最低な男

 左の頬を思い切り張られた。
 手加減のない強さだった。時々露骨に抵抗されることはあっても、彼は大抵の場合本気ではなかったし、無意識にか遠慮があったが。
 見やった彼の赤い瞳は、怒りと屈辱で煌いていた。
 ああ、やっぱり、と思う。
 彼でないと駄目なのか。私は、いったい何を求めているのか。



 女を抱くのは嫌いではない。
 甘い香りと、柔らかい肌。高い声と、包み込む熱い肉。
 予定調和を分け合って、湿った身体で睦みあう。背中に長い爪を立てられながら、啜り泣く女を見下ろしている時間は、楽しい。
 それなのに、すぐに冷める。
 いや、冷めるというのではない、冷めるというならはじめから冷めている。反応する身体と裏腹に、意識はこれっぽっちも熱くならない。
 たとえば患者の皮膚にメスを入れるような。
 いくらでも愛の言葉を囁くことができる。いくらでも優しく扱えるし、いくらでも情熱的に振舞うことができる。
 それなのに、冷めている。
 ひとしきり絡み合うと、もうそれ以上我慢できない。触れるどころか、視線が重なることさえ気分が悪い。声も聞きたくない。
 すぐにバスルームに立つ私を、女達は冷たいと言う。
 終わった途端に興味を失うなんて、最低な男。
 違う、と思う。最初から特に興味なんてない。
 まあ、最低というのはその通りだが。

 自分から女を欲したことがない。
 誘われれば、断る理由もない、精々がその程度。
 同じ女と二度以上寝たことがない。
 知らない傷口を開いて、観察して、味わって、そして何故か気分が悪くなる。それで終わり。一度知ってしまった肉体にわざわざもう一度手をかけようなどとは思えない。大体、触れることも見ることも聞くことも我慢ができなくなるのだから、二度抱くなんて無理だ。
 罵詈雑言には慣れてしまった。泣き付かれるとうんざりするが、これにも慣れた。
 自分には何処か欠落があるのだろうと思う。
 どんなに最高級の女でも、結果は同じ。厭になる。
 誰かと関係を維持することができない。誰かを求めることがない。誰かの傍にいたいとは思わないし、誰かを失いたくないとも思えない。
 流れるように交差して、あとはまた別の角度で流れていけばいい。再び混ざり合うなんてごめんだ、ましてや添って流れるなんて。
 欠落があるのだろう、そう思う。
 いや、そう思っていた。
 彼に出会うまでは。

