仕事のあと、浴びるほど酒を飲む彼を何度か見たことがある。
長い銀髪の先から滴るくらいに身体中へアルコールの匂いを染みつけて、それでも、薄い色の瞳はちっとも酔えていない。
彼は大抵いつも飄然としている。揺れない、切れない、乱れない。
それなのに、そういうときの彼は、少し危うく見える。いつもと変わらないような様子をしているが、素材がステンレスからガラスに変わったみたい。
思い切り叩いたら砕けそう。砕けても、粉々になって笑っていそう。
犬のように神経を逆立てて、血に濡れた彼の足跡を探す自分に反吐が出る。
ショットバーの扉を開けると、カウンターに彼の背中が見えた。
薄暗い店内の奥、一番左の端。時々この店で見かけるときは、彼は大抵いつも同じ場所にいる。
何度か見たことのある店員の声に軽く頷いて、ダークスーツの後ろ姿にまっすぐ歩いた。彼の右隣のスツールを引き、許しは請わずに座った。
「ホワイト・スパイダー」
「……隣に座っていいなんて、誰も言ってないぜ、ブラック・ジャック先生」
「どこに座ろうと私の勝手だ」
カウンターの上に投げ出してある彼の煙草を一本盗んで、マッチで火をつける。
彼の前にはミントの葉が沈んだ薄い琥珀色のグラスが置いてあった。ミント・ジュレップ? 自分の家のリビングで、ウイスキーなど水のようにボトルのまま、下品にラッパ飲みしている彼を見たこともある。
「どうしておまえさんはそう鼻がいいんだ?」ひとつ舌打ちしてから、彼はグラスを傾けた。「きゃんきゃん吠えたいなら余所でやってくれ。知ってるんだろ? おれは今ひと仕事終えて機嫌がいいんだ。邪魔するな」
「とても機嫌がいいようには見えないがな」
「悪かったね、仏頂面で」
戻ったグラスは空になっていた。こういう飲み方をする男には、確かにボトルのまま渡しておいた方が手っ取り早い。
カウンターの向こうにいるバーテンダーを視線で呼んで、気紛れに頼んだ。
「こちらのドクターにオールド・パル」
「…嫌味か?」
古い友人という名のカクテル。顔見知りという程でもないが、向き合えば確かに見覚えもあるバーテンダーは、にっこり笑ってライ・ウイスキーに手を伸ばした。
まだ若い、美しい顔をした男だ。グラスを掴む指が、女のように細くて綺麗だ。
もしも彼が、とどうでもいいことを考える。
ベッドに誘ったらこの男はどうするのだろう。あるいは、この男が誘ったら彼はどうするのだろう。
自分を抱くように彼はこの男を抱くだろうか。熱い行為とは裏腹な冷めた言葉で翻弄しながら。あるいは、もっと優しく、もっと情熱的に。
彼の前にカクテルグラスが置かれ、透き通った赤い液体が注がれた。
「食前酒だぜ。これからおれにメシを喰えと言うのか」
「食わせてやるよ。もしおまえさんが食いたけりゃ」
言葉の裏に意味を含ませて横目でちらりと彼を見る。灰皿には取り替えても追いつかない吸い殻の山。人のことをどうこう言えはしないが、医者の不養生を地でいくやつだ。肺癌肝臓癌で死ぬのが早いか、誰かに刺し殺されるのが早いか。
「おまえさんの目と同じ色だ」カクテルグラスを手に取り、彼は一気に半分ほど空けた。いっそジョッキで頼めば良かった。「何しに来たんだ? ブラック・ジャック。珍しくもおれに一杯奢りに来たのか?」
「別に。酒を飲みに来ただけだ。そうしたらたまたまおまえさんがいた」
「そうしたらなんとなく食われたくなった? 食わせてやりたくなったと言うほうがいいのか」
「別に」
「おれはそんなに哀れに見えるかい?」
彼の声には特に感情はなかった。一瞬だけ見やった横顔にも。
自分の前に置かれたカクテルグラスを傾ける。爽やかなミントの香りがこの場にそぐわないような気がする。彼が今日仕事をしたらしいという風にちぎれそうな心許ない噂を耳にして、まず最初に彼の家に向かった。留守なので彼がよく行く酒場に出た。彼のいそうな店を端から回った。ここで彼を見つけたのは、五件目か、六件目か。
どうしてそんなことをするのか、自分でもよく知らない。別にそんなことを知る必要はない。
仕事のあとの彼を見るのは好きではなかった。だが、仕事のあとの彼の姿を、ただ想像するだけでいるのはもっと厭だった。精々、そんなところ。彼が仕事をしたことすら知らなければ勿論どうでも良いこと。
