随分と聞き慣れないセリフを囁かれたものだから、思わず少し笑ってしまった。
「なに笑ってるの?」
「いや」
「今の、笑うところか?」
「いや…おまえらしくないなと思って」
抱き寄せられた肩越しに、部屋の片隅、ベンジャミンの鉢を眺めながら言う。螺旋状に絡まる幹が、まるで何かを象徴しているようだとぼんやり思う。
無機質なホテルの一室で、そこだけ不似合いに有機物。何処まで行っても融合できない、どんなに背伸びをしても。
深く息を吸って、彼の香りで身体を満たす。頬に触れる長い銀髪がくすぐったい。
「あ、そう」耳元にわざとらしい、乾いた溜息が聞こえた。「可愛気のない男だな、え? ブラック・ジャック先生。そしておれには愛嬌がないんだろうよ、どうせ」
「いや…似合わないと思っただけだ」
「あ、そう。おまえおれをなんだと思っているわけ」
「死神じゃないのか?」
「まあそうだな」
私の背を抱いていた腕が離れ、器用な長い指が今度は襟元に伸びる。淡い色の瞳は私を見詰めたまま、微かな衣擦れの音を立ててリボンタイが解かれる。
いつからこんなに、息苦しく感じるようになったのだか、判らない。
理由もよく判らない、いや、解りたくない、ただ、押し潰されるように、胸が痛くなった。
視界の端に真っ白なシーツ。
はじめて彼と寝たのはいつだったっけ、とどうでもいいことを考える。はじめて寝たときは、こんなふうに感じたっけ。欲と期待と、情、寂寥感。両手を伸ばし、彼のシャツから形良く結ばれたタイを抜く。
初めて彼と寝たときは、そうだ、彼が私をどんな具合に抱くのか、ちょっとした好奇心と、それから肌を焼くような快楽、何かに背く密かな愉悦、罪を負う自虐的な興奮と。
「先生、いい匂いがする。キレイにしてきたんだね。おれに抱かれるために、自分の身体を隅から隅まで洗っているおまえを想像すると、ぞくぞくするな。おれに呼び出されたときは、おまえ、いつもいい匂いだ」
「時間短縮に努めているんだ。おまえが私を呼ぶときは、やることしか考えてないだろう」
「どうしてそう思うわけ」
「実際、やるときしか呼ばないじゃないか」
「まあそうだな」
互いに互いの服を緩めながら、まるで意味のない遣り取り。
気紛れな逢瀬、思い起こすまでもなく、私達の間に、まともな会話があったためしがなかった。
不用意に顔を突き合わせれば、いつまでも平行線のままの応酬、多分相手の真理を私達ほど把握し合っている人間もいないだろうに、把握していることが、許し合うことにはならないという皮肉。睨み合う視線から毒を抜けば、或いは毒を含めたまま、ベッドへ転がり込んであとは肉を貪るだけ。
肌を擦り合わせることでしか見られない一瞬の夢、私は気付かない、気付きたくない。
シャツのボタンを弾き終えた彼の指が、すっと胸から頸をなぞり、顎の下を柔らかく撫でた。私は猫のように目を細めて唇を開く。半端にはだけた彼のシャツに縋って。
躊躇いはなく、かといって私を安心させるほどの気のはやりもなく、とはいえ腹が立つような等閑さでもなく、彼の薄い唇が私の唇に触れた。音を立てて啄み、私を試すみたいに離れる。幾度か繰り返されて、私の身体は勝手にその先を欲しがり熱を孕む。
ねえ、我が愛しの死神よ、私は少しだけ可笑しかったのだ、おまえのロマンティックなそのセリフが。
抱き合う首筋に囁かれた、甘い言葉が。
「…キリコ」
「物欲しそうな顔をしている。欲情しているか? おれとやりたくなるか」
「おまえはどうなんだ」
「おれは、やりたいときにしかおまえを呼ばないんじゃなかった? なあ、先生?」
「してくれよ…」
一瞬の夢を私に許す、おまえが。
半ば掠れた声で求めると、彼が目付きだけで笑って、それから深く唇を合わせてきた。生温い舌が唇を割り、私の舌を誘って歯列で遊ぶ。私は彼のシャツに縋ったまま、目を閉じる。
好きなのだろうと認めることは、何だか怖いような気がした。
それでも、私は彼が好きなのだろう、好きでたまらないのだろう。
いつからかなどは判らない、知らない。いつの間にか私は彼の腕を待ち望むようになっていた、ただそれだけ。