 自分には欠落があるわけではない、と思い直した。

 自分には欠落があるわけではない。
 自分は、ただのキチガイだ。



「…どうした。呼ばれてこうして出てきた時点で、了解って意味じゃないのかい」
 唇を重ねようとしていたところで殴られたものだから、舌の端を少し噛み切ってしまった。口の中に微かに血の味が広がる。
 ホテルの一室に呼び出して、無言のまま部屋に入ってきた彼をやはりこちらも無言のまま乱暴に抱き寄せた。口付けをしようとして、この有り様だ。強姦でもされようとしているならその反応も当たり前だが、もう何度も寝た相手に、しかも呼びつけられてのこのこと従っておきながら、これはない。
 何度も寝た。
 そうだ、彼とは何度も寝た。
 同じ女と二度寝たことのないこの私が。
 彼は、瞳にぎらぎらと鋭い光を宿しながら、突き刺すように睨みつけてきた。
「女と寝てきたろう、キリコ」
「…なぜ」
「女の匂いだ。あんたが何処の女とどれだけセックスしようと知ったことじゃないが、女を抱いたその手で私に触るな。虫唾が走る」
「…ちょっと遊んだだけだよ」
 宥めるように言って、再度唇を寄せる。触れ合う寸前に、先程と全く同じように、全く同じ場所を、力一杯ひっぱたかれた。
 まあ、拳でないだけありがたいと思うべきなのか。
 淡い照明に照らされた部屋の中、弾けるような怒気で彼の周囲の空気だけ色が変わっているかのように思えた。恋人同士でもあるまいに、彼が何故ここまで憤怒しているのだかよく判らない。
 ただの気紛れ、ただの浪費と互いに身勝手な自己処理、我々の間にあるものはそれだけの筈だ。少なくとも私はそのように接してきたし、彼もそのような態度を取ってきた。睦言どころかまともな会話すら交わされない非生産的な関係。なにひとつ約束はなく、なにひとつ執着はなく、なにひとつ感情は生まれない。
 そう、表面上は。
「だったら女と遊んでろ。やったんだったら満足してんだろ? 足りないんだったら違う女を引っ掛けてこいよ、あんたなら引っ掛かるだろ」
「今夜はもう女は食傷気味だ」
「私を女と較べるな。女の匂いをぷんぷんさせて、私に近づくな!」
 吐き捨てるように言うと、彼は背を向けてドアへ向かおうとした。
 その腕を後ろから強引に捕まえて、抵抗しようとする身体を無理矢理引き摺り、そのまま寝室へと連れ込む。
 それなのに、何故だろう、彼を前にすると胸が騒めく。
 どうして厭にならない。いつものように、開いて、埋めて、吐き出して、それから厭になってしまえばいい。触れることも、見ることも、聞くことも、気分が悪くなるくらいに。
 あの、殆ど生理的とさえ言ってもいいような嫌悪感が、どうしてこの肌に訪れない。
 何が狂ってしまったのか。
 反抗的で、口汚くて、愛想の欠片もない男の、縫合跡だらけの身体の何処に、こうも執着するだけの価値がある。
 女のように濡れて優しく迎えてくれるわけでもない。女のように甘く儚く服従してくれるわけでもない。
 それなのに。
「放せ…! いやだ!」
「聞かない。呼ばれて来たおまえが悪い」
「女を…女を抱いたあとだと知ってたら誰が来るか!」
「関係ないだろう? おれが誰を抱こうが」
 ベッドの上に突き飛ばし、蹴り上げようとする脚を押さえ込むように馬乗りになる。暴れる両手を片手でまとめて彼の頭上のシーツに縫い止めて、片手でリボンタイを毟り取る。
 彼は本気で抗った。
 確かにいつでも反射的な、微かな抵抗はあった。ときにははっきりと嫌がることも。男に身体を開かれる感情的な違和感に彼はいつまでも慣れないようだった。それでも彼は私に何度も身体を許した。男に抱かれるなんてあってたまるか、というような目付きをしたまま、快楽を受け入れ、引き裂く熱を受け入れ、異常な行為を受け入れた。
 こうも本気で抗ったことはない。
 いったい何が気に食わないのか? 詮索しない、拘らない、縛らない、それが暗黙の了解。
 暴れる男を組み敷くというのは楽ではなかった。引き剥がそうとするシャツのボタンがひとつふたつ飛んでベッドの下に転がった。
 さて、何処までやればこの男は諦めて大人しくなるものか。
 両腕を片手で拘束したまま、逃げようとする顎を片手で乱暴に掴み、唇を合わせた。激しく抗う所為で喘ぐ唇の隙間に、叩かれて噛み切った血の味のする舌を無理矢理突っ込んだ。
 押さえ込んだ彼の身体がびくんと跳ねた。侵入した舌に反応したのか、鉄臭い味が厭だったのか。
 構わずに深く差し込んで、血の混じった唾液を流し込み、彼の口腔を蹂躙した。生温い舌に触れ、強引に絡めようとしたところで、おそらく殆ど加減はしていない強さでその舌に噛み付かれた。
「、」
 思わず唇を離す。可哀想に、私の舌はこの短い時間であっという間に傷だらけだ。
「いやだ」
 唇の端から頬へ、私の舌が流した血をつうと滴らせながら、彼が低い声で再び言った。
「女を抱いた手で私に触るな。私を女と較べるな」
「なぜ。関係ないだろう。いつものように抱かれろよ、気持ちよくしてやる。いつだって気持ちよくしてやっているだろう?」
「ついさっき女を抱いた手に、女のように抱かれろってのか? 死んでもいやだ。離れろ、重い」
「…いやだね。大体、おまえを女みたいに抱くかよ、何処から見たって男じゃねえの」
 彼の言葉を薄く笑って退けて、首筋に顔を埋めた。更に力を増して暴れようとする身体を押さえ込み、仕返しをするみたいに肌にきつく噛み付く。
 捕らえられた獣のように彼が呻いた。
 ああ、不毛だ。実に。
 どうして、彼でないと駄目なのか。私は、いったい何を求めているのか。
 どうして、ようやく見つけた唯一が、彼なのか。

 悲痛な声を上げていつまでも抵抗を止めない男の身体に、貪りつく。
 お願い。
 これ以上なく残酷に征服して、これでもう、いつものように厭になってくれ。触れることさえ、見ることさえ、聞くことさえ。
 終わった途端に顔さえ忘れる、最低な男に。

 唇を這わせ、吸い上げる彼の肌に、擦りつけたような血の赤が残る。

 ああ、きっと、無理なのでしょうね。
 私はきっと、何度抱いても犯しても飽きたらず、キチガイのように彼を求め続けるのでしょうね。
 この私が。


 愛の言葉の一つもなく。



(了)