「おまえさんは自分が哀れに見えると思うのか?」
煙草の煙を細く吐き出して、虚空に昇っていく様子を眺める。当たり前だが彼の煙草は、何度か飲み込まされたこともある彼の唾液の味がした。
違う。自分からはしたなく求めて啜ったのか。
「おれが哀れに見えるから今ここにおまえさんはいるんだろ」彼の声がほんの少しだけ変わった。自嘲。「いつものように殺し屋だ死に神だと喚けばいいのにね。出来ないのか? ブラック・ジャック先生は、可哀相な人間には意外と甘いからな。もし慰めてくれようとしているのなら悪いが、おれは、別に可哀相じゃあないぜ。何も感じないんだ。何を見ても何をしても何も感じない。爽快なほどだ、ずっとおれは、そういうイキモノになりたかった」
そういうイキモノになりたかった。
それだけは本音なんだろう。
何も感じない。何を見ても何をしても、何も感じない。
けれどそれは、もうおまえじゃない。
「血のにおいがする」
唇をアルコールで湿らせて言う。カクテルグラスに纏わりつく細かい泡が、薄暗いライトに浮かんで弾ける。
「血を見るような無粋な仕事はしてない」
「それでもおまえさんからは、血のにおいがするよ。ヒトゴロシのにおいだ」
「そうかい。そりゃあぷんぷんにおうだろうぜ」
く、く、と彼が少し声に出して笑った。これっぽっちも酔っていない。厭だと思う。
多分今何か圧倒的な力を持つ波が彼を攫いに来たら、彼は抵抗もしないであっさり飲まれてしまうのだろう。確かに彼はヤワではない。だが、ヤワなほうが上手く泳げるときもある。
厭だと思う。手を差し伸べたところで、彼は決して掴まりはしない。自分だって手を差し伸べられるほど器用でもない。きっと大した表情もなく、緩やかに沈んでいく彼を見ているだけ。
彼を酔わせるほどの強いアルコールになれるならば、とぼんやり思う。
せめて一時の忘我を。
傷口の在処も判らないくらいにきつく染み込んで目も眩む痛みになればいい。
「血塗れだ」長くなった煙草の灰を、手を伸ばして灰皿に落とす。「いったいどれだけの血を被ればそんなになるんだ。いったい何人殺せば気が済むんだ。そんなに血塗れじゃあ、自分が怪我をして血を流しても、怪我をしたことにすら気が付かないぜ」
「おれには血が流れてないんだ。不凍液が流れてるんだ。おれの身体は鉄製で、ちょっとやそっとじゃ怪我もしないんだ」
「おまえさんはおまえさんが思うほどには超越してないよ」
どうでもいいというような声で、言い切る。さっと彼の視線が横顔を切り裂くのが判った。
気付かないふりを、或いは気にしないふりをしてグラスを傾ける。こんなことを言われて怒るか。人殺しと罵られるのは平気でも、優しい男だと評されれば気配を逆立てる。
救えない天邪鬼。
「…あ、そう。で、その超越してない俗人に、おまえさんはなんの用があるんだ?」
一瞬の鋭い空気は、すぐに掻き消えた。聞こえた彼の声は普段と全く変わりはなかった。
既に吸い殻だらけの灰皿に煙草を消して、視線でバーテンダーを呼ぶ。
「じゃあ言いかたを変える。別に哀れんでなんかいやしない」
「なに」
新しい灰皿を手に近づいてきたバーテンダーが、目の前で灰皿を変えるのを待って、その彼の耳にも届く程度の声で言った。
「おれとセックスしよう、ドクター・キリコ」
がちゃん、と派手な音がした。
変えたばかりの汚れた灰皿を、バーテンダーがカウンターの向こうで落っことした。
ああこの男は、とぼんやり頭の隅でどうでも良いことを思う。少なくとも彼と寝たことはない。
「へえ」行きつけの店をひとつ減らされようかとしているのに、彼は実に楽しそうに答えた。「お優しいもんだね、ブラック・ジャック先生。可哀相な男にエサをくれようとしているわけ? おれはそんなもんはいらねえよ。本当におれとやりたいんだったら、頑張って、やる気のないおれをその気にさせてみれば?」
バーテンダーが慌ててカウンターの向こうに屈み込んだ。割れたガラスを掻き集める硬い音が聞こえる。立ち上がってその彼をカウンター越しに見下ろし、声をかけた。
「トイレ借りるよ。五分だ。他の客止めておいてくれ」