絡み付いても混ざり合えない言葉を捨てて、理性を、現実を、正気を捨てて、重ねる熱に全てを託す。彼の肉を飲み込み、そのまま彼を食らい尽くしてしまえればいいのに。ひとつになってしまえればいいのに。儚い命が闇に消えるまで。
この感情はどこから来るのだろう、彼を好きだとはどういう意味なのだろう、誰にも許されないこの欲望、永遠の秘密、ああ、私達が抱き合い生まれる炎は、罪か、罪でしかないのか。
嘘を拒む私、嘘を欲しがる私、臆病で貪欲な私、イヤラシイ私。
「は…」
舌を絡めて体温を交わす。目眩のような誘惑に足下から浸かる。
ねえ、我が愛しの死神よ、私は少しだけ嬉しかったのだ、おまえのロマンティックなそのセリフが。
決して叶わない望み、祈ることさえ忘れた願い、ねえ、例えば好きだからと、ただ好きだからと抱き合えたなら、それだけが理由で良いのなら、私とおまえは片時も離れずにいられたろう。
私達が最後に行き着く果ては、或いは同じ場所なのかも知れない、それでも私とおまえは一緒にはいられない、一緒にあれるのは、この一時、この瞬間だけ、そしてこの瞬間さえも、一緒にあるのは欲望と快楽だけ。
幻なんだ。
ああ、それでも、せめて幻でも。
「ン、」
唇を合わせたままぐっと腰を引き寄せられて、喉の奥から喘ぎが洩れる。反応しかかった股間を押し付けられ、尻を撫でられ、彼のシャツに縋る指に震えが走った。
ケダモノみたいだ。
愛に似た何かを欲しがる餓えた獣。
今、この一瞬が全て、過去も未来も消えちまえ。
おまえに向かって弾ける火花のような感情と肉体が、私の全て。
私の全て。
そのはずなのに。
「…ア」
シャツの下に彼の手が忍び込み、直に背中を撫で回された。強く、優しく。爪を立てて背筋をなぞり上げた指先が、今度は脊椎を数えるようにゆっくり降りてくる。
彼の存在を感じて、香りを嗅いで、抱きしめられて、口付けをされて、ほんの僅かな愛撫を受ける、それだけで私は彼に夢中になる。口腔の奥まで犯されていた唇を引き離し、乱れ始めた呼吸を散らす。
そうだ、私がこの世に生まれ落ちて今ここにある、それが私の全て、悔やみもしない、贖いもしない、出来ない、そして夢も見ない。
怯えながら約束を求める私に与えられた、それこそが唯一の約束。
夢は見ない。
そのはずなのに。
ああ、我が愛しの死神よ、おまえのその唇が、残酷な偽りを綴るから。
「キリコ、」
「なに」
「言ってくれよ…」
「なにを」
「もう一度」
「おれらしくないんじゃなかったの」
「キリコ」
私達を結ぶものは、何もない。
服をはだけられて素肌を晒し、股間を擦り付けながら、縺れた舌で何かを欲しがる私、何かを拒みたい私、ハシタナイ私。
彼は、美しい弧を描く眉を微かに上げて、喘ぐように言った私を暫く眺めたあと、私の耳朶に唇を付け、先程と同じ言葉を吐息で囁いた。
ああ、まるで。
私は無意識に小さく呻く。身体の芯から蕩け出しそう、歪んだ世界に蜃気楼を見そう、好きだ、好きだ、好きだ、このどうしようもない救いようがない感情と肉体が、何処か遠くにあるパステルカラーの星に棲むことを許されたような気さえして。
すっと身を引き、私の表情を確かめる彼にしがみつく。背の高い彼の銀髪に指を絡め、頭を掻き抱く。
どうか、今だけでも、どうか、私達を重力から切り離して。
どうか、私達を、今すぐに、ひと思いに殺して。
どうか。
「…おかしな先生だ」見苦しく縋る私を両腕で抱きとめ、彼が僅かに揶揄いを含めた口調で言った。「さっきは笑ったのに、今度は泣くのか。おまえは本当に扱い難い男だな、おれがどう言えば満足するんだ」
「キリコ」
「わかった、わかった、もう言わない」
「キリコ」
「ああ、わかったよ、何度でも言ってやろう」
「キリコ」
消えちまえ、過去も未来も、消えちまえ、この瞬間に。
ねえ、我が愛しの死神よ、私は少しだけ哀しかったのだ、おまえのロマンティックなそのセリフが。
ねえ、我が愛しの死神よ、私は少しだけ苦しかったのだ、おまえのロマンティックなそのセリフが。
抱き合う首筋に囁かれた、甘い言葉が、私を少しだけ、傷付けたのだ。
(了)