがり泣いていた私の性器を掴んだ。同時に尻を深々と貫かれ、私はこみ上げる愉悦の渦に身を委ねた。
「ア…!」
「…、」
微かに熱を帯びた彼の吐息が聞こえ、少し遅れたタイミングで、彼が私の中に達した。どくり、どくり、と奥深くへ精液を注ぎ込まれ、絶頂に飲まれて痙攣する私の肉体が、それ以外の感覚を失うほどに歓ぶ。
彼に身体の中から浸され汚されるのが、好きだ。
彼が私の身体で私と同じだけの快楽を得るのが、好きだ。
せめて。
「は…、」
こればかりは誤魔化しようもなければ、誤魔化す気にもならない絶頂に、暫くの間、全てを手渡した。彼は、私の硬直が溶け、弛緩するまでそのままの体勢で待ったあと、まだ充分に硬い性器を私の尻から引き抜いた。
ぎゅっと閉じていた瞼をのろのろと開けたら、ぴったりと目が合った。真っ白な月明かりで、殆どモノクロに見える彼が、やはりあの僅かに困惑を覗かせる瞳で、じっと私を見下ろしていた。
「キリコ」
落ち着かない胸の喘ぎ、掠れた声。
ああ、ほらみろ、私のほうが彼よりも、幾らかは冷静だ。
判る、もうそろそろじゃないか、もう無理なんじゃないか、もう終わるんじゃないか。おまえはいつまで自分に嘘を吐けるんだ、もう限界じゃないか、本当は気付きはじめているんじゃないか、もう駄目なんじゃないか。
口付けを促すように、目を細め、唇を開いて見せた。彼は微かに眉を顰めると、私の精液で濡れた右手の指を、私の唇に押し込んだ。
「…」
視線を合わせて舌を絡める。認めてしまえばいいのに、ねえ、あなた。
さあ、認めちまえよ、おれが好きなのだと、好きで仕方がないのだと。
そのときが私達の恋の終わりだ。
(了)