水をぶっかけられた子犬みたいに俯いていた顔を跳ね上げて、バーテンダーは二、三度頷いた。なにも声すら出ないほどに怯えなくても。その様子を、唇の端だけ笑みの形に引き上げた嫌味な顔で、彼が眺めている。
もしも彼を酔わせるほどの強いアルコールになれるのなら。
他の傷など全て塗り替えるくらいに内側から焼き払ってしまうのに。
「来いよ。その気にさせるから」
「何処から見ても素面の大の男が二人でトイレにこもるのか?」
「実はおれはえらく酔ってるんだ。今にも吐きそうだ。介抱しろ」
「一杯も空けないで酔っちまうのか、しようのない先生だな」
彼が従おうが従うまいが気にしないという素振りで背を向ける。必死で頼むよりこうしたほうがこの天邪鬼は言うことを聞く。
大して広くもない店に幾つか並ぶ小さなテーブルを避けて、入口のドアとは反対側にある洗面所へ歩いた。まばらな客は全くこちらに視線をくれなかった。薄暗い照明では気味の悪いこの傷跡も見えないらしい。
木製のドアをくぐり、シンクの上の鏡を眺めながら少し待つ。どうしてこんなことをするのか、自分でもよく解らない。別に解る必要もない。
仕事をしたあとの彼を見るのは嫌いだ。だが、そのまま放っておくのはもっと厭だ。たぶんそれだけのこと。
洗面所は店内よりもむしろ明るいくらいだった。鏡に曝け出される自分の姿を見て、ぼんやりと、くだらないことを思う。
もしここに映っているのがきれいな女だったら。或いは若くて美しい男だったら。
彼と手を重ねるだけでその傷を癒せるのだろうか。
一分ほど置いてからドアが開いた。もう慣れてしまった煙草の香りが狭い空間を一瞬で満たした。
表情は確認しないで、餓えた動物のようにその腕を掴み洗面所に引っ張り込むと、ばたんと音を立てて閉まった木製のドアに彼の身体を押し付けた。無言のまま、片手で鍵をかけながら、片腕を彼の首に絡みつかせ、少し爪先立って背の高い彼の唇を性急に奪う。
どうすればいいかなんてよく知らない。本当に彼が彼の言う通りやる気がないのなら、多分どうにもならない。
ただし彼の場合は、本気で全くその気がないときは、自分が席を立っている間にさっさと店を出る。
彼は応えもせず、抗いもせず、ドアを背にただじっと立っていた。唇を重ねたまま見詰めた彼の目が、なりゆきを面白がっているように僅かに細められた。
ああ、そうやって、幾重にも覆い隠した無表情を一枚ずつ剥がしてくれればいい。
たとえそれこそが幻想でも。
こちらを試すように突っ立っている彼の脚の間に膝を割り込ませ、組み合わせるようにして腰を擦りつけた。熱くも冷たくもない唇を何度か啄ばみ、薄く開いた隙間に舌をこじ入れる。
そうしながら、鍵をかけるのにてこずっていた片手を、彼の髪に伸ばした。
幼い子供を慰めるように、頭を撫でた。優しく、ゆっくりと。
指先に彼の柔らかい、繊細な髪がさらさらと流れた。
「…」
股間を擦られようが舌を口の中に突っ込まれようが無反応だった彼が、自分よりも年下の男に頭を撫でられて、微かに身じろいだ。さすがに引っ剥がされるかと思ったが、彼はそれでも、特にはっきりとは抵抗はしなかった。
図に乗って何度も繰り返してやる。
よしよし。
辛かったね、ボウヤ。
可哀相にね、ボウヤ。
大丈夫よ、私はちゃんと、わかっているわ。
吸い付き、舐め上げ、ときに歯を立てた彼の唇は、煙草とウイスキーの苦い味がした。
「…吐き気がするほどだ」
ひとしきり身勝手に貪った口付けの後に、その唇が、低く呟いた。
「…吐き気がするほど、甘いよね、先生は」
「甘いぜ。その気になれよ」
吐息を混じり合わせて囁く。
く、く、と少し声に出して笑ってから、彼はようやくそこで、ぶらりと垂らしていた両腕を腰に巻き付けてきた。そのままぎゅっと強く抱きしめられた。呼吸が詰まるような強さだった。
まるで、自分より体の小さい男に、縋るみたいに。
「…わたしはとてもしあわせよ」
見事に棒読みの言葉が耳元に吹き込まれた。遠慮のない腕の力。答えずに両腕で彼の頭を抱き返した。
ねえ、もしもおまえを酔わせるほどに強いアルコールになれるなら。
せめて一時の昏睡を。
傷の痛みさえ愉悦に変わるような倒錯の箱庭で眠りにつけばいい。
(了)